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1章 最初にして、唯一の
1-9 おかえり、ハジメ
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◇ ◇ ◇ ◇
コーヒーを口に含む。
ほろ苦い香りが鼻孔を抜けてゆく。
相変わらずハジメの淹れるコーヒーは美味かった。
「…………」
工場でさんざん泣いたはずなのに、気付けばまた涙がこぼれて、コーヒーカップの中にいくつも落ちた。
「新しくお淹れしましょうか?」
ハジメに尋ねられ、俺は首を振る。
「いや、これでいい」
そして思い出す。
以前の俺なら、少しコーヒーが冷めただけでも淹れ直せと言っていた。
自分が放置したにもかかわらず、だ。
これからは出されたコーヒーを必ず飲み干そうと心に誓う。
「ところで、ご主人様」
「ん?」
ハジメはいつになく真剣な顔つきでこちらを見ている。
やはり今までの俺の態度について何か言いたいことがあるに違いない。
それなのに、奴はとんでもないことを口にした。
「私が家を空けているあいだ、何か悪い物をお召し上がりになりましたか? 食生活にはお気を付けくださいと、いつも申しておりますのに……。病院で診ていただいたほうがよろしいのでは」
これには思わず脱力した。
「あのなあ。そんなわけないだろ」
「そうでしたか。ああ、それとも、二週間も私に会えなくて寂しくなってしまいましたか?」
「……そうだよ」
小さな声で、認めるように呟く。
するとハジメは俺の隣へきて、床の上に片膝をつき、頭を垂れた。
「長らく留守にして申し訳ございませんでした。それに修理費用も当初の予定よりかなり高くなってしまったと存じております。大変申し訳ございません」
俺は慌てて立ち上がり、ハジメの腕をつかんだ。
「待て待て待て! お前のせいじゃないんだから、そういうことはしなくていい!」
たしかにハジメの言う通り、費用は最初の予定よりも三、四万ほど高くついた。
貯金を切り崩し、明日からもっと仕事を増やさなくてはならない。
それでも、払わないという選択肢はなかった。
無理にでも立たせようとすると、ハジメはにこりと笑った。
「では、お互いさまということですね」
「……いや、俺は!」
こんなことで許されていいはずがない。
俺はぬるい謝罪ひとつで現状をどうにかしようと思っている。あまつさえ、自分がクズだと自覚しているくせに、この期に及んでまだハジメを傍に置いておきたいだなと甘ったれたことを考えている。そんな自分自身に嫌気がさす。
それなのに、ハジメは言う。
「どうかいつものご主人様でいてくださいませ。あなたがそんな調子では、私もこの家に帰ってきた気がしませんので」
これには降参するしかなかった。
「……あーあーあー、わかった! わかったよ!」
くそっ。してやられた。
そう言われたら納得するしかないじゃないか。
「ところで、ご主人様」
「な、なんだよ……」
「私に言い忘れていることはございませんか?」
ねだるような甘い声。
期待を込めたまなざし。
彼がなにを求めているのか気付いてしまった。
「そ、それは……言わなきゃダメなのか?」
「ええ。もちろんでございます」
「う……、わ、わかったよ」
ハジメの黒い瞳にじっと見つめられ、たじたじになる。
おそらく奴はこの状況を楽しんでいるんだろう。
それならば……主人としては、要望を叶えてやらなくてはならない。
「……お、おかえり、ハジメ」
緊張しつつそう口にすると、彼はこれ以上ないくらい顔を輝かせた。
「はい。ご主人様」
その笑顔を合図に、ゆっくりと日常が戻ってくる気配がした。
コーヒーを口に含む。
ほろ苦い香りが鼻孔を抜けてゆく。
相変わらずハジメの淹れるコーヒーは美味かった。
「…………」
工場でさんざん泣いたはずなのに、気付けばまた涙がこぼれて、コーヒーカップの中にいくつも落ちた。
「新しくお淹れしましょうか?」
ハジメに尋ねられ、俺は首を振る。
「いや、これでいい」
そして思い出す。
以前の俺なら、少しコーヒーが冷めただけでも淹れ直せと言っていた。
自分が放置したにもかかわらず、だ。
これからは出されたコーヒーを必ず飲み干そうと心に誓う。
「ところで、ご主人様」
「ん?」
ハジメはいつになく真剣な顔つきでこちらを見ている。
やはり今までの俺の態度について何か言いたいことがあるに違いない。
それなのに、奴はとんでもないことを口にした。
「私が家を空けているあいだ、何か悪い物をお召し上がりになりましたか? 食生活にはお気を付けくださいと、いつも申しておりますのに……。病院で診ていただいたほうがよろしいのでは」
これには思わず脱力した。
「あのなあ。そんなわけないだろ」
「そうでしたか。ああ、それとも、二週間も私に会えなくて寂しくなってしまいましたか?」
「……そうだよ」
小さな声で、認めるように呟く。
するとハジメは俺の隣へきて、床の上に片膝をつき、頭を垂れた。
「長らく留守にして申し訳ございませんでした。それに修理費用も当初の予定よりかなり高くなってしまったと存じております。大変申し訳ございません」
俺は慌てて立ち上がり、ハジメの腕をつかんだ。
「待て待て待て! お前のせいじゃないんだから、そういうことはしなくていい!」
たしかにハジメの言う通り、費用は最初の予定よりも三、四万ほど高くついた。
貯金を切り崩し、明日からもっと仕事を増やさなくてはならない。
それでも、払わないという選択肢はなかった。
無理にでも立たせようとすると、ハジメはにこりと笑った。
「では、お互いさまということですね」
「……いや、俺は!」
こんなことで許されていいはずがない。
俺はぬるい謝罪ひとつで現状をどうにかしようと思っている。あまつさえ、自分がクズだと自覚しているくせに、この期に及んでまだハジメを傍に置いておきたいだなと甘ったれたことを考えている。そんな自分自身に嫌気がさす。
それなのに、ハジメは言う。
「どうかいつものご主人様でいてくださいませ。あなたがそんな調子では、私もこの家に帰ってきた気がしませんので」
これには降参するしかなかった。
「……あーあーあー、わかった! わかったよ!」
くそっ。してやられた。
そう言われたら納得するしかないじゃないか。
「ところで、ご主人様」
「な、なんだよ……」
「私に言い忘れていることはございませんか?」
ねだるような甘い声。
期待を込めたまなざし。
彼がなにを求めているのか気付いてしまった。
「そ、それは……言わなきゃダメなのか?」
「ええ。もちろんでございます」
「う……、わ、わかったよ」
ハジメの黒い瞳にじっと見つめられ、たじたじになる。
おそらく奴はこの状況を楽しんでいるんだろう。
それならば……主人としては、要望を叶えてやらなくてはならない。
「……お、おかえり、ハジメ」
緊張しつつそう口にすると、彼はこれ以上ないくらい顔を輝かせた。
「はい。ご主人様」
その笑顔を合図に、ゆっくりと日常が戻ってくる気配がした。
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