捨てられた悪役令嬢は、自由を買いたい!

萩月

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 王宮の一角、かつてスゥ・ル・ブリリアントが主としていた「次期王妃執務室」。
 そこは今、甘い香工の代わりに、焦燥感とインクの匂いが充満していた。

「……えっ、これ、全部私がやるんですかぁ?」

 ミィナは、目の前に積み上げられた書類の塔を見上げて、引きつった笑みを浮かべた。
 一枚の重さは知れているが、それが数千枚重なれば、もはや物理的な凶器である。

「当然でございます、ミィナ様。これらはすべて、次期王妃として承認が必要な案件ばかり。地方領主からの陳情書、慈善団体の予算配分、そして来月の『建国記念祭』における貴婦人方の座席配置図……」

 ベテランの女官長が、感情を一切排した声で淡々と説明を続ける。

「スゥ様はこれらを、朝食前の三十分ですべて処理されておりましたわ」

「さ、三十分……!? 嘘ですよぉ! だって、王妃様って、毎日素敵なお茶会を開いて、綺麗なドレスを着て、みんなに微笑みかけるのがお仕事じゃないんですかぁ?」

 ミィナが震える声で尋ねる。
 女官長は、ほんの少しだけ口角を下げた。それは憐れみか、あるいは侮蔑か。

「それは『結果』としての社交でございます。そのお茶会一つ開くために、どれほどの物流調整と予算交渉、さらには参加者の派閥調査が必要か……ミィナ様はご存知ないのですか?」

「そ、そんなの……愛があれば、みんな仲良くできるはずですぅ!」

「あいにくですが、愛では小麦の輸入価格は下がりませんし、貴族間の席次争いも鎮静化いたしませんわ」

 女官長は、一番上にあった書類をミィナの前に差し出した。

「まずは、この『北方領土における越冬支援物資の数量確認』からお願いいたします。スゥ様が作成された魔法の集計表が止まっておりますので、すべて手計算で整合性を取ってください」

「て、手計算……!? 私、算数とか苦手でぇ……」

「……スゥ様がいらっしゃった頃は、数字が合わないことなどあり得ませんでしたのに」

 女官長がボソリと呟いた言葉が、ミィナの胸にチクリと刺さる。

 そこへ、救いを求めるようにリュカ王太子がフラリと現れた。
 彼もまた、自分の方の執務室で書類の雪崩に巻き込まれたのか、髪が乱れ、ネクタイが歪んでいる。

「リュカ様ぁ! ひどいんです! この人、私にいじめみたいな量の紙を押し付けてくるんですぅ!」

 ミィナが泣きついてリュカの胸に飛び込む。
 いつもなら「私の可愛いミィナを困らせるな!」と激昂するはずのリュカだったが、今の彼にはその余裕もなかった。

「……ミィナ、すまない。今はそれどころではないんだ。財務省からの突き上げがひどくて……。スゥが個人的に契約していた『輸送ギルドの優先権』が消滅したせいで、王宮への物資搬入コストが昨日の五倍に跳ね上がった」

「ご、五倍……?」

「それだけではない。スゥが管理していた『王宮職員の有給管理表』がロックされ、誰が今日休みで、誰がいつ働くべきか誰も把握できなくなった。おかげで厨房も掃除係も大混乱だ。……ミィナ、君からもスゥに、せめてパスワードだけでも教えてくれるよう手紙を書いてくれないか?」

 ミィナは目を丸くした。

「そんなの、私が新しいルールを作ればいいじゃないですかぁ! みんなで楽しく、できる時にできることをすれば……」

「その『できる時に』をやった結果、今朝の私の朝食は一時間遅れ、おまけにパンは黒焦げだったんだぞ!」

 リュカが思わず声を荒らげる。
 ミィナはショックを受けたように顔を覆った。

「リュカ様まで怒鳴るなんて……! ひどい、ひどいですぅ! 私はただ、二人で幸せになりたかっただけなのに!」

「幸せ……? ああ、そうだな。……だが、幸せを維持するためには、この『山のような未決済書類』を何とかしなければならないんだ。スゥは……あいつは一体、いつ寝ていたんだ?」

 リュカがスゥの使っていた椅子に深く腰掛けると、椅子の隙間から一枚のメモが落ちた。
 そこには、スゥの整った、しかし冷徹な筆跡でこう記されていた。

『後任者へ。
 愛さえあれば何でもできると考えているのであれば、今すぐその脳細胞を効率化(アップグレード)しなさい。
 感情は一リブラの価値も生みませんが、一秒の思考停止は国家を十リブラずつ貧しくします。
 せいぜい、自分たちの「尊い愛」が、破綻していく国庫の前でどれほど無力か、その身で味わうといいでしょう。』

「……くっ、どこまで見抜いていたんだ、あいつは……!」

 リュカはメモを握りつぶした。
 だが、その怒りさえも、次に運ばれてきた「緊急事態:税徴収の遅延」の報告書によって、霧散させられることになる。

 一方、その頃。
 ミィナは、自室に戻ってベッドに倒れ込んでいた。

(……おかしいですぅ。こんなはずじゃなかったのに。王妃様って、もっとキラキラしてて、甘いケーキを食べるだけの、幸せなお仕事のはずだったのに!)

 彼女が欲しかったのは、リュカの愛と、それによって得られる「お姫様」という称号だけだった。
 その称号の裏側に、血を吐くような計算と、氷のような論理が張り付いているなんて、夢にも思わなかったのだ。

「……スゥ様なんて、大っ嫌いですぅ! あんな、人間味のない、数字だけの機械みたいな女になんて……!」

 そう叫びながらも、ミィナの頭の隅には、絶望的な予測が浮かんでいた。
 明日も、明後日も、そしてその次も。
 自分を待っているのは、甘い愛の言葉ではなく、解読不能な数字の羅列であることを。

 ミィナ・フォン・アステリア。
 彼女の「ヒロイン」としての人生は、現実という名の巨大なソロバンによって、今まさに粉砕されようとしていた。

 その頃、街の安食堂。
 スゥはカイルと共に、一皿のパスタを「最も咀嚼効率の良い速度」で食べていた。

「……三、二、一。はい、今ごろミィナ様が現実逃避のために昼寝を始めましたね。その間に発生する国家損失は約五万リブラ。……実に、心地よい数字ですわ」

 スゥは満足げに、最後の一口を飲み込んだ。
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