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10. 本質はそう簡単に変わらないものです。

本質はそう簡単に変わらないものです。④

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 美佳に宣言した通り、彼女を引っ張って役所の時間外窓口に婚姻届けを出すと、優はこれまでにないくらい晴れやかな気持ちで出社した。
 そして営業部の長である松木のデスク前に立ち、締まりのない顔で報告した。

「今朝、婚姻届けを提出して来ました」

 松木は一瞬ポカンとした顔で優を見上げ、優はニコニコとコメントを待っている。女子社員の悲鳴に近い声を聞き、松木はハッとして顔を引き締めると、「随分急だな?」と確認途中の資料を横に追いやった。
 松木は手招きし、優が前屈みになって顔を近付けると、

「ついにデキたか?」
「いや。まだです。美佳の奴、俺に内緒でピル飲んでたのが発覚しまして、あったま来たんで昨夜婚姻届けにサインさせて、今朝出して来ました」
「頭きて提出するもんじゃないだろ?」

 呆れた物言いの松木を見、

「婚約期間イコール年の数ですよ? 待たされた身にもなって下さいよ」

 そう言った優は上司の前で腕を組み、ムスッと不機嫌を隠さない。

 営業部に配属になって間もなく、新歓の飲み会の席で松木に隠していた本性を看破され、腹黒い奴は結構好きだぞと気に入られた。優としても猫を被らなくていい上司は好都合で、言いたいことを言い捲り、プライベートの愚痴も零していたりした。

「そんな訳なんで、年内は多分式場押さえるの無理と思うので、来年早々には式を挙げるつもりです」
「お披露目して完全に退路を断つとかか?」
「良く分かりましたね。さすが部長」
「安西の考えそうなことは、嫌でも分かるようになったな」

 何処か虚ろな笑いを浮かべる松木に「それはどうも」と生意気な口を利くが、松木が気にしてないからまあ良いのだろう。多分、この場では。

「それでですね。必要書類は総務で貰えば良いんですか?」
「いや。それなら森さんが」

 松木のデスクから二つ向こうの島に目を遣ると、自分が呼ばれたことに気付いた彼女は立ち上がってこちらを見ていた。髪をお団子に括り、生真面目そうな女性だ。
 優が彼女の元に向かおうと一歩踏み出すと、後ろから松木に呼び止められた。

「今日の予定は?」
「午後から外回りで、直帰の予定ですけど」
「お迎えないなら今夜飲みに付き合わないか?」

 仕事以外の酒の席は、速攻お断りを入れるような部下の顔を覗き込んだ。
 美佳のお迎えの日に仕事にでもなろうものなら、ニコニコ笑いながら実は頗る機嫌が悪くなることを知っている。ただし仕事も修羅の如く速くなるが。

「…いいですよ。美佳、早番なんで」

 少し考えて、優は頷いた。
 保育所の朝は早いため、早番は明るいうちに帰ることが出来る。いくら美佳が心配でも早過ぎてお迎えには行けない。偶に時間が空けば、就業中でも構わずに行くが、可能なのであれば毎日でも行きたいくらいだ。

「本当は早く帰って、奥さんに会いたいところですけど」

 恩着せがましい物言いに、松木は苦笑を浮かべる。

「二十何年も一緒にいてよく飽きないもんだな」
「俺もそう思います」

 しれっと頷いた優は「では」と森の元に行ってしまう。
 飲みに誘って断らないくらいご機嫌な優は、この先いつまた拝めるか。優に完全に捕まった美佳を少々不憫に思いながら、松木は先程の資料を手に取った。
 優が森の元に行くと、待ち構えていた女子社員に囲まれた。

「安西くん結婚したって本当なのッ!?」

 チラリと声の主を見た。二年先輩の事務で何かと優に構ってくる。そこそこの美人だし、以前の優だったら美味しく頂いてるところだ。有望株を片っ端から召し上がっているらしいので、後腐れはなさそうだが、美佳に速攻バレるので危うきに近寄らずである。

「はい。念願叶ってやっと」

 満面の笑顔で答えると、女子社員の悲鳴が響き渡る。
 有望独身社員がまた一人減っただの、イケメンはすぐにお手つきになるだの、騒いでいる女子社員たちを無視し、森から結婚に纏わる諸々の手続き書類を受け取った。
 松木に働けと怒られて、席に戻っていく事務員たちを後目にしていると、

「念願って、奥さんとは付き合い長いの?」

 生真面目で興味なそうだった森に訊かれ、優もつい「二十三年です」と正直に答えてしまった。美佳のことは松木にしか話したことない。
 森は驚いた顔をし、

「もっと遊んでる人かと思ったけど、意外に一途?」
「高二の夏前まで遊びまくってましたよ」
「で、捕まっちゃたんだ?」
「真綿で首根っこ絞められてます。俺を生かすも殺すも彼女次第」

 嬉しそうに笑い周囲の目も気にせず惚気る優に、「真綿って」とクスクス笑う森。

「きっと魅力的なんでしょうね」
「そりゃあもお。閉じ込めておきたいくらいには」

 自分が振ったとは言え、いつも澄ました顔をしている後輩の甘ったるい笑顔に、森は砂糖を吐きそうになりつつ、言葉を絞り出す。

「しばらく女子社員たちが荒れるわね」

 フロアの荒れそうな女子たちに目を遣って森が肩を竦めると、関係ないと言わんばかりの優が眉をそびやかせた。



 朝方まで散々抱かれ、ギリギリまで眠りたかった美佳を叩き起こし、よくもまあここまでと言いたいくらい元気な優に引き摺られるように、役所に行った。
 開いてないよと言ってベッドから離れるのを嫌がった美佳は、婚姻届と出生届は二十四時間受理されると言い返され、眠い目を擦りながら渋々一緒に提出し、ふらふらしながら出勤する羽目になった。

 いざ子供たちのパワーを前にすれば眠気も吹っ飛んだが、お昼寝時間中の事務作業は、襲い来る睡魔と闘いながら、優に呪詛の言葉を吐いていた。

 ピルの事がバレたのは痛かった。
 いつまでも隠し通せることではなかったし、妊娠の兆候が見られなければ、そのうち検査と言い出しただろうから、潮時と言えばそうなのかも知れないが、ああ言う形でバレてしまったのは、後味が悪い。
 それでもっていきなり入籍だ。
 こんなはずじゃ無かったのに。

 ふっと意識が遠退き、机に撃沈しそうになったのを腕を突っ張て堪えた。ふと目に入る左手の薬指。
 優は大学在学中にデイトレードを始め、何だかんだと儲かっているらしい。十九歳の時に男除けと称した指輪を貰った。

 男除けと言っていた指輪も結構いいお値段だったと記憶しているが、翌年、これって一体おいくらなんですか!? と小心者の美佳がビビり捲った婚約指輪を贈られた。こちらはとてもじゃないが恐れ多くて、付けることが出来ない。
 後にも先にも結納の時に一度だけ嵌めたけど、心臓が止まりそうだった。

 なので今美佳の指に嵌まっているのは、優に究極の選択を迫られ、その中から選んだ最もシンプルで邪魔にならない指輪だ。
 次の休みには、結婚指輪を見に行くと優が言っていた気がする。

(だめだ…眠い)

 じっとデスクワークしていたら、絶対に寝る自信がある。
 コーヒーを入れに立ち上がった美佳に、後ろから声が掛かった。

「大分やつれてるわね」
「あ…明美せんせー」

 顔を見るや半泣きの声が漏れた。
 明美は今日も遅番で出勤が遅かったし、二人ともバタバタと忙しかったので、やっと真面に顔を合わせた。

「その様子だと、相変わらずの暴走ぶりだったみたいね」

 明美も幼少の優の暴走に翻弄された一人だ。
 気の毒そうに美佳を見ている。

「暴走も暴走。大暴走してくれて、早朝に婚姻届出して来ました」
「ぶッ! あ、ごめんなさいね」

 噴き出した飛沫が顔に飛んで来た。明美は慌ててハンカチをエプロンのポケットから取り出し、美佳の顔を拭く。

「優くんにも困ったものねえ」
「あたしも悪かったんですけど」

 項垂れて溜息混じりに言った。手の中のマグカップをぼんやり眺め、優の怒った顔を思い出して反省する。
 明美も自分の机からマグカップを取って来ると、職員室の一角にあるコーヒーサーバーまで美佳の背中を押して促した。

「怒らせた? デレさせた?」

 明美に問われ、一段と大きな溜息を吐く。

「怒らせました。優に黙ってピル飲んでたのバレちゃって、大激怒」

 白状した美佳に今度は明美が溜息を吐いた。

「そりゃ優くんじゃなくても怒るわ。妊娠したら結婚するって言われてたのに、陰で避妊されてるんだもの。今回ばかりは優くんに同情するわ」
「ですよねぇ」
「でも結納から三年でしょ。 良い頃合いだったんじゃないの?」

 二つのカップにコーヒーを注いで、一つを美佳に渡す。美佳は会釈して受け取った。

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