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【第6話】 北斗の忠告

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 次の日、僕は人生で一番速く走って家に帰った。
「ただいまー!」
 靴を脱ぎ捨て階段を上がると、部屋に直行する。
 扉を閉めると同時に制服を脱ぎ捨て全裸になると、水泳の授業があるかもしれないと持ってきた海パンを履き、Tシャツと短パンに着替える。昨夜から寝る間も惜しんで今日の行程を考えていた僕に、余念はない。
 スイミングバックにゴーグルを突っ込んで、タオルを取りに一階へ下りた。
「変な柄のタオルじゃ恰好つかないからな…シンプルな奴とかないかな」
 脱衣場のタオル置き場に手を突っ込んで、畳まれたタオルを一枚一枚出して大きさや柄を確認する。
 フェイスタオルやスポーツタオルばかりで、適度に大きいバスタオルというのは中々見つからない。
 本当は水泳用のタオルを持ってきてはいたのだが、水着はともかく、小学校の時に買ったキャラクターもののラップタオルとかダサすぎる。
 別に全然、紅葉が好きというわけではないけど、僕のプライドにかけて可愛くて優しい女の子の前では恰好つけたい。
「もうタオル2枚とかにするか」
「あれ、一角先に帰って……は?」
「あ、おかえり…」
 唐突に、閉めたはずの引き扉が開いた。
 タオルを握ったまま振り返って、遅れて帰ってきた北斗と目が合った。
 扉が動くまで接近に気づかなかったのは、反抗期の彼女が帰宅の挨拶をしないせいでもある。僕はちゃんと帰宅時に挨拶をしたし、今もまた出迎えの挨拶をした。そして仮にもし北斗の接近がわかっていたら、こんな失態犯さなかった。
 だから、間接的には彼女の非もあるのだけれど。
「……」
「……」
 ただ一つ非があるとしたら、僕は北斗に今日の予定を説明していなかった。
 そして床にタオルが散乱している状況は、まるで金目のものを探す空き巣そのもの。もしくは、下着泥棒だ。
 北斗は顎を上げて、まるで汚いものを見るように僕を見下した。
「…変態」
「違うっ!違うんだっ!」
「…隣町の動物病院、去勢ができるんだって」
「だから違うよ!川遊びに行くからタオルを探してたの!」
 浅瀬に仇波とは言うけれど、弁解をせずにはいられない。
 視線で人が殺せるなら、僕は今頃物言わぬ死体となっていた。けれどそうでない以上は、言葉で誤解を解くしかない。
「ダウト、一角に遊びに行くような友達はいない」
「うっ!?」
 何でそれを、と思ったけど彼女も同じクラスだから知っていて当然だ。
 というか、北斗だって部活にも入らず家でゲームばかりしているだろう。論点をずらされる前に、出したタオルを戻しながら説明する。
 紅葉のような含みを持たせる言い方は、僕にはできなかった。一から十まで説明して、余計なことまで付け加えた気がする。
「…紅葉さんが?
 あぁ、あの人お節介だもんね」
「お節介って、そんな言い方ないだろ」
 善意で誘ってもらって、しかも水着で遊ぶという美味しい思いをさせてもらっているのだから、そんな言い方をしたら罰が当たる。
 従兄妹の僕に対しての暴言は許せても、紅葉への悪口は寛容になれなかった。
 北斗は精一杯見栄を張った僕の横を通り過ぎて、レバーハンドルを持ち上げて水を出す。
「勘違いしない方がいいよ、あの子は誰にでも優しいから」
「何だよ、嫉妬か?」
「その平和ボケした頭、いい加減治したら?」
 北斗は表情が乏しい。だからイライラしているのは僕がタオルを何枚か地面に落としたせいなのか、紅葉への嫉妬のせいなのか、それともここ数日高気圧で晴れ続ける天気のせいなのか、見当がつかなかった。
 にしても、今日はやけに言葉に棘がある。
「わかったよ、さっさと出て行けばいいんだろ」
 女の人に口うるさく叱られるのは、もうコリゴリだ。
 こういう時の僕の戦法は一つで、即時撤退だ。タオルを適当に2枚持って脱衣場から出ると、バックにタオルを入れる。後ろめたさにさっさと部屋を出て引き戸を閉めた僕は、北斗が扉を閉めるまで水を出しっぱなしにしていたことに気付きもしなかった。
 思えば北斗は不愛想で口が悪いけれど、自転車の鍵を貸してくれたり神域の忠告をしてくれたり、本当は紅葉と同じくらい面倒見がいい。
 だからこのときの言葉も、決して嫉妬ではなく本心から来る忠告だった。だが僕は、そのまま玄関でおばさんの自転車の鍵を取ると鍵も閉めずに外に出た。
「…本当に、昔っから変わってないんだから」
 一人で眉を潜めた北斗は、出しっぱなしにしていた水をようやく止めた。


「一角くん、ここに魚がいるよ!」
「今行くから待って!」
 浅瀬にサンダルで入り込んだ紅葉は、腰元と胸元にフリルがついたセパレートの水着姿で僕に手を振った。
 すらりとした腰回りや太腿を露出して、お団子で髪を一つにまとめた姿は目を惹く。周囲の注目を一身に浴びる紅葉に、僕も手を振り返す。
「どこどこ?」
「ほら、ここ」
「うわ、小さいのがいっぱいいるね」
「オイカワかな?夏には綺麗な文様が出るんだよ。
 あ、そこ深いから気を付けてね」
 手を後ろに組んで、芍薬のような立ち姿で紅葉がほほ笑んだ。
 水着を着てはいるけど、頭から水を被って泳いだり水を掛け合ったりはしない。浅瀬の安全な場所で魚を探したり河原で石切りをしたりして、大人しく楽しむだけだ。こんなに静かな遊びは初めてだった。
 これがタツミなら、
『いっくん!サカナ!サカナだよ!』
『え!どこ!?』
『捕まえたぁ!』
『僕もやる!どこどこ!?』
 きっと水しぶきを上げて走り回っている。
 情緒とか自然の美しさとか、タツミはそういうのがわかるタイプじゃない。石切りなんて繊細な遊びもできないから、石を積み上げてダムを作るとかいいそうだ。
 服を着たまま庭園の池で泳ぎ出すくらいに、あいつは単純で真っ直ぐだ。
 それで頭に藻を乗せて、太陽みたいに眩しい笑顔で笑うのだ。
「一角くん?」
「…あ、ごめん。何?」
 紅葉が、僕の肩に手を触れた。
 驚きでビクリと身体が震えて、意識が現実に戻る。
 僕は川底に生えた水草や上流の泥が混じった茶色い水を見つめたまま、彼女が何度も名前を呼んでいるのに空想に耽っていた。
「熱中症かな?
 大丈夫?」
「いや、考え事をしていて。大丈夫」
「ちょっと休憩しようか。
 私、お茶持って来たんだ」
「あ…うん」
 腕を振って重たげに川を歩く紅葉の太腿の周りには、白浪が立っていた。
 熱中症特有の喉の渇きやだるさはないけれど、転校してきたばかりで疲れが溜まっているのかもしれない。
 せっかく紅葉と遊んでいるのに、僕は他のことばかりに気を取られていた。これじゃあ何をしに来たのかわからない。
「しっかりしろ僕…ん?」
 ふいに何かが足に触れた。上流から葉がついたままの花が流れてきて、僕の足に当たって止まったのだ。
 手に取ってみれば、その花の白さには見覚えがある。
 数日前にタツミのために拵えた冠。それと同じクローバーの花、シロツメクサだ。
「何でこんなところに。どこからか流れてきたのかな?」
 そのまま川に流してやると、あっという間に白花は見えなくなった。川から上がるころにはもうすっかりそのことも忘れていて、ブルーシートの上に腰を下ろすと紅葉が水筒の蓋にお茶を注いで渡してくれた。
 自家製の麦茶独特の風味が身体に染み渡る。
「はい、粗茶ですが」
「ありがとう、美味しいね」
 北斗は彼女のことをお節介と言ったけど、僕はこうして心配をしてくれる彼女が悪人には見えなかった。
 家事が得意で準備も万端、周囲をよく見ていて先生からの信頼も厚く気が利く。おまけに美人だ。
 それにしても、近くで見ると紅葉の露出は激しい。タオルの上からでもわかる贅肉をそぎ落とした無駄のない手足に、めりはりある胸やくびれは思春期の男子中学生の目に悪い。
「一角くんは、夏休みの間よくこの村に来てたの?」
「うん、お盆の間だけおばさんの家に泊まっててさ。
 龍神村での遊び方を教えてくれたのは、北斗なんだ」
「ふふふ。仲が良いんだね」
「それはどうだろう…?」
「絶対そうだよ。
 彼女、そんなに社交的な性格じゃないもの」
「…あはは、そうかもね」
 紅葉は口に手を当ててクスクスと笑った。
 紅葉と北斗は同郷の幼馴染だから僕よりお互いのことを知っている故なのかもしれないけど、北斗と居候している僕にそんなことを言うあたり紅葉は少し天然なのかもしれない。
 ブルーシートの座り心地は悪くても、川沿いには代荻の黄色い舌状花に動物の尻尾みたいな薄が生えていて、水に入らなくても十分楽しめる。
 向こう岸では親子連れが、土手の上には散歩をするお年寄りがいて、川には平泳ぎをする小学生がいる。
「…そうだ、紅葉は何で僕を誘ってくれたの?」
「何で?
 だって、川って危ないんだよ?」
 多少は緊張して切り出したのに、紅葉の答えは展望台のときと同じであっさりとしていた。
 確かに僕のことを危なっかしいとは言っていたけれど、まさか僕が川で怪我しないか本気で心配だったというわけではあるまい。
 そう思って続く言葉を期待していたら、沈黙が流れた。子供の甲高いゲラ笑いが遠くで聞こえる。
「…ひょっとして、それだけ?」
「それだけって、この川は暴れ川だから毎年何人か溺れたり流されたりするんだよ」
「もしかして、紅葉って彼氏がいたりする?」
「いないよ。
 忘れてたの?私はこれでも巫女なんだよ」
「あ…そっか」
 僕はそのときようやく紅葉の真意を理解した。
 てっきり異性に誘われた(それも2人だけで遊ぶ)だけで好意があるのかと期待する僕が欲深いのかと、もしくは紅葉にとってクラスメートと二人だけで遊ぶのは特別なことではないのかとも思ったのだけれど、答えは全く違った。
 紅葉は巫女であるために神聖さを保つ必要があって、はなから不純異性交遊や婚前交渉という考えが頭にないのだ。現代ではその決まりがどれだけ拘束力を持つかは不明でも、彼女は信心深い女性だ。
 神社で神様の通り道である参道の真ん中を渡るたびに頭を下げるのを、僕はこの目で見ていた。
 つまり彼女は僕に好意があるわけではなく、川遊びも展望台観光も同じようなことなのだ。
 身体から力が抜けて、川から上がったばかりの体が急速に冷えていった。

「あれ?」

 紅葉が声を上げたのは、川面に頭を突き出した大石を見てだった。
 川に入る前、僕に「そこから先に行くと深くなる」と教えたものだ。
 そういう山から落ちて流されてきた石がここには多くあって、長い時間をかけて削られ丸みを帯びたその石を超すと川は一気に深くなる…らしい。
 その石を穴が空くほど見つめて、紅葉が顔色を変える。
「どうしたの?」
「…さっきより、水量が上がっている」
「そう?気のせいじゃない?」
 そもそも普段の水位がわからないから自信はない。
 だが、紅葉にはその違いが一目瞭然とはいかないまでも明らかにわかるらしい。さっきまでおしとやかにティータイムを楽しんでいたのに、手早くバックからUVパーカーを取り出して羽織ると、ジッパーを上げる。
 残念ながら、もう川に入る気にはないようだ。
「一角くん、あれ見て」
「……?」
 慌ただしく荷物をまとめ出した紅葉をぼさっと眺めていたら、紅葉は大滝山を指さした。
 晴天の空に、山の上だけ龍がとぐろを巻いたような積乱雲が浮いていた。分厚い雲の下は影で暗くてよく見えない が、目を凝らすと雨が降っているように見える。
「雨雲だよね、こっちに来るかな?」
「多分ね、それより川の上流で雨が降っているとまずいの」
「でも、今日は降水確率0%だったから…」
 村に雨は降らないはず、と言おうとしてやめた。
 山の天気は移ろいやすい、高地にあるこの村も例外ではないのだ。事実さっきまで好天に恵まれていたというのに、もう空は曇り出して冷え込んだ風が吹いている。
 それに川の上流で雨が降って水位が上がるということは、その水が流れてくるこの下流も同じだけ水位が上がるということだ。
 レジャーシートの対角線を持って半分に折って小さくしてから、袋にしまう。紅葉は荷物をそのままに走り出した。
「私、他の人に伝えてくる」
「何を?」
「鉄砲水が来るって」
 堤防の上に置いた自転車のカゴに荷物を入れて振り向くと、僕の目にも僅かに川の水位が上がっているように見える。その間、紅葉は誰彼構わず話しかけて回っていた。
 中州で魚取りに興じていた釣り人や素潜りをしていた学生に、通りかかった老人にまで、しきりに川から離れるように叫ぶ。
 鉄砲水、僕はその言葉をニュースで聞いたことはあったけれど実際に見たことはなかった。
「来たよー!」
「…すごい」
 その合図をきっかけに、川から波を立てて何かが流れて来た。
 まるで、誰かが見えない巨大な手で川水を押し立てているみたいだった。
 僕の腕より太い木片を押し流しながら濁流が流れて行ったと思ったら、川が一瞬で姿を変えてどす黒く濁った。
 少し前まで足首が浸かるくらいの深さだった河原には、激流が流れている。
 まだあそこにいたらと想像しただけで、ぞっとする。水量も流れる速さも、全く違う川だ。
 数分で移り変わる自然現象を前に、僕は何も言えずに口を開けて棒立ちしていた。
「早めに気づいて良かったね」
 紅葉は水着の上にTシャツだけ着て、自転車を押しながら川の様子を見ていた。
 鉄砲水に遭遇することは稀にあることらしく、彼女はまるでまだ穏やかな川がそこにあるかのように笑った。川が遊ぶ場所であり人命を奪う場所でもあることは、彼女にとっては当然のことなのだ。
 これがこの村で、自然と一緒に生きるということなのだ。
 それを、僕はそれをこうして体感するまでまるでわかっていなかった。
「紅葉ちゃん、ありがとうね」
「あぁ、いえいえ!
 私も、偶々気づけただけなので」
「紅葉ありがとー」
「はーい、どういたしまして」
 陸に上がっても浮き輪をつけている少年と麦わら帽子を被った母親が、自転車を押す紅葉の元まで来てお礼を言っていた。鉄砲水が来たときに川にいたら、多分あの子も彼女も流されていた。
 他人のために動いて行動するだけでも相当の勇気が必要なのに、紅葉は慈悲深い笑みで少年の頭を撫でた。褒められることをしても驕らない、まるで天使みたいだ。
「折角来たのに、あんまり遊べなかったね。
 また来ようよ」
「うん!」
 川沿いの歩道で自転車を押して歩きながら、まだ湿ったままの服を自然乾燥で乾かす。
 紅葉は濡れて重くなった髪をサイドにまとめて肩に乗せていて、露わになったうなじに僕は目がチカチカした。
 悪いことをしている気がして目を逸らした僕は、また姿を変えた川面に見て目を丸くした。
 この現象は何という自然現象なのだろうと、声を張り上げる。
「ねぇ、紅葉。
 これは何て言うの!?」
「なに?どれ?」
「こんなことってあるんだね!」
「何これ…気持ち悪い…」
 紅葉の端正な顔が崩れて、土色になっていた。
 後から考えれば、長らくこの土地に住んで暮らしているからこそ、初めて見る超常現象に理解が追いつかなかったのだろう。
 他の人たちもそれは同じで、泥水の上に浮かぶそれを気味悪がった。
「あははっ…すっげぇ綺麗!」
 僕はこの日を、きっと生涯忘れることはないだろう。
 上流から流れて来た無数のシロツメクサの花が、川を覆いつくしていた。それも、どの花も爛漫と花開いていて、一つとして蕾のものはない。
 まるで、地上に空が落ちて来たみたいだ。
 僕だけが、一人はしゃいで快哉を叫んでいた。
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