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王立アカデミーの卒業パーティーから二日。
王宮の執務エリアは、かつてないほどの絶望に包まれていた。
「……おい、これは何の冗談だ? どうして私の机が見えないほどの書類で埋まっているんだ!」
第一王子リュカ・フォン・アステリアは、自身の豪華な執務机を前にして叫んだ。
視界にあるのは、崩れかけた雪山のような書類の束。しかも、それらは全く整理されておらず、重要度も緊急度も不明なまま放置されている。
「も、申し訳ございません、殿下……。これまで書類の仕分けと優先順位付けは、すべてスゥ様が……いえ、スゥ・ル・ブリリアント令嬢が行っておりましたので……」
憔悴しきった様子の執務官が、震えながら答えた。
彼の目の下には、一夜にして刻まれた深いクマがある。
「あいつが? ふん、あんな可愛げのない女、ただ座って偉そうにペンを転がしていただけだろう! 適当に並べれば済む話ではないか!」
「それが、そうもいかないのです! スゥ様は『視覚的認識コストの削減』と称して、すべての書類を内容、金額、期限、そして担当者の能力指数に基づいて色分けし、独自のアルゴリズムで配置されておりました……。我々には、その『法則』が全くわからないのです!」
執務官は泣きそうな顔で、一束の書類を提示した。
「これを見てください。以前ならスゥ様が十秒で判を押していた財務報告書ですが、彼女がいなくなった途端、各部署からの整合性が取れなくなり……現在、計算が合わない額が三千万リブラに達しています!」
「さ、三千万……!? 計算間違いだろう!」
「いえ、間違いなのは我々の頭です! スゥ様は我々が三日かけて出す数字を、お茶を一口飲む間に暗算で修正し、さらには『効率が悪い』と各部署に罵倒の混じった改善案まで送りつけていたのです……。今や、誰もどの数字を信じればいいのか分かっていません!」
リュカは額に手を当て、フラフラと椅子に座り込んだ。
そこへ、お盆に乗った優雅なハーブティーを運んできたのが、愛しのミィナだった。
「リュカ様、お疲れ様です! そんな難しいお顔をして……。ほら、甘いお菓子を食べて、少し休みましょう?」
ミィナの天使のような微笑み。
昨日までは、それだけで救われた気分になっていたリュカだったが――。
「……ミィナ、今は少し、その……」
「えぇっ、どうしたんですか? スゥ様がいなくなって、ようやく意地悪な小言から解放されたんですよ? もっと楽しく笑いましょうよ!」
「ミィナ様、失礼ながら申し上げます!」
執務官が、まるでダムが決壊したかのように声を張り上げた。
「その『お菓子を食べて休む』という五分間で、スゥ様なら三つの村の治水計画を承認し、二件の関税交渉の骨子をまとめ、さらに我々事務方の昼食の献立まで最適化されていたのです! 今の我々には、お菓子を咀嚼する一秒すら、国家崩壊へのカウントダウンに聞こえるのです!」
「な、なんでそんなに怒るんですか……ひどいですぅ……」
ミィナが瞳に涙を溜めて、リュカの袖を掴んだ。
いつもなら「私のミィナを泣かせるな!」と一喝するところだが、リュカの口から出たのは別の言葉だった。
「……執務官。その、スゥが使っていた『法則』というのは、解明できないのか?」
「無理です。彼女の机に残されていたメモには『無能に合わせたシステムを組むと、全体の処理能力がその無能に引きずられるため、私の処理速度に合わせた。文句があるなら脳を増設しろ』と書かれていました……」
「あ、あの女……! どこまで傲慢なんだ!」
リュカは拳を机に叩きつけた。
だが、その衝撃で書類の山が崩れ、彼の足元に散らばる。
散らばった書類の中には、彼がミィナへの愛を囁くためにサボった、先月の軍事費予算の修正案もあった。
そこにはスゥの鋭い筆跡で、『殿下の脳内バカンスを予算化する項目はありません。速やかに現実に戻り、この不整合を修正しなさい』という辛辣な注釈が残されていた。
「……クソっ、なぜだ! あんな可愛げのない、数字のことしか考えない悪女がいなくなったというのに、なぜ王宮が回らない!」
「殿下……。失って初めて気づくというのは、文学的な美談ではよくありますが、国家運営においては単なる『致命的なシステムエラー』でございます」
執務官の言葉が、冷たくリュカの心に突き刺さる。
その時、執務室の扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、血相を変えた財務大臣だった。
「殿下! 大変です! ブリリアント公爵家から、正式な通知が参りました!」
「何だ? スゥが謝りたいとでも言ってきたのか?」
「逆です! 公爵家が運営していた『王宮事務支援魔導システム』のライセンスを、本日正午をもって停止すると! さらに、これまでスゥ様が個人的に貸与していた『計算用魔導具』の返還を、一刻の猶予もなく要求されています!」
「なっ……! そんなことをしたら、今の王宮は石器時代に戻るぞ!」
「『不採算な顧客との契約維持は、株主への背信行為である』。……これが、スゥ様からの伝言です!」
リュカの目の前が真っ暗になった。
彼が追い出したのは、ただの「意地悪な婚約者」ではなかった。
この国のOS(基本ソフト)そのものだったのである。
一方、その頃。
スゥはカイルの工房で、昨日よりもさらに整理整頓されたデスクに向かい、優雅に紅茶を啜っていた。
「……三、二、一。はい、今この瞬間、王宮の全システムがダウンしましたね」
スゥは懐中時計を見つめ、満足げに微笑んだ。
「さて、カイル卿。復旧作業のコンサルティング費用、初速でいくらに設定しましょうか? 『絶望価格』でよろしいですよね?」
愛を捨てた悪役令嬢の、真の「断罪」が始まった瞬間であった。
王宮の執務エリアは、かつてないほどの絶望に包まれていた。
「……おい、これは何の冗談だ? どうして私の机が見えないほどの書類で埋まっているんだ!」
第一王子リュカ・フォン・アステリアは、自身の豪華な執務机を前にして叫んだ。
視界にあるのは、崩れかけた雪山のような書類の束。しかも、それらは全く整理されておらず、重要度も緊急度も不明なまま放置されている。
「も、申し訳ございません、殿下……。これまで書類の仕分けと優先順位付けは、すべてスゥ様が……いえ、スゥ・ル・ブリリアント令嬢が行っておりましたので……」
憔悴しきった様子の執務官が、震えながら答えた。
彼の目の下には、一夜にして刻まれた深いクマがある。
「あいつが? ふん、あんな可愛げのない女、ただ座って偉そうにペンを転がしていただけだろう! 適当に並べれば済む話ではないか!」
「それが、そうもいかないのです! スゥ様は『視覚的認識コストの削減』と称して、すべての書類を内容、金額、期限、そして担当者の能力指数に基づいて色分けし、独自のアルゴリズムで配置されておりました……。我々には、その『法則』が全くわからないのです!」
執務官は泣きそうな顔で、一束の書類を提示した。
「これを見てください。以前ならスゥ様が十秒で判を押していた財務報告書ですが、彼女がいなくなった途端、各部署からの整合性が取れなくなり……現在、計算が合わない額が三千万リブラに達しています!」
「さ、三千万……!? 計算間違いだろう!」
「いえ、間違いなのは我々の頭です! スゥ様は我々が三日かけて出す数字を、お茶を一口飲む間に暗算で修正し、さらには『効率が悪い』と各部署に罵倒の混じった改善案まで送りつけていたのです……。今や、誰もどの数字を信じればいいのか分かっていません!」
リュカは額に手を当て、フラフラと椅子に座り込んだ。
そこへ、お盆に乗った優雅なハーブティーを運んできたのが、愛しのミィナだった。
「リュカ様、お疲れ様です! そんな難しいお顔をして……。ほら、甘いお菓子を食べて、少し休みましょう?」
ミィナの天使のような微笑み。
昨日までは、それだけで救われた気分になっていたリュカだったが――。
「……ミィナ、今は少し、その……」
「えぇっ、どうしたんですか? スゥ様がいなくなって、ようやく意地悪な小言から解放されたんですよ? もっと楽しく笑いましょうよ!」
「ミィナ様、失礼ながら申し上げます!」
執務官が、まるでダムが決壊したかのように声を張り上げた。
「その『お菓子を食べて休む』という五分間で、スゥ様なら三つの村の治水計画を承認し、二件の関税交渉の骨子をまとめ、さらに我々事務方の昼食の献立まで最適化されていたのです! 今の我々には、お菓子を咀嚼する一秒すら、国家崩壊へのカウントダウンに聞こえるのです!」
「な、なんでそんなに怒るんですか……ひどいですぅ……」
ミィナが瞳に涙を溜めて、リュカの袖を掴んだ。
いつもなら「私のミィナを泣かせるな!」と一喝するところだが、リュカの口から出たのは別の言葉だった。
「……執務官。その、スゥが使っていた『法則』というのは、解明できないのか?」
「無理です。彼女の机に残されていたメモには『無能に合わせたシステムを組むと、全体の処理能力がその無能に引きずられるため、私の処理速度に合わせた。文句があるなら脳を増設しろ』と書かれていました……」
「あ、あの女……! どこまで傲慢なんだ!」
リュカは拳を机に叩きつけた。
だが、その衝撃で書類の山が崩れ、彼の足元に散らばる。
散らばった書類の中には、彼がミィナへの愛を囁くためにサボった、先月の軍事費予算の修正案もあった。
そこにはスゥの鋭い筆跡で、『殿下の脳内バカンスを予算化する項目はありません。速やかに現実に戻り、この不整合を修正しなさい』という辛辣な注釈が残されていた。
「……クソっ、なぜだ! あんな可愛げのない、数字のことしか考えない悪女がいなくなったというのに、なぜ王宮が回らない!」
「殿下……。失って初めて気づくというのは、文学的な美談ではよくありますが、国家運営においては単なる『致命的なシステムエラー』でございます」
執務官の言葉が、冷たくリュカの心に突き刺さる。
その時、執務室の扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、血相を変えた財務大臣だった。
「殿下! 大変です! ブリリアント公爵家から、正式な通知が参りました!」
「何だ? スゥが謝りたいとでも言ってきたのか?」
「逆です! 公爵家が運営していた『王宮事務支援魔導システム』のライセンスを、本日正午をもって停止すると! さらに、これまでスゥ様が個人的に貸与していた『計算用魔導具』の返還を、一刻の猶予もなく要求されています!」
「なっ……! そんなことをしたら、今の王宮は石器時代に戻るぞ!」
「『不採算な顧客との契約維持は、株主への背信行為である』。……これが、スゥ様からの伝言です!」
リュカの目の前が真っ暗になった。
彼が追い出したのは、ただの「意地悪な婚約者」ではなかった。
この国のOS(基本ソフト)そのものだったのである。
一方、その頃。
スゥはカイルの工房で、昨日よりもさらに整理整頓されたデスクに向かい、優雅に紅茶を啜っていた。
「……三、二、一。はい、今この瞬間、王宮の全システムがダウンしましたね」
スゥは懐中時計を見つめ、満足げに微笑んだ。
「さて、カイル卿。復旧作業のコンサルティング費用、初速でいくらに設定しましょうか? 『絶望価格』でよろしいですよね?」
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