9 / 28
9
しおりを挟む
その頃、リオナが清々しいほどに脱ぎ捨てた元婚約国――。
王宮の第一王子執務室では、この世の終わりかと思うような重苦しい空気が漂っていた。
「……おい、ミリア。この報告書はどういうことだ。隣国との通商条約の更新期限が、三日前に切れているではないか!」
ヴィンス王子の怒鳴り声が、豪華な壁紙を震わせる。
机の上には、もはや山というよりは「絶壁」と呼ぶべき量の書類が積み上がっていた。
その机の向かいで、可憐なピンク色のドレスに身を包んだミリアが、今にも泣き出しそうな顔でハンカチを握りしめている。
「ご、ごめんなさい、ヴィンス殿下……。私、難しくてよく分からなくて。でも、リオナ様がいつも『これはゴミ箱行きね』っておっしゃっていた書類を、同じように片付けただけなんですわ」
「ゴミ箱!? これは隣国の王太子からの直筆の親書だぞ! これをゴミ扱いしたというのか!」
ヴィンス王子は頭を抱えて椅子に沈み込んだ。
これまでは、どんなに彼が遊び惚けていても、執務室に行けば完璧に整理された書類と、要点だけをまとめた簡潔なメモが用意されていたのだ。
すべて、彼が「悪役令嬢」と蔑んでいたリオナが、裏で処理していたことだった。
「ううっ……殿下、そんなに怒鳴らないでください。私、怖くて……。リオナ様がいないから、私、一生懸命頑張っているのに……」
ミリアの大きな瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちる。
以前なら、この涙を見た瞬間にヴィンス王子は彼女を抱き寄せ、「悪いのは私だ、愛しているよ」と囁いたはずだった。
しかし、今の彼にはそんな余裕など一ミリも残っていない。
「……頑張っている? ミリア、君が今日やったことは、私のペンにインクを補充しようとして絨毯を真っ黒に染めたことと、この重要な契約書にお茶をこぼしたことだけだぞ」
「それは、殿下が私をちゃんと見てくださらないから……。私、寂しくて手が震えてしまったんですわ。リオナ様がいらっしゃった時は、もっと私を優しく守ってくださったのに!」
ミリアの言葉に、ヴィンス王子の眉がピクリと跳ねた。
「……リオナが守っていた? 君を虐めていたのではないのか?」
「えっ……あ、それは……そうですわ! 虐められていましたわ! でも、ほら、悪役がいたからこそ、私たちの愛は輝いていたと言いますか……。いなくなってしまうと、私、誰に悲劇のヒロインを演じればいいのか分からなくて……」
「演じる……だと?」
ヴィンス王子の声が一段と低くなった。
ミリアはハッとして口を押さえたが、時すでに遅し。
これまでの彼女の言動は、すべて「リオナという悪役」が存在することを前提とした、緻密な計算に基づいたものだった。
リオナが嫌味を言えば泣き、リオナが厳しく指導すれば「虐められた」と騒ぐ。
それによって王子の庇護欲を煽り、現在の地位を手に入れたのだ。
しかし、肝心のリオナがいなくなった今、彼女の「悲劇のヒロイン」という属性は、ただの「仕事のできない、文句ばかり言う女」へと成り下がっていた。
「ミリア。君は昨日の晩餐会でも、隣国の公使に向かって『そのネクタイの色、私の好みじゃありませんわ』と言い放ったそうだな」
「だって、本当のことなんですもの! 私、正直な女の子が好きだって殿下もおっしゃいましたわ!」
「時と場合がある! ……ああ、もういい。下がっていろ。私はこの書類の山をどうにかしなければならないのだ」
「ひどい! 私よりお仕事が大事なんですのね! リオナ様の時だって、殿下はこんなに冷たくなかったわ!」
ミリアは足を踏み鳴らして執務室を飛び出していった。
静まり返った室内で、ヴィンス王子はポツリと独り言を漏らした。
「……リオナなら、こんな時、鼻で笑いながら五分で終わらせていただろうな」
彼はふと、リオナが去り際に放った言葉を思い出した。
『鼻毛のチェックは毎日なさることを強くお勧めしますわよ』
鏡を覗き込むと、そこには心労でやつれ、本当に鼻毛が一本飛び出している、なんとも情けない王子の姿が映っていた。
「……クソッ! あんな女、今すぐ連れ戻してやる! 公爵家に圧力をかければ、すぐに泣きながら戻ってくるはずだ!」
ヴィンス王子は机を叩いて騎士を呼びつけた。
しかし、彼がどれほど傲慢な命令を下そうとも、リオナはもう、この国のどこにもいない。
彼女が今、隣国で「三食昼寝付きの侍女生活」に胸を躍らせていることなど、彼は知る由もなかったのである。
王宮の第一王子執務室では、この世の終わりかと思うような重苦しい空気が漂っていた。
「……おい、ミリア。この報告書はどういうことだ。隣国との通商条約の更新期限が、三日前に切れているではないか!」
ヴィンス王子の怒鳴り声が、豪華な壁紙を震わせる。
机の上には、もはや山というよりは「絶壁」と呼ぶべき量の書類が積み上がっていた。
その机の向かいで、可憐なピンク色のドレスに身を包んだミリアが、今にも泣き出しそうな顔でハンカチを握りしめている。
「ご、ごめんなさい、ヴィンス殿下……。私、難しくてよく分からなくて。でも、リオナ様がいつも『これはゴミ箱行きね』っておっしゃっていた書類を、同じように片付けただけなんですわ」
「ゴミ箱!? これは隣国の王太子からの直筆の親書だぞ! これをゴミ扱いしたというのか!」
ヴィンス王子は頭を抱えて椅子に沈み込んだ。
これまでは、どんなに彼が遊び惚けていても、執務室に行けば完璧に整理された書類と、要点だけをまとめた簡潔なメモが用意されていたのだ。
すべて、彼が「悪役令嬢」と蔑んでいたリオナが、裏で処理していたことだった。
「ううっ……殿下、そんなに怒鳴らないでください。私、怖くて……。リオナ様がいないから、私、一生懸命頑張っているのに……」
ミリアの大きな瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちる。
以前なら、この涙を見た瞬間にヴィンス王子は彼女を抱き寄せ、「悪いのは私だ、愛しているよ」と囁いたはずだった。
しかし、今の彼にはそんな余裕など一ミリも残っていない。
「……頑張っている? ミリア、君が今日やったことは、私のペンにインクを補充しようとして絨毯を真っ黒に染めたことと、この重要な契約書にお茶をこぼしたことだけだぞ」
「それは、殿下が私をちゃんと見てくださらないから……。私、寂しくて手が震えてしまったんですわ。リオナ様がいらっしゃった時は、もっと私を優しく守ってくださったのに!」
ミリアの言葉に、ヴィンス王子の眉がピクリと跳ねた。
「……リオナが守っていた? 君を虐めていたのではないのか?」
「えっ……あ、それは……そうですわ! 虐められていましたわ! でも、ほら、悪役がいたからこそ、私たちの愛は輝いていたと言いますか……。いなくなってしまうと、私、誰に悲劇のヒロインを演じればいいのか分からなくて……」
「演じる……だと?」
ヴィンス王子の声が一段と低くなった。
ミリアはハッとして口を押さえたが、時すでに遅し。
これまでの彼女の言動は、すべて「リオナという悪役」が存在することを前提とした、緻密な計算に基づいたものだった。
リオナが嫌味を言えば泣き、リオナが厳しく指導すれば「虐められた」と騒ぐ。
それによって王子の庇護欲を煽り、現在の地位を手に入れたのだ。
しかし、肝心のリオナがいなくなった今、彼女の「悲劇のヒロイン」という属性は、ただの「仕事のできない、文句ばかり言う女」へと成り下がっていた。
「ミリア。君は昨日の晩餐会でも、隣国の公使に向かって『そのネクタイの色、私の好みじゃありませんわ』と言い放ったそうだな」
「だって、本当のことなんですもの! 私、正直な女の子が好きだって殿下もおっしゃいましたわ!」
「時と場合がある! ……ああ、もういい。下がっていろ。私はこの書類の山をどうにかしなければならないのだ」
「ひどい! 私よりお仕事が大事なんですのね! リオナ様の時だって、殿下はこんなに冷たくなかったわ!」
ミリアは足を踏み鳴らして執務室を飛び出していった。
静まり返った室内で、ヴィンス王子はポツリと独り言を漏らした。
「……リオナなら、こんな時、鼻で笑いながら五分で終わらせていただろうな」
彼はふと、リオナが去り際に放った言葉を思い出した。
『鼻毛のチェックは毎日なさることを強くお勧めしますわよ』
鏡を覗き込むと、そこには心労でやつれ、本当に鼻毛が一本飛び出している、なんとも情けない王子の姿が映っていた。
「……クソッ! あんな女、今すぐ連れ戻してやる! 公爵家に圧力をかければ、すぐに泣きながら戻ってくるはずだ!」
ヴィンス王子は机を叩いて騎士を呼びつけた。
しかし、彼がどれほど傲慢な命令を下そうとも、リオナはもう、この国のどこにもいない。
彼女が今、隣国で「三食昼寝付きの侍女生活」に胸を躍らせていることなど、彼は知る由もなかったのである。
21
あなたにおすすめの小説
ワザとダサくしてたら婚約破棄されたので隣国に行きます!
satomi
恋愛
ワザと瓶底メガネで三つ編みで、生活をしていたら、「自分の隣に相応しくない」という理由でこのフッラクション王国の王太子であられます、ダミアン殿下であらせられます、ダミアン殿下に婚約破棄をされました。
私はホウショウ公爵家の次女でコリーナと申します。
私の容姿で婚約破棄をされたことに対して私付きの侍女のルナは大激怒。
お父様は「結婚前に王太子が人を見てくれだけで判断していることが分かって良かった」と。
眼鏡をやめただけで、学園内での手の平返しが酷かったので、私は父の妹、叔母様を頼りに隣国のリーク帝国に留学することとしました!
王弟が愛した娘 —音に響く運命—
Aster22
恋愛
弟を探す旅の途中、身分を隠して村で薬師として生きていたセラは、
ハープの音に宿る才を、名も知らぬ貴族の青年――王弟レオに見初められる。
互いの立場を知らぬまま距離を縮めていく二人。
だが、ある事件をきっかけに、セラは彼の屋敷で侍女として働くことになり、
知らず知らずのうちに国を巻き込む陰謀へと引き寄せられていく。
人の生まれは変えられない。
それでも、何を望み、何を選ぶのかは、自分で決められる。
セラが守ろうとするものは、弟か、才か、それとも――
キャラ設定・世界観などはこちら
↓
https://kakuyomu.jp/my/news/822139840619212578
断罪予定の悪役令嬢ですが、王都でカフェを開いたら婚約者の王太子が常連になりました
由香
恋愛
公爵令嬢エリザベートは、自分が乙女ゲームの悪役令嬢に転生していることに気付く。
このままでは一年後の夜会で婚約破棄され、断罪された上で国外追放されてしまう運命だ。
「――だったら、その前に稼げばいいわ!」
前世の記憶を頼りに、王都の裏通りで小さなカフェを開くことにしたエリザベート。
コーヒーやケーキは評判となり、店は少しずつ人気店へと成長していく。
そんなある日、店に一人の青年が現れる。
落ち着いた雰囲気のその客は、毎日のように通う常連になった。
しかし彼の正体は――なんと婚約者である王太子レオンハルトだった!?
破滅回避のために始めたカフェ経営が、やがて運命を変えていく。
これは、悪役令嬢が小さなカフェから幸せを掴む
ほのぼのカフェ経営×溺愛ロマンスストーリー。
王子に婚約破棄されて国を追放「魔法が使えない女は必要ない!」彼女の隠された能力と本来の姿がわかり誰もが泣き叫ぶ。
佐藤 美奈
恋愛
クロエ・エルフェシウス公爵令嬢とガブリエル・フォートグランデ王太子殿下は婚約が内定する。まだ公の場で発表してないだけで、王家と公爵家の間で約束を取り交わしていた。
だが帝立魔法学園の創立記念パーティーで婚約破棄を宣言されてしまった。ガブリエルは魔法の才能がある幼馴染のアンジェリカ男爵令嬢を溺愛して結婚を決めたのです。
その理由は、ディオール帝国は魔法至上主義で魔法帝国と称される。クロエは魔法が一番大切な国で一人だけ魔法が全然使えない女性だった。
クロエは魔法が使えないことに、特に気にしていませんでしたが、日常的に家族から無能と言われて、赤の他人までに冷たい目で見られてしまう。
ところがクロエは魔法帝国に、なくてはならない女性でした。絶対に必要な隠された能力を持っていた。彼女の真の姿が明らかになると、誰もが彼女に泣いて謝罪を繰り返し助けてと悲鳴を上げ続けた。
【完結】亡くなった婚約者の弟と婚約させられたけど⋯⋯【正しい婚約破棄計画】
との
恋愛
「彼が亡くなった?」
突然の悲報に青褪めたライラは婚約者の葬儀の直後、彼の弟と婚約させられてしまった。
「あり得ないわ⋯⋯あんな粗野で自分勝手な奴と婚約だなんて!
家の為だからと言われても、優しかった婚約者の面影が消えないうちに決めるなんて耐えられない」
次々に変わる恋人を腕に抱いて暴言を吐く新婚約者に苛立ちが募っていく。
家と会社の不正、生徒会での横領事件。
「わたくしは⋯⋯完全なる婚約破棄を準備致します!」
『彼』がいるから、そして『彼』がいたから⋯⋯ずっと前を向いていられる。
人が亡くなるシーンの描写がちょっとあります。グロくはないと思います⋯⋯。
ーーーーーー
ゆるふわの中世ヨーロッパ、幻の国の設定です。
完結迄予約投稿済。
R15は念の為・・
【完結】勘当されたい悪役は自由に生きる
雨野
恋愛
難病に罹り、15歳で人生を終えた私。
だが気がつくと、生前読んだ漫画の貴族で悪役に転生していた!?タイトルは忘れてしまったし、ラストまで読むことは出来なかったけど…確かこのキャラは、家を勘当され追放されたんじゃなかったっけ?
でも…手足は自由に動くし、ご飯は美味しく食べられる。すうっと深呼吸することだって出来る!!追放ったって殺される訳でもなし、貴族じゃなくなっても問題ないよね?むしろ私、庶民の生活のほうが大歓迎!!
ただ…私が転生したこのキャラ、セレスタン・ラサーニュ。悪役令息、男だったよね?どこからどう見ても女の身体なんですが。上に無いはずのモノがあり、下にあるはずのアレが無いんですが!?どうなってんのよ!!?
1話目はシリアスな感じですが、最終的にはほのぼの目指します。
ずっと病弱だったが故に、目に映る全てのものが輝いて見えるセレスタン。自分が変われば世界も変わる、私は…自由だ!!!
主人公は最初のうちは卑屈だったりしますが、次第に前向きに成長します。それまで見守っていただければと!
愛され主人公のつもりですが、逆ハーレムはありません。逆ハー風味はある。男装主人公なので、側から見るとBLカップルです。
予告なく痛々しい、残酷な描写あり。
サブタイトルに◼️が付いている話はシリアスになりがち。
小説家になろうさんでも掲載しております。そっちのほうが先行公開中。後書きなんかで、ちょいちょいネタ挟んでます。よろしければご覧ください。
こちらでは僅かに加筆&話が増えてたりします。
本編完結。番外編を順次公開していきます。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
婚約破棄から始まる物語【完】
mako
恋愛
メープル王国王太子であるアレクセイの婚約者である公爵令嬢のステファニーは生まれた時から王太子妃になるべく育てられた淑女の中の淑女。
公爵家の一人娘であるステファニーが生まれた後は子どもができぬまま母親は亡くなってしまう。バーナディン公爵はすぐさま再婚をし新たな母親はルシャードという息子を連れて公爵家に入った。
このルシャードは非常に優秀であり文武両道で背の高い美男子でもあったが妹になったステファニーと関わる事はなかった。
バーナディン公爵家は、今ではメープル王国のエリート一家である。
そんな中王太子より、ステファニーへの婚約破棄が言い渡される事になった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる