白の皇国物語

白沢戌亥

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第四章:万世流転編

第七話「灯る宿命」 その後

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「名前は?」
 レクティファールは女に向かって訊ねた。
 女は一瞬何を問われたのか分からなかったようだが、すぐにそれが個体識別のための符丁だと気付くと、胸を張って答える。
「ナい」
 あるはずもない。
 彼女の存在を表す符丁――称号はあっても、個体を識別するための符丁――実名は存在しない。彼女は一個の存在であり、識別する必要もないのだ。
「くれ」
 女はそう言ってレクティファールに両手を差し出した。何かを欲するときにするべき仕草と認識していた。
「ふむ」
 レクティファールは少し悩むような素振りを見せ、続いて背後を振り返った。そこではマリアが戸惑いと不安を半々に混ぜ込んだ表情を浮かべながら、レクティファールと女のやりとりを見ていた。
 その表情は今までレクティファールが一度も見たことがないものだった。こんな表情もするのかと少し驚き、嬉しくなった。
「マリア」
「は!」
 呼ばれたマリアは、鎧下姿のままレクティファールに駆け寄る。先ほどまでの熱は霧消し、今彼女が抱いているのは不安と不信であった。しかし、自分に向けられる男の表情が常と変わらぬことに気付き、少しだけ安堵していた。
 その内心を義理の娘であるところのシヴェイラが知れば、「歳を取った」と評するだろう。己への自信は歳を重ねるごとに大きくなるが、女としての自信はある一点を超えると小さくなっていく。これはどの種族でも変わらないとされる。
 そしてその自信はやがて完全に消え失せ、諦念を経て無となる。そのとき、龍族の女は自らの精神から己が女であることを除外し、その結果として子を産めなくなる。
 龍族の女たちは本能的にそれを知りつつも、誰一人として語ろうとはしない。だからこそ、龍族の出生についての謎のひとつは、謎のままなのだ。
 ただ、それ故に、女であることを忘れない龍族はいつまでも子が産めるという。実際、マリアの三倍も生きている彼女の伯母はほんの百年前にようやく結婚して子どもを産み、一族が驚きに包まれたという。
「――うん?」
 レクティファールが自分の顔を見て首を傾げたので、マリアは思わず両手で頬を押さえた。右の頬に、ざらりとした感触があった。
 血だった。
「あ……失礼いたしました」
 マリアは拭布を取り出そうとして、自分が鎧下を着たままだと言うことに気付いた。血で汚れたままの顔と、自らの姿を顧みて急に恥ずかしくなったが、レクティファールは欠片も気にしていなかった。
 彼は外套の内から拭布を取り出すと、周囲の水分を集めて布を濡らし、更に熱を加えた。
「動かないように」
 命じられ、マリアは動きを止めざるを得なかった。
 いつもならばここで軽口のひとつも発するのだが、肩に触れるレクティファールの手が気になってしょうがない。
「血化粧は戦いの中だからこそ美しいというのに、マリアらしくもない」
 血を拭われながらそんな呟きを聞き、マリアはレクティファールという男の感性が常人のそれよりも少しだけずれているような気がした。血化粧を好む者などそういるものではない。
 ただ、マリアの好みの感性ではあった。似たもの同士である。
「あの、わたくしは……陛下の望みを全うできたのでしょうか?」
 それは普段のマリアを知る者であれば、偽者ではないかと疑うほどに殊勝な口調だった。もっとも、一番驚いているのは本人であり、二番目に驚いているのは会話を聞かざるを得ない立場の上空の空軍大佐だ。上空で一騎の飛龍がよろけている。
「あなたはいつも私の望みを全うしてくれる。私はそれに甘え続けている。今回もそうでしょう」
「はい……」
 マリアは少し悲しくなった。己の存在を誇示するため、そして己の内の怒りを表すためにレクティファールの命を受けたが、それは実際のところ、勅命だからではなかった。
 レクティファールというあまりにも不器用で、しかしそのために自分の中の何かを刺激する男が望んだからこそ、彼女は戦った。でも、レクティファールはそれを認めこそすれ、喜びはしなかったのか……そんな疑問が彼女の中に湧き上がる。
 それは彼女が日頃情けないと思っている、後宮の若い妃たちと同じ思考であった。その点では、彼女も十分に若いのかもしれない。
「でも、実は嬉しくてしょうがない。マリアのような綺麗で、何でもできて、多くの物事を知っている人が、自分のために戦ってくれて」
「え?」
 そう言われて、マリアは顔を上げる。
 目の前のレクティファールは、少し照れているように見えた。
「私は君の息子を救い出した。だからこそ君に触れることができた。でも、本当なら……」
 マリアは先ほどまでの不安が消し飛んでいくのを感じた。上空の空軍大佐は、マリアの内包する莫大な魔力がその密度を増すのを感じ取り、「やった、上機嫌になった! 歳に似合わず可愛らしいな、おい!」と周囲の部下たちに触れ回った。
 そしてマリアが一本だけ顕現させた尾が弾いた、地面に転がっていた人の頭ほどの岩の直撃を喰らい、墜落しかけた。
〈うわー! 大佐がやられた!〉
〈照れ隠しだ! ってこっちにも飛んできたぁあああああッ!〉
〈散開しろ! こんな情けない墜落、退役しても笑われ続けるぞ!〉
 対空攻撃を必死で避ける上空の飛龍たちを余所に、マリアは若い娘そのものといった満面の笑みを浮かべた。
「そんなこと、気になさらなくても構いませんのに」
「気にしないで済むほど、君の声も身体も感情も、私には軽くない」
「それこそ、気にする必要はありませんわ、レクティファール様」
 マリアはレクティファールの名を呼び、その手を取って自分の胸に押し当てた。
「この鼓動を欲すると、そう仰ってくれればそれで良いのです。わたくしたちもそう思っているのですから」
 難しく考える必要はないと彼女は言う。
「こちらからは渡せないのが、残念ですが」
「当たり前です。それはこの国の鼓動ですもの。陛下が陛下である限り、その心臓はこの国そのもの、独り占めなんて出来るわけがありません」
 それは一種の、自己保身であった。誰かひとりが手にできるものではない。だから自分が手に入れることができなくても仕方がない。
「ですが、お互いに求めるときは、仮初でも頂ければ嬉しく思います」
「それなら大丈夫」
 レクティファールはようやく自信を持って答えられると、胸を張った。
「目の前のものを欲し、愛するぐらいならば、私にも出来ます」
 それ以外はできませんが――レクティファールは辛うじて続く言葉を呑み込んだ。若い皇王の精一杯だった。
「でしたら……」
 とマリアがレクティファールの首に腕を回す、そのまま顔を近付けた。
「ひとつ証を……」
 口付けの前に、後宮に映像を繋げるのも忘れないマリア。だが、彼女の思惑はレクティファールの足を思い切り蹴飛ばした女によって挫かれた。
「オイ、いつまで待たせるンダ」
「――――」
 マリアは女を見下ろし、睨み据えたが、女はそれを正面から受け止めることさえしなかった。その価値もないといった態度であった。
「ああ、失礼」
 マリアの腕を解き、レクティファールが女に向き直る。その際、マリアが映像を切り忘れたため、後宮ではリリシアとメリエラが頬を膨らませて上空に石を投げるマリアを指差して大笑いしていた。不毛な、日頃の仕返しであった。
「マリア、あなたの母上の名前、お借りしても?」
「お好きなように! 殴りやすくて結構な名前ですわ! えい!」
 うわぁ、と投石から飛龍たちが逃げ惑う光景を、レクティファールは視界から除外した。回避訓練だと自分を納得させる。
「許しが貰えたので、『リリスフィール』と名乗るように」
「リリスフィール、だナ。個別識別名称リリスフィール、分カった」
 女は頷き、レクティファールを見上げる。そして破顔した。
「寝る!」
「寝床……とりあえず、皇城の客間……いや……」
 レクティファールはリリスフィールが纏う材質不明の衣服、その後襟を掴んで猫の子を扱うように女を持ち上げた。
「オオ」
 リリスフィールは驚いたような声を上げたが、すぐに自ら身体を振って振り子運動という楽しみを見つけ出す。
「偽装邸宅をひとつ開けさせるか。うん」
「オオ、オオ!」
 ぶらぶらと振り子のような動きを続けるリリスフィール。それを手にしたまま皇都へと戻っていくレクティファール。
 マリアがそれに気付いて慌てて追い掛けると、レクティファールは外套を彼女に向かって差し出す。
 それを受け取って纏うと、マリアは双方向通信を後宮に繋いでリリシアたちを煽る遊びを始めた。レクティファールの背後で、リリシアとメリエラの怒号が轟き、マリアの高笑いが響く。
 上空警戒の任務を帯びた飛龍たちがぐるぐると回る空の下。その騒ぎは半時間ほど続いた。

                            ◇ ◇ ◇

 百時間戦争。
 それは異世界の軍勢が現われた瞬間を起点とし、皇王レクティファールが戦場処理の完了を確認して総ての戦争行動の終了を宣言するまでの間を指している。
 この戦争が、皇王レクティファールの決断によって発動された初めての戦争であった。
 そしてまた、ひとつの衝撃となって大陸へと波及していくのである。
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