捨てられた悪役令嬢は、自由を買いたい!

萩月

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 王宮の廊下には、もはや高貴な静寂など存在しなかった。

 すれ違う文官たちの目は血走り、小走りに移動するメイドたちは髪を振り乱している。
 そんな修羅場の中、第一王子リュカは、ボロボロのマントを羽織ったまま自室へと逃げ帰っていた。

「……あんな、あんな屈辱……! この私が、あんな無礼な男に追い出されるなんて!」

 リュカは部屋に飛び込むなり、鏡の前でマントを脱ぎ捨てた。
 そこには、スゥに冷たくあしらわれ、誇りをズタズタにされた情けない男の姿が映っていた。

 そこへ、パタパタと軽い足音を立ててミィナが駆け込んできた。

「リュカ様! どこに行っていたんですかぁ? 私、もう限界ですぅ! この『来客リスト』、誰をどの順番で通せばいいのか全然わからなくて……」

 ミィナの手には、インクのシミが点々とついたリストが握られていた。
 リュカはイライラを隠そうともせず、そのリストをひったくった。

「そんなもの、身分の高い順に決まっているだろう! なぜそんな簡単なことができないんだ!」

「ひっ……! だ、だって、公爵様と辺境伯様、どっちが『今すぐ会いたい』って怒ってるかなんて、私には判断できませんぅ! スゥ様はいつも『派閥のパワーバランスと緊急性を考慮して、待ち時間の逸失利益を最小化しました』って言ってたのに……!」

「スゥ、スゥ、スゥ……! どいつもこいつも、あいつの名前ばかり!」

 リュカはリストを床に叩きつけた。

「あいつはもう、私を敬う令嬢ではない! あそこには、怪しげな男を侍らせて、数字の計算に没頭する『怪物』がいただけだ!」

「……怪しげな男、ですかぁ?」

 ミィナの瞳が、一瞬だけ嫉妬、あるいは好奇心で揺れた。

「ええ、そうですわ、ミィナ様。その『怪しげな男』こそ、今王都で最も注目されている若き天才、カイル・ヴァン・ランドール伯爵ですわよ」

 扉の脇から、冷ややかな声が響いた。
 振り返ると、王宮の女官長が、氷のような無表情で立っていた。

「カイル伯爵……? あの、魔導具開発で名を馳せている……」

「ええ。彼はスゥ様との共同事業で、王都の物流を劇的に変えようとしています。……殿下。貴方が街で変装(のつもり)をしていた間に、王宮の食料備蓄は底を突きかけています。輸送ギルドが、スゥ様の許可なくしては動かないと言い出したのです」

 リュカの背筋に、冷たい汗が流れた。

「な、なんだと……? ギルドは王家の命令に従う義務があるはずだ!」

「義務があっても、馬車を動かす『燃料』と『人手』が、すべてスゥ様の効率化システムによって管理されているのです。システムがロックされた今、彼らは動きたくても動けない……。物理的な『非効率』という名の壁に、我々は閉じ込められたのです」

 女官長は一歩前に出た。

「陛下もお怒りです。明日までにスゥ様を連れ戻すか、さもなくば、この混乱の全責任を殿下に取っていただくと」

「全責任……。それは、どういう……」

「廃嫡(はいちゃく)、も視野に入れておられます」

 リュカの膝が、がくがくと震え出した。
 彼にとって、王太子の地位は「生まれながらに約束された、永遠に続くステージ」だったはずだ。
 それが今、たった一人の女性――自分が捨てたはずの「数字狂いの女」の手によって、崩壊しようとしている。

「……ミィナ、悪いが、一人にしてくれ」

「リュカ様!? でも、私、どうすれば……」

「うるさい! あっちへ行けと言っているんだ!」

 リュカの叫び声に、ミィナは泣きながら部屋を飛び出していった。
 彼女の脳内でも、ようやく理解が追いつき始めていた。
 リュカが王太子でなくなれば、自分の「未来の王妃様」という夢も、泡となって消えるのだということに。

 一方、その頃。
 スゥの事務所では、カイルが新しい計算機のプロトタイプを動かしながら、ケラケラと笑っていた。

「……おい、スゥ。王宮の物流モニターが真っ赤だぜ。完全にマヒしてやがる」

 スゥは優雅に、一〇〇リブラもする最高級のクッキーを咀嚼していた。
 彼女にとって、これは「脳のリソースを回復させるための、最もコストパフォーマンスの高いエネルギー摂取」である。

「当然ですわ。私が組み上げた『ジャスト・イン・タイム』の輸送網は、一箇所の遅延が全体に波及するように設計されています。……あそこには今、私の頭脳の代わりを務められる演算装置(人間)はいませんもの」

「えげつないな。あんた、最初からこうなるって分かってたんだろ?」

「予測値の範囲内です。……カイル卿。明日の朝、おそらく正式な『王宮使節』がここへ来ますわ」

「使節? あの馬鹿な王子じゃなくてか?」

「ええ。王子では交渉のテーブルに着く知能が足りないと、国王陛下も判断されるでしょう。……さて、カイル卿。私の『再雇用』に関する見積書、最終チェックをお願いしますわ」

 スゥが差し出した書類には、もはや「令嬢のわがまま」などというレベルではない、天文学的な数字と条件が並んでいた。

「……おいおい。これ、王家が破産するんじゃないか?」

「破産はさせません。……ただ、これからの百年間、王家がブリリアント公爵家、および私たちの事業に逆らえない程度の『負債』を負わせるだけです」

 スゥは冷徹な微笑を浮かべ、眼鏡のブリッジを押し上げた。

「愛よりも金、金よりも効率。……そして、効率を極めた先にあるのは、『支配』ですわ」

 窓の外、夜の王宮は、かつての輝きを失い、深い闇に包まれている。
 スゥの復讐は、もはや個人の怨恨を超え、国家の構造そのものを再定義しようとしていた。

 数字は裏切らない。
 そして、数字を操る彼女を裏切った代償は、あまりにも高すぎたのである。
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