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差し出された手

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 目を瞬いたまま凍り付いてしまった初穂に気付くと、あやかしの青年の顔に狼狽の色が浮かぶ。
 慌てた様子で初穂の前に膝をつくと、目線を合わせて苦笑いを浮かべた。

「怖がらせてしまってすいません。私も、お嫁さんを迎えるということで緊張していて……。準備にも手間取ってしまって……」

 待たせてしまいましたよね、と問うように首を傾げ、困ったように笑う青年を見て、初穂は茫然としていた。
 お嫁さん。
 その言葉を裡にて反芻しながら、初穂は何とか言葉を返そうとする。
 人間側は、捧げ物として、あくまで花嫁という名の贄を差し出したはずだった。
 怒りを鎮め、村への災いをおさめてもらう為に。
 だが、目の前の青年からは怒りなどといった負の感情を感じないのだ。
 感じ取れるのは、恥じらいと喜びといったもの。まるで、人生の晴れの日を迎えた若者のような様子である。それこそ、祝言の日の花婿のような。
 まさか、あやかし側は文字通りの嫁と受け取ったのだろうか。
 嫁を捧げるという人間側からの文を見て、本当に嫁取りをする心持ちでいたという事だろうか。村から捧げられる贄を、人間の娘を妻として迎え入れるつもりであったと……?
 初穂の脳裏を、忙しいまでに数多の考えが駆け巡る。
 あやかしの言う『嫁』とは、人間の言うそれとは違う意味を持つのでは。或いは、油断させておいて……という事だってあり得るのでは。
 ありとあらゆる可能性が巡り巡るけれど、何一つ確かな形にならない。
 怯えの色を見せぬようにと気を張りながら、初穂はもう一度青年を見上げる。
 戸惑いを滲ませながら初穂を見つめる彼は、やはり精巧な人形のように美しかった。
 瞳の独特な虹彩と肌に点在する蛇の鱗が、青年が確かに人ならざる者であると告げている。周囲に吹き抜けた只ならぬ風も、その証であると思う。
 だが当のあやかしたる青年は、手を初穂に差し出そうとしながら、何かを躊躇っているようだった。
 どうしたのだろうと思いつつ視線を向けたものの、自分を覗き込む宝玉のような紅い瞳を感じて、弾かれたように咄嗟に視線を逸らしてしまう。
 人とは思えぬ美貌の青年の瞳に自分が映っているのを見て、そのような状況ではないというのに胸の鼓動が早まってしまったから。
 今まで誰からも向けられた事のない、気遣いと慈しみに満ちた眼差しを感じて、病の時とは違う胸の苦しさを感じた。
 しかし、初穂は次の瞬間我に返る。
 呆けていてはいけない、と自分に言い聞かせる。自分の懐にあるものを意識しながら、唇を噛みしめる。
 忘れてはならない。初穂には、大事な使命があるのだ。
 我が身と引き換えにしてでも果たさねばならない、大事な、大事な……。

「ええと、……初穂さん、でしたか」
「は、はい!」

 不意にかけられた声に、初穂の肩が大きく跳ねた。
 咄嗟に応えこそ返せたものの、明らかに声が上ずってしまっている。
 胸元を押さえ我が身を抱え込むようになってしまった初穂を見て、青年は少しばかり表情を曇らせる。
 今度こそ気分を損ねてしまったか、という不安が初穂の胸を過る。
 だが、一呼吸おいてかけられた言葉はとても意外なものだった。

「触れても構いませんか?」
「え……?」

 初穂は恐る恐るといった風に、もう一度鱗持つ青年を見上げる。
 そこにはやや哀しげで、何処か拒絶を恐れているような不安そうな眼差しがあった。
 今度戸惑うのは初穂の方だった。
 青年が山のあやかし……力もつ大蛇である事は間違いない。
 対して、初穂は彼に捧げられた贄だ。あの村を出た段階で、この身は村のものでも、初穂のものでもない。
 それなのに、初穂に触れるのに許可を求め、拒まれるのを恐れている様子がある。
 何故、と思う初穂に向けて、青年は苦笑しつつ続ける。

「私に触れられるのを恐れてらっしゃる様子だから……」

 初穂は、思わず目を見開いてしまう。
 恐れていないと言えば嘘になるが、初穂が取ってしまった行動の理由は別にある。
 だが、咄嗟の仕草などから、初穂が彼の手を恐れていると受け取ったのだろう。
 相手に、少しでも怖がらせないようにと気遣う配慮があるのは疑いようがなくて、初穂は更に戸惑うばかり。
 でも、言葉を返さぬままではいられない。
 初穂が沈黙を貫く限り、青年は初穂の言葉を待ち続け、差し出した手をそれ以上進める事はないだろう。
 焦る程に言葉を紡げない。その代わりに、必死に首を左右に振って青年の懸念を否定しようとする。
 何故か、そんな哀しい顔をしないで欲しいと思ってしまった。相手は恐ろしい山のあやかしのはずなのに。
 自分の心が、自分でも良く分からない。
 初穂は、伸ばされた手に恐る恐るではあったが、そっと白い手を差し出した。
 指先が触れた瞬間、あたたかい、と感じる。
 初穂が手を伸ばすと、青年は破顔しながら、まるで壊れ物でも扱うかのようにそっと握った。
 蛇の肌とは冷たいものと思っていたけれど、青年の手は温かく、優しい感触がした。
 触れた場所から熱が全身に拡がっていくような気がする。酷く寒い心持ちに強張っていた身体が、解れていくような。
 頬が何故か熱い気がして、何とも言い難い気持ちだった。けれど、それはけして不快ではないのだ。
 蛇の青年は、初穂の手を取ると静かにゆっくりと立ち上がらせる。
 初穂の装束についた埃を丁寧にはらい、裾の皺など整えながら青年は控えめに微笑んだ。

「このような場所で話し込むのも何ですから。まずは、参りましょう」

 行くとは何処へ、と口にしかけて止めた。
 この青年は、人ではない。ならば、人ではないものの世界……あやかしの住処に連れて行かれるのだろう。
 初穂は何故か大人しく頷いてしまう。
 元よりその為に初穂はここに居る。初穂は贄であり、この青年に捧げられた。相手が告げる事を拒む理由も、術もないのだ。
 連れて行くと言われればそれに従うし、喰うと言われても抵抗できない。
 けれど、それだけではないのに。
 自分には使命が、するべき事があるのに、と裡にて告げる声があるのに、身体がその通りに動いてくれない。
 己の心とそれに反する行動に困惑する初穂の前で、青年は手を前方に翳した。
 眩い光が薄暗い祠の中を駆け抜けたかと思えば、その手のひらの先に光の線で描いたような不思議な扉が現れる。
 青年は、握る初穂の手をそっと引きながら、躊躇う事無く扉へと踏み出した。手を引かれ、初穂もそれに続く。
 進みゆくにつれて、緩やかに開いていく扉の隙間から眩い光が零れて、初穂は思わず目を瞑ってしまう。

 引いてくれる手を導きとして、初穂は緊張した面持ちで青年に続いて光の中に足を踏み入れて。
 次に目を開いた時、初穂の目の前の風景が一変していた。

 思わず、目を見開いて言葉を失ってしまう。
 目に映るものが現実とは思えなくて、ついつい我が目を疑ってしまった。
 実はもう喰らわれてしまって、自分は浄土に辿り着いたのではないか、と思ってしまった程だ。
 初穂の目の前にあったのは、あまりに美しすぎる光景だった。
 春の花の隣で秋の花が咲き。夏の樹々の翠に静かに冬の白雪がはらりと降り積もる。
 四季の彩を一度に集めた千朶万朶に、行き交う仄かな光は螢だろうか。
 築地も門も冴えた月の光を受け静かな輝きを放つ、物語絵に出てくる御殿のような佇まいの屋敷。
 目に映る全てが現実のものと思えず、惚けて言葉を忘れる程の風景がひろがっていたのだ。
 頬を抓って現実か確かめたく成程の夢心地に、初穂は見惚れてしまっていた。
 これが、恐ろしい山の化の住まいだというのか、と信じられない気持ちで身動きできずにいると、耳に柔らかな響きが触れた。

「改めまして。ようこそ、初穂さん」

 青年は、初穂に改めて向き直ると、真っ直ぐに眼差しを向けながら柔らかな笑みを見せた。

「私の名は玖澄くずみ。この屋敷の主で……見ての通り、この山に住まう蛇のあやかしです」

 まるで姫君に対するような恭しい態度で、蛇のあやかし――玖澄は、初穂に礼をとった。
 壊れ物を扱うような丁重な様子で、大切な大切な宝に触れるような、優しい仕草で。
 何かが違う、と騒めく初穂の心の裡は揺れに揺れていた。
 けれども、初穂はそれをいやだ、とは感じなかったのである……。
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