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第四章:万世流転編
第二話「日常と非日常の境界」 その四
しおりを挟むイノーウィックは皇国に関して懸念を抱くようになったのは、先の連合軍の皇国侵攻に関してあまりにも国民の罪悪感が希薄であったことと、それを皇国自身が志向しているように見えたことが始まりだ。
何故、皇国は自分たちを意図して恨まずにいるのか、イノーウィックの道徳感覚から言えば、連合軍が皇国の民に対して行ったことは、明確な戦争犯罪であり、それは連合側の法に照らし合わせても重罪だった。
イノーウィックは当然、皇国が自国に対して多くの賠償を求めると思っていたし、それは国家として当然の権利であるとも理解していた。その理解を超える皇国の姿に疑念を抱いたのは、不思議なことではない。
次いで、国民の間に皇国の統治を礼賛するような機運が生まれたことに危機感を抱くようになった。
皇国侵攻の際に積み重なった負債が重石のように伸し掛かる連邦とは違い、皇国は皇王家の資産を用いてあっという間に復興を始め、すでにそれを終えようとしている。
それどころか、帝国に痛撃を与え、彼らが身動きを取れない間に大陸中に張り巡らせた交易路を拡大強化してしまった。
その交易路の拡大によってもっとも多くの恩恵を受けたのは当然皇国であるが、皇国と戦った連合各国もまた、多大な恩恵を享受することになる。
皇国との貿易額は前年比で平均二割も増加し、それによって齎される富は先の不安を抱いていた連合各国の国民に安堵の息を吐かせ、皇国に対する敵愾心はほぼ拭い去られた。
もともとそれほど敵対的だった訳ではない連合各国が、経済的優位に立つ皇国に歩み寄る姿勢を打ち出したのも、仕方のないことかもしれない。
国民の生活を考えるならば、皇国の力を借りるのが最適解だろう。
イノーウィックはそれを十分に理解していたが、当たり前のように皇国を頼る自国民を見て、強い不安を抱いたのも確かだ。
その不安が、彼を駆り立てている。
イノーウィックは俳優時代から、市民主権思想に強い誇りを抱いていた。誰かに与えられた権利ではなく、自分たちの手で勝ち取った権利こそが、人を人して生かすのだと信じていた。
そんな彼を支持する者たちも多く、彼はそれらの支援者の手助けで議員になった。
もっとも、議員になりたてであった彼にできることはほとんどない。
保守系に属する彼の政党は、皇国への侵攻に明確な反対を表明していた。
たとえそれが皇国の民への支援になるのだとしても、その民が助けを求めない限りそれを実行するべきではない。
市民主権とはそういうものだと彼らは信じていた。自分の決断によってのみ自分の将来は決定されるという理念が、彼らの拠り所であった。
それから一年と経たずに、イノーウィックは深い危機感と共に皇国にいる。
皇王を目の前にして、噛み付くように口火を切った。
「それは、我が国への宣戦布告でしょうか」
「いいえ、私に貴国と戦う意志はない。必要性も感じない」
イノーウィックは唇を噛んだ。
その通りだ。わざわざ戦う必要はない。ただ少しだけ悪意を持って連合各国の政事に介入すればいい。それだけで、皇国は連合を無力化できる。
それをしないのは、する意味がないという理由ひとつで十分すぎた。
「――失礼致します」
扉の向こうから、侍従の声が聞こえる。
レクティファールはイノーウィックを一瞥してから、入室を許可した。
静かに歩を進める侍従を気に留めるほど、イノーウィックに余裕はない。
彼は自分の前に茶が置かれ、侍従が退室するまでの間、ずっと思考を巡らせ続けていた。
そしてレクティファールが自分の茶に口を付け、磁碗を戻したとき、口を開く。
「我が国など、眼中にないということですか」
「はい」
イノーウィックは大きく深呼吸した。
皇王レクティファールの傲慢なまでの言葉は、皇王自身の責任によって担保されている。彼がここで何を口にしようとも、どんな結果を招こうとも、それを贖うだけの権利が皇王にはある。
イノーウィックとは、そもそも立場が違うのだ。
皇王として存在するだけで、この国に対する無制限の権利と義務を負うレクティファールと、議員としての権利と義務を国民から託されているイノーウィック。
専制政治と民主政治の違いがここにある。
「私は、かつてこの国に留学し、友人を得て、貴国に深い友情の念を抱いております」
イノーウィックの言葉に、レクティファールは頷いてみせた。
「私も、あなたとあなたの国に友情を抱いていますよ。ただ――」
レクティファールは両手の指を五指突き合わせ、イノーウィックと同じように身を乗り出した。
「友情とは、等価であるべきとは思いませんか? 少なくとも、そう努力するべきだと思いませんか? 一方的な関係に、友情は成立するのですか?」
イノーウィックは急に、思考が明るく透き通っていくような錯覚を抱いた。
眼の前にいる青年が、イノーウィックには想像もできないような思考を持つ化け物ではないのだと、本能的に察したのだ。
「――我々の様は、友情ではなく依存であると仰りたいのか」
「結果を出すにはまだ早い、そう思っています。あなたはすでに答えを得ていらっしゃるのか?」
「――いいえ、陛下」
まだ、直接的な行動を起こすつもりはない。レクティファールは言外にそう言っているのだ。
イノーウィックは自分の考える最悪の事態は先送りできるものと認識し、気を持ち直した。彼の考える最悪の事態とは、彼の手も声も届かないところで総てが決してしまうことだ。
あるいは、彼が自国の元首になろうと思ったのは、このときであったかもしれない。己の信ずる理想を戴く己の国を守らんがために、彼はひとつの決断をしたのである。
「我が国は未だ、貴国に対する恩義を忘れてはおりません。私も、連邦市民もです」
レクティファールは頷いた。イノーウィックはその表情からひとつでも情報を読み取ろうとしたが、しくじった。
「申し上げるか否か悩みましたが、ひとつ議員の耳に入れておきましょう」
「はい」
緊張し、額に汗が浮かぶ。イノーウィックは自分よりも年下の青年に弄ばれているような錯覚を抱き、それもやむなしと諦めた。
責任と権利の差が、ここにもある。権利以上の責任を負うことは、イノーウィックには不可能だ。
「我々はもう二千年、時間を必要としています。初代陛下がこの国を建ててから、これまでに多くの価値観が刷新されましたが、やはりこの国の民はこの国でしか生きることができない。――あなたの国で、我が妃、龍族や神族は生きることができますか?」
「――いいえ、原則としては可能でしょうが、現実としては不可能に近いでしょう。我国の民は……ええ、そうですね……信仰に近い感情を抱いている」
イノーウィックは、自分たちと余りにも違いすぎる皇国の民を受け容れることは難しいと考えた。
寿命も、持ち得る力も違う。
有力な龍族は、連邦陸軍の一個師団を一瞬で壊滅させられるし、その寿命を利用すれば、議会に世襲を必要としない封建的な勢力を築き上げることも不可能ではない。
議員定年制など、それこそ市民の権利を侵害するものとして槍玉に上げられるだろう。何よりも、連邦の国民が、主権を持つ国民が、皇国を友好的に認識している。それが最大の障害だ。
「国民は歓呼を以って迎え、権力者は恐々として怯えるでしょう。我々がかつて打倒したはずの専制政治が、より強力になって帰って来る」
勝ち取ったという意識が、市民から消え始めている。
イノーウィックはそれを恐れ、倦む。
自分たちの手のひらに、連邦という国の運命が乗っていると自覚している国民が果たしてどれだけいるのか。
父祖が戦い、血を流し、生命を擲ってまで今の国民に遺そうとした理想は、どこに行ってしまったのか。誰もが自分たちの責任に気付かず、そのまま死んでいく。
政治家でさえ、選挙によって権力を勝ち得たと思い込んでいる。それが、自分に投票した国民から貸し与えられた仮初の権力だという、覆しようのない現実から目を逸らしている。
何を以て何を望むのか、イノーウィックは目の前の青年に問いたいと思った。
「陛下は、民主主義というものを如何にご覧になるか」
答えは、早かった。
「ヒトが手に入れた政治体制の、ひとつの極致に成り得るものと。しかし、そこに至るまでの道を誰も知らない。そう見えます」
「皇国にも選挙はあると記憶していますが、陛下はそれが民主主義に繋がると思いますか?」
「いいえ、あれは初代陛下の妥協の産物でしかないと思います。ともすれば自領に引き篭ってしまいがちな各種族の代表を無理やりにでも引き摺り出し、貴様らは皇国の民なのだと再認識させるための場です。貴様らは皇国の民であり、その上で各々の氏族の民であると教えるために存在するのです」
それはレクティファールなりの解釈であったが、イノーウィックには一定の説得力を持っているように感じられた。
本来であれば必要のない議会を持つ皇国。その議会にどんな意味を見出すのか、それは各代の皇王に委ねられているのかもしれない。
「いずれ、私の孫やひ孫の世代であれば、市民主権のなんたるかを解き明かすことはできるでしょうか?」
イノーウィックは常々思っている疑問をレクティファールに投げ掛けた。
この問いかけに明確な答えはない。しかし、イノーウィック・ノルディングという政治家が追い求める命題でもあった。
「分かりません。しかし、私は孫やひ孫に自分に負いきれなかった何かを託そうとは思いません」
「何故ですか?」
それこそが人としての営みではないのか、イノーウィックの疑問に対し、レクティファールの答えは明確だった。
「託さずとも、彼らは自分なりに考え、悩み、守りたいものを見つけるでしょう。まあ、必要なものがあるなら持っていけと、ちょっとした土産くらいは遺してもいいかもしれませんが、あまり大きな荷物は迷惑になる」
「なるほど、それは一理ありますね」
手に負えないからと後世に放り投げるのではなく、本当に遺したいものを選ぶ。
イノーウィックはあまりにも長い時間を生きる皇国の民が、その人生の中で選択するものが何であるのか気になった。
「陛下は、何を遺しますか」
この答えもまた、明瞭であった。
「そうですね。何を選ぶかという選択の機会、可能性、その辺りを」
イノーウィックはレクティファールの言葉の真意を察した。
選ぶ機会は残してある――〈アルストロメリア民主連邦〉という国の未来は、まだイノーウィックたちの手の中にあるのだ。
「そう遠くない未来、この大陸は大きく揺れ動くでしょう。貴国がそのとき、二国の友情に相応しい行動を選択することを期待しています」
国家に友情など存在しないとレクティファールは考えていた。しかし、この世界に「絶対」というものは存在しない。限りなくそれに近い何かが存在するだけだ。
だからあるいは、国家の友情とは人同士のそれとは別の存在であるだけなのかもしれないと考える。
レクティファールは目の前の政治家に期待する自分に可笑しみを感じつつ、壁際の硝子棚に閉まってあった遊技盤を取り出した。
「奥方たちはまだ歓談の最中のようですし、一局、如何ですか?」
イノーウィックはしばしの沈黙の後、小さく答えた。
「お受けいたします、陛下」
二十年後にようやく終局する対局は、ここから始まった。
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