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「あっ、……美弥?」
突如として駆け出した美弥に友人が驚き、けれどその声を気にせず美弥は雑踏の中を走り出す。
「ときひとさん!」
感情が――爆発する。
全身の血が沸騰し、桜の花びらに混じって自分が走っている場所が、いつ、どこなのか分からない幻想に包まれる。
ここは過去で、
ここは今で、
ここは未来で、
ここにいるのは私と彼で。
ただ、愛してる。
悲しそうな――それでも命を慈しむ彼が愛しくて堪らない。
薄桃色の花が彼と彼女を包み、
咲いて、
咲いて、
咲き誇る。
『彼女』の思い出と彼の憧憬の地で、二人の想いが巡り逢った。
遠く、遠く、この世ではない世界の果てで「私を忘れないで」と想いを馳せていた『彼女』の願いが果たされる。
胸を穿つような切なさは、歓喜となって浄化されていった。
「ときひとさん――!」
もう一度、美弥が叫ぶとやっと彼がこちらに気付いた。
驚いたような顔をし、見事な桜の中を泣きじゃくりながらこちらを目がけて走って来る彼女。
「葵さん……? 美弥?」
まるで映画のワンシーンのように桜の中を美少女が走って来、伸ばされた手がずっと会いたかった人を求めた時――。
「ひね! 葵!」
突如不明瞭な男の声がし、黒いジャージを着た白髪頭の男が包丁を振り回しだした。
「美弥!」
時人が叫び、顔色を変えて足が地を蹴る。
――今度こそ守らないと!
咄嗟に頭に思い浮かんだのは、その思い一つだけだった。
彼の頭の中を支配していたのは、目の前でまた大切な人を喪ってしまうかもしれないという恐怖。
『あの夜』自分の手の中で、大切な人の命が零れていったのを思い出した。
頭のどこかでこの男の正体に気付いていたかもしれなかったが、時人はただ目の前にいる刃物を振り回す男から、美弥を守る事しか頭にない。
男が醜く顔を歪め、狂ったように笑いながら包丁を振り回す。
周囲から悲鳴があがり、その場から逃れようとする者と現場を怖いもの見たさで覗きに来る者とで混乱し、その中心で時人と男が揉み合った。
周囲の優雅な桜の風景に似合わない物騒な物が日に当たって銀色に光り、それを見る美弥の表情は恐怖に固まっていた。
「美弥! 遠くに逃げるんだ!」
本来の時人の化け物としての筋力なら、こんな老人を取り押さえるなど朝飯前なのだが、大勢の人間がいる前で人ならざる力を発揮してしまうのは避けたい。
おまけに美弥が見ている前で、乱暴な真似はしたくない。
「殺ひてやる! 殺ひてやる! 葵ぃ! お前もら! 間男!」
時人に掴まれた腕が渾身の力で振り回され、それが時人の腕をかすってジャケットを裂き、美弥の悲鳴が聞こえる。
「時人さん!」
険しい顔で目の前で暴れている男を睨み、そんな中でも時人の頭は冷静さを欠いていない。
これだけ周りに人がいるのなら、誰かが警察を呼んでくれている。
もう少しこの男の相手をして取り押さえれば、きっと警察が対応してくれる。
そんな心の余裕と、腕力では自分の方が優位にあるという慢心があったからだろうか。隙をついて体の力を抜いた男を時人が取り逃がし、長身の時人の懐から突き上げるようにして男が包丁を時人の腹部に刺した。
「葵は俺の女ら! いっひょう俺のもんら!」
狂った哄笑を響かせながら男が勝利宣言をし、迷いのない切っ先で憎い男の腹をグリグリと掻き回す。
「時人さん!」
また、美弥の悲鳴が聞こえる。
体の中に冷たい異物が入り込んでくる感覚を覚えながら、時人の意識はただ美弥を守るという事しかない。
額から嫌な汗が漏れて、頭の天辺から血の気が引いていくのを感じた。
「殺ひてやる! 殺ひてやるお! 葵も! お前も!」
男が喚く度に時人の腹部を貫いた包丁が振動し、時人は歯を食いしばって男の背中に腕を回した。
「!? 離ひぇ!」
「美弥! いいから逃げろ!」
男を抱きしめるようにして時人は男の動きを封じ、痛みをそのまま変換したような声で、いまだ少し離れた場所から動けないでいる美弥に怒鳴る。
「離ひぇ! 離ひぇ! 俺ぁ葵を殺ふんらぁ!」
腕の中の男が暴れ、喚き散らす度に時人の体に激痛が走る。
けれど、この腕だけは離す訳にいかない。
美弥を葵と混同しているこの狂った男――後藤に、もう二度と大切なものを奪われてなるものか。
そんな思いで、時人は死んでも離すものかと薄れゆく意識のなか己に誓いをたて――、そこに遠くからサイレンの音が聞こえるのを耳にして、唇が微かに動く。
「今度こそ……守るんだ……」
後藤の白髪頭の向こうから警官が走って来るのを確認し、それから時人の目が大切な人を探そうと周囲を左右し、腹部の痛みに生理的な涙が出て視界がかすむ。
体に力を入れて立とうとしているのに、腹筋に力が入らない。
守る事ができたのだろうか?
今度こそ、大切な人を守れたのだろうか?
サイレンの音が、『あの夜』を思い出させる。
ムワッとするような濃厚な葵の血の匂いに興奮してしまった、罪深い『あの夜』を。
今は自分が刺されて血を流している。
今――天に召されれば、葵に会いに行けるのだろうか?
グラグラとした頭で過去と現在が入り混じった時、すぐ近くで警官の声がした。
「君! もういいから! 手を!」
警官の大きな声としっかりとした手が時人に掛かり、彼の意識は一瞬真っ白になってから暗転した。
突如として駆け出した美弥に友人が驚き、けれどその声を気にせず美弥は雑踏の中を走り出す。
「ときひとさん!」
感情が――爆発する。
全身の血が沸騰し、桜の花びらに混じって自分が走っている場所が、いつ、どこなのか分からない幻想に包まれる。
ここは過去で、
ここは今で、
ここは未来で、
ここにいるのは私と彼で。
ただ、愛してる。
悲しそうな――それでも命を慈しむ彼が愛しくて堪らない。
薄桃色の花が彼と彼女を包み、
咲いて、
咲いて、
咲き誇る。
『彼女』の思い出と彼の憧憬の地で、二人の想いが巡り逢った。
遠く、遠く、この世ではない世界の果てで「私を忘れないで」と想いを馳せていた『彼女』の願いが果たされる。
胸を穿つような切なさは、歓喜となって浄化されていった。
「ときひとさん――!」
もう一度、美弥が叫ぶとやっと彼がこちらに気付いた。
驚いたような顔をし、見事な桜の中を泣きじゃくりながらこちらを目がけて走って来る彼女。
「葵さん……? 美弥?」
まるで映画のワンシーンのように桜の中を美少女が走って来、伸ばされた手がずっと会いたかった人を求めた時――。
「ひね! 葵!」
突如不明瞭な男の声がし、黒いジャージを着た白髪頭の男が包丁を振り回しだした。
「美弥!」
時人が叫び、顔色を変えて足が地を蹴る。
――今度こそ守らないと!
咄嗟に頭に思い浮かんだのは、その思い一つだけだった。
彼の頭の中を支配していたのは、目の前でまた大切な人を喪ってしまうかもしれないという恐怖。
『あの夜』自分の手の中で、大切な人の命が零れていったのを思い出した。
頭のどこかでこの男の正体に気付いていたかもしれなかったが、時人はただ目の前にいる刃物を振り回す男から、美弥を守る事しか頭にない。
男が醜く顔を歪め、狂ったように笑いながら包丁を振り回す。
周囲から悲鳴があがり、その場から逃れようとする者と現場を怖いもの見たさで覗きに来る者とで混乱し、その中心で時人と男が揉み合った。
周囲の優雅な桜の風景に似合わない物騒な物が日に当たって銀色に光り、それを見る美弥の表情は恐怖に固まっていた。
「美弥! 遠くに逃げるんだ!」
本来の時人の化け物としての筋力なら、こんな老人を取り押さえるなど朝飯前なのだが、大勢の人間がいる前で人ならざる力を発揮してしまうのは避けたい。
おまけに美弥が見ている前で、乱暴な真似はしたくない。
「殺ひてやる! 殺ひてやる! 葵ぃ! お前もら! 間男!」
時人に掴まれた腕が渾身の力で振り回され、それが時人の腕をかすってジャケットを裂き、美弥の悲鳴が聞こえる。
「時人さん!」
険しい顔で目の前で暴れている男を睨み、そんな中でも時人の頭は冷静さを欠いていない。
これだけ周りに人がいるのなら、誰かが警察を呼んでくれている。
もう少しこの男の相手をして取り押さえれば、きっと警察が対応してくれる。
そんな心の余裕と、腕力では自分の方が優位にあるという慢心があったからだろうか。隙をついて体の力を抜いた男を時人が取り逃がし、長身の時人の懐から突き上げるようにして男が包丁を時人の腹部に刺した。
「葵は俺の女ら! いっひょう俺のもんら!」
狂った哄笑を響かせながら男が勝利宣言をし、迷いのない切っ先で憎い男の腹をグリグリと掻き回す。
「時人さん!」
また、美弥の悲鳴が聞こえる。
体の中に冷たい異物が入り込んでくる感覚を覚えながら、時人の意識はただ美弥を守るという事しかない。
額から嫌な汗が漏れて、頭の天辺から血の気が引いていくのを感じた。
「殺ひてやる! 殺ひてやるお! 葵も! お前も!」
男が喚く度に時人の腹部を貫いた包丁が振動し、時人は歯を食いしばって男の背中に腕を回した。
「!? 離ひぇ!」
「美弥! いいから逃げろ!」
男を抱きしめるようにして時人は男の動きを封じ、痛みをそのまま変換したような声で、いまだ少し離れた場所から動けないでいる美弥に怒鳴る。
「離ひぇ! 離ひぇ! 俺ぁ葵を殺ふんらぁ!」
腕の中の男が暴れ、喚き散らす度に時人の体に激痛が走る。
けれど、この腕だけは離す訳にいかない。
美弥を葵と混同しているこの狂った男――後藤に、もう二度と大切なものを奪われてなるものか。
そんな思いで、時人は死んでも離すものかと薄れゆく意識のなか己に誓いをたて――、そこに遠くからサイレンの音が聞こえるのを耳にして、唇が微かに動く。
「今度こそ……守るんだ……」
後藤の白髪頭の向こうから警官が走って来るのを確認し、それから時人の目が大切な人を探そうと周囲を左右し、腹部の痛みに生理的な涙が出て視界がかすむ。
体に力を入れて立とうとしているのに、腹筋に力が入らない。
守る事ができたのだろうか?
今度こそ、大切な人を守れたのだろうか?
サイレンの音が、『あの夜』を思い出させる。
ムワッとするような濃厚な葵の血の匂いに興奮してしまった、罪深い『あの夜』を。
今は自分が刺されて血を流している。
今――天に召されれば、葵に会いに行けるのだろうか?
グラグラとした頭で過去と現在が入り混じった時、すぐ近くで警官の声がした。
「君! もういいから! 手を!」
警官の大きな声としっかりとした手が時人に掛かり、彼の意識は一瞬真っ白になってから暗転した。
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