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7. 怜、果たして彼女は本当に自分を好きなのか?
怜、果たして彼女は本当に自分を好きなのか? ⑯
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六月も半ばを過ぎ、結婚式の準備が着々と進んでいたある日、梓はふと思い立ってしまった。
普通に出勤するつもりで家を出たものの、あまりに空が青くて気持ち良かったから、つい遠出をしたくなってしまった。
思い付きで東北に向かう新幹線に乗り、初めて何処に行こうか考えた。
車内を周って来た車掌にお薦めを聞いて、足りない分の乗車券を購入し、乗ること三時間半。眠気眼でバス時間を確認すると、二時間に一本の村営バスしかなく、一時間近くを買い物で潰すことにした。
何しろ旅支度なんてしないで来てしまったから、せめて下着の替えは必要だろう。
(きっと今頃大騒ぎになっているんだろな)
何しろ家出の前科持ちだ。怖くて着信履歴を見ることが出来ない。
なのでスマホはバッグの底に押し込んだ。
梓は買い物をし、休憩スペースで時間を潰し、そろそろだろうとバス停に向かった。丁度そこに一台のワゴン車が停まり、中から数人降りて来る。ホテルの送迎らしいワゴンの運転手に声を掛けたら、乗せて行ってくれるとのことで梓は甘えることにした。
暫らく走ると車窓から見える風景が変わった。
冬場は通行止めになるという山道を走って辿り着いたそこは、山間の小さな温泉街だった。
川沿いに建つホテルの前に車を着け、フロントに案内された。
幸い平日という事もあり、すんなり部屋に案内され、荷物とも言えないような荷物を置いて外に出た。
車が容易には通れないような通りには、湯治客が闊歩している。
歩いていて知ったのだが湯巡り券と言うものを購入すると、他の宿の温泉や共同浴場を巡って歩けるらしい。
ほおと思いながら土産物屋を覗いて歩き、瞬く間に一周してしまった。
本当に小さな温泉街だった。
ホテルに戻り、湯につかって梓はようやく息が出来た気がする。
家に戻ってからずっと慌ただしくて、時間や周囲に流されていた。抗おうとすればする程、深みに嵌まっていくようで、どんどんしんどくなって、何かがぷつッと切れてしまった。青空を見上げた瞬間に。
何も考えたくない。
みんなに心配を掛けているのは、解っているけど。
少しの時間だけでいいから、頭を空っぽにする時間が欲しい。
出勤前の新聞片手のコーヒータイムに、事務所からの電話を報せる着信音が鳴った。
梓から予定変更の連絡だと疑わず電話を取ると、由美から『アズちゃんを解放しなさい!』と言う濡れ衣を着せられ、すぐさま否定した。
確かによく梓を拉致するが、一応周囲には断ってある。黙って連れ去る様な事はしない。
由美は百パーセント怜の仕業だと思っていたらしく、泡食った様に電話を切って心当たりに手当たり次第連絡をしたようだったが、すべて空振りした。
怜は大石の家に向かいながら急いでGPSを起動し、梓の所在を確認した。スマホの電源が入っていなくても追跡できるように、実家から手に入れたストラップ型の物だ。
梓が高速で東北方面に移動している。
大石の家に行くと、翔が先に梓の部屋で手がかりを探していた。
しかし特に変わった様子はなく、無くなっている物もないようだ。家を出る時は少なくともいつも通り出掛けたと翔は言っていた。
今回の家出の理由を考えて、思い当たることは一つ。
(…マリッジブルー……?)
最近、情緒不安定で、ちょっとしたことでメソメソしていた。慰めれば余計に不安定になるようだったから、少し距離を置いて様子を見ていたのだが、それが仇になったかも知れない。
「怜。これ」
机を物色していた翔に呼ばれて振り返ると、彼は凡そ十五センチ四方の紙を抓んで、怜の方に突き出してくる。マジマジとそれを見た後で怜は天を仰ぎ、眉間に皺を寄せ「なに考えてんだ」と苦々し気に呟いた。
再び梓の所在地を確認し、紙を挟んであった文庫本に戻して、スーツの上着のポケットに仕舞い込む。
新幹線で移動しているようだが、果たして何処まで行くつもりなのか?
翔にも心当たりはないらしい。
翔に仕事のことを頼み、とにかく追い駆けることにする。この時既に梓が失踪したと思われる時間から、二時間以上が経過していた。
山形新幹線に乗ったらしく、二時間というタイムラグは不幸中の幸いだった。知らないで追いかけていたら、そのまま東北新幹線に乗っていたかも知れない。そうなると途中から在来線に乗り換え、更に時間が掛かった。
梓は終着駅まで行き、小一時間そこで過ごしたようだが、また移動を始めた。時々電波が途切れ、精度が下がっている。
終着駅から行きそうな場所を検索し、目星をつけるとレンタカーで一路そこに向かった。
辿り着いたそこはあまりに鄙びた所で、正直目が点になった。
(こー言ったらなんだけど、ホントに、こんな所にアズちゃん、来てんの?)
湯巡り女子なら分かるけど、梓にそんな趣味はなかったはずだ。
開湯千二百年とうたわれた山間の湯治場に、思わず引け腰になってしまったものの、取り敢えず捜すことにした。幸い小さな温泉街だったため、探す範囲が狭くて助かる。
田舎の温泉街は人が良い。都会だったら守秘義務云々で教えてはくれないだろうが、先に来ている奥さんの泊まって居る宿を聞きそびれたが、連絡が付かなくて困っていると言ったら、方々に電話で訊いてくれた。
強ち嘘でもないし、こっちは切羽詰まった感がオラオラと煽り立ててくるので、罪悪感は殆どない。
七件目で漸く宿が分かりすぐに向かったが、今度は梓は出ていると聞き、苛々とそのままロビーで待つこと一時間弱。土産を携えた梓が戻って来た。
「あ、怜くん」
入ってきた第一声がこれかと思ったら、気が張っていた分どっと疲れた。
ロビーチェアに腰掛けたまま頭を抱えて項垂れると、悪びれない梓が「また怜くんに居所がバレたぁ」と軽く口を尖らせて、ひょこひょこ歩いて来る。
「“あ、怜くん” じゃないでしょ!? どんだけ心配したと思ってんの!?」
ロビーだと言うことも失念して、安堵が怜を声高にさせた。彼女はしゅんと項垂れ、怖ず怖ずと怜を見ながら申し訳なさげに口を開く
「ご……ごめんなさい。お天気が良かったから、つい」
怜の頭が一瞬揺らいだ。
普段なら笑える梓のお惚けぶりも、今回ばかりは額に青筋が浮かぶ。
「お天気で “つい” 失踪される身にもなってよ」
「失踪って、そんな大袈裟な」
「大袈裟?」
オウム返しに聞いて、怜は上着のポケットから梓の部屋から持ってきた文庫本を出した。梓の顔色が忽ちに変わり、へへっと引き攣った笑いを漏らす。
「アズちゃ~ん。なんで僕に報告がなかったのかなぁ?」
「や…あの……怜くん。目が、怖い」
「ん? 目だけで済めばいいねえ? 僕も今回ばかりは、本気で怒ってるからね?」
怒りが沸点を超え過ぎて、いっそ冷ややかな声が出る。ぷるぷる震える梓を心配してか、怜が暴力でも振るわないか、フロントから年配の女性が出て来た。手を上げてそれを遮り、怜は言を継ぐ。
「アズちゃん。君は、妊婦だって自覚有る?」
心配無用と知らしめる為に声にすると、怜の怒りは尤もだと言わんばかりに、女性が苦笑しながら戻って行くのを見、更に畳みかけるように口を開く。
「それとも、僕の子供なんかどうなっても良い?」
自分でも驚く程、低く冷たい声。
目を見開いた梓が慌てて首を振った。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
そう言って怜の脇に膝を着き、袖を掴んで見上げる彼女は滂沱の涙を流している。
怒っている。本気で怒っているのに、可愛くてついつい頭を抱き寄せて「ああもお」とキスを落とす。フロントの女性と目が合って、お互い苦笑してしまった。
梓を膝の上に抱え上げ、怜は心配で気が気でないであろう翔に電話を掛ける。ワンコールが鳴り終わらないうちに、彼と繋がった。
「……あ、翔。アズちゃん無事捕獲。今変わるから」
梓にスマホを差し出すと、泣き顔を引き攣らせ、画面をしばらく見たまま躊躇っていた。怜が早く受け取れと言外に突き出すと、助けを求める目で彼を見て来る。怜はにっこりと微笑んで「出なさい」と促し、梓はスマホを受け取り深呼吸をした。
「あ…あの………お兄ちゃんごめんなさい、お兄ちゃんごめんなさい。帰ったらお利口さんにしま……本当だからぁ」
お利口さんにしますって、『幾つだよ』と危うくツッコミそうになった。
下手に突っ込んだのが翔に聞こえると、怒りが波及しそうなので堪えたけれど。遠路遥々迎えに来て、怒られたら割に合わない。
(味方になってあげたいけど、今回はきっちり怒られて貰わないとね)
とか考えつつ、頭をよしよししているのだから、甘いと思う。
暫らく翔のお説教を喰らい、終わった頃の梓はすっかり子供返りしたのかと思うくらい、怜に縋りついて泣いていた。
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