輪廻の果てに咲く桜

臣桜

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 その後テレビで三十八年前に一度殺人を犯した後藤が、京都でまた凶行を繰り返したと騒ぎになった。
 服役を終えてもなお後藤は心の底に葵への妄執を募らせ、正気と狂気の境にいながら彼女の実家がある京都を訪れ、浮浪者同然に葵を探し回っていたのだという。
 服役中に後藤は自分が如何に葵を愛していたのか、自分の芸術に彼女が必要だったのかという手記を書いていたらしいが、それもまた宇佐美の圧力によって世に出される事はなかった。
 葵というミューズに出会いながら、後藤はその不完全な人間性によってまともに愛する事ができなかった。
 自分の思うままにいかない葵相手に不満が募り、彼女が離れないようについ暴力に訴えた。そこに時人という美青年が現れ、奪われないようにと最後の手段に出た。
 要はそういう経緯だったらしいが、時人や遺族にすれば堪ったものではない。
 葵の時は反省しきった態度で懲役三十年で済んだ後藤が、今度こそは更に重い罪になるだろうとワイドショーのコメンテーターが言っているのを聞いて、テレビの前で実来は厳しい顔をしていた。

 退院した時人はしばらく京都に逗留することにし、京都に所有している別邸でゆっくりと過ごしていた。
 その中で京都府警が時人に事情を聴きに来る事もあったが、そこは傷の療養という事で、落ち着ける空間のなか時人は三十八年前の事を思い出しながら、今回の事件について語るのだった。
 捕らえられた先で後藤は執拗に葵の名前を繰り返し、自分の所有物だった彼女の妄執と、それを邪魔した時人への恨みを口にしているらしい。
 最早彼には時間の概念はなく、葵をその手で殺した事も、目にした美弥は別人だという事も理解できていないのかもしれない。

 卒業旅行で友人と京都を訪れていた美弥は、事件の所為で少し予定が狂ってしまったものの友人との卒業旅行を続けた。予定していた日程を終えると友人に先に東京へ帰ってもらって、自分は両親に伝えて春休みの間美作の家にいる事にした。
 勿論、その理由は京都にいる時人の世話をしたいがためである。
 まだ桜が咲いている京都の街をゆっくり歩きながら、体慣らしのために散歩をする時人に付き添うのが、美弥にとって一番幸せな時間だった。
「時人さん、八重桜も咲いてきたね」
 事件があった平安神宮付近には美弥はまだ怖がって近付かなかったが、その代わりになる桜の名所は京都には幾らでもある。
 穏やかな顔で時人の隣を歩いている美弥の姿を見れば、在りし日の時人と葵を重ねて京都の知人などは驚いてしまうかもしれない。
 美作の家に留まる代わりに家の手伝いをし、着替えは時代や流行に左右されない着物を着ることもあった。
 かつて葵が着ていたという着物に抵抗がないか実来が心配もしていたが、美弥は時人に見て欲しいという気持ちも手伝って、さして抵抗なく袖を通す。
「似合うね、その小紋」
「どうもありがとう」
 通り過ぎる通行人や、外国人観光客などが見目麗しい二人を見て微笑ましそうな顔をする。
 二人は哲学の道の桜のトンネルのようになった道を歩き、春の日差しと風を感じていた。
「不思議なの。……京都に来てから私、今までの情緒不安定みたいだったのがすっかり治ってしまって」
「情緒不安定だったの?」
 時人の前で美弥はそんな素振りを見せていなかったので、時人としては初耳だ。
「ずっとね……、葵さんの想いだと思うんだけれど、私の心を直接揺さぶるように入り込んできて、苦しかったの。会いたいっていう気持ち、伝えて欲しいっていう気持ち。それが私の心と体から溢れそうになって――、本当に一杯一杯だった」
「葵さんは……成仏していなかったんだろうか」
 だとすれば、自分の所為なのかと思い、時人は長い睫毛の角度をやや落とす。
 図らずとも第二の事件があって二人が葵の夢を見てから、二人はそれまでお互いの間で口にしようとしなかった葵の話を、自然にするようになっていた。
 時人は葵に酷似している美弥の前で葵の話をするのに気まずさを覚えなくなったし、美弥はもう自分の気持ちに迷わなかった。
「成仏はしていたんじゃないかな? ……けど、時人さんへの想いだけが遺ってしまったっていうか……」
「心配……させてしまったんだな。安らかに眠ってほしいと、心から願ったはずなのに……、俺が彼女を引き留めてしまった」
 自嘲するような時人の横顔を見て、美弥が立ち止まった。
「でも、もう安心して? 時人さんはもう私の中に葵さんを求めていないって分かる気がするし、私の中の葵さんも、もう悲しんだり時人さんへの想いを持て余していないの」
「……美弥ちゃん」
 どこまでも続く桜並木の下でそっと微笑んでいるのは、美弥。
 この景色にかつて溶け込んでいた女性の面影を持つ、『彼女』の血縁。
『彼女』はこの地から去り、今はその孫の世代の美弥が、地に足をしっかりと付けてそこに存在している。
 呼吸をし、瞬きをし、風に髪を揺らし、笑っている。

 生きている。
 目の前にいるのは、秋月美弥。
 自分のために生まれ、笑ってくれる女性。

 その一枚の絵のような図を、時人は穏やかな気持ちで受け止めていた。
 ほんの少し前まで心を切なく焦がしていた気持ちは、今やどこかへ綺麗に浄化されている。
 心の中を埋め尽くしていた涙の雨を含んだ曇天は、すっかり晴れ渡って澄み切った青空を見せていた。

 なぜだろう。
 あんなにも狂おしく葵を求めていたのに、この心の平安は。

 思い当たるのは、今度こそ後藤の手から大事な存在をを守る事ができたという事。
 恐らくそれで吹っ切れたものもあるのだろう。
 ずっと――、三十八年間もうじうじとしていたものが、こんなに簡単に消えてしまうなんて。
 信じられない気持ちもあるが、ずっと一人で思い悩んでいるよりは、体で何かを体験する方が、ずっと心に響くのだろう。
 悩みや苦しみ、悲しみはその人一人のものだが、他人がそれを分かち合う事はできる。
 人の優しさはゆっくりと傷を癒してくれるが、傷を癒す一番の方法は本人が体を動かし、陽に当たり、人と接して笑う事なのだろう。
 長い長い冬がやっと明けて、時人に春の曙が訪れた。
 桜色の風景は時人に幸福をもたらし、美弥という美しい少女がその先の世界を先導してくれる。
 葵以外の人と幸せになる事への罪悪感は薄れ、目の前には明るい未来が待っている。
 美弥という希望の存在はずっと側にいたのに、どうして気付かなかったのだろうか。
 気付きたくなかったのかもしれない。
 幸せは日常の向こうにある特別なもので、日常のすぐ隣にあるものではないと、心が拒否していたのかもしれない。
 今ならあの日、公園で実来が言っていたことが分かる。
 幸せは追い求める特別なものではなく、気が付いたら日常の側にあるささやかなものだと。
「……俺の中の葵さんは、もう綺麗な思い出になったよ」
 穏やかな目で笑う時人を見て、美弥がその名に相応しい、美しい笑顔を浮かべた。
 血を吸って化け物にしてしまわなくても、葵は時人の中に永遠に生き続けている。
 この美しい世界で彼女は一度死に、蘇った。
 桜の前で微笑んでいる彼女は葵であり、今は美弥というたった一人の少女。
 いつか約束した通り、京都の春の並木を『大切な人と二人』で歩く事ができている。

 ――それでいいじゃないか。

「美しいがすぐに散ってしまう」という事から、儚いものの象徴にされている桜。しかし桜は散ってしまうが、次の春にはまた芽吹いて見事な花を見せてくれる。
 この世に同じものは何一つなく、同じと思えるものはあらゆる連鎖を経て継続している。

 命の螺旋。

 その途中に葵はいて、それがいま美弥に繋がっている。
 そしてそれはこれからも、ずっとずっと先の未来へと繋がってゆくのだ。
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