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第四章:万世流転編
第二話「日常と非日常の境界」 その三
しおりを挟むイノーウィックは侍従が扉を開ける様を見て、そんなに急ぐな、もっとゆっくり開けてくれと叫びたくなった。
実際にはかなりゆっくりとした動きで扉は動いていたのだが、イノーウィックにはあまりにも無慈悲な速度に思えたのだ。少なくとも、心の準備を整えることはできなかった。
扉が開ききると、そこに居たのは白と薄茶の外出着姿の青年と、奇しくもクラウディアと同じ工房の新作衣裳を着た女性が並んで立っていた。
ふたりの指が絡んでいることに目敏く気付いたイノーウィックは、眼の前にいるのが新婚の夫婦であることに今更ながら衝撃を受けた。
新婚家庭に招待され、緊張しているばかりの大人が余人にどう見えるか、その答えは彼の見栄を著しく損なうものだった。
イノーウィックは気を取り直し、撮影機が回り始めた役者のように自分の中の、別の自分を呼び出す。
その別の自分は、彼が理想とする政治家の姿をしていた。
「待たせましたか」
「まさか! 妻と思わぬ幸運について話していたところです。そうしたら、いつの間にか時間が過ぎておりました」
「それは結構、客人を待たせたとあっては招待主の名折れですからね」
温和な印象を相手に抱かせる口調と表情。
イノーウィックは非常にやりにくい相手が来たと内心落胆した。
自らの属する政党の重鎮たちのように、己に深い自信を抱き、それを利用して相手を圧倒しようという類の人物ではない。
相手が自分に何を、どんな感情を抱こうとも、それを斟酌する必要のない者だけが持つ、寛容と傲慢の入り混じった気配が青年を中心に部屋に満ちている。
「アリア」
「はい、陛下」
皇王が妃の名を呼ぶと、イノーウィックがこれまで聞いたこともないような、美しい声がそれに答えた。映画の相手役になったら、おそらく不必要なまでにその声を聞こうとして、撮り直しを求めるかもしれない。
「アリア・ルイツ=グリピア・エルヴィッヒと申します。奥様と少しお話をさせて頂いてもよろしいでしょうか」
両手を身体の前で重ね、柔和な笑みを浮かべた準皇妃アリア。
イノーウィックに否などあるはずもない。妻も同じ意見であろう。
「はい。研究一辺倒であったため、些か無作法な振る舞いをするやもしれませんが……」
「わたくしの義姉にも、同じような気質の方がおります。それを無作法と思ったことはありませんわ」
皇妃オリガのことかと思ったが、研究者気質というだけであれば皇妃フェリエルなどもそれに合致するかもしれない。
イノーウィックは頷き、言いつけを守って沈黙したままのクラウディアを促した。
「クラウディア、失礼のないようにな」
「はぁい」
間延びした返事に、イノーウィックは一瞬顔を引き攣らせた。
しかしクラウディアがアリアの手を取り、「同じ召し物ですね。皇国の工房だとやっぱり皇国で買うのが一番いいです」と笑顔で話し掛ける様子を見て、もうどうにでもなれと思った。
「――奥方には甘いものを用意させて頂きました。アリアが選んだので、おそらく失敗はないでしょう」
私の舌であれば、自信はありませんが――そんな冗談を口にしつつ、レクティファールは自ら扉を開いてイノーウィックを隣室へと誘う。
扉の向こうに広がっていたのは、庭園を眺める静かな応接室だった。
「飲み物は何を?」
「紅茶と、牛乳を頂ければ」
「分かりました」
以前は喉を守るためにと好んでいた飲み物だが、今もそれは変わらない。
レクティファールが侍従にそれらの用意を命じて扉を閉めると、イノーウィックは再び意識を引き締めた。
革椅子に向かい合って座ると、お互いの背格好が随分と似通っていることに気付いた。
もちろん、顔立ちやそこに刻まれた年齢には違いがあるが、ほとんど同じ高さに目線があるのはありがたいことだった。
「この度はお招きいただき、感謝に堪えません。妻など、文字通り飛び上がるほどに喜んでおりました」
「それは何よりです。急な招待になってしまいましたから」
急であろうとなかろうと、皇王レクティファールの招待とあれば大陸の反対側からでも駆け付けるという者も少なくないだろう。
この青年と交わす言葉には、それだけの価値がある。
「今日、議員をお招きしたのは、貴国の、政府ではないもうひとつの言葉をお聞きしたかったからです。故に、この会見は非公式のもので、あなた方に如何なる不利益も与えないとお約束する」
「はい」
正式な議員外交というものの経験はイノーウィックにはない。
彼の所属する政党は彼が初当選したときから野党であり、外交は彼らの手の中にはなかった。
「そして、あなたも何か、私に伝えたいことがあると聞いています。それをお聞かせ願えますか?」
イノーウィックは請われ、一瞬躊躇った。
どう言えばいい。そう考えた。
自分の言葉はあくまでも一議員の言葉であると認識してもらえるだろうか、先ほどの皇王の言葉を額面通りに受け取って大丈夫だろうか。
考え、考え、自分の言葉の意味と相手の思惑を天秤に掛け、決断した。
「――失礼を承知で申し上げる」
イノーウィックは身を乗り出し、両膝を掴み、低い声を発した。
「あなたは、我が国を滅ぼすおつもりか?」
言った。
ずっと自分の中にわだかまっていた疑問を口にした。
言葉にすれば自分の立場、生命、そして祖国を危険に晒しかねないとして押さえ込んでいた疑問だった。
しかし、それは恐怖でもあった。そこから逃げるにせよ、立ち向かうにせよ、いつか口にしなければならない言葉だった。
そして、皇王本人を目の前にして、ようやく口にする決心がついた。
この皇王は、たとえそれがどれだけ不愉快な言葉であっても、益のない判断はしない。そう確信した。
(さあ、どう答える)
どう答えても、驚かない自信はあった。
でも、それは過信であったのかもしれない。
「はい」
何の気負いもなく発せられた皇王の言葉に、先ほどと何ら変わらない表情で発せられた言葉に、温和な笑みを浮かべる口から発せられた言葉に、イノーウィックは言葉を失い、固く両膝を握り締めるしかなかったのだ。
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