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二〇三三年 四月
夢を見た。
いつもの苦しい『あの日』の夢ではなく、とても幸せな夢。
一点の曇りもない笑顔を浮かべた葵がいて、「会いたかったです」と時人に抱き着いてきた。
「葵さん、どこに行っていたんですか?」
「ふふ、ちょっとお休みしてました。のーんびりバカンスしてたんです」
「ずるいな。……俺も連れて行って欲しかったのに」
「あきまへん。特別な所でしたさかい、時人さんが一緒やあきまへんのです」
柔らかく笑う葵はいつもの通りだ。
夢の中だからか、時人は独りにされて寂しかったとか、葵が死んで悲しかったとかいう感情からは解き放たれていた。
ただあるのは、そこに葵がいるという安心感。
心にぽっかりと空いた穴が満たされて、この上もなくリラックスしていた。
「ゆっくり休めましたか?」
「ええ、とっても」
「これから……どうするんですか?」
「時人さんに会いにいきます」
「え?」
きょとんとする時人の目の前で、葵が悪戯っぽく笑ってみせる。
「私、これから時人さんに会いに行きます。……生まれ変わって、また時人さんを愛しに行きます」
「うまれ……かわって……」
「私のかたちとぴったり合う人を見つけたんです」
「どこで? 誰ですか?」
「……見つけたのは、今やない別の時間です。私、未来のあなたに会うて来たんです」
「生まれ変わったその人は……葵さんになるんですか? 葵さんがその人に……?」
そろりと尋ねた時人に、葵がフワッと微笑んだ。
「両方です。私はあの子で、あの子は私。溶け合って、ひとつになるんです」
「ひとつに……」
「そして、私たちは巡り逢って……また恋をして、……きっと結ばれます」
歌うような葵の声。
その黒い瞳の中にはいつもの真実があり、確固たる未来を見据えていた。
ああ、この目だ。
この目に俺は恋をして――、いつも導かれた。
信じよう。
彼女を信じて俺はまたいつか彼女に会って――、幸せになるんだ。
彼女を幸せにするんだ。
温かな葵の想いが時人の心に染み渡り、それが彼の心を浄化させた。
時人が微笑い、それを見て葵も安心したように微笑う。
「待っててね、時人さん」
黒い目がふわりと細められて――、彼を癒してくれる優しい手が伸びて時人の唇に触れた。
愛しそうにその唇を指先で確かめてから、葵がそっと唇を重ねてくる。
柔らかな唇の感触がするかと思ったが――、
それは、優しい光になって時人を包み込み――大気に消えていった。
**
ハッとなって目を覚ますと、そこは自分のマンションの寝室だった。
ここは現実。
葵が死んでしまった世界だ。
ゆっくりと体を起こしてベッドサイドの水を飲もうとして、写真立ての中の葵を見る。
「……教えに来てくれたんですか? あなたがこれから天から降りてくるって」
今いるのは冷たい現実のはずなのに、時人の心は実際に葵に会ったかのように穏やかな気持ちになっていた。
手を胸に当てると、『時人のお守り』の小さな盛り上がりが分かる。
葵の遺品の指輪と、自分の左手薬指にある指輪と対の女性物。それを二つ合わせて首から下げているのだ。
「……待っています。これから生まれるあなたが男でも、女でも、幾つ年下でも。その時の俺の立ち位置に従って、俺なりの愛情であなたを愛します」
涙で霞んだ視界の中で、葵は出会った当時と変わらない笑顔を見せている。
ピロン
夢の残滓に酔っていた時人を更に現実に引き戻す電子音がし、枕元に充電しておいたデバイスを見ると、一華からの連絡が入っていた。
メッセージには、「さっき分娩室に入ったから、遅くてもお昼までには生まれると思うよ。面会時間になってから来てあげて」と書いてある。
時間を確認すると朝の六時過ぎ。
今、沙夜は二十四歳で第一子を生もうとしていた。
看護学校を出て働き始め、学生時代からの彼氏とそのまま結婚をして出産を迎えたのだ。
実来や一華が言うには、分娩室に入ってからも初産では四時間から六時間はかかるらしい。
「女性は大変だな」
沙夜の出産の事については気になって仕方がないし、心配して駆け付けたい気持ちはあるが、病院の取り決めで産婦人科の面会は昼からだ。
ひとつ息をついて起き上がり、そこからゆっくりと毎朝のルーティンを始めた。
野菜を洗ってサラダを作り、コーヒーを淹れながら思う。
あの幸せな夢をみた直後に一華からの連絡があり、そこには沙夜の出産。
これは――、もしかして、もしかすると。
「まさか」という気持ちと、どうしても期待してしまう気持ち。
これから生まれる沙夜の娘は……葵かもしれない。
外は太陽の光が平等に地上に降り注ぎ、全ての命とその存在を照らしている。
『あの時』あんなにも憎んだ太陽の聖なる光に、今はなぜか希望を見出す事ができていた。
光がこんなにも温かいものだなんて。
何かを『生む』だなんて。
とめどなく湧き起こるこの気持ちは――、
希望。
期待。
失ったものを取り戻そうとする、この浅ましくも生きようとする意志。
光が時人に「生きろ」と言っている。
美しくて残酷な光。
それはまるで葵のようだ。
いつもそこにあって、いて、自分を照らしてくれている。
こちらが気が付かなければ、その光は誰にも感じられない。
前を向いて歩こうとする者にだけ、その光は道を照らし、彼らを温かく導くのだ。
「生きますよ。あなたに会うために」
高層マンションの最上階からの眺めを下に、時人が呟いてコーヒーを啜る。
葵と二人で迎えた朝に飲んだコーヒーはとても美味しくて、その味を求めて今はコーヒーマニアのようになっている節もある。
なんだかんだで生きてきたこの二十年間、前を向いて意気揚々ととはいかずとも、時人は生きてきたのだ。
本当ならどうなってもいいと自棄になっていても、葵が遺した指輪を目の前にすると、その思い出を一生守っていかなければという気持ちにもなっていた。
惰性で生きていたのかもしれない。
それでも、死を選ばずに一日二十四時間の積み重ねをしてきたのは確かだ。
時人自身が惰性で生きていたと思っていても、彼を大切に思う家族や、白根家の人々は時人が生きてくれているだけで嬉しいと思っている。
湯を含んで膨らんだコーヒーの香りがし、時人に一時の安らぎを与えてくれる。
あの葵の特別な香りはもう恐らく嗅ぐ事はできないが、これから自分で少しずつ生きる事に価値を見出していってもいいのだろう。
「頑張って、沙夜ちゃん」
新しい命が生まれようとするこの日に、時人はコーヒーで乾杯をした。
夢を見た。
いつもの苦しい『あの日』の夢ではなく、とても幸せな夢。
一点の曇りもない笑顔を浮かべた葵がいて、「会いたかったです」と時人に抱き着いてきた。
「葵さん、どこに行っていたんですか?」
「ふふ、ちょっとお休みしてました。のーんびりバカンスしてたんです」
「ずるいな。……俺も連れて行って欲しかったのに」
「あきまへん。特別な所でしたさかい、時人さんが一緒やあきまへんのです」
柔らかく笑う葵はいつもの通りだ。
夢の中だからか、時人は独りにされて寂しかったとか、葵が死んで悲しかったとかいう感情からは解き放たれていた。
ただあるのは、そこに葵がいるという安心感。
心にぽっかりと空いた穴が満たされて、この上もなくリラックスしていた。
「ゆっくり休めましたか?」
「ええ、とっても」
「これから……どうするんですか?」
「時人さんに会いにいきます」
「え?」
きょとんとする時人の目の前で、葵が悪戯っぽく笑ってみせる。
「私、これから時人さんに会いに行きます。……生まれ変わって、また時人さんを愛しに行きます」
「うまれ……かわって……」
「私のかたちとぴったり合う人を見つけたんです」
「どこで? 誰ですか?」
「……見つけたのは、今やない別の時間です。私、未来のあなたに会うて来たんです」
「生まれ変わったその人は……葵さんになるんですか? 葵さんがその人に……?」
そろりと尋ねた時人に、葵がフワッと微笑んだ。
「両方です。私はあの子で、あの子は私。溶け合って、ひとつになるんです」
「ひとつに……」
「そして、私たちは巡り逢って……また恋をして、……きっと結ばれます」
歌うような葵の声。
その黒い瞳の中にはいつもの真実があり、確固たる未来を見据えていた。
ああ、この目だ。
この目に俺は恋をして――、いつも導かれた。
信じよう。
彼女を信じて俺はまたいつか彼女に会って――、幸せになるんだ。
彼女を幸せにするんだ。
温かな葵の想いが時人の心に染み渡り、それが彼の心を浄化させた。
時人が微笑い、それを見て葵も安心したように微笑う。
「待っててね、時人さん」
黒い目がふわりと細められて――、彼を癒してくれる優しい手が伸びて時人の唇に触れた。
愛しそうにその唇を指先で確かめてから、葵がそっと唇を重ねてくる。
柔らかな唇の感触がするかと思ったが――、
それは、優しい光になって時人を包み込み――大気に消えていった。
**
ハッとなって目を覚ますと、そこは自分のマンションの寝室だった。
ここは現実。
葵が死んでしまった世界だ。
ゆっくりと体を起こしてベッドサイドの水を飲もうとして、写真立ての中の葵を見る。
「……教えに来てくれたんですか? あなたがこれから天から降りてくるって」
今いるのは冷たい現実のはずなのに、時人の心は実際に葵に会ったかのように穏やかな気持ちになっていた。
手を胸に当てると、『時人のお守り』の小さな盛り上がりが分かる。
葵の遺品の指輪と、自分の左手薬指にある指輪と対の女性物。それを二つ合わせて首から下げているのだ。
「……待っています。これから生まれるあなたが男でも、女でも、幾つ年下でも。その時の俺の立ち位置に従って、俺なりの愛情であなたを愛します」
涙で霞んだ視界の中で、葵は出会った当時と変わらない笑顔を見せている。
ピロン
夢の残滓に酔っていた時人を更に現実に引き戻す電子音がし、枕元に充電しておいたデバイスを見ると、一華からの連絡が入っていた。
メッセージには、「さっき分娩室に入ったから、遅くてもお昼までには生まれると思うよ。面会時間になってから来てあげて」と書いてある。
時間を確認すると朝の六時過ぎ。
今、沙夜は二十四歳で第一子を生もうとしていた。
看護学校を出て働き始め、学生時代からの彼氏とそのまま結婚をして出産を迎えたのだ。
実来や一華が言うには、分娩室に入ってからも初産では四時間から六時間はかかるらしい。
「女性は大変だな」
沙夜の出産の事については気になって仕方がないし、心配して駆け付けたい気持ちはあるが、病院の取り決めで産婦人科の面会は昼からだ。
ひとつ息をついて起き上がり、そこからゆっくりと毎朝のルーティンを始めた。
野菜を洗ってサラダを作り、コーヒーを淹れながら思う。
あの幸せな夢をみた直後に一華からの連絡があり、そこには沙夜の出産。
これは――、もしかして、もしかすると。
「まさか」という気持ちと、どうしても期待してしまう気持ち。
これから生まれる沙夜の娘は……葵かもしれない。
外は太陽の光が平等に地上に降り注ぎ、全ての命とその存在を照らしている。
『あの時』あんなにも憎んだ太陽の聖なる光に、今はなぜか希望を見出す事ができていた。
光がこんなにも温かいものだなんて。
何かを『生む』だなんて。
とめどなく湧き起こるこの気持ちは――、
希望。
期待。
失ったものを取り戻そうとする、この浅ましくも生きようとする意志。
光が時人に「生きろ」と言っている。
美しくて残酷な光。
それはまるで葵のようだ。
いつもそこにあって、いて、自分を照らしてくれている。
こちらが気が付かなければ、その光は誰にも感じられない。
前を向いて歩こうとする者にだけ、その光は道を照らし、彼らを温かく導くのだ。
「生きますよ。あなたに会うために」
高層マンションの最上階からの眺めを下に、時人が呟いてコーヒーを啜る。
葵と二人で迎えた朝に飲んだコーヒーはとても美味しくて、その味を求めて今はコーヒーマニアのようになっている節もある。
なんだかんだで生きてきたこの二十年間、前を向いて意気揚々ととはいかずとも、時人は生きてきたのだ。
本当ならどうなってもいいと自棄になっていても、葵が遺した指輪を目の前にすると、その思い出を一生守っていかなければという気持ちにもなっていた。
惰性で生きていたのかもしれない。
それでも、死を選ばずに一日二十四時間の積み重ねをしてきたのは確かだ。
時人自身が惰性で生きていたと思っていても、彼を大切に思う家族や、白根家の人々は時人が生きてくれているだけで嬉しいと思っている。
湯を含んで膨らんだコーヒーの香りがし、時人に一時の安らぎを与えてくれる。
あの葵の特別な香りはもう恐らく嗅ぐ事はできないが、これから自分で少しずつ生きる事に価値を見出していってもいいのだろう。
「頑張って、沙夜ちゃん」
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