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もう一度あいたいと

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 不意に強く腕を引かれて、初穂は激しく身体を強ばらせた。

 玖澄ではない。
 この山の中にいる、玖澄以外の男だ。要る筈のない何者かだ。

 予想もしなかった次代に、思わぬ恐怖に胸を鷲掴みにされ悲鳴をあげる事すら叶わなかった。
 だが、抵抗しながら悲鳴をあげかけた瞬間。
 予想だにしない、だが確かに聞き覚えのある声が聞こえたのだ。

「初穂様……⁉ あんた、まだ生きていたのか……?」
「山根……?」

 聞こえた声にまさか、と思った初穂は動きを止めてそちらを見た。
 腕を掴んでいたのは、嘉川家の屋敷にて父に仕えていた下男の山根だったのだ。
 瀬皓にてほぼ唯一といっていい『外』の価値観を持つ、帝都の人間だった故に父に理不尽な扱いをされる青年だ。
 初穂と山根が普段接する事はなかった。
 父がいい顔をしなかったからだ。初穂を始めとした娘達や息子に、下手な影響を与えたくないと思っていたのだろう。
 帝都に学んだ秀才であるのに、命じられるのは人が倦厭するような力仕事ばかり。
 遠目に見て心を痛めても、何も出来ずにいた。
 影のようにひっそりと息を潜め、存在感を殺しているような青年だった。
 だからこそ、初穂が贄になる時に父に抗議の声をあげたことを大層驚いたものだったが……。
 山根は初穂が暴れるのを止めた様子を見て安堵した風に息を付き、掴んでいた腕を離した。

「それにしても、何でこんなところに……」
「そ、それはこちらの言う事だわ。何で貴方が山の中にいるの……」

 山根は、生きていたことにかなり驚いた様子だった。
 それはそうだろう。生贄として大蛇に捧げてとうに喰われたはずの娘が、自分の足で歩いて現れたのだから。
 しかし、それはこちらとて同じ事だ。
 父の命が絶対であるはずの下男が、父の触れに逆らって山の深い場所に足を踏み入れている。
 不可思議な場所にて出会った、あるはずのない事態に、初穂は怪訝な顔を隠せない。
 初穂へ探るような視線を向けていた山根は、もう一度息を吐くと口を開いた。

「随分、元気そうだな……」
「……貴方がたが大蛇と恐れるもののおかげよ」

 屋敷にいた頃とは違う、些か砕けた物言いが気になったが、不快とも思わないので敢えて触れない。
 山根は初穂の顔色などを順繰りに見て、首を傾げつつ言った。
 言葉を受けて初穂は頷きながら、複雑な心の裡を押し隠しつつ応える。
 今の初穂は、屋敷に居た頃の初穂ではないのだ。
 完全に健康になったと言い切れる程ではないが、少なくともあの頃のように青白く、少しの事で倒れるような虚弱ではない。
 初穂の顔色や出で立ちに何かを感じたのか、山根は一つ頷きながら言う。

「大事にされているんだろうな。見てわかる」

 初穂は深く頷く。
 大事にされているのは確かだからだ。疑う余地もないほど大切に受け入れ、慈しまれている。罪の意識で痛みを覚える程に。
 初穂が頷いたのを見て何かを思案していた様子だった山根は、やがて肩を竦めた。

「あんたが生きていて、そんな様子だというなら。山の大蛇はやっぱりシロか……」

 どういうことだ、と初穂は怪訝に思う。
 山根の言いようからすると、彼は以前から玖澄には咎がない可能性を考えていたということか。
 咎とは、無論瀬皓に起きている災いの数々の。
 確かに山根は初穂を生贄に捧げることの無意味さを説いていた。
 あれは、ただ単に生贄が非科学的であり、迷信を信じる村人に戸惑っているだけだと思うが故だと思っていた。

 だが、もしかしたら。
 山根は、災いの原因が他にあることに薄々気づいていたのでは……?

 浮かぶ疑問は数々あれども、中々形となってまとまらない。
 分からない事がこの状況には多すぎる。
 初穂は己を落ち着かせようと息を一つ吐くと、視線を謎の洞穴に向けながら言った。

「あれは……。あの穴は、一体何なの……?」

 人が立ち入りを禁じられた、どう見ても人の手が入った、人の出入りがあると思しき山中の洞穴の入口。
 緊張に僅かに強張った面もちと掠れた声音で紡がれた問いに、山根は暫く初穂へ探るような視線を向けていた。
 やがて大仰に嘆息しながら、そうか、と呟いた。

「何も知らされてないのか……。まあ、確かにそうだろうな……」

 溜息交じりにいう山根に、初穂は眉を寄せる。
 知らされていないも何もである。
 何の事か全くわからない初穂は、一人で勝手に納得しないで欲しい、と少し憮然とした面もちになってしまう。
 もしかしたら、嘉川家に関わるものなのだろうか。
 それを嘉川の人間でありながら知らされていない事について言及されているのか。
 穿って考えてもしまうが、相手の雰囲気からして違う気もする。
 もっと深い何かがある気がするが、全ては憶測の域を出ない。
 初穂の様子を見て考え込んでいた山根だったが、漸く口を開く。

「……あれは……」

 言葉の続きを待ち、息を飲んだ瞬間のこと。
 続く山根の声を遮るように悲鳴がその場に響き渡ったのだ。
 初穂と山根は弾かれたように声の聞こえた方角……洞穴の入口へと視線を向けた。
 転げかけながら、危うい足取りで訳の分からぬ叫び声をあげながら走り出てきたのは、一人の男だった。
 あなぐらにでも長い事籠っていたのかというように、髪も髭も伸び放題、泥土にまみれた衣服は雑巾よりも尚酷い。
 どのような境遇に置かれた人間なのか、と呆然として見ていた初穂は、ある事実に気付いて蒼褪める。
 あれは……瀬皓の村人だ。
 かつて地主の屋敷に作物を届けに訪れていたのを時折みかけた。年老いた母がいると言っていた男だ。
 母親もかつて地主の屋敷で働いていたことがあり顔見知りで。そのせいか、顔を覚えていたのだ。
 老母が病になった後に何故か忽然と姿を消して……神隠しされたと言われていた人間だ。
 あまりに窶れてぼろぼろな様子の知った顔が、わき目も振らずによろけながら謎の穴から逃げ出してきた。
 初穂はあまりのことに愕然としたまま、言葉を失っている。
 だが、すぐにまた肩が跳ねあがる。
 乱暴な声音で叫びながら、男を追ってきた人影があったからだ。それも、複数の。
 手にはそれぞれに棒や鞭を持ち、穴から二人の男が、先に逃げた男を追って出て来た。
 恐怖に喚きながら逃げる男だったが躓いて転びその場に倒れ、追手たちは追いつくとすぐさま手にした得物を振り上げた。
 鈍い音が続けざまに響き、倒れ込んだ男の苦痛に満ちた呻き声が響く。
 追って出てきた男達は、逃げだした男を激しく打ち据えていた。
 男は、もういやだ、村に帰してくれ、と切れ切れに叫んでいるのが越える。
 だが、追手達の手が止まる事はない。
 銀が、と男が何かを叫びかけたが、叫び終える前に男は声をあげなくなった。
 まさか、と思ったが追手たちの様子からして意識を失っただけらしい。
 気絶した男を物のように乱暴に引きずりながら、追手達はまた穴の中へと戻って行こうとする。
 初穂は蒼褪めて、完全に言葉を失ってそれを見ていた。
 隣の山根も強張った面持ちで一連の出来事を見ていたが、言葉はない。
 初穂には、もう一つ蒼褪める理由があった。
 打ち据える男達にも見覚えがあったからだ。
 あれは、少し前まで屋敷にて父の元で働いていた者達だ。村を出ていったと聞いていたが、こんな場所に何故……。
 禁足地とも言える場所で、知った顔が知った顔を折檻している。
 あまりに信じられないことづくめで、初穂が思わずよろめいた時。
 初穂の足元で乾いた枝が、いやに耳ざわりな高い音をたてた。

「誰だ!」
「っ! 逃げろ!」

 音にて潜む者達に気づいた追手たちが、眦を吊り上げて怒号をあげる。
 顔色を変えた山根が、鋭く初穂に言って走り出す。
 初穂も咄嗟に言葉を返せなかったが、考えるよりもまず先に、気付いたら走り出していた。

「誰がこんなところまで来たんだ……?」
「見られたのがバレたら、俺達が折檻だ! 捕まえろ!」

 一瞬訝し気にした追手たちだが、今度は音の下方向……初穂達を追いかけて地を蹴った。
 見られてはならない場面に他者があり、それが知れれば自分達が破滅と言わんばかりに、何処か慌てた様子で。
 初穂達も弾かれたように地を蹴り森へと駆けこんだが、途中で山根は初穂にある方角を示すと、自分はその反対方向へと向きを変えた。
 分かれて逃げようと言う事だったのだろう。気付いた時には既に山根は走り出しており、確かめる術はなかったが。
 初穂達が二手に分かれたのに気付いた追手たちもまた、一人ずつの二手に分かれて追い続けた。
 何がなんだかわからなかった。
 立ち入りを禁じられた山の中にあった不思議な洞穴。
 逃げ出してきた、神隠しにあったはずの村人。それを追ってきて打ち据えた、かつての使用人。
 訳も分からぬままに逃げる自分を、男は得物を手に激した叫びをあげながら追って来る。
 如何に外歩きの身支度とはいえ、着物で森の中を走り回るのは辛かった。
 ましてや、あちらは男の足でこちらは女。逃げ切るのは無理だと思ったが、初穂はただひたすらに足を動かし続けた。
 相手がここに居るのが初穂だと気づいたなら、命までは取られないかもしれない。
 何かの誤解だったと言ってくれるかもしれない。
 だが、それを上回る理由のない、得体のしれない恐怖と『捕まってはいけない』という思いが初穂を突き動かす。
 無我夢中で、どちらに進んでいるかもわからず、ただただ走り回り続けた。
 自分がこんなにも走り続ける事ができなんて、と感心する暇とてない程に必死に逃げ続けた。

 走り続けて、続けて。不意に、足元の地面が揺らいだ気がした次の瞬間。
 斜面から足を滑らせた初穂の身体は、宙に投げ出されていた。

 身体が浮かぶような奇妙な感覚に凍り付いた初穂の目に、遥か下方に流れる水が見える。
 沢だ、と思った瞬間には初穂の身体は落下を始めていた。
 おちる、と妙に冷静な声が裡に響く。
 このまま落ちたのなら、まず助かるまい。全身の骨が砕けて、初穂は命を落とすだろう。
 言いつけを聞かなかったから。
 一人にして、なんて言ったから。玖澄を、遠ざけたから……。
 後悔に、哀しみに、次々と胸に湧き上がってくる感情に唇を噛みしめる。
 死ぬとしても、出来るならば、もう一度、もう一度……。
 地に打ち付けられる覚悟をして、ぎゅっと瞳を瞑った時、何故か力強くて頼もしい感触が、初穂を抱きかかえてくれたのを感じた。
 目を瞑ってしまっているから何も見えなくて、何が、と不思議に思った次の瞬間全身に衝撃を感じた。
 一瞬息が詰まる程の衝撃。だが、不思議と痛みは感じない。
 感じるのは……優しくて温かな感触と安堵。
 この感触は……今、自分を守り抱き締めてくれている、温かな腕は……これは……。

「……良かった……。間に合った……」
「玖澄……⁉」

 ここ暫くですっかり聞き慣れた、低く落ち着いた声は心の底から安堵した風に呟いた。
 初穂は、弾かれたように目を開いて相手を凝視する。
 地肌に打ち付けられる寸前の初穂を救ったのは。
 初穂を咄嗟に抱きかかえ、身を挺して守ってくれたのは。
 自身が傷ついている事など少しも気にすることなく、ただ初穂が無事な事を喜び微笑んでくれる。
 死を覚悟した瞬間に、もう一度あいたい、と願った優しい大蛇だった……。

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