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離縁されましたが、幼馴染の護衛騎士に溺愛されているので幸せです。

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「これはどういうことでしょうか」
 二週間にわたる外交から戻ると夫のライオネルが執務室で知らない女といちゃついていた。
 彼の膝の上に座った女が優越感を滲ませながらこちらを振り返る。
「…な、か、カレン!」
「ええ。カレンでございます。で、これはいったいどういう状況でしょうか」
「ライオネル殿下がお寂しいと」
「誰が口出ししても良いといいまして?」

 彼女は「まあ怖い」と目を丸くしたあと、自慢の胸を押し付けるように夫に抱きつく。
 夫はふにゃっと鼻の下を伸ばして「よしよし」と豊かな金色の髪を撫で回した。

「…帰国は明後日ではなかったか」
「予定は未定です。で、どう言い訳するんです?」
「…言い訳はせん」
「……そうですか。つまり?」
「私は彼女を愛している。彼女も私を愛してくれている。だから、彼女を正妃にしたい」

 カレンの後ろで護衛のノアが小さく舌打ちした。それを目の端で諌めながら夫から決定的な言葉を引き出そうとする。

「彼女を正妃にして、私をどうするおつもりですか?」
「きみとは離縁だ。今まで通り外交官として勤めてくれ。あぁ、妃じゃないなら部屋もでていってくれ」
「手続きはどなたが?」
「マルゴに任せればよいだろう」
 ふん、と元夫が鼻を鳴らす。
 カレンは愉快に口元を緩め、夫の膝の上から降りない女に視線をむけて、ニコリと微笑んだ。
「承知しました。どこのどなたか存じ上げませんが、王太子妃としてどうぞ、よろしくお願いいたしますわ」
 カレンは叫び出したい衝動を抑えながら笑みを浮かべる。
 その微笑みは花が綻ぶように美しかった。

 ***

「失礼します」

 カレンは夫の執務室からその足で宰相室に向かった。
 ノックをして扉を開けると書類から顔をあげたマルゴと目が合う。

「王太子妃殿下、いかが」
「ライオネル殿下から離縁の申し出がありました。手続きを進めてください」
「……はぁ、あのバカ坊ちゃん。国王様はなんと」
「さぁ、存じ上げません」

 頭が痛いとマルゴが項垂れる。
 そんな彼に容赦なくカレンが畳み掛けた。

「必要書類は事前に提出しておりますね?」
「…三年前のものですね」
「ええ。日付が入っていないので有効ですね?」

 結婚式の前夜にカレンは夫に離縁証明書にサインさせていた。
 もし何かあった時、日付を記入すればいつでも出せる仕様である。

「…有効ですね」
「では、私が責任を持って提出します」
「え?!王太子妃殿下自らですか?」
「ええ。私は早く帰国したいのです。ただ、離縁したことの証明がないと帰国もできませんわ」

 殿下の側近は信用できませんから、と冷めた目で周囲を見渡す。
 宰相室には複数の彼の部下がいたが、思い当たることがあるのかすーっと目をそらした。

 カレンは右手を差し出して書類を渡すようにマルゴを促す。
 マルゴは鍵付きの引き出しの中から、いつぞやの離縁証明書を取り出した。

「こちらです」
「ありがとう。ここに日付書けばいいかしら」
「ええ」

 カレンはマルゴの持っていたペンを借りると本日の日付を記入する。

「教会に出せばいいのね」
「おっしゃる通りです。して、いつ…」
「すぐにでも出ていきます。部屋もあけ渡せって言われましたので」
「な、なんと…!書類などは」
「マニュアル作ってるからそれ見てなんとかしてちょうだいってロイドに伝えて」
「そ、そんな殺生な…!」

 泣き言を言う宰相にカレンは哀れな目を向ける。
 この国、レザリアが回っているのは、この宰相がいるからだろう。
 王は凡庸で、王妃も平凡。
 諸外国の王室に比べるといかにもThe普通だ。
 そんな彼らの一人息子はとても甘やかされたせいで我儘に育った。
 カレンはこの我儘王子の犠牲になった一人である。

「…マルゴ様。四年間大変お世話になりました。このような簡易なご挨拶で申し訳ございません。湿っぽいものは嫌いなので私はここで失礼させていただきます。僭越ながら、今後の繁栄をお祈りいたします」

 だが宰相もまた彼らの犠牲者の一人。恐れ多くもカレンにとって同志のような存在だと思た。彼の場合は代々宰相として王家を支える家系なので生まれた時代が残念だったとしか言えないが。

「妃殿下、いえ。カレン殿もお元気で」
「ええ。では失礼しますわ」

 カレンは色んな思いを飲み込みながら深々とお辞儀する。
 宰相含め、この部屋にいた文官たちも立ち上がり、カレンに謝辞を伝えるように頭を下げた。

 ***
「あー、なんだかあっけなかったわね」
「そうですね」
「もっとこう嬉しさが込み上げるものかと思ったけど」

 宰相と話をした後、国王夫妻に「城を出ていく」ことを告げると彼らはびっくりするぐらい目を白黒させていた。「よく考えてくれ」と言われたが、息子が「離縁する」と言ったのだからと言えば頭を抱える。彼らも馬鹿ではない。カレンがこの国に嫁いできてどれだけの功績を齎したのか知っているから手放したくなかったのだろう。

「嬉しくないですか?」

 今はもう海の上。
 城を出て教会に行き、離縁証明書を提出し受理されたのを確認すると、カレンの実家であるスコッティ商会に立ち寄った。そして最短でキコナへ帰国できるよう船のチケットをとり、今夜出航する大型客船に無理にねじ込んだのだ。

「…嬉しいけど、なんかね。あ、もう普通に喋ってよ。ただの男爵令嬢だし」

 侍女のメアリとラナは部屋でゆっくりしており、カレンは風に当たりたくて外に出てきた。
 いくら離縁したとはいえ、レザリア王国の元王太子妃。ノアが傍に付いている。

 酒瓶をもち、甲板で離れゆく陸を眺めながらカレンはため息をついた。
 念願叶ったはずなのに、憂を含む様子に、ノアが小さな頭をよしよしと撫でた。

「…よく頑張ったな」

 夜空に輝く星にも負けないほど神々しい金の瞳が柔らかく細められた。
 その表情は、カレンのよく知る、幼馴染の「ノアくん」だ。

「ノアくん…っ」
「お前はよく頑張ったよ」

 四年前、当時17歳のカレンは生まれ育った国キコナからレザリアに旅行中、街にお忍びで遊びにきていたライオネルに見初められてしまった。一応スコッティ家は男爵位を拝命しているが、成り上がりの爵位の上、ほぼ平民と同等。おまけに他国の男爵令嬢が王太子妃など言語道断である。
 どれだけ周囲が宥めても王太子は離してくれず、帰りたいのに帰れない膠着状態が続いた。そんな時、兄の友人で幼馴染のノアが護衛として駆けつけてくれた。多分両親から依頼されたのだろうが、彼は国の騎士団に所属していたはずだ。それでもカレンにとってやっと息ができる相手だった。


「たった17才で誘拐同然のようにこの国に嫁いで、敵ばかりの中立ち向かうってすげえよ。王族ならまだしも、ほぼ平民なのに」
「でも、ノアがいてくれた。メアリとラナも」
「ロイドもいれてやってくれよ」

 メアリはカレンの姉のような存在だった。婚約者がいるのにカレンに付いてレザリアまできてくれた。ラナは母の姉の娘、カレンにとっていとこにあたる。一応伯爵家の令嬢であるが、三姉妹の三番目で随分と自由な人だ。しっかり者のメアリ、自由人のラナ。彼女たちには何度も救われたと思う。

「ロイドねぇ」
「カレンの書類仕事大体あいつが引き受けてたからな」

 ロイドはレザリアの王城で勤めている男性ではあるが、母親がキコナ出身らしく外交官として働くカレンをよくサポートしてくれた。レザリア語を教えてくれたのもロイドで、いつも損な役割を請け負っている。きっとカレンのサポートだってハズレくじだったのだろう。
 ただ、カレンがあまりにも成果を出すので彼も一緒に昇給したはずだ。

 今頃は大量の書類に頭を抱えているだろうが昇給したことを考えると許してほしい。
 カレンの仕事は全てロイドに投げてきた。マニュアルと一緒だからあとはロイドがなんとかするだろう。

「そうそう。ごめんロイド。ロイドにも感謝してるわ」

 まだ24歳の穏やかな青年だ。仕事が忙しく愛娘の寝顔しか見れないと嘆き悲しむ子煩悩な父親でもある。

「…こうして振り返ってみると楽しかったことの方が多いのかな」

 ライオネルは我儘ではあったが、カレンにはいつも優しかった。ただやり方が強引で権力を振り翳す手法をとる典型的な貴族というだけ。だが、人生でこんなにも愛を乞うてくれる人はいるだろうかと、当時の乙女な自分は揺さぶられたのも事実。歯の浮くセリフに浮ついた時もあった。極め付けは「国相手に商売をしてみたくないか」とカレンが靡くものをすぐに理解していたことだろう。うまく言いくるめられたが、彼が一枚上手だっただけ。

 しかし、カレンもそれならといろんな条件をつけた。レザリアでは一夫多妻を認めているが、現王夫妻は珍しく恋愛結婚だったので一夫一妻制だ。そんな両親に憧れてか我儘王子も「妃は一人でいい」とずっと言っていた。一方、キコナの平民は基本一夫一妻制である。カレンはライオネルに「浮気したら離縁」だと約束させた。また「子どもがいた場合、カレンが引き取る」こと、もしそうなった時のことを考えて結婚前に離縁届にもサインしてもらった。当時のライオネルは「一生引き出しの中だな」と笑っていたが、結婚して三年で役に立った。

 そのほか、王太子が王位につくまで、社交は一切せず、外交に注力できる環境を与えてもらった。夜会にはパートナーとして出席したが、もちろん風当たりはよくない。陰湿な苛めにもあった。その都度黙って耐えてきた。その怒りをエネルギーに外交官として国を盛り上げた。これまで繋がりが薄かった国と貿易を始め、輸出量も増えた。貿易赤字から黒字へ転換し、その後も黒字が継続している。すべてカレンの功績で、ようやく周囲からちょっと変わった王太子妃として認められていたところで離縁だ。

 見知らぬ女が「寂しそうだった」というのは完全に的外れでもないとカレンは思う。
 一年の半分を他国で過ごし、国にいる間は外務卿で書類に埋まっている。少し時間があれば、街にでて国民の様子や市井の話を現地でリサーチしていた。

 とはいえ、一応夫婦だった。寝室を共にし、夜に酒を飲んで語らった日もある。
 結婚したのならちゃんと相手と向き合おうとカレンなりに努力はした。
 もし、彼との間に子どもがいたらまた違ったのかもしれない。しかし現実問題二人の間に子どもができることはなかった。

「どうなるかと思ったけどな」
「…うん。ノアもごめんね。付き合わせちゃって」
「俺が決めたことだ。カレンは気にしなくていい」

 騎士団には退団願いを出したそうだが、事情を知った団長が便宜を図ってくれたという。
 キコナに戻り次第、また一兵卒からかも、と笑っていた。

「…ただ、あの男がこのまま黙ってるかどうか」
「ライオネルのこと?」

 あぁ、とノアが頷く。

「離縁届は受理されたでしょ?」
「そっちじゃない。多分、国益は下がるだろうから」
「それは知らない」
「だが、なんとかしてカレンを連れ戻そうとする可能性はある」
「えーーー」

 もうやだ、と子どもみたいに頬を膨らませるカレンの横顔を見てノアは小さく笑う。
 ずっと張り詰めて、王太子妃として在らねばと人形のような彼女はもういない。

 ノアが七歳の時初めてカレンと出逢った。まだ三歳で舌たらずなおしゃまな女の子は、兄と同じように遊びたかったらしく、自分たちによくついて回った。最後はいつも寝てしまうのだが、寝てしまったカレンをいつも背負うのは兄エリクではなく、ノアだった。

 ノアにとって初めてあった時からカレンは庇護対象だった。素直で明るくていつも真っ白な天使。そんな天使が他国の王子に見初められたと聞いた時は「見る目があるな」と関心したほど。

「回避する方法はある」
「本当?どうやって?!」

 パッと笑顔を咲かせたカレンの目には漆黒の髪を風で靡かせて、星よりも輝きの強い瞳を閉じたノアの顔が映り込んだ。遅れてきた感触に息を飲む。

「…っ?!」

 唇に触れる柔らかいもの。ほのかに温かく、じんわりと伝わる熱に今自分が何をされているのかようやく気づく。

「俺と結婚してほしい」
「……は?」
「回避する方法」
「……え?」
「ひとまず、婚約者としてどうだろうか」

 夜空に輝く星よりも鮮やかな金色の瞳が面白そうに笑った。


 ***

 キコナの港町メルノにはスコッティ商会の本店がある。そして、カレンの生まれ育った街でもあった。
 レザリアの港を出て約十日。ようやくメルノに着けば、家族や親戚一同総出で出迎えられた。

「カレン…!」
「お父さん!お母さん…!!」

 二人の顔を見たのは結婚式が行われた三年前のことだ。
 しかし、爵位が低すぎるため、カレンはマルゴ伯爵家の養女として輿入れしており、父とバージンロードを歩くことは叶わなかった。
 両親は教会の隅で悲壮な顔で涙を浮かべていたことを覚えている。

「よく帰ってきた」
「ええ、ええ。本当に」

 ひしっと母と抱きあい、そして父ともハグをする。濡れた瞳が嬉しそうに微笑んだ。
 記憶の中より少し小さくなった母と白髪が増えた父。
 きっと自分のせいでとても心配させてしまったのだろう。

「カレン」
「お兄ちゃん…!」
「怪我はないか?守ってやれなくてごめんな」
「ううん、ううん」

 レザリアへの旅行は兄エリクも一緒だった。
 祖父と三人で同じ商船に乗り、外国のスコッティ商会を巡りながら旅をする予定だった。
 ライオネルに見初められてすぐに引き離されてしまったが、ライオネルが家族に暴力を振るったりするような人ではなかったことだけが救いだった。

 ただ、エリクはずっと後悔していたらしい。
 何度か手紙で近況を伝えていたが、やはり責任を感じていたのだろう。

 泣きながら家族と再会を喜ぶカレンの姿を少し離れた場所でノアが見守る。
 その姿に気づいたエリクがカレンを両親に任せるとノアに近づいた。

「妹をありがとう」
「いい。俺がしたくてしたことだ」
「少しゆっくりできるのか?」
「さぁ。帰ってみないとわからんな」
「今夜は泊まっていけよ。皆お前に感謝してる」

 エリクはノアの肩を抱くと、両親や祖父母にもみくちゃにされている輪の中にノアを連れて行った。

「父さん、母さん!カレンの騎士だ」
「ノアくん!」
「ノアくん、ありがとう!本当にありがとう…!」
「いえ。ご子息にもお嬢様にもお伝えしましたが、自分で決めたことなので」

 涙ながらに何度もお礼を言われノアは恥ずかしくなった。
 照れているノアを見て、カレンはくすくす笑う。

「それでもこまめに近況を教えてくれたでしょう?」
「どれだけ我々が安心したか…」
「え?そんなことしてくれてたの?」
「…俺は割と自由に時間が使えたからな」

 おまけに知らなかった心配りを今更ながら知ってカレンは驚いた。

「…ラナとメアリがそうした方がいいって」
「違いますよ。はじめはノアさんが言い出したんですよ」
「こっそり冒険者ギルドに登録していましたし」

 ラナとメアリはあっさりと暴露した。
 ノアはすーっと目を逸らす。

「冒険者ギルド?!」
「はーいやめやめ!とりあえず家に帰る。詳しくは後だ!」

 カレンが詰め寄りそうになったところでエリクが止めた。
 エリクはノアを庇うようにして立ち、カレンの肩を掴むとくるりと背中を向ける。
 そんな子どもたちを見て、父がノアと同じく功労賞の二人を労った。

「メアリもラナも娘のためにありがとう」
「いえ。お役に立てたようでよろしゅうございました」
「メアリ、婚約者殿が待ってるだろう。できれば今夜皆で祝いたいが、可能なら彼と一緒に参加してほしい。ラナは今夜うちに泊まっていきなさい。明日領地まで送る」
「わぁい!おじさまありがとうございます!」

 スコッティ商会は大陸でも五本の指に入るほど大きな商会だ。ここキコナに本店があり、各領地に必ずといっていいほど支店がある。外国にも各国複数の支店をもち、販路は年々広げていた。そんな大商会を切り盛りする商会長であり、カレンの父が優しい目でノアを見つめる。

「ノアくんも、泊まっていけばいい。…エリクとも積もる話があるだろう」
「…ありがとうございます」
「なに。数日ぐらいゆっくりしてもバチはあたらないさ」

 ノアは小さく頷くと「お世話になります」と礼儀正しく頭を下げた。


 ***

 帰国したその日。
 昼間からどんちゃん騒ぎをして、早めの解散となった。メアリは婚約者に泣きつかれて、苦笑しながらも嬉しそうに彼らの家に戻った。

 ラナは母や祖父母と王宮での出来事を面白おかしく話し、父と兄とノアが固まって冒険者ギルドでのあれこれを話した。スコッティ商会は商業ギルドに属しているので、冒険者ギルドとも関わりはある。ノアの細かい情報に三人は盛り上がっていた。

 カレンは一足早く湯を浴びて部屋に戻ってのんびりしていた。十日の船旅は、慣れているとはいえ疲れる。早いがもう寝てしまおうかと思ったころ、扉をノックする音が聞こえた。

「……俺だ。まだ起きてるか」

 その声はノアだった。
 甲板でキスされてプロポーズの言葉に驚いたあの日。カレンは逃げるように自室に戻りその日以降ノアを避けていた。なるべくノアと二人にならないように気をつけながら、メアリとラナに気づかれないようにいつも通りを心がけて船旅を過ごした。(メアリとラナは気づいていた)

「……うん。起きてるけど」

 そろりと扉を開き、隙間から彼を見上げる。
 ノアも湯を浴びたらしく、髪は洗いざらしでいつもより幼く見えた。

「少し話せるか?」
「うん。入る?」
「いや、ここでいい」

 いくら護衛だったとはいえ、いまはもうカレンとノアに明確な結びつきはない。兄の友人で幼馴染。
 だけど、カレンにとって誰よりも傍にいて安心する人だった。

「…明日の朝、帰る」
「……そっか」
「あぁ」

 沈黙が続く。二人の時はいつもカレンが話し、ノアは聞くばかり。だからカレンが黙ってしまえば会話が続かない。そして、カレンは少し怒っていた。手紙のことだって冒険者のことだって知らなかった。良かれと思ってやってくれていたのに、自分が知らないなんて、と拗ねていたのである。

「…あの夜伝えたことは本気だ」
「……え、ぁ」
「俺はお前が可愛い」
「……っ、」
「昔からずっと犬っころみたいにコロコロコロコロ」
「な!ひ、ひどい」
「褒めてるんだ」
「全然褒められてる気がしない」

 ふん、と鼻息を荒くして頬を膨らませるカレンにノアは眉を下げた。そして、その場で跪くとカレン手を取り手の甲に額を押し付ける。

「…改めていう。どうか俺の傍に。この先ずっと俺と共にあってほしい」

 カレンを見上げる瞳の奥は熱く、何かを切望するようだった。
 その望みに気づいたカレンは顔を赤くする。

「……離縁したばかりでしのびないが、また横から掻っ攫われたらたまったもんじゃないからな。俺の気持ちはきちんと伝えておく」

 ノアはそれだけ言うと立ち上がり「おやすみ」と立ち去った。翌朝彼が朝早くに出たと知り、ホッとしたような少しだけ寂しいような、カレンは複雑な気持ちで王都のある方面を窓から眺めていた。


 ***

 ノアが王都ボルンに戻り一週間。
 あれからカレンは今更ながら、ノアの出自についてエリクから聞いた。

 ノアは前国王の息子で、王弟であること。
 幼い頃、ラグモア公爵家で育ったこと。
 ただし、本人は王位に興味はないので成人の儀のあと王位継承権を放棄していること。

 ラグモア公爵はメルノ港を持つ、この地を収める領主だ。ノアは昔から「ノア」としか名乗らなかったので、てっきり平民だと思い込んでいたが、本名は『ヴィクトル・ノア・キコナ』というらしい。

 さらに、ノアは王都の騎士団で副団長だった。カレンの護衛としてレザリアに駆けつけたので、役職は返上したらしいが、籍は未だ騎士団にあるという。そして今再び団に戻り、彼は再びその地位を願われる立場であるという。

「カレンー、倉庫片付けてきて」
「はぁい」

 カレンはモヤモヤとした気持ちを抱いていた。ノアの噂は王都から馬車で5日離れた港町にも届いている。黒髪の貴公子は瞬く間にご令嬢たちの的だ。カレンは全然面白くなかった。
 こんなにも近くにいたのに、ノアのことを一番よく知っているつもりだったのに、誰よりも彼のことを知らなかったとは、なんと滑稽だろうか。

 カレンは倉庫を片付けながらノアのことを考える。
 いつも傍にいてくれたのに、今隣にいないことが寂しい。

「…傍にいてほしいって言ったくせに、…いないじゃん!釣った魚に餌はやらんタイプですかっ!なんで私がこんなに悩んで」
「へえ。ノアに告われたのか」
「げ」
「げってなんだ、げって」

 一人だと油断していたら倉庫の入り口に兄が立っていた。そして面白そうにニヤニヤとしている。

「ま、ノアは言葉たらずなところがあるからな」
「そうなの!」
「でも、言いたくなかったんじゃねえか。カレンにとって王族っていいイメージないだろ?」

 王族と言われるとどうしてもライオネルの顔が浮かんでしまう。
 彼は我儘ではあったし、権力でなんでも押し通そうとする我の強いタイプだった。
 しかし、酷いことをされたことはない。すぐに手をあげる人でもない。
 どちらかというと、自分の弱さを権力で隠す人だ。未熟さを誤魔化すために権力でなんとかしようとする小物である。そしてちょっと馬鹿。いや、だいぶ馬鹿かもしれない。悪い人ではないがどうしようもない人である。

「…そうだけど」
「ノアは、まあ、複雑なんだ、色々。だから人の輪に入るのも下手くそだし、口下手だし言葉が足りない。一匹狼って言われるけどただ不器用なだけだ。…きっと色んなものを我慢して生きてきたからだろうな、とは思う」

 エリクはノアの出生の事情を考えてふと視線を下げた。

 生まれた時から前国王の落とし胤として邪険にされ、養子に出された先でも腫れ物のように扱われていた。
 ノアはエリクたちと遊んでいる時は子どもらしい顔を見せるが、家にいる時は能面のように気配も消している。暴力を振るわれたりするわけではないが、ただただ息苦しいらしい。
 王都の学院に入学するときは「せいせいする」と言っていた。

「ただ、うかうかしてると縁談まとまるかもしれないからな。そう時間はかけられねえぞ」
「え?縁談?!ノア、結婚するの?!」
「普通ならとっくにしてるだろ。王位継承権がないとはいえ、次期公爵だぞ?現公爵はまだ若いとはいえど、親父と同じぐらいだろうし。適齢期過ぎてるしな」

 この国の貴族の適齢期は18~22歳だ。ノアはもう25歳。本来婚約者がいてもおかしくないが、ノアの場合浮いた話ひとつすらない。それがまた、ご令嬢たちにとって好感度がいいらしい。

「ノアも言ってたけど、元夫がカレンを引き戻そうとするかもしれない。それならノアとさっさとくっついた方がいい。さすがに王弟の嫁を連れて行くのは国家間に関わる問題だからな。ただ一介の商会の娘ならまた攫われて終わるぞ。俺も親父もお袋もノアなら大歓迎だ。あいつ、昔からお前のことずっと可愛がってたからな」

 じゃあな、それ片付けとけよ、と新たに積まれた荷物を指して兄は倉庫を出ていく。
 カレンはぼんやりと兄の早口言葉をゆっくりと咀嚼し、最後に指された積荷を見て、まんまと仕事を増やされたとガックリと落ち込んだ。




 それからまた一週間が経った頃、ふらりとノアが訪ねてきた。
 エリクではなくカレンに用があるという。
 突然の訪問にカレンは驚いたが、久しぶりにノアの顔を見て心が浮ついた。

 目の前に立つ彼はラフな服装なのに、いつも以上にかっこよく映った。
 キラキラと輝いて見えるのはどうしてだろうか、とカレンは内心ドギマギする。
 幼い頃は平気で「会えて嬉しい」と飛びつけたのに、今は恥ずかしくてできない。昔の自分が羨ましかった。

「夜分遅く突然すまないな」
「ど、どうしたの、ですか」

 声が盛大に裏返った。
 恥ずかしくて顔が赤くなる。
 そんなカレンを見て、ノアが揶揄うように笑った。

「なんだ、その喋り方は。いつものように普通に話してくれよ」

 無理に敬語を使おうとして失敗したことに気づかれたらしい。
 咳払いをして、次第に表情が不貞腐れていく。

「…次期公爵様なんでしょ?騎士団の副団長で王弟殿下」

 ツンと拗ねたカレンにノアは眉を下げた。
 小さい時から仲間外れにされるとよくこんな顔をしていた。
 もう21歳になるのに、それでもあの当時と変わらない。
 そしてノアはカレンに拗ねられると弱いのだ。

「……エリクに聞いたのか」
「うん」
「そっか」
「私、王弟殿下に護衛させちゃったんだ」

 しゅん、と落ち込むカレンにノアが呆れる。

「過ぎたことを気にするな。そんなタイプじゃないだろ」
「そうだけど。でも」
「でもなんだ」
「……知らないことが多過ぎて…寂しくなった」

 自分が一番近くにいたのに、とカレンがまた下を向く。

「黙っていてすまない。エリクにも俺が口止めしたんだ。カレンの前ではただの『ノア』でありたかったから」
「…うん」
「ただ生まれた先がそこだっただけで、俺は何も持ってない。だけど周囲の人間は俺に期待する。それが嫌だった」
「うん」
「でもカレンは違う。俺になんの期待も見返りも持たない。エリクもこの家の人たちもそうだ」

 ノアは真っ直ぐにカレンの目を見つめる。
 意思を持った目は強くて、目を離せないほど惹きつけられた。

「…近々正式に騎士団を辞める予定でいる。この領地を治める公爵として、義父から爵位を受け継ぐ予定だ。ただ俺は領地経営なんてしたことがないから、時間をかけて学びながら引き継ぎをしていくことになると思う」

 ノアが公爵位を継ぐということは、今後はこれまでのように自由には動けない。
 きっと忙しくて休むのもままならないだろう。それに明確に身分の差を感じることにもなる。

 これまでは腐っても「王太子妃殿下」という肩書きがあったから傍にいてくれただけ。
 ただの男爵令嬢となった今、こうして二人で話すこともままならなくなる。
 それを考えると寂しくて仕方なかった。カレンはこの時になってようやく自分の気持ちに気がついた。

「…騎士団はいいの?私が言うのもどうかと思うけど、昔から騎士になりたいって言ってたのに」

 それでも素直に気持ちを告げることができず、出かかった言葉を飲み込んで話を続けた。

 ノアはずっと『騎士になりたい。強くなりたい』と言っていた。
 そのことをいまだに覚えている。だからこそ、その夢半ばでレザリアまで駆けつけてくれたことは申し訳なくも思った。

「騎士になりたかったのは、強くなりたかったからだ。強くなって、大切な人を守れる大人になりたかった」

 実の父と母はもうこの世にはいない。兄にあたる現王にとって自分は厄介な存在だろう。
 彼はノアの出自に同情を示しているが、とはいえ国を治める者として、正しく判断しないといけない。
 現王はノアの存在を知るとすぐに養子に出した。ラグモア公爵家は長く王を支えている歴史ある家でその判断は正しいと思う。

 ただノアにとって義父母の家は息苦しく、望まれる自分は『ヴィクトル・ノア・キコナ』であり『ヴィクトル・ラグモア』である。ただ一人の人間として見てくれるのは血のつながりのないスコッティ家の面々だった。その中でもカレンはいつもノアを見ると太陽のようなオレンジ色の瞳を輝かせて嬉しそうに笑ってくれる。『ノアくん!』と足音を立てて廊下を走り玄関まで駆けつけてくれる。父の不貞で生まれた自分に、穢らわしいと蔑まれる自分をいつも抱きしめてくれたのは小さな女の子だった。

 小さな手はどこにそんな力があるんだと驚くほど強く、カレンはノアを振り回した。
 楽しかったら笑い、疲れたら眠る。気に入らなかったら怒って泣いて周囲を呆れさせた。
 くるくると変わる表情は見ていて飽きない。可愛くて危なっかしくて、ノアにとってずっと守りたい存在だった。そしていつも笑ってほしい人だった。
 まさか少し目を離した隙に国ふたつ向こうの王子に見初められるとは思わなかったが。

「…ご両親にはすでに承諾はもらっている。あとはカレンの気持ちだと」

 カレンの両親に、ノアは気持ちを伝えていた。
 初めて伝えたのは学院に入る前で、その時に彼らに正確な出自も明かした。
 カレンの両親は驚いたものの、カレンがノアに懐いていることや彼らもノアを可愛がっていたこともあり「娘次第で」と受け入れてくれた。

「…私の気持ち?」
「あぁ。カレンは俺が…他の女性とこの地を治めることになってもいいか?」

 この時カレンはノアに言われて初めてそのことを想像した。
 ついさっき自分の気持ちに気づいたばかりだ。持て余していたところに、ノアの隣に自分の知らない女性がたつ姿を想像して思い切り顔を顰めた。

 嫌だった。すごく嫌だった。

「…いや、かもしれない」
「かもしれない?」
「嫌です」
「…そうか」
「え?もう相手決まったの?」
「候補はいる。下は15歳から上は38歳まで」
「38さい…って一回り以上違う!?」

 義父母から打診された相手を聞いてノアは頭を抱えた。「想い人がいる」ことを伝えると、彼らはすぐに相手が誰か理解したらしい。スコッティ家はこの大陸でも五本の指に入るぐらい有名な商会である。その娘となれば、爵位は低くとも旨みがあるので問題ないという。貴族らしい考え方に賛成はできないが、どんな理由であれ、カレンを迎えることができるならとノアは賢く黙った。

「え?いいの?私でも。一応離縁された経験ありますが」
「事故のようなものだろう。その件については皆同情してるさ。ただ、俺とまとまることで口さがない者が出てくるだろうが。…不安か?」

 ノアの瞳はブレることなく真っ直ぐカレンを見つめたままだ。
 表情も崩れることなく、どこか硬く、真剣な様子が伝わってきた。

「…ううん。ノアがいてくれるなら大丈夫」
「俺はずっと傍にいる」

 ノアはどこか躊躇いがちにカレンを抱きしめる。
 カレンは大人しくその腕に収まると、その存在を確かめるように背中に腕を回した。

「…あのね、私。ノアのこと結構好きだと思う」
「やっと気づいたか。俺はそれ以上にカレンのことを大切に思ってるが」
「好きって言ってくれないの?」
「陳腐だな」
「分からずや!」

 むん、とむくれるカレンに笑いながらノアは頭頂部に唇を押し付ける。
 ようやく気づいてくれたにぶちんの天使にとろけるように微笑んだ。

「一回しか言わないからな」

 身を屈め、カレンの耳元に唇を寄せる。二人きりの愛の言葉は、カレンの胸に深く刻まれた。


***

 その頃、レザリアの王城ではカレンから引き継いだ仕事にロイドが顔を真っ青にしていた。
 宰相は知らないふりだ。聞きたくない、見たくない、我関せずを貫いている。しかしそれも長くは持たず、ついに国王夫妻の耳に入った。取引相手が続々と手のひらを返し始めたせいでもある。

 なんでもカレンは各国の外交問題にも一枚噛んでいた。
 レザリアを挟んで新たな国交を樹立させたり、自国では不要なものを必要な国に適正価格で流したりとあらゆる取引を行っていたのである。その実績からカレンを信用していた他国の外務卿から「カレン殿下がいないのなら取引を辞める」と言い出した。中には足元を見て、税率を上げてくる国もある。

 レザリアの外務卿も決して馬鹿ではない。ただスコッティ商会を拡大させた祖父の血を濃く引き継いだカレンが上手だった。その恩恵に預かりぬくぬくとしていたレザリアは今大きなしっぺ返しを受けている。

 国民は「王子が無理矢理嫁がせたのに、飽きて浮気して捨てた可哀想な女性」と同情し、王家に不信感を募らせた。カレンは時間があれば市井に出て、市場調査のつもりで、国民達と気さくに関わっていた。屋台で買い食いしたり、孤児院に顔を出したりとフットワークが軽い。
 また、メアリが定期的に増えていくドレスやアクセサリーを現金に変えて寄付もしていた。王都だけでなく、各地方へも与え、スラム街での炊き出しなども行った。

 一方貴族間では、遅かれ早かれこうなることを見越し、自分の娘を当てがおうと画策していた貴族達は今及び腰である。というのも、カレンの功績が大き過ぎて、比べられる娘が可哀想だと考え始めたのだ。

 カレンは社交に力を入れてなかったので、そちらで頑張ればいいと考える者もいるが、直接国に利益をもたらせた女性と比べられるのは本人も辛い。生まれながらに貴族として育った令嬢は、街で買い食いをして平民と触れ合ったり、孤児達と泥だらけになりながら大口開けて笑わないのである。

「カレンを連れ戻そう」

 ライオネルは状況を知り立ち上がった。

「何馬鹿なことを言ってる」

 国王は呆れ顔だ。もちろんここ会議室に居座る面々の殆どが国王と同じ顔をしている。

「私が誠心誠意尽くせば彼女は許してくれる」
((((そんなわけないだろう…!)))))

 元凶のお前が何を言ってるんだ、ときっと皆が思っているが口に出さない。
 ちゃらんぽらんな坊ちゃんだが、王太子である。
 彼がカレンを見初めた時、殆どの者が反対派だった。しかし、彼女の隠れた才能を知って見る目が変わった者も多い。だが結局、カエル子はカエルである。トンビが鷹を産んでくれたならまだしも、王太子は父親よりもさらに凡庸で、母からしっかりと恋愛脳を受け継いでいたらしい。

「カレンはまだ私のことを好きなはずだ」
(((((どこからくるんだ、その自信は)))))

「というわけで、私がキコナまで迎えにいく」
(((((どうして『というわけ』なんだ))))))

 国王は驚きのあまりポカンと息子を見ていた。
 少しはマシになったかと思ったが、それもまたカレンのおかげだったのかもしれないと思い始める。

「ライオネル。執務はどうする」
「カレンの方が大切です」
「カレン殿を連れ帰ってどうするんだ」
「どうするって。もう一度夫婦をやり直すんですよ」
「マクレガン侯爵の娘はどうする」
「彼女は執務はしたくないというので。それに側妃でいいそうです」
(((((側妃でいいそうです、じゃないだろう))))

「レザリアは一夫多妻ですよね、父上」
「それはそうだが」
「カレンに戻ってきてもらわないと国民達が可哀想ですし、問題も解決しません」
((((いや、可哀想なのはカレン様だよ)))))

「…少しはマシになったかと思ったが…私はどこで間違えたんだ」

 ぶつぶつと呟く国王にこの場にいた殆どが残念な目を向けていた。
 こんな王だからこそ、支えないといけない。彼らは大きく吐き出したいため息を堪えて項垂れた。


 ***

 ノアは冒険者ギルドを通じてロイドから緊急の手紙を受け取ると、兄の現王と義父を巻き込んでレザリアに抗議した。簡単に言えば「何勝手なことをほざいてやがる。散々振り回したのはてめえだろうが。この地は絶対踏ませねえぞ」というやつだ。「きちんと息子の手綱を引け」とも書いた。国王はきっと頭が痛いだろう。

 とはいえ、思い込みが激しいライオネルは自分のしたことを棚に上げてキコナに入国しようと計画しているらしい。幼い頃から可哀想なぐらい自分の立場を弁えていた弟から頼られた国王はすぐに国中にレザリアからの入国者を厳しく取り締まるように触れを出した。そしてレザリアに隣接している国にも情報提供を呼びかけた。他国でもライオネルとカレンの話は面白おかしく吟遊詩人に語られているのでどの国も同情的である。

 しかし、このままではライオネルは黙っていないだろう。少なくとも夫婦として三年過ごした相手だ。カレンはライオネルのことを見誤っていなかった。

 この日カレンは、父とエリク、ノアと共に王城にいた。
 初めて会うキコナの王はレザリアの王より威圧感がある。為政者としてのオーラだろうか。ただ、どこかカレンを見る目が優しく感じるのはノアと同じ金の瞳のせいかもしれない。血のつながりを感じてカレンは少しだけ嬉しかった。

「お初にお目にかかります。カレン・スコッティと申します」

 レザリアで習った王太子妃教育がここで役に立つようだと気合いを入れて挨拶を述べたが、王は笑いながら「楽にしてほしい」とカレンを制した。

「私も堅苦しいものは好きじゃない。それと効率が悪いのも嫌いだ。ノア、お前もそうだろう」

 カカと笑うと目尻が垂れる。その顔はやっぱりどことなくノアと似ていた。
 そして効率を重視するところも似ている。つまり無駄が嫌いなのだ。

「恐れながら発言してもよろしいでしょうか?」

 エリクが手を上げた。

「あぁ、構わん。いちいち許可もいらん」
「恐れ入ります。…カレンの兄エリクです。元々私が次期商会長として外交部門をまとめるつもりでした。それを一時的に妹…カレンに立たせます。これまで国と国で貿易していた販路の他に、スコッティ商会を通じるルートを作ります。どちらのルートを使うか各国に任せますが、これで取引がなくなることはないでしょう」
「税率の交渉も可能、と」
「はい」

 これまで各国は国の決まったルールで貿易をしていたはずだ。ただそこに民間の商会が入ることでルートを増やした。商品によってどちらのルートを使ってもいいようにするのだ。どのルートを使うかは、各国相談ベースになるが、悪い手ではない。柵も軽減されるだろう。国にとってスコッティ商会と取引する体になるのだから。

 この提案はレザリアに為されて、すぐに承諾された。あちらは今すぐにでもなんとか解決したい案件だったらしく、カレンの名前を出せばすんなり通った。うまく回らない場合はその時である。そしてその時はスコッティ商会に責任を押し付ければいいとも考えたのだろう。手紙でロイドからグチグチと言われたが、元気そうでよかったと思う。

「ロイドは相変わらずだね。会ったらすごく文句言われそう」

 王城で話し合いをした夜、初めて二人で城下町を歩く。陽が落ちるのが遅いせいか、レザリアならとっくに夜になっている時間なのに、まだ外は明るい。それを不思議に思いながら、カレンは屋台で買い食いをしていた。

「それと、ごめんね。勝手に決めて」
「仕方ない。その代わり先に籍だけ入れさせてもらえたんだ。十分すぎる対応だ」
「皆ノアのこと大好きだからね」

 カレンがしばらくキコナを離れるため、ノアは先に入籍の手続きを進めた。
 国王直々に二人の婚姻届にサインされ、その場で受理された。レザリアでは教会で手続きする必要があったが、キコナでは爵位を持つ貴族は国王・もしくはそれに等しい者のサインが必要であり、見届け人として、カレンの父と兄、そしてノアの義父であるラグモア公爵が立ち会った。

「でも公爵夫人か…。それもまた大変な」
「カレンは今まで通り好きにしたらいい。幸い港町だし、店もある。外交もしやすいだろう」
「社交しないくていいの?」
「これまでもしていないから構わない」

 義父も滅多に夜会に出ない人だ。義母も賑やかな場所が苦手らしい。
 それを考えると似た気質の人でよかったとノアは思う。

「挙式は本当にメルノでいいの?」
「あぁ。問題ない」

 王位継承権がないとはいえ、王弟殿下であり、次期公爵だ。大々的にお披露目が必要かと思えばノアは否定した。ちなみに結婚式はカレンが戻ってきてから行われる予定である。

「なんかお兄とお母さんがごめんね」
「いや。面白かった」

 兄が「エリク義兄さんって呼んでいいぞ」と茶化したら、ノアが素直に受け取って「エリク義兄さん」と呼んだ。その時のエリクの顔がとても面白かったらしい。

「ねえ、そういえば…っいたっ」
「すまない、人を探して…っ、カレン!」

 城下町は賑わい人で溢れていた。ノアばかりを見て周囲を見ていなかったカレンは同じく注意散漫になっていた男性とぶつかった。そしてその声はかなり聞き覚えがある。

 ノアは声を聞いた瞬間、カレンを後ろに隠すように距離をとった。

「え、どうしていらっしゃるのっ?!」
「迎えにきたからにきまってるだろう!」

 ふはははは、と自慢げに笑うライオネルにカレンが項垂れる。
 ノアは警戒し、周囲を見渡した。距離を取ってついてきていた護衛が走る姿を横目にしてホッと安堵する。そして、カレンの元夫を睨みつけた。

「ふん。一介の騎士が偉そうだな。元々気に食わなかったが」
「奇遇だな。俺もあんたのことは大嫌いだ」

 なんだなんだ、と人だかりができる。
 ノアがこんなふうに目上の者に牙を剥くことは初めてだったのでカレンは驚いた。

「お前、カレンのこと好きだったんだろ。残念だな。カレンは俺のことが大好きなんだ」
「は?嫌いよ」
「え?」
「むしろどうして好きだと思えるの」

 間髪いれず、カレンがノアの後ろから口撃する。好きだと思われているなんて心外だ。

「あ、愛を誓ったではないか!」
「浮気したのは誰ですか」
「うむ。それはすまなかった。だからもう一度やり直そう」

 そうか、そんなに俺のことが好きか、とライオネルの頬が緩んでいる。
 このおめでたい頭を思い切り叩いてやりたいが、腐っても王子だ。
 こんなことすると国際問題になる。

「申し遅れた。私はヴィクトル・ノア・キコナ。そしてカレンは先ほど私の妻になった。この意味お分かりだろうか」
「おのれ…!不敬罪だ!私に向かって何を言っている!どうせ身分を偽るぐらいだ。王継承権などないだろう!」
「それがどうした」
「よし、離縁だ!離縁しろ!カレン戻ってきてくれ。俺はお前がいないと」
「私の妻だ。これ以上は控えてもらおう」

 獣のような唸るような声。隠し持っていた短剣にノアは手をかけた。
 ピリピリとした威圧に、ライオネルが「ヒィ」と小さく悲鳴を上げる。
 驚いてカレンに詰め寄った身体が反り返った。

「す、ストップ!ストーーップ!!つ、捕まえましたよ!ノア殿、申し訳ない!この通り、すぐに連れ帰りますので、そのお怒りをおさめていただきたく…!」

 周囲の野次馬の中には倒れる者が出ていた。
 そういう彼も顔色を失くしている。
 ライオネルに至ってはその場に座り込みそうになり、それを脇から支えるようにして捕まえたのが、ライオネルの側近の一人、ケビンだった。

「げ、ケビン!」
「ライオネル様のそういうところ良くないですよ!ご無沙汰しております、カレン様。今すぐこの馬鹿を連れて帰りますので。どうかどうかお許しを…!」
「ケビン殿、…いつもご苦労様です」
「全くです!もう少し考えて行動してください、とあれだけ言ってるでしょう!」
「嫌だ。カレンを連れて帰るのだ」
「カレン様が嫌がっておいでです。いいかげん嫌われていると理解してください」
「それは私が浮気したせいだ。もうカレンしか見ないから平気だ。もう一度やり直そう!な?な?、おい、ケビン離せ!離せ~~~~」

 ライオネルは秘密裏に他国の船に混じり入国していたらしい。
 レザリア側から深く謝罪があり、国王は息子に蟄居を命じたという。

 余談だが、この話はこれまでの話に加えられ、大陸の御伽噺としておもしろおかしく広まった。
 レザリア王国の王室は次世代以降、特に厳しい教育が始まるきっかけとなる。
 カレンは傾国の妃、商売の女神として歴史上に名を連ねることになるがそれはまた別のお話しだった。


***

「…カレン、綺麗よ」
「うんうん。母さんに似て綺麗だ」
「まぁ、お父さんったら」

 カレンとノアが入籍して二年の月日が経った。
 スコッティ商会がルートをとりなすことでレザリアを含め国交問題は無事解決し、商売として軌道にも乗り始めている。カレンは半年前に帰国し、秋晴れの空の下、本日ノアと結婚式の当日を迎えていた。

 母と父は笑顔で涙ぐみ、カレンを褒め倒している。
 レザリアの教会では悲壮感溢れていた両親が今は晴れやかな笑顔だった。

「カレン」
「ノア!」

 そこへノアがカレンを訪ねてきた。
 シルバーのフロックコートに身を包んだ彼はとてもかっこいい。
 思わず見惚れているとノアがそっと目を逸らした。

「…き、綺麗だ」
「あ、ありがとう…。ノアも素敵だよ」
「そ、そうか。それならよかった」

 ニマニマする両親と茶化してやろうと笑っている兄が立ち上がる。
 そそくさと部屋を出ていく三人を見送ると急に恥ずかしくなった。

「…ノあ、」

 ノアが照れくささを隠すようにカレンを抱きしめる。
 そして小さな声で「…長かった」とため息を吐き出した。

「うん?ごめんね?準備に時間がかかって」
「違う。やっと、捕まえたと思ったら、離れていくし、カレンは…全然寂しそうじゃないし」

 離れている間、手紙のやりとりをした。意外とノアは筆まめで、カレンが一通返す間にノアから三通も四通も届いた。ノアは楽しそうに生き生きと世界を飛び回る妻を邪魔したくなかったので「寂しい、会いたい」と言えなかった。女々しいと思われるのも癪なので我慢していたが、達成感に溢れた顔をして帰ってきた時は少しだけ恨めしく思ったものだ。

「…そ、そんなことないよ」
「まあ、…そういうことにしといてやるか」
「これからずっと一緒にいられるし」
「…あんまり期待しないでおく」
「えーーー?私信用ないの」

 外交部門は全て兄に引き継いだ。もうしばらくカレンが飛び回ることはないはずだ。

「カレン」

 腕の中で不服そうにしている可愛らしい妻を見てノアは相好を崩す。
 ようやく捕まえた愛しい人だ。生まれてきた存在を否定されて生きてきたノアにとって、カレンは初めて自分の全てを肯定してくれた天使だった。

 そんな天使が攫われた。ノアは話を聞くや否や、騎士団を辞めレザリアに駆けつけた。
 カレンとライオネルの結婚式は怒りを抑えるのに大変苦労した。
 何度ぶち壊してやろうかと思ったか分からず、ずっとメアリに嗜められた。

 とはいえ、色んな条件を付けて結婚を受け入れたものの、カレンを祝福するものはおらず、ただライオネルの我儘だったのだ。参加者のほとんどがヒソヒソとカレン悪口をいい、非常に胸糞悪い式。
 そんな心細い挙式の夜。ライオネルの部屋に向かう彼女をどうやって引き止めようかと画策した。
 「バカなことはやめろ」とメアリとラナに止められなければ、男を毒殺していたかもしれない。

 浴びるように酒を飲んで眠れない夜をやり過ごし、せめて子どもだけは阻止したいと、秘密裏に子が流れやすい薬を手に入れてカレンの飲み物に混ぜた。おかげで身籠ることなく今日を迎えている。

 その他も色々と言えないことを計画し、バレないようこっそりと二人の距離が離れるよう妨害してきた。
 そしてようやく実を結び、この日が実現した。長かった。ノアはもう28歳の年だ。初めてカレンに出会って21年以上。ようやく本当の意味で捕まえたのだ。

「…一生大切にする。誰よりもきみを愛すると誓う」

 彼女を傷つけた分それ以上に大切にしようと思う。ただのエゴかもしれない。
 だけど、カレンが今幸せそうに笑ってくれるなら、すべてこれでよかったと思える。

「だからいつもみたいに…笑ってくれ」

 できれば一生自分だけにその笑みを向けてほしい。
 カレンが喜んでくれるならノアはなんでもしようと思う。
 だからどれだけ歯の浮くセリフでも、恥を忍んで伝えよう。
 それがノアにできる罪滅ぼしだから。

「ふふ。仕方ないから笑ってあげる」
「あぁ。カレンが笑ってくれればそれでいい」
「傍にいなくても?」
「それは困る」
「ノアって寂しがりなんだね」
「…悪いか」

 珍しく素直になった夫にカレンは目を丸くすると声を立てて笑った。
 そんな妻の唇をノアは優しく塞ぐ。

 嬉しくて幸せで、どうかこの幸せが末長く続きますように。
 これから始まる新しい生活に思いを馳せながら、心の中で二人こっそりと祈ったのだった。

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みんなの感想(1件)

turarin
2024.04.15 turarin

ノア、陰でいろんなことやってたんですね〜清廉潔白じゃ無いところも人間らしくていいなあ…と思いました。
末永くお幸せに〜!

解除
1 / 5

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