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三章
許しを乞う
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私が尋ねると、そのひとは息を呑んだ。
沈黙が漂う。ぴりついた空気に、居心地の悪さを感じた。
(……聞いちゃいけないことだった?)
だけど、見知らぬ男の名を聞くのは大切なことだ。この男は、実に私好みだった。
光を紡いで編んだかのような柔らかな髪。長い前髪は愛らしさすら感じるくせっ毛加減で、くるりと鼻筋にかかっている。
彼の髪型は──そう、ロングウルフと呼ばれるものだろう。
(……?)
そこまで考えて、ロングウルフってなに?と首を傾げた。
そんな言葉、この国……レーベルトではなかったはず。
他国の言葉だったかしら?
私が悩んでいると、目の前の青年はぐっと歯を噛み締めた様子だった。
やはり、顔がものすごく好みだ。
この男、どうにか私のものに出来ないかしら。
いや、この年齢なら既にほかの女のものになっている……?
そんなことを考えていた時。
「……俺は、ミュチュスカ。ミュチュスカ・アリアン」
「ミュチュスカ。いい名前ね。あなたに似て、とても素敵だわ」
私がにっこり笑うと、ミュチュスカはなぜか泣きそうな顔になった。
意外と情緒不安定なのだろうか。
いや、それはそれで可愛らしい。私好みに性格を矯正する楽しみもある。
……あら?
ところで、私の名前は何だったかしら……?
私は栄えある由緒正しい███家の娘で、その家は……家、は?
そこまで考えて、私は私にまつわる情報を一切持ちえていない──いや、覚えていないことに気がついた。
記憶が、無い。
そのことにゾッとして思わず腕をさすった。私の様子に気がついた彼──ミュチュスカが、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「メリューエル?」
「メリュー……エル?それが、私の名前?」
つぶやくと、彼は少し目を瞑り──再びまつ毛を跳ね上げて、青藍色の瞳をこちらに向けた。
あら、と気がつく。
間近で見ると彼の瞳はただ青いのではなく、虹彩を彩るようなアリスブルーの光が踊っている。
まるで、流星のよう。
夜空を彩る──いや、朝焼けの少し前。陽が少し昇り始めた夜空の色合いによく似ていた。
星屑か、流星か。
どちらにせよ、思わず惹き込まれてしまいそうなほど、美しい。
見惚れていると、ミュチュスカがふ、と笑った。
優しげな微笑みだ。
親しいものに向ける、親しげな顔だった。
「そうだよ。きみは、メリューエル・メンデル。レーベルトに五つしかない五大貴族、メンデル公爵家のご息女だ。……そして、俺は、きみの婚約者。ここは、俺の所有する別邸だ」
「……メンデル、公爵家。アリアン……?」
言葉を反芻するも、覚えがない。
馴染みない単語は空虚に響き、私を否定しているようだ。
親しみのない言葉は私に冷たかった。
ただひたすら家の名前だけを繰り返した私に、ミュチュスカは私の額を撫でた。どうやら、前髪が寝乱れていたようで、それを彼は直したようだ。
「焦らなくていい。きみは酷い怪我を負って、生死をさまよった。頭を強く打ったから、記憶の混濁はそのせいかもしれないね」
「……怪我?」
言われて、自分の体に意識を向けるが痛みは感じない。
私が怪訝な顔をすると、ミュチュスカが言った。
「隠れていて見えないかもしれないけど、まだあざが残ってる。骨を折らなかったのは不幸中の幸いだよ。だけど打撲がひどい。しばらく安静を言付けられている」
「……そう。あなた、私の婚約者なの?」
体を起こそうとすると、ミュチュスカが手助けしてくれた。
その距離の近さに頬が熱を持つ。
ちらりと覗くシャツの隙間から、鎖骨が見えた。
それが禁欲的に見える彼の色っぽさを醸し出し、胸が騒いだ。
「そうだよ」
ミュチュスカは答える。私は彼の胸にもたれながら目を閉じた。
彼の腕の中が安心するのは、彼が婚約者だからなのだろうか。
それとも、私がミュチュスカの容姿に目を奪われたからだろうか。
「きっと、私が願ったのでしょう?だって私、あなたの顔がとても好みよ。美しいもの。ミュチュスカ、あなたって綺麗ね。よく言われるのではない?」
「……きみがそんなに話すのを久しぶりに聞いた気がする」
ミュチュスカは苦笑した。
しかし、冷たい響きではなかった。
彼は私の背中を撫でながら、思い出話をするように続けた。それもまた、優しい声だった。
「……きっかけは、確かにきみの家からもたらされた婚約話だった。きみは俺の顔をとても気に入ってくれているね。そんなに好き?……女っぽい、この顔が?」
彼の言葉で、彼が自分の顔に少しコンプレックス──そこまでいかなくとも、彼なりに思うところがあったらしかった。
私は顔を上げてミュチュスカを見つめた。
すっと通った鼻筋に、薄いくちびる、切れ長の瞳は大きめで、確かに女性的と言えるだろう。
だけど、女性だとしても男装の麗人と呼ばれる類のもので、可愛らしさは感じられない。
まつ毛は長く、宝石のような紺青の瞳を色素の薄い白金のまつ毛が扇のように影を落としている。
その様は男女という性別を凌駕した美しさがあった。
彼は、髪は明るい金髪だがまつ毛は白金色なのだと、じっと見つめて気がつく。鮮やかな金髪は、夜闇を切り開くような眩さがある。
太陽の光を束ね、編んだように彼の髪は美しかった。
緩くカーブを描く髪は肩から落ちて、背中にまとわりついている。
艶があり、光沢に煌めく彼の髪は、誰もが目を奪われることだろう。
全体的に見て、美しいひとだと思う。
そして、その美しさをより近寄りにくい、近寄り難いものにしているのは彼の左目の下の、ホクロ。
涙ボクロ。美人にホクロがあると、それはあまりにも様になる。
私は彼の顔を一通りじっと見つめた後、にっこりと笑った。
純粋に、彼にこの気持ちが伝わればいいと思った。
「私は、あなたの顔が女性的だとは思わないわ。あなたの美しさは男女の性に分けられるものではないもの。美しいものは、ただ美しい。それだけだわ」
「……きみらしい言葉だね。少し、安心した」
「安心?なぜ?」
ミュチュスカは私をそっと抱きしめた。
まるで、壊れ物でも抱きしめるような触れ方で。
「……どうしたの?」
「きみは、変わらず俺を……例え、俺の顔だけだとしても。この顔を好ましく思ってくれているんだろう?」
ミュチュスカは柔らかく言葉を紡いだ。
「嬉しいんだ。きみには記憶が無いのかもしれないけど。だけど、それでも。きみは、俺の顔が好きだ。それだけは変わらない。……そうだね?」
そう言ってくれと、願うような声だった。
ミュチュスカは私の耳の近くで囁くように話した。
吐息にも似た声なので、落ち着かない。
もっと抱きしめて欲しいような、触れて欲しいような。
そんな気持ちになったが、私からアプローチするには、私はまだ彼のことを、そして現状をあまりにも知らなすぎる。
戸惑う私に、ミュチュスカが言った。
まるで、懺悔するように。
「きみが好きだよ、メリューエル」
沈黙が漂う。ぴりついた空気に、居心地の悪さを感じた。
(……聞いちゃいけないことだった?)
だけど、見知らぬ男の名を聞くのは大切なことだ。この男は、実に私好みだった。
光を紡いで編んだかのような柔らかな髪。長い前髪は愛らしさすら感じるくせっ毛加減で、くるりと鼻筋にかかっている。
彼の髪型は──そう、ロングウルフと呼ばれるものだろう。
(……?)
そこまで考えて、ロングウルフってなに?と首を傾げた。
そんな言葉、この国……レーベルトではなかったはず。
他国の言葉だったかしら?
私が悩んでいると、目の前の青年はぐっと歯を噛み締めた様子だった。
やはり、顔がものすごく好みだ。
この男、どうにか私のものに出来ないかしら。
いや、この年齢なら既にほかの女のものになっている……?
そんなことを考えていた時。
「……俺は、ミュチュスカ。ミュチュスカ・アリアン」
「ミュチュスカ。いい名前ね。あなたに似て、とても素敵だわ」
私がにっこり笑うと、ミュチュスカはなぜか泣きそうな顔になった。
意外と情緒不安定なのだろうか。
いや、それはそれで可愛らしい。私好みに性格を矯正する楽しみもある。
……あら?
ところで、私の名前は何だったかしら……?
私は栄えある由緒正しい███家の娘で、その家は……家、は?
そこまで考えて、私は私にまつわる情報を一切持ちえていない──いや、覚えていないことに気がついた。
記憶が、無い。
そのことにゾッとして思わず腕をさすった。私の様子に気がついた彼──ミュチュスカが、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「メリューエル?」
「メリュー……エル?それが、私の名前?」
つぶやくと、彼は少し目を瞑り──再びまつ毛を跳ね上げて、青藍色の瞳をこちらに向けた。
あら、と気がつく。
間近で見ると彼の瞳はただ青いのではなく、虹彩を彩るようなアリスブルーの光が踊っている。
まるで、流星のよう。
夜空を彩る──いや、朝焼けの少し前。陽が少し昇り始めた夜空の色合いによく似ていた。
星屑か、流星か。
どちらにせよ、思わず惹き込まれてしまいそうなほど、美しい。
見惚れていると、ミュチュスカがふ、と笑った。
優しげな微笑みだ。
親しいものに向ける、親しげな顔だった。
「そうだよ。きみは、メリューエル・メンデル。レーベルトに五つしかない五大貴族、メンデル公爵家のご息女だ。……そして、俺は、きみの婚約者。ここは、俺の所有する別邸だ」
「……メンデル、公爵家。アリアン……?」
言葉を反芻するも、覚えがない。
馴染みない単語は空虚に響き、私を否定しているようだ。
親しみのない言葉は私に冷たかった。
ただひたすら家の名前だけを繰り返した私に、ミュチュスカは私の額を撫でた。どうやら、前髪が寝乱れていたようで、それを彼は直したようだ。
「焦らなくていい。きみは酷い怪我を負って、生死をさまよった。頭を強く打ったから、記憶の混濁はそのせいかもしれないね」
「……怪我?」
言われて、自分の体に意識を向けるが痛みは感じない。
私が怪訝な顔をすると、ミュチュスカが言った。
「隠れていて見えないかもしれないけど、まだあざが残ってる。骨を折らなかったのは不幸中の幸いだよ。だけど打撲がひどい。しばらく安静を言付けられている」
「……そう。あなた、私の婚約者なの?」
体を起こそうとすると、ミュチュスカが手助けしてくれた。
その距離の近さに頬が熱を持つ。
ちらりと覗くシャツの隙間から、鎖骨が見えた。
それが禁欲的に見える彼の色っぽさを醸し出し、胸が騒いだ。
「そうだよ」
ミュチュスカは答える。私は彼の胸にもたれながら目を閉じた。
彼の腕の中が安心するのは、彼が婚約者だからなのだろうか。
それとも、私がミュチュスカの容姿に目を奪われたからだろうか。
「きっと、私が願ったのでしょう?だって私、あなたの顔がとても好みよ。美しいもの。ミュチュスカ、あなたって綺麗ね。よく言われるのではない?」
「……きみがそんなに話すのを久しぶりに聞いた気がする」
ミュチュスカは苦笑した。
しかし、冷たい響きではなかった。
彼は私の背中を撫でながら、思い出話をするように続けた。それもまた、優しい声だった。
「……きっかけは、確かにきみの家からもたらされた婚約話だった。きみは俺の顔をとても気に入ってくれているね。そんなに好き?……女っぽい、この顔が?」
彼の言葉で、彼が自分の顔に少しコンプレックス──そこまでいかなくとも、彼なりに思うところがあったらしかった。
私は顔を上げてミュチュスカを見つめた。
すっと通った鼻筋に、薄いくちびる、切れ長の瞳は大きめで、確かに女性的と言えるだろう。
だけど、女性だとしても男装の麗人と呼ばれる類のもので、可愛らしさは感じられない。
まつ毛は長く、宝石のような紺青の瞳を色素の薄い白金のまつ毛が扇のように影を落としている。
その様は男女という性別を凌駕した美しさがあった。
彼は、髪は明るい金髪だがまつ毛は白金色なのだと、じっと見つめて気がつく。鮮やかな金髪は、夜闇を切り開くような眩さがある。
太陽の光を束ね、編んだように彼の髪は美しかった。
緩くカーブを描く髪は肩から落ちて、背中にまとわりついている。
艶があり、光沢に煌めく彼の髪は、誰もが目を奪われることだろう。
全体的に見て、美しいひとだと思う。
そして、その美しさをより近寄りにくい、近寄り難いものにしているのは彼の左目の下の、ホクロ。
涙ボクロ。美人にホクロがあると、それはあまりにも様になる。
私は彼の顔を一通りじっと見つめた後、にっこりと笑った。
純粋に、彼にこの気持ちが伝わればいいと思った。
「私は、あなたの顔が女性的だとは思わないわ。あなたの美しさは男女の性に分けられるものではないもの。美しいものは、ただ美しい。それだけだわ」
「……きみらしい言葉だね。少し、安心した」
「安心?なぜ?」
ミュチュスカは私をそっと抱きしめた。
まるで、壊れ物でも抱きしめるような触れ方で。
「……どうしたの?」
「きみは、変わらず俺を……例え、俺の顔だけだとしても。この顔を好ましく思ってくれているんだろう?」
ミュチュスカは柔らかく言葉を紡いだ。
「嬉しいんだ。きみには記憶が無いのかもしれないけど。だけど、それでも。きみは、俺の顔が好きだ。それだけは変わらない。……そうだね?」
そう言ってくれと、願うような声だった。
ミュチュスカは私の耳の近くで囁くように話した。
吐息にも似た声なので、落ち着かない。
もっと抱きしめて欲しいような、触れて欲しいような。
そんな気持ちになったが、私からアプローチするには、私はまだ彼のことを、そして現状をあまりにも知らなすぎる。
戸惑う私に、ミュチュスカが言った。
まるで、懺悔するように。
「きみが好きだよ、メリューエル」
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