捨てられた悪役令嬢は、自由を買いたい!

萩月

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 『ブリリアント効率化コンサルティング』のオフィスは、今日も完璧な静寂と秩序に支配されていた。

 スゥはデスクで、王都全体の馬車の走行ログを解析し、渋滞を三割削減するための「新・交通管制網」の草案を練っていた。

 そこへ、入り口のベルが鳴った。

 入ってきたのは、顔を深くフードで隠し、古びたマントを羽織った怪しげな男だった。
 男は周囲をキョロキョロと見回しながら、抜き足差し足で受付カウンターへと近づいてくる。

 スゥは手元の計算盤から目を離すことなく、冷淡に言い放った。

「……不審者の方。建物内での隠密行動は、警備員の初動負荷を無駄に高めます。用件があるなら、三秒以内に正規の歩行姿勢に戻りなさい」

「ひっ!? な、なぜ私が不審者だと……」

「その不自然な重心移動、および室内でのフード着用による視界の自発的制限。さらに言えば、そのマントの下から漂う、王宮御用達の最高級香水の残り香。……計算するまでもありませんわね」

 スゥはそこでようやく顔を上げ、男の顔を正面から見据えた。

「リュカ・フォン・アステリア殿下。変装のクオリティが、貴方の行政能力と同様に壊滅的ですわよ」

「……っ! 見破っていたのか、スゥ!」

 リュカはバサリとフードを脱ぎ捨てた。
 そこにあったのは、かつての輝きを失い、目の下に色濃いクマを作った王太子の無様な姿だった。

「お久しぶりですね。……といっても、四十八時間と十五分ぶりですが。その顔色から察するに、王宮の事務処理スタック(滞留)は、既に回復不能なレベルに達しているようですね?」

「黙れ! あんなものは……あんなものは、ただの紙切れの山だ! 私が本気を出せば、すぐにでも……!」

「本気を出した結果、私に会いに来るための時間を捻出したわけですか。……殿下、貴方の現在の『一分あたりの付加価値』は、街の清掃員以下ですわよ。自覚はありますか?」

 リュカは屈辱に唇を噛み、スゥのデスクをバンと叩いた。

「スゥ! 貴様に頼みがある! ……いや、命令だ! 今すぐ王宮に戻れ! ミィナが……ミィナが泣いているんだ! あいつは『愛があれば大丈夫』と言っていたのに、最近は書類を見るだけで震え出すようになってしまった!」

 スゥはふう、と深くため息をつき、椅子の背もたれに体を預けた。

「殿下。ミィナ様が震えているのは、愛が足りないからではなく、単純な『処理能力不足(スペック不足)』による脳のオーバーヒートです。私を戻したところで、彼女の脳が急にアップグレードされるわけではありませんわ」

「そんなことはどうでもいい! 貴様が戻って、以前のようにすべてを整えれば済む話だ! ……あ、安心しろ。婚約破棄は撤回してやってもいい。貴様も、私の側で働けるなら本望だろう?」

 スゥは、眼鏡を指で押し上げた。
 その瞳に宿ったのは、軽蔑を通り越した、純粋な「哀れみ」だった。

「殿下。貴方は根本的な勘違いをされています。私は以前、貴方のことが好きで働いていたわけではありません。『ブリリアント公爵家としての義務』と『システムを最適化する快感』のために、貴方という無能なデバイスを動かしていただけです」

「な、なんだと……デバイスだと!?」

「そして今の私は、その義務から解放され、より利回りの高い市場で活動しています。……貴方という『不採算な旧式ハードウェア』を再雇用するメリットが、今の私に一リブラでもあるとお思いですか?」

「き、貴様……! 王子である私に向かって、なんて不敬な……!」

「ここは私の私有地です。王宮の論理は通用しません。……殿下。もし私をコンサルタントとして雇いたいのであれば、まずは正式な依頼フォームから申し込み、私の時給に見合うだけの報酬を提示しなさい。現在の私の時給は、殿下の三ヶ月分の小遣いに相当しますが」

 リュカは、目の前の元婚約者が、自分の知っている「スゥ」ではないことにようやく気づき始めた。
 彼女はもう、王子の機嫌を伺う令嬢ではない。
 数字で世界を支配し始めた、冷徹な支配者の一人なのだ。

「……スゥ、お前……変わったな。あんなに、私の顔色を伺って……」

「伺っていたのではありません。貴方の表情筋の動きから、次に言い出すであろう『非論理的な要求』を予測して、先回りして対策を練っていただけです。……正直、非常に疲れる作業(デバッグ)でしたわ」

 スゥは手元のベルを鳴らした。
 奥から、作業着姿のカイルが、スパナを片手に顔を出した。

「おい、スゥ。なんだか騒がしいぜ。……おっと、そのダサいマントの男は誰だ?」

「カイル卿。ただの『過去の遺物』です。不法侵入の一歩手前ですので、適切に排除していただけますか?」

「了解。……おい、あんちゃん。悪いがここは忙しいんだ。お呼びじゃないぜ」

 カイルがリュカの肩を掴む。
 リュカは、その無作法な手と、スゥの隣に当然のように立つカイルの距離感に、顔を引きつらせた。

「貴様! その男は何だ!? スゥ、まさか貴様、こんな平民のような男と……!」

「私のビジネスパートナーであり、貴方よりも遥かに『計算の速い』大切な資産(パートナー)です。……殿下。これ以上、私の貴重な時間を浪費させるのであれば、今回の『視察』に関する詳細な報告書を、国王陛下に直接提出いたしますわよ?」

「う、ぐ……っ!」

 リュカは捨て台詞を吐こうとしたが、スゥの冷徹な視線とカイルの物理的な圧力に押され、逃げるようにオフィスを後にした。

 嵐が去った後のオフィス。
 カイルは肩をすくめて、スゥに視線を戻した。

「……あいつが、元婚約者か。評判通りの『非効率の塊』だな」

「ええ。あんなデバイスを動かし続けていた自分を、今すぐデバッグしたいくらいですわ」

 スゥは再びペンを執った。
 だが、その指先は、リュカの前で見せていた冷徹な動きとは異なり、どこか軽快だった。

「……さて。邪魔者が消えたところで、作業効率を元に戻しましょう。カイル卿、さっきの回路修正、三秒で済ませておきましたわよ」

「ははっ、やっぱりあんたは最高だ」

 二人の間に、再び合理的な沈黙が流れる。
 王宮が泥沼に沈んでいく一方で、スゥの世界は、より速く、より正確に、加速し続けていた。
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