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二〇一三年 八月
それからの時人の生活は、また葵と出会う前の――、いや、それよりも酷く濃いグレーの世界へと戻ってしまった。
味気のない食事、不快な臭い、音。
夏休み中の単調な日々。
毎日が砂漠をさまよっているような日々だった。
時人の両親もあえて何も言う事もなく、また息子がしばらく引きこもった後にフラリと出掛けては、忘れた時間に戻って来るという事をよしとしていた。
身に付いた護身術などもあるので、何者かに絡まれる事となっても大丈夫だろうという、『息子』だから野放しにできる理由もある。
それでも宇佐美家で雇っているボディガードに、それとなく時人の毎日の行動を見張らせ、いざという時の対応を頼んでいるという気配りは見せていた。
京都から戻って来た時人は二週間ほど部屋に引きこもり、それからは体を動かす事で事件の事を考えるのを防ぐように、ただただ外へ出ていた。
自宅の周りを歩き回ったり、代々木公園を歩き回ったり、皇居周囲を歩き回ったり、時に山手線に乗っていつまでもグルグルと回り続ける事もある。
全て、その風景の中に葵を求めての事だった。
『あれ』はすべて嘘で、こうやって歩き回っていれば人込みの中で彼女に偶然会えるかもしれない。
公園という公園を歩いていたら、またあの姉妹を連れた葵に出会いの時からやり直せるかもしれない。
そんなガラスに描かれたような風景を求めて、時人はフワフワとした意識のまま動き続けていた。
スマホには通知が沢山溜まり、そしてそれらに返事をする事は一度もなく、時人の夏休みは終わってしまう。
大学が始まって帰省していた友人達が「久しぶり」という声を掛け合うなか、時人はモーセが海を開いたように人を避けさせて歩く。
極度の寝不足と不摂生とで、元々痩せ型の時人は棒のような体形になり、いい所の坊ちゃんという優男風の顔は、凄味を増した美形となっていた。
ごく親しい友人以外は声を掛ける事すらはばかられ、富豪の息子というポジションの彼に執心していた女性達も、遠巻きにヒソヒソと言うだけだ。
そうやって「触らぬ神に祟りなし」方式で、時人は過ごしやすい孤独な環境で大学生活を送った。
**
実来の話では葵が住んでいたマンションの部屋は、現場検証など諸々の事が終わった後に、業者が来てピアノなどの大きな物を運び出し、葵の遺品も実来が夫と実家からの手伝いの力を借りて、綺麗に整理したそうだ。
「葵の遺品、時人さんが嫌やなきゃ受け取ってほしい物があるんですけど」
電話の向こうで実来がそう言い、時人は「いずれご連絡します」と返事をしてから、逃げるように実来の連絡を避けていた。
葵の遺品など手にしてしまったら、現実を見ざるを得ない。
葵に似た姉を見るのも辛い。
葵を慕っていたあの無邪気な姉妹に会うのも辛い。
そんな、ともすれば情けない理由で、時人は全ての事から逃げ続けていた。
一度だけ後藤が入院している病院の前まで行った事がある。
どれだけ動けなく、喋れず、男として機能しない後藤の枕元に立ってやろうかと思った。恐らくそれは葵の遺族全員が思っている事だろう。
喋る事も今の所筆談もできず、ただチューブを入れられて垂れ流しにしているだけの存在に、恨みつらみを言って自分の中の邪悪な欲望を晴らしたい。
だが自分よりも哀れな存在にストレスをぶつけるようなその姿は、葵が好きになってくれた男のする行動ではないのだろう。
そういう役――というよりは、後藤に憐れみを与える親族が側にいる事によって、あの男が少しでも心に反省や悔恨、恥や罪悪を覚えれば、とも思う。
もっとも、あれだけの目に遭わされて後藤が今でも正気でいれば、の話だが。
いずれ後藤が回復をして筆談ができるようになったり、文字通り舌足らずになりながらも話せるようになって、自分をこんな目に遭わせたのが時人だと警察に訴える事があったとしても、それはそれで覚悟はできている。
警視総監からの命令は絶対だとは思っているが、自分がした事は立派な傷害罪だと自覚している。
捕まるなら捕まるでそれでも構わない。
自棄になってしまった時人には、葵のいない世界で自分が犯罪者になろうが、それはどうでもいい事だった。
心の中では葵が愛した理想の男の姿でありたいと思いながら、現実の時人は目元にクマをつくった荒んだ雰囲気の男になっていた。
**
そんな風に時人が現実味のない感覚で過ごし、『出会いの日』の週末のように公園のベンチでぼんやりとしていた時だった。
「お兄ちゃん!」
幼い声に時人がビクッとして目を向けると、あの姉妹がこちらへ駆けてくる所だ。
後ろからは葵がゆっくりとした足取りで歩いている。
「あお……」
咄嗟に腰を浮かし掛け、彼女が被っている白い帽子の下の髪がロングヘアではなくミディアムヘアなのに気付き、それから『その人』が葵ではなく実来である事に気付いた。
ザッと心に闇が走って時人は咄嗟に腰を上げて逃げようとしたが、それでもあからさまに逃げ出してしまってはあの姉妹を傷付けてしまうと思い、足が一歩を躊躇う。
そんな迷いがあるうちに、一華が先に時人の元へ辿り着いて、ぶつかるように抱き付いて来た。
「お兄ちゃん! 久し振り!」
遅れて追いついた沙夜がハァハァと息を乱し、額に前髪を張り付けてニカッと笑う。
――ああ、逃げられない。
この『光』の属性の家族からは逃げられない。
「お兄ちゃん、そんな所にいたら『にっしゃびょう』になるよ」
そう言って一華が片手に持っていたスポーツドリンクのペットボトルを差し出し、「飲んで!」と白い歯を見せる。
「……ありがとう」
親切を見せてくれた小さな子の好意を無下にする事もできず、時人はキャップを開けてほんの一口だけそれを口に含んだ。
ぬるい砂糖水の味がする。
「美味しかったよ、どうもありがとう。いっちゃん」
「すいぶんほきゅうできた?」
「うん、できたよ。元気になった」
時人が少し笑ってみせると、幼い姉妹は顔を見合わせてニカーッと白い歯を見せた。
「時人さん、お久し振りです」
そこに実来の声がし、時人はやはり逃げられないという気持ちと共に、ある種の覚悟を決めて顔を巡らせる。
「…………」
やはり、そこに葵が立っているような気がした。
白い帽子を被って、葵によく似た顔立ちの美人がペコリと頭を下げる。
『あの時』葵は帽子を被ってはいなかったものの、今の実来と同じように子供に使う何やかやの道具が入った大きなリュックを背負っていた。
今、目の前の実来はそれと同じものを背にしている。
恐らく『あの時』葵はこれを実来から渡されて、姉妹を連れて出掛けていたのだろう。
「……お久し振りです」
最初の一音の「お」がかすれてしまった。
立ち上がって痩躯を折り曲げるようにお辞儀をした時人を見て、実来は自分も会釈をしてから心配そうに時人を見る。
「時人さん、ちゃんと寝て食べてはりますか?」
「…………」
やめて下さい。
彼女と似た顔で、彼女と同じ京都弁で、
――俺を心配しないで下さい。
ゆら、と凍っていた時人の感情が揺れて、それが実来にも伝わったのだろうか。
実来は時人の隣に座って正面から顔が見えないようにし、熱を持ったベンチの熱さに「あっつ」と思わず声を上げて笑ってから、ひとつ呼吸をした。
「……お元気でしたか?」
沈黙を恐れて時人がそう切り出し、一華と沙夜が目の前の水場に走って行くのを見守りながら、実来がそっと頷く。
「初七日を無事に終えてこっちに戻ってきました。次の二十七日に合わせてまた京都へ行って、その次に四十九日。父が四十九日には時人さんにぜひ来はって欲しいと言ってました」
「……はい」
言われずとも、そっと京都にだけは赴くつもりだったが、そう招待を受けては彼女の家族のに会って、またあの身が引きちぎられるような思いをしなければならない。
けれど、時人以上に葵の家族は辛いはずだ。
(俺はなんて独りよがりな悲しみ方をしているんだろう)
「一華ちゃんと沙夜ちゃんは……どうなんですか?」
目の前で知らない子供たちと楽しそうに遊んでいる二人を見て、子供には初対面というものはあってないようなものなんだろうな、と思う。
「あの子達は……、やっぱり歳が歳でしょう? 葵が遠くへ行ってしまったというぐらいしか認識していなくて、時々『お土産買ってくるかな?』とか言っているんです」
仕方がない、という風に少し笑う実来はやはり母だ。
葵の姉という立場の前に、二人の小さな子の母なのだ。
時人にはそんな大人の振る舞いはできない。
心が感じるままに葵を愛して、初めての恋に落ちて何もかもが翻弄され、嵐の中のひと葉のようにもみくちゃにされてから――、急激にその嵐は止んで、時人は独りぼっちになってしまった。
取り残された葉は舞い上げる風もなく、ただ地の上でじっとしたまま――、冬を待つのだ。
実来のように誰かのために生きなければならないという意思が時人にはない分、今の時人は今まで以上に停滞した生き方をしている。
それを改めなければ、と心のどこかで思っているものの、時人の中の九割の気持ちは投げやりになっているのが事実だ。
だから、自分と同じく葵の死を目の前にしても、こうやって前向きでいられる実来が眩しい。
「沙夜ちゃんは四つですし……、大きくなったら葵さんの事は忘れてしまうんでしょうか?」
久しぶりに自分の口から「葵さん」という声が出て、それに時人自身が傷付いた。
少し前まであんなに愛を込めて呼んでいた名前が――、今は死者の名前になってしまっている。
「どうでしょう。沙夜ぐらいの年齢でも、大人になってぼんやりとした思い出になっている事は多いです。時人さんも保育園の頃の思い出、覚えてはらないんですか?」
「そうですね……、ぼんやりとあるかもしれません」
「ほんまに時人さんに会えてよかった。ここんとこ、ずっと探してたんです。葵が時人さんと会ったっていう公園の辺りを、あの子達と休日になったら歩いてて。葵から時人さんの事は教えてもらってても、時人さんがどこに住んではるのかとかは知らへんくて」
「……俺を探してたんですか?」
夏の風でも吹くのと吹かないのとでは違う。
広い公園を吹き抜けるような風が吹いて、時人と実来の髪を揺らし、木々の葉がシャラシャラと音をたててゆく。
「葵の遺品、渡したいて思ってまして」
ドクンッ
その言葉に時人の心臓が嫌な音をたて、ドクドクと不穏な鼓動が胸の奥で暴れまわる。
実来は少し睫毛を伏せ、ショルダーバッグの中に手を忍ばせ、何やら探しているようだった。
「あの、俺……」
耐え切れずに立とうとした時人の腕を、実来が強い力で引いた。
「……!」
ぎくりとして彼女を見下ろすと、実来は葵に似た強い目で時人を見上げている。
「……逃げんといて下さい」
何かを訴える時のその黒い目は、真実を見付けようとする葵のそれとそっくりだ。
「俺は……」
言葉を選ぼうとしてそれが見つからず、視線をさまよわせる時人の手を、実来は更にぐっと掴む。
「どうか、葵の死を、受け入れてください」
一言一言を区切るように実来が言い、時人は口元を震わせながら力なくベンチに座り、肺腑から絞り出すような重たい溜息をついた。
それからの時人の生活は、また葵と出会う前の――、いや、それよりも酷く濃いグレーの世界へと戻ってしまった。
味気のない食事、不快な臭い、音。
夏休み中の単調な日々。
毎日が砂漠をさまよっているような日々だった。
時人の両親もあえて何も言う事もなく、また息子がしばらく引きこもった後にフラリと出掛けては、忘れた時間に戻って来るという事をよしとしていた。
身に付いた護身術などもあるので、何者かに絡まれる事となっても大丈夫だろうという、『息子』だから野放しにできる理由もある。
それでも宇佐美家で雇っているボディガードに、それとなく時人の毎日の行動を見張らせ、いざという時の対応を頼んでいるという気配りは見せていた。
京都から戻って来た時人は二週間ほど部屋に引きこもり、それからは体を動かす事で事件の事を考えるのを防ぐように、ただただ外へ出ていた。
自宅の周りを歩き回ったり、代々木公園を歩き回ったり、皇居周囲を歩き回ったり、時に山手線に乗っていつまでもグルグルと回り続ける事もある。
全て、その風景の中に葵を求めての事だった。
『あれ』はすべて嘘で、こうやって歩き回っていれば人込みの中で彼女に偶然会えるかもしれない。
公園という公園を歩いていたら、またあの姉妹を連れた葵に出会いの時からやり直せるかもしれない。
そんなガラスに描かれたような風景を求めて、時人はフワフワとした意識のまま動き続けていた。
スマホには通知が沢山溜まり、そしてそれらに返事をする事は一度もなく、時人の夏休みは終わってしまう。
大学が始まって帰省していた友人達が「久しぶり」という声を掛け合うなか、時人はモーセが海を開いたように人を避けさせて歩く。
極度の寝不足と不摂生とで、元々痩せ型の時人は棒のような体形になり、いい所の坊ちゃんという優男風の顔は、凄味を増した美形となっていた。
ごく親しい友人以外は声を掛ける事すらはばかられ、富豪の息子というポジションの彼に執心していた女性達も、遠巻きにヒソヒソと言うだけだ。
そうやって「触らぬ神に祟りなし」方式で、時人は過ごしやすい孤独な環境で大学生活を送った。
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実来の話では葵が住んでいたマンションの部屋は、現場検証など諸々の事が終わった後に、業者が来てピアノなどの大きな物を運び出し、葵の遺品も実来が夫と実家からの手伝いの力を借りて、綺麗に整理したそうだ。
「葵の遺品、時人さんが嫌やなきゃ受け取ってほしい物があるんですけど」
電話の向こうで実来がそう言い、時人は「いずれご連絡します」と返事をしてから、逃げるように実来の連絡を避けていた。
葵の遺品など手にしてしまったら、現実を見ざるを得ない。
葵に似た姉を見るのも辛い。
葵を慕っていたあの無邪気な姉妹に会うのも辛い。
そんな、ともすれば情けない理由で、時人は全ての事から逃げ続けていた。
一度だけ後藤が入院している病院の前まで行った事がある。
どれだけ動けなく、喋れず、男として機能しない後藤の枕元に立ってやろうかと思った。恐らくそれは葵の遺族全員が思っている事だろう。
喋る事も今の所筆談もできず、ただチューブを入れられて垂れ流しにしているだけの存在に、恨みつらみを言って自分の中の邪悪な欲望を晴らしたい。
だが自分よりも哀れな存在にストレスをぶつけるようなその姿は、葵が好きになってくれた男のする行動ではないのだろう。
そういう役――というよりは、後藤に憐れみを与える親族が側にいる事によって、あの男が少しでも心に反省や悔恨、恥や罪悪を覚えれば、とも思う。
もっとも、あれだけの目に遭わされて後藤が今でも正気でいれば、の話だが。
いずれ後藤が回復をして筆談ができるようになったり、文字通り舌足らずになりながらも話せるようになって、自分をこんな目に遭わせたのが時人だと警察に訴える事があったとしても、それはそれで覚悟はできている。
警視総監からの命令は絶対だとは思っているが、自分がした事は立派な傷害罪だと自覚している。
捕まるなら捕まるでそれでも構わない。
自棄になってしまった時人には、葵のいない世界で自分が犯罪者になろうが、それはどうでもいい事だった。
心の中では葵が愛した理想の男の姿でありたいと思いながら、現実の時人は目元にクマをつくった荒んだ雰囲気の男になっていた。
**
そんな風に時人が現実味のない感覚で過ごし、『出会いの日』の週末のように公園のベンチでぼんやりとしていた時だった。
「お兄ちゃん!」
幼い声に時人がビクッとして目を向けると、あの姉妹がこちらへ駆けてくる所だ。
後ろからは葵がゆっくりとした足取りで歩いている。
「あお……」
咄嗟に腰を浮かし掛け、彼女が被っている白い帽子の下の髪がロングヘアではなくミディアムヘアなのに気付き、それから『その人』が葵ではなく実来である事に気付いた。
ザッと心に闇が走って時人は咄嗟に腰を上げて逃げようとしたが、それでもあからさまに逃げ出してしまってはあの姉妹を傷付けてしまうと思い、足が一歩を躊躇う。
そんな迷いがあるうちに、一華が先に時人の元へ辿り着いて、ぶつかるように抱き付いて来た。
「お兄ちゃん! 久し振り!」
遅れて追いついた沙夜がハァハァと息を乱し、額に前髪を張り付けてニカッと笑う。
――ああ、逃げられない。
この『光』の属性の家族からは逃げられない。
「お兄ちゃん、そんな所にいたら『にっしゃびょう』になるよ」
そう言って一華が片手に持っていたスポーツドリンクのペットボトルを差し出し、「飲んで!」と白い歯を見せる。
「……ありがとう」
親切を見せてくれた小さな子の好意を無下にする事もできず、時人はキャップを開けてほんの一口だけそれを口に含んだ。
ぬるい砂糖水の味がする。
「美味しかったよ、どうもありがとう。いっちゃん」
「すいぶんほきゅうできた?」
「うん、できたよ。元気になった」
時人が少し笑ってみせると、幼い姉妹は顔を見合わせてニカーッと白い歯を見せた。
「時人さん、お久し振りです」
そこに実来の声がし、時人はやはり逃げられないという気持ちと共に、ある種の覚悟を決めて顔を巡らせる。
「…………」
やはり、そこに葵が立っているような気がした。
白い帽子を被って、葵によく似た顔立ちの美人がペコリと頭を下げる。
『あの時』葵は帽子を被ってはいなかったものの、今の実来と同じように子供に使う何やかやの道具が入った大きなリュックを背負っていた。
今、目の前の実来はそれと同じものを背にしている。
恐らく『あの時』葵はこれを実来から渡されて、姉妹を連れて出掛けていたのだろう。
「……お久し振りです」
最初の一音の「お」がかすれてしまった。
立ち上がって痩躯を折り曲げるようにお辞儀をした時人を見て、実来は自分も会釈をしてから心配そうに時人を見る。
「時人さん、ちゃんと寝て食べてはりますか?」
「…………」
やめて下さい。
彼女と似た顔で、彼女と同じ京都弁で、
――俺を心配しないで下さい。
ゆら、と凍っていた時人の感情が揺れて、それが実来にも伝わったのだろうか。
実来は時人の隣に座って正面から顔が見えないようにし、熱を持ったベンチの熱さに「あっつ」と思わず声を上げて笑ってから、ひとつ呼吸をした。
「……お元気でしたか?」
沈黙を恐れて時人がそう切り出し、一華と沙夜が目の前の水場に走って行くのを見守りながら、実来がそっと頷く。
「初七日を無事に終えてこっちに戻ってきました。次の二十七日に合わせてまた京都へ行って、その次に四十九日。父が四十九日には時人さんにぜひ来はって欲しいと言ってました」
「……はい」
言われずとも、そっと京都にだけは赴くつもりだったが、そう招待を受けては彼女の家族のに会って、またあの身が引きちぎられるような思いをしなければならない。
けれど、時人以上に葵の家族は辛いはずだ。
(俺はなんて独りよがりな悲しみ方をしているんだろう)
「一華ちゃんと沙夜ちゃんは……どうなんですか?」
目の前で知らない子供たちと楽しそうに遊んでいる二人を見て、子供には初対面というものはあってないようなものなんだろうな、と思う。
「あの子達は……、やっぱり歳が歳でしょう? 葵が遠くへ行ってしまったというぐらいしか認識していなくて、時々『お土産買ってくるかな?』とか言っているんです」
仕方がない、という風に少し笑う実来はやはり母だ。
葵の姉という立場の前に、二人の小さな子の母なのだ。
時人にはそんな大人の振る舞いはできない。
心が感じるままに葵を愛して、初めての恋に落ちて何もかもが翻弄され、嵐の中のひと葉のようにもみくちゃにされてから――、急激にその嵐は止んで、時人は独りぼっちになってしまった。
取り残された葉は舞い上げる風もなく、ただ地の上でじっとしたまま――、冬を待つのだ。
実来のように誰かのために生きなければならないという意思が時人にはない分、今の時人は今まで以上に停滞した生き方をしている。
それを改めなければ、と心のどこかで思っているものの、時人の中の九割の気持ちは投げやりになっているのが事実だ。
だから、自分と同じく葵の死を目の前にしても、こうやって前向きでいられる実来が眩しい。
「沙夜ちゃんは四つですし……、大きくなったら葵さんの事は忘れてしまうんでしょうか?」
久しぶりに自分の口から「葵さん」という声が出て、それに時人自身が傷付いた。
少し前まであんなに愛を込めて呼んでいた名前が――、今は死者の名前になってしまっている。
「どうでしょう。沙夜ぐらいの年齢でも、大人になってぼんやりとした思い出になっている事は多いです。時人さんも保育園の頃の思い出、覚えてはらないんですか?」
「そうですね……、ぼんやりとあるかもしれません」
「ほんまに時人さんに会えてよかった。ここんとこ、ずっと探してたんです。葵が時人さんと会ったっていう公園の辺りを、あの子達と休日になったら歩いてて。葵から時人さんの事は教えてもらってても、時人さんがどこに住んではるのかとかは知らへんくて」
「……俺を探してたんですか?」
夏の風でも吹くのと吹かないのとでは違う。
広い公園を吹き抜けるような風が吹いて、時人と実来の髪を揺らし、木々の葉がシャラシャラと音をたててゆく。
「葵の遺品、渡したいて思ってまして」
ドクンッ
その言葉に時人の心臓が嫌な音をたて、ドクドクと不穏な鼓動が胸の奥で暴れまわる。
実来は少し睫毛を伏せ、ショルダーバッグの中に手を忍ばせ、何やら探しているようだった。
「あの、俺……」
耐え切れずに立とうとした時人の腕を、実来が強い力で引いた。
「……!」
ぎくりとして彼女を見下ろすと、実来は葵に似た強い目で時人を見上げている。
「……逃げんといて下さい」
何かを訴える時のその黒い目は、真実を見付けようとする葵のそれとそっくりだ。
「俺は……」
言葉を選ぼうとしてそれが見つからず、視線をさまよわせる時人の手を、実来は更にぐっと掴む。
「どうか、葵の死を、受け入れてください」
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