輪廻の果てに咲く桜

臣桜

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過去6-3

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「世界が……?」
「……いえ」
「世界が優しくなってくれたように感じました?」
「えっ……?」
 思っていた事を言われ目を瞠ると、目の前で実来がまろく微笑んだ。
「私もね、そういう風に思った事があるんです」
 言いながら立ち上がり、また時人の隣に座ると、水場で飽きずに遊んでいる娘達を見守りながら、薄手のカーディガンで隠れている左の腕を出す。
「私もね、葵と同じくピアノをやってたんです。でもね、事故があってこんな風に大きな傷ができてしまって……」
 指先で撫でる傷は、腕の内側に大きくできてしまっていて、筋肉の動きなどに影響がありそうと言えばありそうだ。
「手術があってね、傷は塞がったけど私の心は折れてしまって、音楽大学への受験も諦めてしもたんです。……全部、諦めてもた私が悪いんですけどね。
 それから高校を卒業して、私、京都でえらいずるけてたんです。なぁんもしんでブラブラほっつき歩いて。私に気ぃ遣いながらもレッスンする葵の音がしんどくて……、それから東京に逃げたんです」
 実来の話は意外だった。
 イメージ的に京都でお嬢様暮らしをして、学業などで上京して出会いがあって幸せな結婚をし、家庭を築いたという勝手なイメージがあったからだ。
「東京で普通に暮らし始めてアルバイトから始めてね、それまで箱入りやったさかい色々大変やったんやけど……、お陰でええご縁があって、あの子たちも生まれて」
 実来の優しい視線の先には、他の子供達に交じって無邪気に遊んでいる一華と沙夜がいる。
 何者にも代えがたい宝物なのだろう。
 その目はこの上ない神聖な母性そのもので、葵に似たその清らかな眼差しに耐えられず、時人はそっと目を伏せた。
「結婚をして子供にも恵まれた時にね、納得したんです。私はピアノが大好きで気張ってても、結局はこういうご縁になる運命やったんかな? て。確かに今でもピアノは大事やし、あの子達にも習わせてますけど、私は私でピアニストになれへんくても『今』幸せなんや、って」
 しあわせ。
 それは今の時人に一番遠い言葉だ。
「そう思えた時に、世界がえらい優しく感じたんです。視界が開けたっていうか」
 黙って実来の話を聞く時人の気持ちを、彼女はすぐに察して補足する。
「時人さんが考えてはる事は分かっているつもりです。葵はいぃひんし、時人さんが想像した葵との家庭も……もぉかなん夢です」
 実来の言葉は、優しく、容赦がない。
「けど幸せって、なりたいと思ってる時に与えられるもんやないんです。そういう時は何をしても自分は幸せやないって、自分が自分に呪いを掛けてまいます。
 そうやなくて、日々をちゃんと大切に生きてて、ふとした時に気が付くもんなんです。今、自分は幸せなんやな、て」
「そうでしょうか」
 実来の言葉に反論したい訳ではない。
 けれど、今の時人に残っているものは幸せ『だった』セピア色の思い出しかない。
「例えばお天気がええなぁ、とか。ご飯を美味しく感じるとか、こうやって公園にいて水の匂いがするとか、目の前の子供たちが可愛いなぁ、とか。そんな些細な事を愛しく思えるようになれば、……きっと時人さんも幸せに気付けます」
「……ありがとうございます」
 正直、実来の話はまだ時人に完全に理解はできていない。
 けれど先ほど、思い出したように夏の暑さに気付いたのは確かだ。
 それまでこの陽炎ができてしまうほどの暑さにも気付かなかったのかと思うと不思議だが、ほんの一週間前よりかは、自分は前向きになれているのだろうか。
「今は分からへんでもええんです。その指輪を見て葵を愛しんで、そしてその気持ちを抱えて前に進んでください。葵を思い出して、泣いて。そうやって傷付きながら前に進んでください」

 酷い事を言う人だ。
 光の中で微笑みながら、自分も傷付いているのに進もうと言っている。
 ――強い人だな。

 感傷的になった時人の頬に涙が一粒流れ、手の中の指輪を見つめる。
「俺は……、前に進めるでしょうか」
「進めます。絶望に負けて死を選ばず、毎日生きる事を選択した時点で、時人さんはちゃんと前に進んでいます」
「……っ」
 時人が息を吸い込み、唇を震わせながら俯いてしまう。
 その頭を、実来が優しく撫でていた。

 それは暑い八月。
 葵がいなくなった八月。
 彼女がいなくなったあの夏で、――時人はまた歩き始めようとしていた。

 帰り道、時人は『あの日』葵と姉妹と一緒に入った、百貨店のレストランに足を向けた。
 いつもの自分なら入る事を避けていた、人の気配と声と臭いが雑多としている場所に入り、『あの日』彼女が頼んでいた海老と茄子のトマトクリームのスパゲティを頼んだ。
 座る席は「待ちますから」と言って、『あの日』と同じ席に座らせてもらった。
『あの日』姉妹は隣同士に座って、自分と葵も隣同士に座った。
 騒がしいなと思っていた姉妹の声は今目の前にはなく、『あの日』プンプンと香っていた葵の香りも今はない。
 手をそっと隣のシートに伸ばしても、そこに葵はいない。
 その代わり、『レストランの匂い』がした。
 場を気遣った人々の押さえた声や、客に丁寧な対応をする店員の声や気配。厨房の方から聞こえてくる食器の音や調理音。店内に掛かる適度な音量のBGM。
 なぜかそれらは時人に不快を与えなかった。
 むしろ、『食べ物』の匂いを嗅いで時人は『空腹』を感じていた。
 目の前に運ばれたスパゲティは、茄子とエビがトマト色に染まったクリームに絡まった麺の上に載せられ、「美味しそう」と感じた。
 いつもなら食欲すら沸かず「気持ち悪い」とすら思っていたそれを、そっとフォークで巻いて口に入れた。
「…………」
 美味しい。
 ――とまでは感じないが、ちゃんと食べられる。
 それは時人が自分の変化を、明確に自覚した瞬間だった。
 今までの葵の影にしがみついていた自分を、どこかに置いてきてしまった。
 そんな感情があった。
「葵さん……、こういう味が好きだったのか」
 また一口スパゲティを口に入れてよく噛み、味わう。
 もう彼女が口にできない好物を食べて、時人は一人静かに涙を流した。
 自分が変化を見せてしまったのをいやでも自覚し、それは自分が葵の死を受け入れてしまった事だと感じる。
 ボックス席にたった一人で座り、時人は黙々とスパゲティを食べながら、過去の自分と葵への妄執に別れを感じていた。
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