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第4章 北伐
65:帰還、そして(2)
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草原の真ん中で、ヘルハウンドが1頭、地面を嗅ぎながら歩きまわっている。彼は3日前にハヌマーンの子供を1頭平らげて以降、獲物にありつけていなかった。彼は空腹を抱えたまま草原をうろつき、口に入れられる物がないか、死体が転がっていないか探し回っている。彼は最近回廊から出てこの草原に彷徨い出たばかりであり、この辺の地理感覚に未だ慣れていなかった。
そうやって長らく辺りを嗅ぎまわっていた彼だったが、急な風向きの変更の中に、かすかな生き物の匂いを感じる。ハヌマーンに似た匂いで、どうやら若いメスのようだ。彼は地面から首を上げ、周りを見渡す。すると、東の方に3頭ほどの生き物の影を見つけた。ハヌマーンと同じで二本足で立っているその生き物も、どうやら彼の存在に気づいたようだ。
奇襲ができなくなった事は残念だが、しかし彼はそう悲観していなかった。周囲は草原が広がっており、隠れる場所がない。ハヌマーンの様な二本足の生き物は、たまに前足に武器を持っている時があるが、総じて足の速さでは彼に後れを取っている。相手がどう動くかわからないが、仮に逃げたとしても十分に追い付くことができる。3頭全てを倒す事は厳しいだろうが、あの体の小さな子供1頭は確実に仕留められる。
そう結論付けた彼は、実に3日ぶりの食事を遠くに見ながら、若いメスの柔らかい肉質を想像して舌なめずりをする。そして、
その眉間に開いた孔から血を撒き散らして、絶命した。
***
「トウヤさん、終わりました」
「お疲れ。しかし相変わらず、笑いたくなる命中率だ」
「エルフのお家芸ですから。これくらいなら、私に任せて下さい」
セレーネがM4カービンを肩から下ろしつつ柊也に報告し、柊也が感嘆の声を上げる。拍手の音は聞こえてこない。柊也は両手が揃っていないのでそもそも拍手ができず、シモンは片手が塞がっていた。
レッドドラゴンの襲撃から半月が経過し、三人は草原の西の外れまで歩みを進めていた。コルカ山脈は目前に迫っており、明日には山脈の麓に辿り着ける。その後は山脈に沿って南下し、往路で通った回廊の入口に到達する予定だった。
この半月の間に、柊也はセレーネにもM4カービンの使い方を教え、持たせるようになっていた。セレーネは初めて目にする機構に目を白黒させ、当初は使い方に手こずっていたが、そのコツと弾道を把握するとたちまち脅威の命中率を誇るスナイパーへと変身した。
エルフの中でも小柄な部類に入るセレーネは、フルオートでの射撃を制御できなかったが、その分セミオートでの単発射撃の精度は凄まじく、有効射程500mギリギリの相手でも大体命中させていた。これまで歩いてきた草原には時折点在する木々を除けばほとんど隠れるところがないため、セレーネがカービンを使いこなす様になってから柊也とシモンは魔物に対して全くやる事がなくなり、ただセレーネの後をついて行くだけとなっていた。
「トウヤさん、ご褒美下さい、ご褒美!」
「ああ、いいぞ。口開けろ」
「はい」
カービンを肩に担いだセレーネが柊也に近寄り、目を瞑って口を開ける。その口の中に柊也は、右手で取り出した一口アイスを放り込む。口の中に広がるコーティングチョコレートとアイスに、セレーネは頬を膨らませたまま笑みを浮かべた。
すると柊也の左手を握りしめる手に力が入り、柊也は左を向く。そこには、前を向いたまま柊也に目を向け、顎を引いて拗ねた様な表情をしたシモンがいた。柊也は苦笑し、一口アイスを取り出す。すると雛鳥のようにシモンが口を開き、柊也はその中にアイスを放り込むのだった。
先日の一件以降、三人は柊也が取り出した向こうの衣服を身に着けて行動していたが、2mトラップによる衣服の消失に対し、意外にもセレーネよりシモンの方が怯えていた。彼女は、セレーネが魔物を一掃する様になって以降、常に柊也の隣を歩き、その間ずっと柊也の手を握りしめていた。一方セレーネは持ち前の健忘症を遺憾なく発揮し、たびたび柊也から距離を取り過ぎて、柊也に呼び戻されていた。
数日後、コルカ山脈に沿って南下した三人は、回廊の入口に到着した。
三人の行軍は、至極順調だった。日が暮れると、セレーネが周囲を警戒し、柊也がストーンウォールで壁を作り、シモンがテントを張る。雨が降っていなければ大体浴槽を作り、交代で入浴していた。その後、柊也が取り出す料理で食事を取り、思い思いの時間を過ごした後に就寝する。3時間交代の不寝番も欠かさず行っていたが、これまで夜間の襲撃は一度も発生していなかった。
この日、往路で北伐軍が設営した簡易砦の残骸の内側に張ったテントの中で、柊也は2人に今後の予定を説明する。
「さて、この後の帰還ルートだが、大きく3通りある。1つ目、南東方向に進んでレヴカ山の東を抜け、ギヴンへと出るルート。おそらく北伐軍はこのルートを使って、撤退しているはずだ」
柊也は、空中で箸を右斜め下へと動かしながら説明する。手元では、醤油ラーメンのスープが、柊也の動きに連動して波打っている。
この日の食事は、中華料理だった。シモンは豚骨スープをスプーンで掬いながら柊也の話を聞き、セレーネの海老炒飯は半分抉り取られ、崖崩れを起こしている。その他にも、食べかけの八宝菜と焼売、海老のチリソース煮、杏仁豆腐が、テーブルの上に並んでいた。
「2つ目がこのまま南下し、レヴカ山の西側を抜けてラ・セリエへと出るルート。3つ目は往路を逆走する形で回廊を西進し、ラモアへと出るルートだ。ただ今回は、この3つのいずれも使わない」
「え、どうしてですか?」
セレーネが、レンゲで掬った炒飯を頬張りながら、柊也に問いかける。
「まずギヴンへのルートは、北伐軍が撤退で使用している。我々は北伐から離脱した身でもあり、北伐軍とここで合流するつもりはない。ハヌマーンとの戦闘も継続している可能性があるしな。他人の目によって行動を縛られたくないんだ」
「次にラ・セリエへのルートだが、これは俺とシモンの都合だ。端的に言えば、ラ・セリエに、我々二人が生存している事をあまり知られたくない事情があるんだ。その辺は、またいずれ話そう」
「わかりました。ラモアへのルートは、言わずもがなですね」
「ああ、誰も好き好んで魔物が跋扈するルートは使いたくないからな。早いとこ人族の生活圏には入っておきたい」
そう答えると、柊也は空中に浮かんだ箸を使い、麺を啜る。柊也はカモフラージュのために日常生活をなるべく左手だけで済ませていたが、箸は左手で使いこなす事ができず、右手で使い続けていた。もっとも箸を使うのは向こう側の食事を摂るときに限られるので、他人に見られる様な時には使わない。
「それじゃ、どういうルートで帰るんですか?」
セレーネが海老のチリソース煮に手を伸ばしながら、質問をする。草原の民であるエルフにとって海老は初めて見る食材だが、セレーネは思いの外気に入ったようだ。
「シモンは気づいているな」
「ああ」
シモンは、豚骨ラーメンからフォークで麺を巻き上げ、口元に運びながら答える。シモンも柊也に感化されてラーメンが好きになったが、麺を啜る習慣には慣れず、スープスパゲティの要領で食していた。ちなみに肉好きの影響か、豚骨一筋である。
シモンが柊也に代わり、セレーネに説明する。
「ラ・セリエの北側に、東西に延びるなだらかな稜線がある。そこを10日ほど西進した後に南下してカラディナへと入る。このルートだとヘルハウンドしかいないから、ストーンウォールが乗り越えられず、不寝番が不要になるんだ」
「そうなんですね。わかりました」
***
12日後。三人は稜線の西端を南下し、カラディナへの入国を果たそうとしていた。稜線の移動は予想通りの結果となり、日中はセレーネがヘルハウンドを片っ端から射殺し、夜間はストーンウォールが三人を守る。全く危なげない道中を経て、三人は森の中を移動していた。すでに森の向こうには、カラディナの人家が見えてきており、魔物の襲撃の恐れも過ぎ去っている。
三人は人族の生存圏に戻るにあたり、すでにこの世界の衣服に着替えていた。向こう側の装備も全て破棄しており、シモンは素手に戻って先頭を歩き、後衛のセレーネは弓を小脇に抱えていた。
「やれやれ、やっとカラディナに戻ってこれた。向こうの食事を思う存分摂れたのは良かったが、これでようやく一安心だ」
柊也はため息をつくと、大きく背伸びをする。後ろを振り向いて、セレーネに声をかける。
「セレーネもお疲れ。俺達二人は慣れているが、2メルドの制限には苦労しただろう」
「え、ええ、まぁ。でも、あの状況で食事から何から全て賄って貰ったわけですから、仕方ありません」
柊也の問いに、セレーネは苦笑する。彼女はこれまで父親以外の異性とここまで密接な生活をした事がなかったため、この1ヶ月半はあまりにも刺激的であった。特に柊也とシモンがサーリアの誓いを盾にして、セレーネが目の前にいても構わず毎日の様に儀式を敢行した結果、セレーネの脳内には、人族に関する誤ったけしからん知識が、常識として刷り込まれてしまっていた。
そう言葉を交わして緊張を緩めていた二人だったが、突然先頭のシモンが片手を水平に挙げ、二人を停止させる。
「しっ。…二人とも静かに」
「…どうした、シモン」
久しぶりに見たシモンの険しい表情に、柊也は身を屈め、声を落として質問する。それに対し、シモンは答えず、ジェスチャーでセレーネを呼ぶ。
「…セレーネ、聞こえたか?」
「…はい」
しばらくの間、シモンとセレーネは木々に視界を遮られたまま、前方を見つめ続け、耳を澄ましている。柊也には聞こえないが、五感の発達した二人には街の声が聞こえているようだ。やがてセレーネの顔が青くなり、不安気な表情を浮かべる。そんなセレーネをシモンは気遣うように見つつ、柊也に対し手振りで後ろに下がるように指示し、意を酌んだ柊也は黙って後退した。そのまま三人は元来た道を引き返して山へと登り、1時間ほどして張り出した岩陰に身を隠す。
「どうした?何があった?」
柊也が二人に尋ねると、二人は目で合図を交わし、セレーネが代表して答えた。
「トウヤさん、先ほどの住民の言葉をそのまま伝えます。『セント=ヌーヴェルとエルフが、裏切った。奴らを皆殺しにしろ』」
「何!?」
セレーネの報告を聞いた柊也の顔が、みるみる険しくなる。
「トウヤ、どういう事だ…?」
「…ギヴンに向かった北伐軍とカラディナとの間に、諍いが起きたのかも知れない」
「そんな…」
シモンに問われ、柊也が推論を述べる。その推論に衝撃を受け、セレーネの表情が暗くなった。
「…どうする?トウヤ」
「…」
シモンの問いに柊也はすぐには答えず、頭に左手を乗せながら、セレーネを見た。セレーネは不安な表情を浮かべ、怯えた様に柊也を見つめている。
やがて柊也は溜息をつくと、左手で頭をかき回しながら、シモンの問いに答えた。
「どうもこうもあるまい。結論は一つだ。回廊を西進してラモアへ向かおう」
「わかった」
「え…」
柊也の結論にシモンは了解し、セレーネは驚きの声を上げる。
「…どうした?セレーネ」
「…え、でも、お二人はカラディナに戻る事もできるのでは…?」
セレーネは顔色を窺いながら、恐る恐る二人に質問する。
セレーネの指摘は正しい。実は柊也とシモンは、カラディナ発行のハンタータグを現在も所持していた。そのため、その気になればカラディナ所属のハンターとして復帰する事で、身の安全を図る事ができるのだ。もちろんその時は、以前の悪魔憑きのリスクが残るわけだが、少なくとも目の前の危険から逃れる事はできる。
しかし、セレーネにはそれが使えない。セレーネにはカラディナとの接点が何もなく、また、彼女の容姿は紛れもないエルフであり、隠しようがなかった。もしこの場で柊也とシモンがカラディナに復帰する事を選択すれば、セレーネは行き場を失う事になってしまう。セレーネはそれに気づいており、内心で恐怖に怯えながらも、二人に真意を聞かないわけにはいかなかった。
セレーネの一世一代の質問に、柊也はあっさりと答える。
「安心しろ。あんたを見捨てるつもりはない。それに、これは俺の気分の問題だ。だから、あんたが引け目を感じる必要もない」
「トウヤの言う通りだ、セレーネ。君の事はちゃんと送り届けるから、安心してくれ」
柊也はぶっきらぼうに、シモンは労わりの心を籠めてセレーネに答える。それを聞いたセレーネは、みるみる涙を浮かべ、シモンの胸に飛び込んだ。
「あ、あ、ありがとうございます…トウヤさん、シモンさん…。お二人に捨てられたら、私…私…、う、ぐす…、ふぇぇぇぇ…」
「ほらほら、良い子だから泣き止むんだ、セレーネ。せっかくの美人な顔が台無しだ」
シモンは抱き付いたまま泣き始めたセレーネの頭を撫で、母親の様に慰める。そんな二人を見て、柊也は小さく笑みを浮かべた。
そうやって長らく辺りを嗅ぎまわっていた彼だったが、急な風向きの変更の中に、かすかな生き物の匂いを感じる。ハヌマーンに似た匂いで、どうやら若いメスのようだ。彼は地面から首を上げ、周りを見渡す。すると、東の方に3頭ほどの生き物の影を見つけた。ハヌマーンと同じで二本足で立っているその生き物も、どうやら彼の存在に気づいたようだ。
奇襲ができなくなった事は残念だが、しかし彼はそう悲観していなかった。周囲は草原が広がっており、隠れる場所がない。ハヌマーンの様な二本足の生き物は、たまに前足に武器を持っている時があるが、総じて足の速さでは彼に後れを取っている。相手がどう動くかわからないが、仮に逃げたとしても十分に追い付くことができる。3頭全てを倒す事は厳しいだろうが、あの体の小さな子供1頭は確実に仕留められる。
そう結論付けた彼は、実に3日ぶりの食事を遠くに見ながら、若いメスの柔らかい肉質を想像して舌なめずりをする。そして、
その眉間に開いた孔から血を撒き散らして、絶命した。
***
「トウヤさん、終わりました」
「お疲れ。しかし相変わらず、笑いたくなる命中率だ」
「エルフのお家芸ですから。これくらいなら、私に任せて下さい」
セレーネがM4カービンを肩から下ろしつつ柊也に報告し、柊也が感嘆の声を上げる。拍手の音は聞こえてこない。柊也は両手が揃っていないのでそもそも拍手ができず、シモンは片手が塞がっていた。
レッドドラゴンの襲撃から半月が経過し、三人は草原の西の外れまで歩みを進めていた。コルカ山脈は目前に迫っており、明日には山脈の麓に辿り着ける。その後は山脈に沿って南下し、往路で通った回廊の入口に到達する予定だった。
この半月の間に、柊也はセレーネにもM4カービンの使い方を教え、持たせるようになっていた。セレーネは初めて目にする機構に目を白黒させ、当初は使い方に手こずっていたが、そのコツと弾道を把握するとたちまち脅威の命中率を誇るスナイパーへと変身した。
エルフの中でも小柄な部類に入るセレーネは、フルオートでの射撃を制御できなかったが、その分セミオートでの単発射撃の精度は凄まじく、有効射程500mギリギリの相手でも大体命中させていた。これまで歩いてきた草原には時折点在する木々を除けばほとんど隠れるところがないため、セレーネがカービンを使いこなす様になってから柊也とシモンは魔物に対して全くやる事がなくなり、ただセレーネの後をついて行くだけとなっていた。
「トウヤさん、ご褒美下さい、ご褒美!」
「ああ、いいぞ。口開けろ」
「はい」
カービンを肩に担いだセレーネが柊也に近寄り、目を瞑って口を開ける。その口の中に柊也は、右手で取り出した一口アイスを放り込む。口の中に広がるコーティングチョコレートとアイスに、セレーネは頬を膨らませたまま笑みを浮かべた。
すると柊也の左手を握りしめる手に力が入り、柊也は左を向く。そこには、前を向いたまま柊也に目を向け、顎を引いて拗ねた様な表情をしたシモンがいた。柊也は苦笑し、一口アイスを取り出す。すると雛鳥のようにシモンが口を開き、柊也はその中にアイスを放り込むのだった。
先日の一件以降、三人は柊也が取り出した向こうの衣服を身に着けて行動していたが、2mトラップによる衣服の消失に対し、意外にもセレーネよりシモンの方が怯えていた。彼女は、セレーネが魔物を一掃する様になって以降、常に柊也の隣を歩き、その間ずっと柊也の手を握りしめていた。一方セレーネは持ち前の健忘症を遺憾なく発揮し、たびたび柊也から距離を取り過ぎて、柊也に呼び戻されていた。
数日後、コルカ山脈に沿って南下した三人は、回廊の入口に到着した。
三人の行軍は、至極順調だった。日が暮れると、セレーネが周囲を警戒し、柊也がストーンウォールで壁を作り、シモンがテントを張る。雨が降っていなければ大体浴槽を作り、交代で入浴していた。その後、柊也が取り出す料理で食事を取り、思い思いの時間を過ごした後に就寝する。3時間交代の不寝番も欠かさず行っていたが、これまで夜間の襲撃は一度も発生していなかった。
この日、往路で北伐軍が設営した簡易砦の残骸の内側に張ったテントの中で、柊也は2人に今後の予定を説明する。
「さて、この後の帰還ルートだが、大きく3通りある。1つ目、南東方向に進んでレヴカ山の東を抜け、ギヴンへと出るルート。おそらく北伐軍はこのルートを使って、撤退しているはずだ」
柊也は、空中で箸を右斜め下へと動かしながら説明する。手元では、醤油ラーメンのスープが、柊也の動きに連動して波打っている。
この日の食事は、中華料理だった。シモンは豚骨スープをスプーンで掬いながら柊也の話を聞き、セレーネの海老炒飯は半分抉り取られ、崖崩れを起こしている。その他にも、食べかけの八宝菜と焼売、海老のチリソース煮、杏仁豆腐が、テーブルの上に並んでいた。
「2つ目がこのまま南下し、レヴカ山の西側を抜けてラ・セリエへと出るルート。3つ目は往路を逆走する形で回廊を西進し、ラモアへと出るルートだ。ただ今回は、この3つのいずれも使わない」
「え、どうしてですか?」
セレーネが、レンゲで掬った炒飯を頬張りながら、柊也に問いかける。
「まずギヴンへのルートは、北伐軍が撤退で使用している。我々は北伐から離脱した身でもあり、北伐軍とここで合流するつもりはない。ハヌマーンとの戦闘も継続している可能性があるしな。他人の目によって行動を縛られたくないんだ」
「次にラ・セリエへのルートだが、これは俺とシモンの都合だ。端的に言えば、ラ・セリエに、我々二人が生存している事をあまり知られたくない事情があるんだ。その辺は、またいずれ話そう」
「わかりました。ラモアへのルートは、言わずもがなですね」
「ああ、誰も好き好んで魔物が跋扈するルートは使いたくないからな。早いとこ人族の生活圏には入っておきたい」
そう答えると、柊也は空中に浮かんだ箸を使い、麺を啜る。柊也はカモフラージュのために日常生活をなるべく左手だけで済ませていたが、箸は左手で使いこなす事ができず、右手で使い続けていた。もっとも箸を使うのは向こう側の食事を摂るときに限られるので、他人に見られる様な時には使わない。
「それじゃ、どういうルートで帰るんですか?」
セレーネが海老のチリソース煮に手を伸ばしながら、質問をする。草原の民であるエルフにとって海老は初めて見る食材だが、セレーネは思いの外気に入ったようだ。
「シモンは気づいているな」
「ああ」
シモンは、豚骨ラーメンからフォークで麺を巻き上げ、口元に運びながら答える。シモンも柊也に感化されてラーメンが好きになったが、麺を啜る習慣には慣れず、スープスパゲティの要領で食していた。ちなみに肉好きの影響か、豚骨一筋である。
シモンが柊也に代わり、セレーネに説明する。
「ラ・セリエの北側に、東西に延びるなだらかな稜線がある。そこを10日ほど西進した後に南下してカラディナへと入る。このルートだとヘルハウンドしかいないから、ストーンウォールが乗り越えられず、不寝番が不要になるんだ」
「そうなんですね。わかりました」
***
12日後。三人は稜線の西端を南下し、カラディナへの入国を果たそうとしていた。稜線の移動は予想通りの結果となり、日中はセレーネがヘルハウンドを片っ端から射殺し、夜間はストーンウォールが三人を守る。全く危なげない道中を経て、三人は森の中を移動していた。すでに森の向こうには、カラディナの人家が見えてきており、魔物の襲撃の恐れも過ぎ去っている。
三人は人族の生存圏に戻るにあたり、すでにこの世界の衣服に着替えていた。向こう側の装備も全て破棄しており、シモンは素手に戻って先頭を歩き、後衛のセレーネは弓を小脇に抱えていた。
「やれやれ、やっとカラディナに戻ってこれた。向こうの食事を思う存分摂れたのは良かったが、これでようやく一安心だ」
柊也はため息をつくと、大きく背伸びをする。後ろを振り向いて、セレーネに声をかける。
「セレーネもお疲れ。俺達二人は慣れているが、2メルドの制限には苦労しただろう」
「え、ええ、まぁ。でも、あの状況で食事から何から全て賄って貰ったわけですから、仕方ありません」
柊也の問いに、セレーネは苦笑する。彼女はこれまで父親以外の異性とここまで密接な生活をした事がなかったため、この1ヶ月半はあまりにも刺激的であった。特に柊也とシモンがサーリアの誓いを盾にして、セレーネが目の前にいても構わず毎日の様に儀式を敢行した結果、セレーネの脳内には、人族に関する誤ったけしからん知識が、常識として刷り込まれてしまっていた。
そう言葉を交わして緊張を緩めていた二人だったが、突然先頭のシモンが片手を水平に挙げ、二人を停止させる。
「しっ。…二人とも静かに」
「…どうした、シモン」
久しぶりに見たシモンの険しい表情に、柊也は身を屈め、声を落として質問する。それに対し、シモンは答えず、ジェスチャーでセレーネを呼ぶ。
「…セレーネ、聞こえたか?」
「…はい」
しばらくの間、シモンとセレーネは木々に視界を遮られたまま、前方を見つめ続け、耳を澄ましている。柊也には聞こえないが、五感の発達した二人には街の声が聞こえているようだ。やがてセレーネの顔が青くなり、不安気な表情を浮かべる。そんなセレーネをシモンは気遣うように見つつ、柊也に対し手振りで後ろに下がるように指示し、意を酌んだ柊也は黙って後退した。そのまま三人は元来た道を引き返して山へと登り、1時間ほどして張り出した岩陰に身を隠す。
「どうした?何があった?」
柊也が二人に尋ねると、二人は目で合図を交わし、セレーネが代表して答えた。
「トウヤさん、先ほどの住民の言葉をそのまま伝えます。『セント=ヌーヴェルとエルフが、裏切った。奴らを皆殺しにしろ』」
「何!?」
セレーネの報告を聞いた柊也の顔が、みるみる険しくなる。
「トウヤ、どういう事だ…?」
「…ギヴンに向かった北伐軍とカラディナとの間に、諍いが起きたのかも知れない」
「そんな…」
シモンに問われ、柊也が推論を述べる。その推論に衝撃を受け、セレーネの表情が暗くなった。
「…どうする?トウヤ」
「…」
シモンの問いに柊也はすぐには答えず、頭に左手を乗せながら、セレーネを見た。セレーネは不安な表情を浮かべ、怯えた様に柊也を見つめている。
やがて柊也は溜息をつくと、左手で頭をかき回しながら、シモンの問いに答えた。
「どうもこうもあるまい。結論は一つだ。回廊を西進してラモアへ向かおう」
「わかった」
「え…」
柊也の結論にシモンは了解し、セレーネは驚きの声を上げる。
「…どうした?セレーネ」
「…え、でも、お二人はカラディナに戻る事もできるのでは…?」
セレーネは顔色を窺いながら、恐る恐る二人に質問する。
セレーネの指摘は正しい。実は柊也とシモンは、カラディナ発行のハンタータグを現在も所持していた。そのため、その気になればカラディナ所属のハンターとして復帰する事で、身の安全を図る事ができるのだ。もちろんその時は、以前の悪魔憑きのリスクが残るわけだが、少なくとも目の前の危険から逃れる事はできる。
しかし、セレーネにはそれが使えない。セレーネにはカラディナとの接点が何もなく、また、彼女の容姿は紛れもないエルフであり、隠しようがなかった。もしこの場で柊也とシモンがカラディナに復帰する事を選択すれば、セレーネは行き場を失う事になってしまう。セレーネはそれに気づいており、内心で恐怖に怯えながらも、二人に真意を聞かないわけにはいかなかった。
セレーネの一世一代の質問に、柊也はあっさりと答える。
「安心しろ。あんたを見捨てるつもりはない。それに、これは俺の気分の問題だ。だから、あんたが引け目を感じる必要もない」
「トウヤの言う通りだ、セレーネ。君の事はちゃんと送り届けるから、安心してくれ」
柊也はぶっきらぼうに、シモンは労わりの心を籠めてセレーネに答える。それを聞いたセレーネは、みるみる涙を浮かべ、シモンの胸に飛び込んだ。
「あ、あ、ありがとうございます…トウヤさん、シモンさん…。お二人に捨てられたら、私…私…、う、ぐす…、ふぇぇぇぇ…」
「ほらほら、良い子だから泣き止むんだ、セレーネ。せっかくの美人な顔が台無しだ」
シモンは抱き付いたまま泣き始めたセレーネの頭を撫で、母親の様に慰める。そんな二人を見て、柊也は小さく笑みを浮かべた。
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