「婚約破棄? ええ、どうぞ!(食い気味)」

黒猫かの

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その頃、リオナが清々しいほどに脱ぎ捨てた元婚約国――。
王宮の第一王子執務室では、この世の終わりかと思うような重苦しい空気が漂っていた。


「……おい、ミリア。この報告書はどういうことだ。隣国との通商条約の更新期限が、三日前に切れているではないか!」


ヴィンス王子の怒鳴り声が、豪華な壁紙を震わせる。
机の上には、もはや山というよりは「絶壁」と呼ぶべき量の書類が積み上がっていた。


その机の向かいで、可憐なピンク色のドレスに身を包んだミリアが、今にも泣き出しそうな顔でハンカチを握りしめている。


「ご、ごめんなさい、ヴィンス殿下……。私、難しくてよく分からなくて。でも、リオナ様がいつも『これはゴミ箱行きね』っておっしゃっていた書類を、同じように片付けただけなんですわ」


「ゴミ箱!? これは隣国の王太子からの直筆の親書だぞ! これをゴミ扱いしたというのか!」


ヴィンス王子は頭を抱えて椅子に沈み込んだ。
これまでは、どんなに彼が遊び惚けていても、執務室に行けば完璧に整理された書類と、要点だけをまとめた簡潔なメモが用意されていたのだ。
すべて、彼が「悪役令嬢」と蔑んでいたリオナが、裏で処理していたことだった。


「ううっ……殿下、そんなに怒鳴らないでください。私、怖くて……。リオナ様がいないから、私、一生懸命頑張っているのに……」


ミリアの大きな瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちる。
以前なら、この涙を見た瞬間にヴィンス王子は彼女を抱き寄せ、「悪いのは私だ、愛しているよ」と囁いたはずだった。
しかし、今の彼にはそんな余裕など一ミリも残っていない。


「……頑張っている? ミリア、君が今日やったことは、私のペンにインクを補充しようとして絨毯を真っ黒に染めたことと、この重要な契約書にお茶をこぼしたことだけだぞ」


「それは、殿下が私をちゃんと見てくださらないから……。私、寂しくて手が震えてしまったんですわ。リオナ様がいらっしゃった時は、もっと私を優しく守ってくださったのに!」


ミリアの言葉に、ヴィンス王子の眉がピクリと跳ねた。


「……リオナが守っていた? 君を虐めていたのではないのか?」


「えっ……あ、それは……そうですわ! 虐められていましたわ! でも、ほら、悪役がいたからこそ、私たちの愛は輝いていたと言いますか……。いなくなってしまうと、私、誰に悲劇のヒロインを演じればいいのか分からなくて……」


「演じる……だと?」


ヴィンス王子の声が一段と低くなった。
ミリアはハッとして口を押さえたが、時すでに遅し。


これまでの彼女の言動は、すべて「リオナという悪役」が存在することを前提とした、緻密な計算に基づいたものだった。
リオナが嫌味を言えば泣き、リオナが厳しく指導すれば「虐められた」と騒ぐ。
それによって王子の庇護欲を煽り、現在の地位を手に入れたのだ。


しかし、肝心のリオナがいなくなった今、彼女の「悲劇のヒロイン」という属性は、ただの「仕事のできない、文句ばかり言う女」へと成り下がっていた。


「ミリア。君は昨日の晩餐会でも、隣国の公使に向かって『そのネクタイの色、私の好みじゃありませんわ』と言い放ったそうだな」


「だって、本当のことなんですもの! 私、正直な女の子が好きだって殿下もおっしゃいましたわ!」


「時と場合がある! ……ああ、もういい。下がっていろ。私はこの書類の山をどうにかしなければならないのだ」


「ひどい! 私よりお仕事が大事なんですのね! リオナ様の時だって、殿下はこんなに冷たくなかったわ!」


ミリアは足を踏み鳴らして執務室を飛び出していった。
静まり返った室内で、ヴィンス王子はポツリと独り言を漏らした。


「……リオナなら、こんな時、鼻で笑いながら五分で終わらせていただろうな」


彼はふと、リオナが去り際に放った言葉を思い出した。
『鼻毛のチェックは毎日なさることを強くお勧めしますわよ』


鏡を覗き込むと、そこには心労でやつれ、本当に鼻毛が一本飛び出している、なんとも情けない王子の姿が映っていた。


「……クソッ! あんな女、今すぐ連れ戻してやる! 公爵家に圧力をかければ、すぐに泣きながら戻ってくるはずだ!」


ヴィンス王子は机を叩いて騎士を呼びつけた。
しかし、彼がどれほど傲慢な命令を下そうとも、リオナはもう、この国のどこにもいない。


彼女が今、隣国で「三食昼寝付きの侍女生活」に胸を躍らせていることなど、彼は知る由もなかったのである。
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