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4巻
4-3
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「――まったく、せめてあと五万でも兵力があれば随分と楽になるのですが」
五万、四個師団の編成に関しては、既に予算が下りている。
しかし、その新規師団を戦力化するまで、最低でも一年。旧貴族軍と既存師団から人員を割いてもそれだけ掛かるのだ。
「うぅむ。やはり帝国軍が勝負をかけてくること自体が予想外でした」
元帥府の見解として、帝国軍が数十万規模の大兵力を対皇国の東方戦線に投入する可能性は、内乱の直前までなら決して高くはなかった。
〈パラティオン要塞〉は数万程度の兵力では陥ちず、十万程度の敵であれば独力で対処できる。数十万の兵力を投入するとなれば、その予兆を捉えることは容易く、またそれに対処する時間は得られる――はずだった。
内乱で混乱せず、また北方総軍司令官が帝国側に内通していなければ、その通りになっただろう。
「言っても仕方のないことですけどね」
北方総軍と同じように、元帥府も参謀本部も、さらに政府ですら頭を抱えている。
いっそ南や東から師団を引き抜くという案も出たのだが、北方と西方、南方と東方の師団では編成が違いすぎる。
北方と西方で一個師団の兵力はほぼ全兵科の揃った一万前後だが、南方と東方は防御行動を大前提として支援兵科の比率が大きく、兵数も五〇〇〇から六〇〇〇でしかない。それに、装備もだいぶ異なる。
何より、練度が違う。南方と東方は新兵の比率が大きく、その点でも不安が大きい。
「あ、この書類見積もり間違ってる。一ギルだって無駄にはできないのになぁ……」
いそいそと書類の不備を指摘する一文を書き入れるレクティファールの姿に、リーデはなんとも言えない表情を浮かべる。
「殿下、一つよろしいでしょうか」
「なんでしょう。――う」
レクティファールは書類箱を一つ片付けると、次の書類箱の蓋を開く。
ぎっしりと詰まった書類に、レクティファールの動きが一瞬止まった。
「一七〇〇に機兵参謀が面会を、と」
「ほう」
もしかしたら見間違いかもしれないと書類箱をそっと閉じ、再度開くレクティファール。
やはり、中身の量は変わっていない。
「――――」
しぶしぶと言った様子で書類を手に取るレクティファール。
リーデは呆れたように目を閉じ、頭を振った。
「何か問題でも」
「いえ、先日の戦闘のことで。一言謝意を伝えたいと」
リーデはレクティファールの手元に自分の用意した書類束を置いた。
煉瓦と同じ程の厚さを持つ書類の束に、レクティファールの表情が強張る。
「そ、それは何とも律儀なことで」
書類束を脇にずらすレクティファール。リーデはそれを冷静に元の位置に戻した。
「――参謀」
「はい、殿下」
リーデは更にもう一束追加した。
「実は私のことお嫌いで?」
「いえ、そのようなことはございません」
答え、リーデは最後の一束を重ねた。
「失礼します」
機兵参謀が執務室に入ると、レクティファールは書類と表示窓の中に埋もれていた。
リーデの姿がないことにほんの少しだけ驚いた彼女だが、四六時中付き従っているだけが参謀ではないと思い直した。
「失礼します、大佐殿」
「ああ、すまない」
彼女は忙しなく部屋を出ていく近衛軍兵士に道を空ける。
それと入れ替わるように別の下士官が書類の束を抱えて入室し、機兵参謀はその光景にわずかに目を瞠る。
「お忙しいのであれば、また後日お伺いしますが」
「いえ、構いませんとも」
レクティファールは目を通した書類束を綴ると、その表紙に花押を書き入れる。先ほど入室し、レクティファールの傍らで待機していた下士官がそれを抱え、足早に執務室を出ていった。
「ええと……それで、機兵参謀は何か御用だったのでは?」
レクティファールは黒筆を置くと、機兵参謀に向き直る。
仕事の谷間になったのか、部屋の中にはレクティファールと機兵参謀の二人だけが残された。
「はい、殿下」
機兵参謀はレクティファールの執務机の正面に立つと、深々と腰を折った。
「このたびは、同胞を救っていただいて感謝の言葉もありません。以降、殿下の御為に粉骨砕身職務に励む所存です」
機兵参謀の声音は常と何ら変わりのない平坦なものだった。
しかし、そこに篭められた感情は隠し切れるものではない。
「自分の役目を果たしただけです。あなたと同じように」
「殿下……」
レクティファールは一枚の書類を手に取り、その内容を確認して機兵参謀に差し出した。
「保護した機人族の処遇について、皇都から回答がありました」
機兵参謀は差し出された書類に目を通した。
書かれていた内容は、彼女が望んだ通りのものであった。
「我国は彼らの意志を確認し、亡命者として扱うことを決定しました。帝国からは『鹵獲した備品』の返還を求める声もあったようですが、我国にそんなものは存在しませんので」
レクティファールは更にもう一枚の書類を機兵参謀に手渡し、そこに署名を求めた。
「それと、君が立候補した彼らの保護責任者ですが、他に適当な人物がいないということで、こちらも許可が下りました。補助金等の申請は追々やってもらうとして、とりあえずその承諾書に署名をお願いします」
手続上、このやり取りは内務院の官僚が行うべきことであった。ただ、レクティファールは機兵参謀の内心を慮り、彼自身が直にこれらの事実を伝えることで彼女の不安を取り除こうと考えた。
「彼らのこと、よろしくお願いしますね。イレスティア・バーバンティ大佐」
「――は」
機兵参謀、皇国陸軍機兵大佐イレスティア・バーバンティは、やはりいつもの表情で敬礼した。
ただ、ほんの少しだけ微笑んでいたように、レクティファールには見えた。
◇ ◇ ◇
グロリエは天幕の自分の席に座り、気怠そうに頬杖をついていた。そんなグロリエを、背後に立った祖母カリーナがじっと見詰めている。
先程から上がってくる報告は、いずれも〈パラティオン要塞〉を形成している堡塁や砲塁のどれどれを陥落させたとか、どの部隊がどの地点まで進出したとか、或いはどの部隊がどこで全滅したなどといった代わり映えのしないものばかりだ。
あの青年が要塞に入ってから目立って要塞側の戦術が変わったということもなく、彼女がここに来てから延々と続けてきた「お決まりの軍事運動」を繰り返している。
先ごろの自動人形部隊の強襲によって皇国側の動きに変化が現れたということもなく、限定休戦以降も相変わらずであった。
しかし、それに対して帝国側が有効な対抗手段を講じることが出来たということもまたなく。こちらも決まった数の兵士たちを要塞に献上しているような格好だった。
これを無意味だとは彼女とて思っていない。
決まりきった動きは相手の思考を麻痺させ、突発事態に際して取りうる手段の幅を大いに制限するだろう。さらに膨大な鉄と血を代償に、要塞の防備を日々塹壕一つ、鉄条網一枚と薄皮一枚ずつ剥いでいる。その薄皮一枚が戦場で明暗を分けることを、彼女は祖母から嫌になるほど教え込まれた。
だからこそ、あの強襲以降は今日のような退屈そのものの日々に耐えている。
自分が出て行って要塞を切り裂きたいと祖母に言ったこともある。だが、幾ら強大な力を持つ個人であっても、所詮個は群に勝てない。もしも個が群に勝てるとしたら、今頃この世界は大きな力を持つ種族のどれかに支配されていただろう。
グロリエも、確かに龍人族としては優秀だ。しかしその『龍殺し』としての力を除外したとき、彼女が一武人としてどの程度の実力を持っているか、彼女の祖母は良く知っていた。
なまじ大きな力を持ってしまったため、力を除いた戦い方というものが理解できないという弊害がグロリエにはあった。
確かに軍将としてはそれなりに才能もあり、経験もある。ただその精神面には常に驕傲があり、相手を自分の下に見るという痼疾がある。
これが今まで彼女の命を脅かさなかったのは、単純にその弱点を本人よりも理解している祖母がいたから、そして、グロリエが祖母だけは自分よりも上の存在だと認め、無条件に従っていたからだ。
ただ、カリーナも既に齢六〇を超えようとしている。帝国の人間種の平均寿命まであと一〇年と少し、軍務に耐えられるのはあと五、六年が限度だろう。それまでに何とか、孫娘に〝退く〟ということを覚えさせたいとカリーナは考えていた。
そんなとき現れた次期〈アルトデステニア皇国〉皇王――レクティファール・ルイツ=ロルド・エルヴィッヒ。
帝国の民にとっては伝説や神話の存在に等しい概念兵器の使い手と相対し、刃を交えれば、グロリエも幾らかの遠謀を身をもって覚えるのではないかと密かにカリーナは期待していた。
(一番頼りになるのが敵とは……情けないと嘆くべきか、血は争えないと喜ぶべきか)
カリーナ自身、二五年前の戦争で皇国相手に『龍殺し』の力を磨き、揮った女傑である。
生憎と皇王自身を戦場に引き摺り出すことは叶わなかったが、その権威によって束ねられた皇国軍の精強さは骨身に沁みている。西方戦線ではグロリエの心に良い変化を与えるような敵手には出会えなかったが、東方戦線ならば或いは――敵に期待するということに可笑しみを覚えながらも、カリーナは孫娘の不機嫌そうな背中を見守り続ける。
「お婆さま」
グロリエに呼ばれ、カリーナは「はい」とだけ答えた。
「何故、余は皇女なのだろうな」
「――何故、といいますと?」
グロリエはカリーナの淹れた酒精入りの紅茶を口に含むと、その香りを味わってから嚥下する。
帝室御用達の茶葉は確かに香り高く美味であったが、グロリエの表情は決して明るくない。
「単に自分の気に入った男と会うために、これだけの血を必要とする。別段、あれと夫婦になろうとは思ってはいないし、そんなことを考えれば兄姉たちが何をするか分かったものじゃない」
グロリエ自身は帝王の地位などにさしたる興味を持っていない。
だが、彼女が本気で手を伸ばせば、届く場所にそれはあるのだ。
「いっそ、亡命でもしてみるか」
自軍の機人族たちが皇国側に亡命したことを、グロリエは祖母から伝えられた。
それ自体は何の不思議もない。ただ、自分たちが生を全うできる国に逃げ延びたというだけのことだ。人形種であるグロリエがどれだけ他種族のことを思い、行動しても、末端までその意識を通すことは不可能に近い。
グロリエに近い第三軍集団ならば他種族もそれなりの待遇を受けられるが、帝国軍の他の軍集団ではそうはいかない。
「羨ましいのだ、余は」
人ならざる者の娘だと、孫だと、不当に貶められることには慣れた。
慣れたが、何も感じない訳ではない。何故、と思うことは今でもある。
「お婆さまも、母上も、立派な人だ。だが、我が帝国にはそれを許容する器がない。あの男と言葉を交わして、心底それを実感した」
グロリエも、帝国が唯一絶対の正義であるなどとは思えない。
多くの民を虐げ、他国を脅かすことでしか国家の形を保てない国が、正しいとはどうしても思えない。
「皇国が正しいとは余も思っていないし、おそらく、あの男も同じだろう。あの国は、いずれ帝国と同じ道を辿る可能性を孕んでいる」
何のために皇国があるのか、それを皇国の民が忘れる日がいつか訪れる。
いくら長命な種族の多い国とはいえ、無限の寿命を持っている訳ではない。一部の長命種が記憶を残していても、民の大多数がそれを忘れれば同じことだ。
「自身の行動がどんな未来を作るのか。こんなことを考えたことはなかった」
ここで皇国軍を破り、幾らかの領土を得たとして、果たして帝国は生き残ることができるのか。
渇望した凍らぬ土地と輝く海を得て、果たしてこの国はどんな未来を得るのか。
「お婆さま、この大陸の向こうには、我国よりも巨大な国が幾つもあるのだろう?」
「はい。この大陸総ての国々の力を結集してもなお敵わぬ国が、わたしの知るだけでも三つ。帝国だけで考えるなら、両手両足の指よりも多いでしょう」
大陸の覇者。
そんな夢想を抱いているのはもう、ほんの一部の者たちだけだ。
帝国でさえ、一部の開明派貴族は、自国の危うさに警鐘を鳴らしている。
その貴族の中には、帝族に連なる公爵家さえ含まれていた。
「大陸外の国々と交易を行なっている貴族や商会は、それなりに他大陸の情報を得ています。わたしも、知り合いの伝手を辿ってそれなりに……」
帝国内にも、急速な拡大の弊害が噴き出し始めた。
かつて帝国に併呑された国々、種族の間で再独立を図ろうという動きが活発化しているのである。
何故そんな状況になったのか、グロリエにさえ理解できた。余りにも短い期間で勢力を拡大したため、制圧地域の平和的な安定化という手順を踏まなかったのだ。
やったことといえば、武力を盾にして、ときに行使して反乱の芽を潰し、二度と同じことが起きないよう常に圧力を加え続けること。
抑圧された力は蓄積し続け、その一部が各地で噴出している。グロリエは自国の現状をそう考えていた。
「やはり無茶だったか。皇国でさえ、二〇〇〇年の間に得た領土はほんの僅かだ。あれだけの軍事力を持ちながら、自国を繁栄させる手段を国内に求め続けてきた」
豊富な資源を持ち、それらを活用する手段を持っていたからこそ実現できた繁栄。
レクティファールはグロリエとの会談で、その繁栄の手段を供与するとまで言い切った。それが皇国を守る手段であると知っていたのだ。
「何故、皇国の民に理解できたことが我国の連中には分からないのだ……!」
カリーナは、その疑問に関する答えを幾つか持っていた。
〈イズモ神州連合〉という世界に冠たる貿易国と隣り合っていたため、建国後すぐに他大陸へと目を向け始めたこと。
多くの力のある種族を擁し、彼らが皇王に従うことで権力の集中ができたこと。
最大の敵である人間種が同族同士の争いによって纏まることができず、その間に国内を安定化させることができたこと。
皇国の民が、元々国家という意識が希薄で、それ故に先入観なく皇国という国家に馴染むことができたこと。
長命種たちが自分たちの知る歴史をほぼ正確に後世に伝えることができたこと。
そして何より、皇国がかつて虐げられ続けた者たちで構成される国であること。
「どうすればいいのだ、余は」
これまで抱かなかった疑問。
祖母の願い通り、グロリエは間違いなく成長していた。そして成長したために苦悩していた。
「勝つ、それはいい。だが、勝ったあとでどうすればいい」
カリーナはグロリエの背後で、薄っすらと笑みを浮かべた。
一度の邂逅でここまで相手を成長させる男、なかなか良い相手が孫娘にできたと喜んでいたのだ。
(これでやっと一歩ね。ただの将ならば勝つことを考えればいいけれど、グロリエの立場なら勝ったあと、負けたあとのことも見通さなくてはならない)
グロリエには優秀な家臣団がいる。カリーナの時代から仕える家臣たちで、彼らの存在がグロリエの至らない部分を補っていた。
戦勝後の事後処理など、本来であれば戦闘そのものの結果より重視しなくてはならない部分だった。
国家兵力を動員した戦いは、その大小を問わず勝てば終わりなのではない。勝つことが始まりなのだ。戦術的にも戦略的にも。
「レクティファールは、今頃何をしているのだろうな……」
遠くを見詰めるように呟き、グロリエはある意味で自分に最もよく似た境遇の男を想う。
巨大な力を持ち、巨大な兵力を従え、巨大な敵と戦う。
ただ一つの決定的な違いは、各々の立場。
皇族と帝族。
共に国家と共に生き、国家と共に死ぬ者たちである。
「元帥殿下、第四戦線より報告が参りました」
「――入れ」
グロリエが許可を出すと、貴族らしい身形の良い青年が天幕に姿を見せる。
青年士官は一礼すると、規則通りの言葉でグロリエに報告を始めた。
「ご報告申し上げます!」
「うむ」
その内容は、やはり代わり映えのしないものであった。
帝国軍はじりじりと要塞に近付き、その代償として多くの鉄と血を支払っている。
「――以上です!」
「よろしい、師団長に一層の精励を求めると伝えるよう」
「はっ」
青年士官は敬礼し、天幕をあとにした。
足音が遠ざかったことを確認したグロリエが小さく溜息を吐いたとき、天幕が風で揺れる。
ごうごうと、地鳴りのような音が二人の耳を苛む。
カリーナは肌を刺すような寒気に少しだけ眉を顰め、呟いた。
「吹雪くかもしれませんね」
彼女の予感は当たった。
◇ ◇ ◇
轟と耳の側で鳴る風の音は、先程からずっとそこにある。
飛行眼鏡に次々とぶつかる雪も、先程からずっと変わらない。
そして、目的地を見失ったという事実も相変わらずだった。
「ちっ、方位が分かっても現在地が分からなきゃ意味ないか」
竜騎兵バルクノインは首から下げた方位磁針で方位を測り、それを同じく首から下げていた地図と照らし合わせる。しかし、吹雪で周囲が全く見えなくなってしまった現状において、その行為は平素の数分の一程度の意味しかなかった。
進んでいる方向さえも、風で流されているため正確に判別出来ない。
相方の鼻先は間違いなく北に向いている。だが、山のせいで乱れた風に流されてはそれに逆らい、逆に追い遣られては方向を戻すということを繰り返しており、すでに北に向いているということにどれだけの意味があるというのかさえ、彼には分からない。
航空騎兵として、方位を見失ったときの対処法も、自身の現在位置を見失ったときの対処法も習得している。
晴れていれば時間と太陽の位置、或いは星の位置でおおよその方向が分かるし、周囲の風景が見えれば現在の位置も地図と照らし合わせることで見当がつく。
だが、吹雪の中では、そのいずれの手段も使えない。
本来であれば、こんな荒天下で偵察飛行をするということ自体が、無茶の部類に入る。
そんな無茶が可能なのは、おそらく各偵察飛行隊の中に必ず在籍している数人の龍族か、雲の上まで上がることができる大型の飛竜だけだ。
山の天候は変わり易い。だからこそ、バルクノインも天候悪化の兆候を掴んだ時点で引き返すべきであった。
その判断を下せなかったことが、彼の未熟さを示しているのかもしれない。
「しかし寒いな」
自分と飛竜の身を守る魔法障壁を張ることは、竜騎兵にとって必須の技能だ。彼も当然使えるが、その障壁の総出力、必要な場所に的確に障壁を張る技量はやはり経験に左右される。温度を遮断する術式と物理的に風を遮断する術式の比率を上手く調整できるかどうか、竜騎兵の技量を測る基準の一種と言ってもいい。
その基準からすれば、彼は未だ半人前にもなっていない。
障壁を形成する粒体魔素の密度が低く、風も温度も遮断しきれていない。さらには効果範囲の設定が甘く、必要のない場所まで障壁で覆っていて効率が悪い。
これが一人前以上の竜騎兵になると、自分の身体と相棒である飛竜の身体だけを障壁で守るようになり、使用する魔力も術式が占める意識内容量も最低限に抑えることが可能になる。
バルクノインは先輩たちに散々未熟者扱いされたことを思い出し、実際その通りだったのだと結論付けるしかなかった。
先任騎兵たちは彼を莫迦にしていたのではない。単に事実を告げていただけだった。
「――戻ったら、頭下げて色々教わるか」
それなりに上手くやっている――そんな慢心を圧し折られ、バルクノインは己の技量に対する自信を完全に失ってしまった。
だが、ここで終わるつもりはない。
バルクノインはこの経験を糧にして、いつか同じだけの、もっと強い吹雪の中をこの相棒とともに自由に飛び回ってみせると決意した。
「そのためには、戻らないと……」
地図を確認し、取るべき針路を選ぶ。
「頑張れ相棒、あと少しだ」
バルクノインの言葉に、カルテンが甲高い鳴き声を返した。
飛竜としては若い部類に入るカルテンにとって、吹雪の中を飛ぶことは恐ろしく体力を消耗する難事だ。それでも主人にして相棒であるバルクノインの意志に従い、彼は力強く翼を打ち続ける。
雲の上を飛べればこれ程苦労することはないだろう。しかし、騎兵騎竜揃って未熟者の彼らにそんな技量はない。
偵察騎と言えば高高度を飛行し敵情をつぶさに観察することが仕事だが、一つの現実として、実際にそこまでの技量に到達するのに早くても一〇年掛かる。訓練を除いた飛行時間が二〇〇時間足らずのバルクノインには、まだまだ先の話だ。
「雲の上、どんな世界なんだろうな……」
彼は雪に隠れた灰色の天を見上げて呟く。映像としてなら見たこともあるが、部隊の先任に聞けば映像などで推し量れるような世界ではないという。空を往く者たちを隔てる一つの大きな壁、それが分厚い雲だった。
ほぅ、と溜息にも似た吐息を漏らすバルクノイン。
「っと、頑張れ相棒!」
だが、すぐに風に煽られたカルテンを御するために全身を駆使する羽目になった。上下さえも曖昧になりそうな運動を繰り返し、何とか安定を取り戻す。
再び吐息を漏らした。今度は安堵のものだが。
「頼むぜ、本当に」
バルクノインはやや肩を落としてカルテンを撫でる。
姿勢を崩して墜落、となれば自動的に遭難である。
装具の中には緊急事態用の生存装備も当然含まれているが、流石に雪山で何日も生き延びることが出来るほど多くの装備がある訳でもない。
それに、天狼山脈も白狼山脈も、皇国政府と協定を結んだ二つの氷狼族がそれぞれ支配している。止むに止まれぬ事情があったとはいえ、協定に準じた入山許可を得ていないバルクノインがどのような扱いを受けるか甚だ不透明だった。
助けてもらえるのかもしれないが、逆に殺される可能性もまた否定できない。
皇国側は両部族の実質的自治領である両山脈に関して、許可された者以外の人物を山に立ち入らせず、両部族から協力を求められたときはそれを可能な限り受け入れる。
逆に両部族は許可された者以外の入山者――主に帝国側からの入山者、不法入国者や軍の部隊――を敵として排除し、両山脈を通過させない。
こと雪山に関する限り、両部族に優る戦闘能力を有する種族はほんの一握りに過ぎない。氷狼といえば、『雪と氷の世界の王者』と呼ばれることもある種族なのだ。大きな力を持つ神族、魔族、龍族の三種族さえ、雪山で氷狼族と戦おうとしない。
氷狼族は雪と氷の世界では、自身と相性のいい微精霊を操り、気候さえ制御することができる。吹雪を起こすことも、また防ぐこともできる。
そんな力を持つ彼らが部族総てを挙げて戦えば、たとえ数十万の軍勢でもその力を発揮出来ず万年雪の下で乾いた死体の群れとなるだろう。元々雪山は、その環境に適応した種以外ではとても戦闘など出来たものではない。
氷狼族を始めとして、氷竜、蒼鹿、雪豹、氷虎など、氷と雪の厳しい環境を縄張りとしている種族は、皇国国内でも珍しいものではない。
帝国が意固地になったように〈パラティオン要塞〉を攻めるのも、何度もそれらの種族に痛い目を見せられたからだった。
帝国軍とて莫迦ではない。要塞以外の、皇国側の防備が緩い場所を攻めようとしたこともある。その都度彼らの縄張りを侵し、千単位の兵力を失うことになった。
他の、もう少し穏やかな環境であれば生き残れたかもしれない彼らだが、厳しい寒さの中で動けなくなれば、待っているのは死である。
寒さに強い帝国軍でも、限度はあるのだ。
山脈の地理に疎い帝国軍は、その行程を全うできずに全軍遭難することになるだろう。
「うお、本当にまずい」
バルクノインは氷狼族との協定を思い出し、ぶるりと身体を震わせる。
協定の中には遭難者の人命を守るという条文もあるが、それも許可されて入山した者の話。バルクノインには当て嵌らない。
「――本当に頼むぜ相棒」
凍死であればまだ綺麗な死体になれる。だが、氷狼族に食い散らかされてばらばらになるのは御免だ。
知恵ある者どもの一である氷狼族が人を食らうとは思えないが、身体機能的に食えないことはないだろう。自分だって、感情の面を無視すれば、人肉を食べられないことはないのだから。
五万、四個師団の編成に関しては、既に予算が下りている。
しかし、その新規師団を戦力化するまで、最低でも一年。旧貴族軍と既存師団から人員を割いてもそれだけ掛かるのだ。
「うぅむ。やはり帝国軍が勝負をかけてくること自体が予想外でした」
元帥府の見解として、帝国軍が数十万規模の大兵力を対皇国の東方戦線に投入する可能性は、内乱の直前までなら決して高くはなかった。
〈パラティオン要塞〉は数万程度の兵力では陥ちず、十万程度の敵であれば独力で対処できる。数十万の兵力を投入するとなれば、その予兆を捉えることは容易く、またそれに対処する時間は得られる――はずだった。
内乱で混乱せず、また北方総軍司令官が帝国側に内通していなければ、その通りになっただろう。
「言っても仕方のないことですけどね」
北方総軍と同じように、元帥府も参謀本部も、さらに政府ですら頭を抱えている。
いっそ南や東から師団を引き抜くという案も出たのだが、北方と西方、南方と東方の師団では編成が違いすぎる。
北方と西方で一個師団の兵力はほぼ全兵科の揃った一万前後だが、南方と東方は防御行動を大前提として支援兵科の比率が大きく、兵数も五〇〇〇から六〇〇〇でしかない。それに、装備もだいぶ異なる。
何より、練度が違う。南方と東方は新兵の比率が大きく、その点でも不安が大きい。
「あ、この書類見積もり間違ってる。一ギルだって無駄にはできないのになぁ……」
いそいそと書類の不備を指摘する一文を書き入れるレクティファールの姿に、リーデはなんとも言えない表情を浮かべる。
「殿下、一つよろしいでしょうか」
「なんでしょう。――う」
レクティファールは書類箱を一つ片付けると、次の書類箱の蓋を開く。
ぎっしりと詰まった書類に、レクティファールの動きが一瞬止まった。
「一七〇〇に機兵参謀が面会を、と」
「ほう」
もしかしたら見間違いかもしれないと書類箱をそっと閉じ、再度開くレクティファール。
やはり、中身の量は変わっていない。
「――――」
しぶしぶと言った様子で書類を手に取るレクティファール。
リーデは呆れたように目を閉じ、頭を振った。
「何か問題でも」
「いえ、先日の戦闘のことで。一言謝意を伝えたいと」
リーデはレクティファールの手元に自分の用意した書類束を置いた。
煉瓦と同じ程の厚さを持つ書類の束に、レクティファールの表情が強張る。
「そ、それは何とも律儀なことで」
書類束を脇にずらすレクティファール。リーデはそれを冷静に元の位置に戻した。
「――参謀」
「はい、殿下」
リーデは更にもう一束追加した。
「実は私のことお嫌いで?」
「いえ、そのようなことはございません」
答え、リーデは最後の一束を重ねた。
「失礼します」
機兵参謀が執務室に入ると、レクティファールは書類と表示窓の中に埋もれていた。
リーデの姿がないことにほんの少しだけ驚いた彼女だが、四六時中付き従っているだけが参謀ではないと思い直した。
「失礼します、大佐殿」
「ああ、すまない」
彼女は忙しなく部屋を出ていく近衛軍兵士に道を空ける。
それと入れ替わるように別の下士官が書類の束を抱えて入室し、機兵参謀はその光景にわずかに目を瞠る。
「お忙しいのであれば、また後日お伺いしますが」
「いえ、構いませんとも」
レクティファールは目を通した書類束を綴ると、その表紙に花押を書き入れる。先ほど入室し、レクティファールの傍らで待機していた下士官がそれを抱え、足早に執務室を出ていった。
「ええと……それで、機兵参謀は何か御用だったのでは?」
レクティファールは黒筆を置くと、機兵参謀に向き直る。
仕事の谷間になったのか、部屋の中にはレクティファールと機兵参謀の二人だけが残された。
「はい、殿下」
機兵参謀はレクティファールの執務机の正面に立つと、深々と腰を折った。
「このたびは、同胞を救っていただいて感謝の言葉もありません。以降、殿下の御為に粉骨砕身職務に励む所存です」
機兵参謀の声音は常と何ら変わりのない平坦なものだった。
しかし、そこに篭められた感情は隠し切れるものではない。
「自分の役目を果たしただけです。あなたと同じように」
「殿下……」
レクティファールは一枚の書類を手に取り、その内容を確認して機兵参謀に差し出した。
「保護した機人族の処遇について、皇都から回答がありました」
機兵参謀は差し出された書類に目を通した。
書かれていた内容は、彼女が望んだ通りのものであった。
「我国は彼らの意志を確認し、亡命者として扱うことを決定しました。帝国からは『鹵獲した備品』の返還を求める声もあったようですが、我国にそんなものは存在しませんので」
レクティファールは更にもう一枚の書類を機兵参謀に手渡し、そこに署名を求めた。
「それと、君が立候補した彼らの保護責任者ですが、他に適当な人物がいないということで、こちらも許可が下りました。補助金等の申請は追々やってもらうとして、とりあえずその承諾書に署名をお願いします」
手続上、このやり取りは内務院の官僚が行うべきことであった。ただ、レクティファールは機兵参謀の内心を慮り、彼自身が直にこれらの事実を伝えることで彼女の不安を取り除こうと考えた。
「彼らのこと、よろしくお願いしますね。イレスティア・バーバンティ大佐」
「――は」
機兵参謀、皇国陸軍機兵大佐イレスティア・バーバンティは、やはりいつもの表情で敬礼した。
ただ、ほんの少しだけ微笑んでいたように、レクティファールには見えた。
◇ ◇ ◇
グロリエは天幕の自分の席に座り、気怠そうに頬杖をついていた。そんなグロリエを、背後に立った祖母カリーナがじっと見詰めている。
先程から上がってくる報告は、いずれも〈パラティオン要塞〉を形成している堡塁や砲塁のどれどれを陥落させたとか、どの部隊がどの地点まで進出したとか、或いはどの部隊がどこで全滅したなどといった代わり映えのしないものばかりだ。
あの青年が要塞に入ってから目立って要塞側の戦術が変わったということもなく、彼女がここに来てから延々と続けてきた「お決まりの軍事運動」を繰り返している。
先ごろの自動人形部隊の強襲によって皇国側の動きに変化が現れたということもなく、限定休戦以降も相変わらずであった。
しかし、それに対して帝国側が有効な対抗手段を講じることが出来たということもまたなく。こちらも決まった数の兵士たちを要塞に献上しているような格好だった。
これを無意味だとは彼女とて思っていない。
決まりきった動きは相手の思考を麻痺させ、突発事態に際して取りうる手段の幅を大いに制限するだろう。さらに膨大な鉄と血を代償に、要塞の防備を日々塹壕一つ、鉄条網一枚と薄皮一枚ずつ剥いでいる。その薄皮一枚が戦場で明暗を分けることを、彼女は祖母から嫌になるほど教え込まれた。
だからこそ、あの強襲以降は今日のような退屈そのものの日々に耐えている。
自分が出て行って要塞を切り裂きたいと祖母に言ったこともある。だが、幾ら強大な力を持つ個人であっても、所詮個は群に勝てない。もしも個が群に勝てるとしたら、今頃この世界は大きな力を持つ種族のどれかに支配されていただろう。
グロリエも、確かに龍人族としては優秀だ。しかしその『龍殺し』としての力を除外したとき、彼女が一武人としてどの程度の実力を持っているか、彼女の祖母は良く知っていた。
なまじ大きな力を持ってしまったため、力を除いた戦い方というものが理解できないという弊害がグロリエにはあった。
確かに軍将としてはそれなりに才能もあり、経験もある。ただその精神面には常に驕傲があり、相手を自分の下に見るという痼疾がある。
これが今まで彼女の命を脅かさなかったのは、単純にその弱点を本人よりも理解している祖母がいたから、そして、グロリエが祖母だけは自分よりも上の存在だと認め、無条件に従っていたからだ。
ただ、カリーナも既に齢六〇を超えようとしている。帝国の人間種の平均寿命まであと一〇年と少し、軍務に耐えられるのはあと五、六年が限度だろう。それまでに何とか、孫娘に〝退く〟ということを覚えさせたいとカリーナは考えていた。
そんなとき現れた次期〈アルトデステニア皇国〉皇王――レクティファール・ルイツ=ロルド・エルヴィッヒ。
帝国の民にとっては伝説や神話の存在に等しい概念兵器の使い手と相対し、刃を交えれば、グロリエも幾らかの遠謀を身をもって覚えるのではないかと密かにカリーナは期待していた。
(一番頼りになるのが敵とは……情けないと嘆くべきか、血は争えないと喜ぶべきか)
カリーナ自身、二五年前の戦争で皇国相手に『龍殺し』の力を磨き、揮った女傑である。
生憎と皇王自身を戦場に引き摺り出すことは叶わなかったが、その権威によって束ねられた皇国軍の精強さは骨身に沁みている。西方戦線ではグロリエの心に良い変化を与えるような敵手には出会えなかったが、東方戦線ならば或いは――敵に期待するということに可笑しみを覚えながらも、カリーナは孫娘の不機嫌そうな背中を見守り続ける。
「お婆さま」
グロリエに呼ばれ、カリーナは「はい」とだけ答えた。
「何故、余は皇女なのだろうな」
「――何故、といいますと?」
グロリエはカリーナの淹れた酒精入りの紅茶を口に含むと、その香りを味わってから嚥下する。
帝室御用達の茶葉は確かに香り高く美味であったが、グロリエの表情は決して明るくない。
「単に自分の気に入った男と会うために、これだけの血を必要とする。別段、あれと夫婦になろうとは思ってはいないし、そんなことを考えれば兄姉たちが何をするか分かったものじゃない」
グロリエ自身は帝王の地位などにさしたる興味を持っていない。
だが、彼女が本気で手を伸ばせば、届く場所にそれはあるのだ。
「いっそ、亡命でもしてみるか」
自軍の機人族たちが皇国側に亡命したことを、グロリエは祖母から伝えられた。
それ自体は何の不思議もない。ただ、自分たちが生を全うできる国に逃げ延びたというだけのことだ。人形種であるグロリエがどれだけ他種族のことを思い、行動しても、末端までその意識を通すことは不可能に近い。
グロリエに近い第三軍集団ならば他種族もそれなりの待遇を受けられるが、帝国軍の他の軍集団ではそうはいかない。
「羨ましいのだ、余は」
人ならざる者の娘だと、孫だと、不当に貶められることには慣れた。
慣れたが、何も感じない訳ではない。何故、と思うことは今でもある。
「お婆さまも、母上も、立派な人だ。だが、我が帝国にはそれを許容する器がない。あの男と言葉を交わして、心底それを実感した」
グロリエも、帝国が唯一絶対の正義であるなどとは思えない。
多くの民を虐げ、他国を脅かすことでしか国家の形を保てない国が、正しいとはどうしても思えない。
「皇国が正しいとは余も思っていないし、おそらく、あの男も同じだろう。あの国は、いずれ帝国と同じ道を辿る可能性を孕んでいる」
何のために皇国があるのか、それを皇国の民が忘れる日がいつか訪れる。
いくら長命な種族の多い国とはいえ、無限の寿命を持っている訳ではない。一部の長命種が記憶を残していても、民の大多数がそれを忘れれば同じことだ。
「自身の行動がどんな未来を作るのか。こんなことを考えたことはなかった」
ここで皇国軍を破り、幾らかの領土を得たとして、果たして帝国は生き残ることができるのか。
渇望した凍らぬ土地と輝く海を得て、果たしてこの国はどんな未来を得るのか。
「お婆さま、この大陸の向こうには、我国よりも巨大な国が幾つもあるのだろう?」
「はい。この大陸総ての国々の力を結集してもなお敵わぬ国が、わたしの知るだけでも三つ。帝国だけで考えるなら、両手両足の指よりも多いでしょう」
大陸の覇者。
そんな夢想を抱いているのはもう、ほんの一部の者たちだけだ。
帝国でさえ、一部の開明派貴族は、自国の危うさに警鐘を鳴らしている。
その貴族の中には、帝族に連なる公爵家さえ含まれていた。
「大陸外の国々と交易を行なっている貴族や商会は、それなりに他大陸の情報を得ています。わたしも、知り合いの伝手を辿ってそれなりに……」
帝国内にも、急速な拡大の弊害が噴き出し始めた。
かつて帝国に併呑された国々、種族の間で再独立を図ろうという動きが活発化しているのである。
何故そんな状況になったのか、グロリエにさえ理解できた。余りにも短い期間で勢力を拡大したため、制圧地域の平和的な安定化という手順を踏まなかったのだ。
やったことといえば、武力を盾にして、ときに行使して反乱の芽を潰し、二度と同じことが起きないよう常に圧力を加え続けること。
抑圧された力は蓄積し続け、その一部が各地で噴出している。グロリエは自国の現状をそう考えていた。
「やはり無茶だったか。皇国でさえ、二〇〇〇年の間に得た領土はほんの僅かだ。あれだけの軍事力を持ちながら、自国を繁栄させる手段を国内に求め続けてきた」
豊富な資源を持ち、それらを活用する手段を持っていたからこそ実現できた繁栄。
レクティファールはグロリエとの会談で、その繁栄の手段を供与するとまで言い切った。それが皇国を守る手段であると知っていたのだ。
「何故、皇国の民に理解できたことが我国の連中には分からないのだ……!」
カリーナは、その疑問に関する答えを幾つか持っていた。
〈イズモ神州連合〉という世界に冠たる貿易国と隣り合っていたため、建国後すぐに他大陸へと目を向け始めたこと。
多くの力のある種族を擁し、彼らが皇王に従うことで権力の集中ができたこと。
最大の敵である人間種が同族同士の争いによって纏まることができず、その間に国内を安定化させることができたこと。
皇国の民が、元々国家という意識が希薄で、それ故に先入観なく皇国という国家に馴染むことができたこと。
長命種たちが自分たちの知る歴史をほぼ正確に後世に伝えることができたこと。
そして何より、皇国がかつて虐げられ続けた者たちで構成される国であること。
「どうすればいいのだ、余は」
これまで抱かなかった疑問。
祖母の願い通り、グロリエは間違いなく成長していた。そして成長したために苦悩していた。
「勝つ、それはいい。だが、勝ったあとでどうすればいい」
カリーナはグロリエの背後で、薄っすらと笑みを浮かべた。
一度の邂逅でここまで相手を成長させる男、なかなか良い相手が孫娘にできたと喜んでいたのだ。
(これでやっと一歩ね。ただの将ならば勝つことを考えればいいけれど、グロリエの立場なら勝ったあと、負けたあとのことも見通さなくてはならない)
グロリエには優秀な家臣団がいる。カリーナの時代から仕える家臣たちで、彼らの存在がグロリエの至らない部分を補っていた。
戦勝後の事後処理など、本来であれば戦闘そのものの結果より重視しなくてはならない部分だった。
国家兵力を動員した戦いは、その大小を問わず勝てば終わりなのではない。勝つことが始まりなのだ。戦術的にも戦略的にも。
「レクティファールは、今頃何をしているのだろうな……」
遠くを見詰めるように呟き、グロリエはある意味で自分に最もよく似た境遇の男を想う。
巨大な力を持ち、巨大な兵力を従え、巨大な敵と戦う。
ただ一つの決定的な違いは、各々の立場。
皇族と帝族。
共に国家と共に生き、国家と共に死ぬ者たちである。
「元帥殿下、第四戦線より報告が参りました」
「――入れ」
グロリエが許可を出すと、貴族らしい身形の良い青年が天幕に姿を見せる。
青年士官は一礼すると、規則通りの言葉でグロリエに報告を始めた。
「ご報告申し上げます!」
「うむ」
その内容は、やはり代わり映えのしないものであった。
帝国軍はじりじりと要塞に近付き、その代償として多くの鉄と血を支払っている。
「――以上です!」
「よろしい、師団長に一層の精励を求めると伝えるよう」
「はっ」
青年士官は敬礼し、天幕をあとにした。
足音が遠ざかったことを確認したグロリエが小さく溜息を吐いたとき、天幕が風で揺れる。
ごうごうと、地鳴りのような音が二人の耳を苛む。
カリーナは肌を刺すような寒気に少しだけ眉を顰め、呟いた。
「吹雪くかもしれませんね」
彼女の予感は当たった。
◇ ◇ ◇
轟と耳の側で鳴る風の音は、先程からずっとそこにある。
飛行眼鏡に次々とぶつかる雪も、先程からずっと変わらない。
そして、目的地を見失ったという事実も相変わらずだった。
「ちっ、方位が分かっても現在地が分からなきゃ意味ないか」
竜騎兵バルクノインは首から下げた方位磁針で方位を測り、それを同じく首から下げていた地図と照らし合わせる。しかし、吹雪で周囲が全く見えなくなってしまった現状において、その行為は平素の数分の一程度の意味しかなかった。
進んでいる方向さえも、風で流されているため正確に判別出来ない。
相方の鼻先は間違いなく北に向いている。だが、山のせいで乱れた風に流されてはそれに逆らい、逆に追い遣られては方向を戻すということを繰り返しており、すでに北に向いているということにどれだけの意味があるというのかさえ、彼には分からない。
航空騎兵として、方位を見失ったときの対処法も、自身の現在位置を見失ったときの対処法も習得している。
晴れていれば時間と太陽の位置、或いは星の位置でおおよその方向が分かるし、周囲の風景が見えれば現在の位置も地図と照らし合わせることで見当がつく。
だが、吹雪の中では、そのいずれの手段も使えない。
本来であれば、こんな荒天下で偵察飛行をするということ自体が、無茶の部類に入る。
そんな無茶が可能なのは、おそらく各偵察飛行隊の中に必ず在籍している数人の龍族か、雲の上まで上がることができる大型の飛竜だけだ。
山の天候は変わり易い。だからこそ、バルクノインも天候悪化の兆候を掴んだ時点で引き返すべきであった。
その判断を下せなかったことが、彼の未熟さを示しているのかもしれない。
「しかし寒いな」
自分と飛竜の身を守る魔法障壁を張ることは、竜騎兵にとって必須の技能だ。彼も当然使えるが、その障壁の総出力、必要な場所に的確に障壁を張る技量はやはり経験に左右される。温度を遮断する術式と物理的に風を遮断する術式の比率を上手く調整できるかどうか、竜騎兵の技量を測る基準の一種と言ってもいい。
その基準からすれば、彼は未だ半人前にもなっていない。
障壁を形成する粒体魔素の密度が低く、風も温度も遮断しきれていない。さらには効果範囲の設定が甘く、必要のない場所まで障壁で覆っていて効率が悪い。
これが一人前以上の竜騎兵になると、自分の身体と相棒である飛竜の身体だけを障壁で守るようになり、使用する魔力も術式が占める意識内容量も最低限に抑えることが可能になる。
バルクノインは先輩たちに散々未熟者扱いされたことを思い出し、実際その通りだったのだと結論付けるしかなかった。
先任騎兵たちは彼を莫迦にしていたのではない。単に事実を告げていただけだった。
「――戻ったら、頭下げて色々教わるか」
それなりに上手くやっている――そんな慢心を圧し折られ、バルクノインは己の技量に対する自信を完全に失ってしまった。
だが、ここで終わるつもりはない。
バルクノインはこの経験を糧にして、いつか同じだけの、もっと強い吹雪の中をこの相棒とともに自由に飛び回ってみせると決意した。
「そのためには、戻らないと……」
地図を確認し、取るべき針路を選ぶ。
「頑張れ相棒、あと少しだ」
バルクノインの言葉に、カルテンが甲高い鳴き声を返した。
飛竜としては若い部類に入るカルテンにとって、吹雪の中を飛ぶことは恐ろしく体力を消耗する難事だ。それでも主人にして相棒であるバルクノインの意志に従い、彼は力強く翼を打ち続ける。
雲の上を飛べればこれ程苦労することはないだろう。しかし、騎兵騎竜揃って未熟者の彼らにそんな技量はない。
偵察騎と言えば高高度を飛行し敵情をつぶさに観察することが仕事だが、一つの現実として、実際にそこまでの技量に到達するのに早くても一〇年掛かる。訓練を除いた飛行時間が二〇〇時間足らずのバルクノインには、まだまだ先の話だ。
「雲の上、どんな世界なんだろうな……」
彼は雪に隠れた灰色の天を見上げて呟く。映像としてなら見たこともあるが、部隊の先任に聞けば映像などで推し量れるような世界ではないという。空を往く者たちを隔てる一つの大きな壁、それが分厚い雲だった。
ほぅ、と溜息にも似た吐息を漏らすバルクノイン。
「っと、頑張れ相棒!」
だが、すぐに風に煽られたカルテンを御するために全身を駆使する羽目になった。上下さえも曖昧になりそうな運動を繰り返し、何とか安定を取り戻す。
再び吐息を漏らした。今度は安堵のものだが。
「頼むぜ、本当に」
バルクノインはやや肩を落としてカルテンを撫でる。
姿勢を崩して墜落、となれば自動的に遭難である。
装具の中には緊急事態用の生存装備も当然含まれているが、流石に雪山で何日も生き延びることが出来るほど多くの装備がある訳でもない。
それに、天狼山脈も白狼山脈も、皇国政府と協定を結んだ二つの氷狼族がそれぞれ支配している。止むに止まれぬ事情があったとはいえ、協定に準じた入山許可を得ていないバルクノインがどのような扱いを受けるか甚だ不透明だった。
助けてもらえるのかもしれないが、逆に殺される可能性もまた否定できない。
皇国側は両部族の実質的自治領である両山脈に関して、許可された者以外の人物を山に立ち入らせず、両部族から協力を求められたときはそれを可能な限り受け入れる。
逆に両部族は許可された者以外の入山者――主に帝国側からの入山者、不法入国者や軍の部隊――を敵として排除し、両山脈を通過させない。
こと雪山に関する限り、両部族に優る戦闘能力を有する種族はほんの一握りに過ぎない。氷狼といえば、『雪と氷の世界の王者』と呼ばれることもある種族なのだ。大きな力を持つ神族、魔族、龍族の三種族さえ、雪山で氷狼族と戦おうとしない。
氷狼族は雪と氷の世界では、自身と相性のいい微精霊を操り、気候さえ制御することができる。吹雪を起こすことも、また防ぐこともできる。
そんな力を持つ彼らが部族総てを挙げて戦えば、たとえ数十万の軍勢でもその力を発揮出来ず万年雪の下で乾いた死体の群れとなるだろう。元々雪山は、その環境に適応した種以外ではとても戦闘など出来たものではない。
氷狼族を始めとして、氷竜、蒼鹿、雪豹、氷虎など、氷と雪の厳しい環境を縄張りとしている種族は、皇国国内でも珍しいものではない。
帝国が意固地になったように〈パラティオン要塞〉を攻めるのも、何度もそれらの種族に痛い目を見せられたからだった。
帝国軍とて莫迦ではない。要塞以外の、皇国側の防備が緩い場所を攻めようとしたこともある。その都度彼らの縄張りを侵し、千単位の兵力を失うことになった。
他の、もう少し穏やかな環境であれば生き残れたかもしれない彼らだが、厳しい寒さの中で動けなくなれば、待っているのは死である。
寒さに強い帝国軍でも、限度はあるのだ。
山脈の地理に疎い帝国軍は、その行程を全うできずに全軍遭難することになるだろう。
「うお、本当にまずい」
バルクノインは氷狼族との協定を思い出し、ぶるりと身体を震わせる。
協定の中には遭難者の人命を守るという条文もあるが、それも許可されて入山した者の話。バルクノインには当て嵌らない。
「――本当に頼むぜ相棒」
凍死であればまだ綺麗な死体になれる。だが、氷狼族に食い散らかされてばらばらになるのは御免だ。
知恵ある者どもの一である氷狼族が人を食らうとは思えないが、身体機能的に食えないことはないだろう。自分だって、感情の面を無視すれば、人肉を食べられないことはないのだから。
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