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あの悪夢の様な日から二週間が経つ頃、わたしは兄に呼ばれ、書斎を訪れた。
書斎には兄だけでなく、両親の姿もあったが、
わたしの心はまだポッカリと穴が開いていた為、頭が働く事は無かった。

「喜べ、アリエル!スターン男爵家から無事に賠償金が払われた、
しかも、請求額より余計に払ってくれた!これで、おまえの失態を責めずに済むぞ!」

わたしの失態?
わたしがシャルリーヌをエリックに会わせてしまった事?
こんな風になるなんて、誰が予測出来たというの!?
胸が痛み、目に涙が滲んだ。噛みしめたがそれでも唇はぶるぶると震えた。
だが、守銭奴の兄がそれに気付く事は無かった。

「それに、もっと、朗報がある!」

朗報など、どうでも良かった。
一刻も早く部屋に戻りたかったが、兄は意気揚々、それを告げたのだった。

「おまえに縁談が来たぞ!聞いて驚け!相手は、伯爵子息だ!
しかも、跡取りだぞ!でかした!流石、俺の妹だ!!」

「伯爵子息から見初められるなんて、凄いじゃないの!アリエル!」

「それに、伯爵は私の絵に援助をすると申し出てくれたんだよ!」

「あなたの絵が認められたのね~!」

父と母は能天気に喜び合っている。
遂に、わたしは爆発していた。

「傷もまだ癒えていないのに、結婚だなんて…
皆、どうかしているわ!」

瞬間、兄が目を剝いた。

「どうかしているのは、おまえの方だ!アリエル!
こんな良縁を逃したら、おまえは一生、負け犬だぞ!!
あれだけ虚仮にされて、エリックとシャルリーヌ…
いや、おまえを笑い者にした奴等を見返してやろうとは思わないのか!?」

わたしは、笑い者になっているの?
婚約式の直前に、捨てられたから?
親友に男を盗られた、憐れな女?

確かに、客観的に見れば、情けない女だ。

でも、負け犬でもいい…
見返す気など、サラサラない、ただ、傷を癒したいだけよ…
そうでなければ、涙が止まらない…

だが、合理主義の兄に共感を得られる筈はなかった。

「いいか、相手は伯爵の跡継ぎだ!エリックはおまえを手放した事で、
見る目が無いと言われるだろうし、シャルリーヌはおまえを敵に回した事を後悔するだろう。
おまえを笑った者たちは、次の相手を知り、笑った事が恥ずかしくなるだろう。
俺も可愛い妹を、男に捨てられた惨めで憐れな女にはしておきたくはないんだ、
おまえを愛しているからだ、アリエル!」

一見、妹思いの兄の様だが、その頭にあるのは《金》の事で、
兄がわたしを操ろうとしている事は誰の目にも明らかだった。
その上、両親までもが、その欲に溺れていた。

「ああ、アリエル!私にとっても、これはまたとない機会なんだよ!
どうか、結婚を承諾しておくれ」

「アリエル、お父様の才能が認められて、あなたは誰もが羨む相手と結婚出来るの!
これ以上に素晴らしい事があって?」

わたしの身を案じてくれる者など、何処にもいない…
家族全員が敵となり、わたしを責め立てる…
わたしの心はすっかり折れてしまっていた。
いや、そもそも、わたしに選択権は無かったのだ…

「顔合わせは来週、デュトワ伯爵家までは馬車で半日程度だ、
アリエル、旅の支度をしておけよ。
嫌だと言っても連れて行くからな!逃げるなよ!分かったら、戻って良し!」

兄は『話は終わった』とばかりに追い出しに掛かったが、わたしの足はピクリとも動かなかった。
その名を耳にしてしまったから…

「お兄様、《デュトワ伯爵家》とおっしゃいましたか?」

「ああ、言った」

「まさか、お相手は…イレール=デュトワ伯爵子息では?」

そんなまさか…
どうか、違うと言って!
わたしは切に願ったが、兄の返事は軽かった。

「なんだ、知っていたのか、それなら話が早い!」

兄は得意満面だ。兄はパーティに出向く事が無いので、
彼の《氷の貴公子》が今どの様な立場にいるか、知らないのだ!
わたしは顔を青くし、それを伝えた。

「イレール=デュトワ伯爵子息は、二月程前に結婚を無効にされています!」

「それなら都合が良いじゃないか、良かったな、初婚だ!」

わたしは顔を顰めて見せた。

「離縁ではなく、無効ですよ?
お相手が暴露をなさったんです、一年間の結婚が、《白い結婚》だったと!
イレール様は不能だとか、男色家だとか噂されています…」

「おまえはいつから、そんな下世話な噂を仕入れて来る様になったんだ?
俺は嘆かわしいぞ?おまえは本人に会った事も無いんだろう?
偏見は良く無いぞ、つべこべ言わず、顔合わせには行け!
それに、《白い結婚》ならば好都合だ、暫く結婚した後で、おまえも無効にすればいいだろう?」

「何て非道な事をおっしゃるの!?結婚への冒涜です!わたしの方こそ、嘆かわしいわ!」

睨み合うわたしたちを、呑気者の両親が止めに入った。

「これこれ、兄妹喧嘩は止めなさい、お前たちはいつまでも仲が良いね」
「それより、アリエル、顔合わせの準備をなさい、恥ずかしくない恰好で行くのよ」

守銭奴の兄のお陰で、ドレスは数える程しか持っていなかった。
ドレスを着回すわたしとは違い、シャルリーヌはいつも流行に合ったドレスを着ていた。
シャルリーヌの隣で、わたしはさぞかし、野暮ったく見えた事だろう…

また泣きたくなり、わたしは肩を落として書斎を出た。


◇◇


デュトワ伯爵家から縁談の打診が来た理由は、わたしを見初めたから…
では、勿論無いだろう。

界隈でのイレールに対する悪評を払拭したいのではないだろうか?
きっと、何処からか、わたしが婚約寸前で破談になった事を耳にし、
わたしならば断らないと踏んだのだろう。
父の道楽でしかない絵に援助を申し出る位だ、余程困っているのだろう。

そして、我がボワレー男爵家は没落寸前で、金は幾らでも欲しい状況だった。
両家の利害が一致したと言って良い。

馬車から降り、聳え立つ荘厳な館を見上げ、わたしはそんな事を考えたのだった。


「ボワレー男爵令嬢アリエル様、お待ちしておりました、どうぞ、こちらへ___」

老年の執事に恭しく迎えられ、わたしは豪華な玄関ホールから、パーラーへ入った。
男爵家とは格が違い、全てが豪華で大きく、圧倒された。

「良く来て下さった、デュトワ伯爵イジドールだ」
「伯爵夫人のマルティーヌです」

デュトワ伯爵、伯爵夫人は、わたしの両親よりも少し年上に見えた。
高位貴族にありがちな、超然とした雰囲気がある。
わたしは恭しく礼をした。

「ボワレー男爵の娘、アリエルにございます」

表面的な話をした後、イレールが呼ばれた。
パーラーに入って来た彼を見て、わたしは緊張した。

スラリとした肢体。
銀色の髪に、灰色の瞳、端正な美しい顔立ちをしていて、肌は透き通る様に白い…

まるで美しい美術品の様だ。
彼を前に緊張しない者はいないだろう。

「息子のイレールだ、二人で話しなさい」

伯爵の勧めで、わたしたちはテラスに出た。
大きな樹が木陰を作り、植えられた彩豊かな花々を楽しむ事が出来た。
美しい景色の中、新鮮な空気を吸い込むと、嫌な事も搔き消え、
自然と言葉が零れていた。

「素敵なお庭ですね」

イレールからの返事はなく、彼はわたしの方を見る事無く、席に着いたのだった。
お茶のセットが運ばれてきて、わたしの席に着いた。

イレールの視線は常に低く、わたしを見る事は無い。
会話を盛り上げようという気概も見えず、お茶を楽しんでいる様子も無い。

わたしに興味はないみたい…
きっと、結婚もしたくはないのね…
それは、わたしも同じだけど…

両親に結婚を決められる事は、貴族社会では珍しくない。
子は親には逆らえない様になっている。
だが、本人同士にその気が無い場合、良い結果になるとは考え難い。
それを体現するかの様に、わたしたちの間には何の会話も無く、ただ時間だけが流れていった。

この縁談は、きっと破談になるわね…

そんな事を思いながら、景色を眺めていると、不意に、イレールが言葉を発した。
挨拶をしてから、初めて口を開いたのだが、その内容には唖然とした。

「私は結婚しても、お互い干渉はしない事を望みます。
それと、私があなたを抱く事は無いと思って下さい」

これを聞き、喜ぶ女性はいないだろう。
だけど、今のわたしは、男と親友に裏切られ、酷く傷心していた。
この状況で結婚は重荷だったし、他の男に抱かれる事にも抵抗があった。

「あなただけに言うのではなく、皆に言っている事です」

わたしが黙っていると、イレールが補足した。
綺麗な声でありながらも、そこに感情は見えない。
恐らく、わたしの前にも縁談があり、相手方が断ったのだろう。
わたしにも断って欲しいのかもしれない。
まともな両親であれば、自分の娘を《白い結婚》を公言する男と結婚させたりはしない。
だけど、わたしは自分の両親、そして兄の顔を思い浮かべ、内心で嘆息した。

「イレール様のお気持ちは、良く分かりました」

わたしは一言だけ返し、紅茶を飲んだ。





「アリエル、イレールはどうだったかしら?」

テラスから戻ると、余程気になっていたのか、伯爵夫人が笑みを張り付かせて聞いてきた。
わたしは慎重に言葉を選んだ。

「はい、大変に思慮深く、誠実な方と…」

「まぁ、うれしいわ、イレールの良さを分かって頂けて、
イレールは誤解され易いですからね…
あなたは、馬鹿な噂なんて本気にしないでしょう?」

「はい、噂を信じる事は愚かな行為と存じます」

だが、本人の言葉ならば、信じても良いだろう。

伯爵も伯爵夫人も、イレールが《白い結婚》を望んでいる事を知らない様だ。
両親のいる場ですら、イレールは顔を上げない。

こういう人なのかしら?

考えていたよりも、ずっと、変わった人の様だ。
洗練された前妻に、愛想尽かされるのも分かる気がした。

それでも、わたしは伯爵、伯爵夫人には愛想良くしておいた。
両親と兄が、この縁談に乗り気だったからだ。
それに、わたし自身も、そう悪くない様に思えた。

イレールとの縁談が破談になれば、兄は他の縁談を持って来るだろう。
笑い者になっている今のわたしには、良縁など望めないので、
相手は年の離れた男か、名ばかりの貴族、悪くすれば好色の男の妾にされるかもしれない。
それを考えれば、契約上だけの結婚の方が、まだマシに思えた。

わたしは流される事にし、極力何も考えず、心の傷が癒えるのを願い、
日がな一日怠惰に過ごした。

その間にも、両家の間で縁談は着々と進んでいた様で、
顔合わせから僅か一月後、わたしたちは結婚式を迎えていた___

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