6 / 6
第6話 冷たい手を包む暖炉の灯り
しおりを挟む
夜の静寂が深まる頃、レティシアの家の暖炉はぱちぱちと音を立てていた。
外は容赦なく雪が降りつけている。風が壁を叩き、窓のすき間から入り込む冷気がろうそくの炎を小さく揺らした。
村の誰もが早々に家へ引き上げてしまうほどの吹雪の夜。
レティシアは暖炉の前に腰を下ろし、編み物をしていた。
この地に来てから手を動かす時間が増えた。思考を止めて糸を編むことで、過去の痛みを少しだけ遠ざけることができるのだ。
完成しかけた手袋を膝に置きながら、彼女はため息をついた。
――リアン様にも、寒さは堪えるのだろうか。
そう思ったとき、不意に扉を叩く音が響いた。
こんな悪天候の夜に誰が、と驚きながら扉を開けると、雪を被ったリアンが立っていた。
「こんな時間に……!」
「視察に出ていた兵の帰還報告があってな。途中で吹雪が強くなったから、帰る前に君の家の明かりが見えた。少し休ませてもらえるか?」
レティシアは慌てて頷いた。
「もちろんです。どうぞ、中へ」
リアンが入ると同時に、雪の粒が室内に舞い込んだ。冷気を遮るため、彼女は急いで扉を閉める。
その背後でリアンが静かに外套を脱ぎ、暖炉の前に立った。
「この辺りは吹雪になると途端に方向感覚が狂う。村人も外へ出るのは控えているだろうが、念のため明日は避難の呼びかけを出しておこう」
「……はい。わたくしも何かお手伝いを」
「充分助かっている。薬草の仕分けを任せてから、供給が安定した。皆感謝しているよ」
リアンの低い声は、夜の静けさの中に溶けて心地よく響いた。
その言葉にレティシアは頬を染めた。褒められることに慣れていないせいで、胸の奥がくすぐったい。
「ありがとうございます。でも、まだまだ未熟で……」
「それでいい。足りないものがあるからこそ、人は前を向ける」
リアンは暖炉の火に薪を一本くべると、少し微笑んだ。
橙の光が彼の横顔を照らし、影が壁に美しく伸びる。
「君はずっと冷えた手をしているな」
突然言われ、レティシアは指先を見つめた。
編みかけの手袋をしていない右手は、白くかじかんでいる。
「…作業をしていたせいで。大丈夫です、すぐ温まりますから」
「駄目だ。凍傷になる」
リアンはそう言うと、ためらいもなく椅子を引き寄せ、彼女の真正面に座った。
そして、レティシアの手を取った。
驚きで息が詰まる。
けれど彼の手は思いのほかあたたかく、確かな力で包み込んでくれる。
まるで凍った心の奥を溶かしていくように、じんわりと血がめぐっていった。
「……そんなふうに、手を……」
「医者代わりの心得がある。冷えを放置するより、直接温めたほうが早い」
理屈を並べながらも、リアンの声はどこか優しい。
彼の指先がかすかに震えているのは、冷気のせいだけではないように思えた。
沈黙が落ちる。
ただ、暖炉の火がぱちぱちと音を立て、雪が窓を叩く音が遠くに響く。
レティシアは彼を見つめた。
長い睫毛の影、真剣な眼差し、揺れる橙の光に染まる横顔――
その全てが、胸の奥に静かに焼き付いていく。
「……リアン様。いつも、ありがとうございます」
「礼なんて要らない。俺は自分のしたいことをしているだけだ」
「いいえ。わたくし……この村に来てから初めて、生きていると感じました。誰にも必要とされないと思っていたのに、あなたが居場所をくれた」
リアンは少し目を伏せた。
彼女の言葉が、心の奥の見えない部分に届いたのかのように、表情がわずかに崩れる。
「俺は……君がここに来てくれて良かったと思っている。あの日拾ったのが君でなければ、きっと今と同じ場所にはいなかった」
暖炉の炎が、彼の低いつぶやきに合わせて小さく揺れた。
レティシアはその言葉を聞いて、胸の奥が温かい痛みに満たされる。
自分だけでなく、この人もまた孤独を抱えているのだと気づいた。
「リアン様……わたくしにも、あなたにできることがあればいいのですが」
「あるさ。君の笑顔があるだけで、村の者は救われている。俺も、そうだ」
その一言に、レティシアの胸が跳ねた。
思わず手を引こうとするが、リアンは離さない。
ただ、かすかに表情を緩める。
「手がようやく温まった。……少し赤くなっているな。痛みは?」
「いえ、大丈夫です」
「なら良かった」
リアンはそのまま静かに手を放した。温もりが離れていくと、ほんの少しだけ心細くなる。
彼は立ち上がり、外套を肩にかけた。
「本当なら今夜は屋敷に戻るつもりだったが、この吹雪では危険だ。離れの客室を借りてもいいか?」
「もちろんです。どうぞ」
「助かる。それと――」
リアンは扉の前で振り返った。
炎の光が再び彼の瞳を照らす。
深い森のような緑色の瞳に、レティシアの姿が映っていた。
「無理はするな。王都の痛みは一朝一夕で癒えるものではない。けれど、焦る必要もない」
「……はい」
「君がこの村にいる間、何があっても俺が守る。そう決めた」
レティシアはその言葉を受け止め切れず、ただ短く頷いた。
彼の背中が扉の向こうに消え、静寂が再び部屋を満たす。
暖炉の火はまだ燃えていた。
けれど、その炎よりも心の中の熱の方が確かに強く、長く残った。
レティシアは手を胸に当て、そっと微笑む。
「……あの人は、本当に冷徹なのかしら」
今夜ばかりは、誰もがその言葉を信じないだろう。
窓の外には、まだ降りやまぬ雪。
だが夜空のどこかで、確かに春の兆しが小さく息をしていた。
続く
外は容赦なく雪が降りつけている。風が壁を叩き、窓のすき間から入り込む冷気がろうそくの炎を小さく揺らした。
村の誰もが早々に家へ引き上げてしまうほどの吹雪の夜。
レティシアは暖炉の前に腰を下ろし、編み物をしていた。
この地に来てから手を動かす時間が増えた。思考を止めて糸を編むことで、過去の痛みを少しだけ遠ざけることができるのだ。
完成しかけた手袋を膝に置きながら、彼女はため息をついた。
――リアン様にも、寒さは堪えるのだろうか。
そう思ったとき、不意に扉を叩く音が響いた。
こんな悪天候の夜に誰が、と驚きながら扉を開けると、雪を被ったリアンが立っていた。
「こんな時間に……!」
「視察に出ていた兵の帰還報告があってな。途中で吹雪が強くなったから、帰る前に君の家の明かりが見えた。少し休ませてもらえるか?」
レティシアは慌てて頷いた。
「もちろんです。どうぞ、中へ」
リアンが入ると同時に、雪の粒が室内に舞い込んだ。冷気を遮るため、彼女は急いで扉を閉める。
その背後でリアンが静かに外套を脱ぎ、暖炉の前に立った。
「この辺りは吹雪になると途端に方向感覚が狂う。村人も外へ出るのは控えているだろうが、念のため明日は避難の呼びかけを出しておこう」
「……はい。わたくしも何かお手伝いを」
「充分助かっている。薬草の仕分けを任せてから、供給が安定した。皆感謝しているよ」
リアンの低い声は、夜の静けさの中に溶けて心地よく響いた。
その言葉にレティシアは頬を染めた。褒められることに慣れていないせいで、胸の奥がくすぐったい。
「ありがとうございます。でも、まだまだ未熟で……」
「それでいい。足りないものがあるからこそ、人は前を向ける」
リアンは暖炉の火に薪を一本くべると、少し微笑んだ。
橙の光が彼の横顔を照らし、影が壁に美しく伸びる。
「君はずっと冷えた手をしているな」
突然言われ、レティシアは指先を見つめた。
編みかけの手袋をしていない右手は、白くかじかんでいる。
「…作業をしていたせいで。大丈夫です、すぐ温まりますから」
「駄目だ。凍傷になる」
リアンはそう言うと、ためらいもなく椅子を引き寄せ、彼女の真正面に座った。
そして、レティシアの手を取った。
驚きで息が詰まる。
けれど彼の手は思いのほかあたたかく、確かな力で包み込んでくれる。
まるで凍った心の奥を溶かしていくように、じんわりと血がめぐっていった。
「……そんなふうに、手を……」
「医者代わりの心得がある。冷えを放置するより、直接温めたほうが早い」
理屈を並べながらも、リアンの声はどこか優しい。
彼の指先がかすかに震えているのは、冷気のせいだけではないように思えた。
沈黙が落ちる。
ただ、暖炉の火がぱちぱちと音を立て、雪が窓を叩く音が遠くに響く。
レティシアは彼を見つめた。
長い睫毛の影、真剣な眼差し、揺れる橙の光に染まる横顔――
その全てが、胸の奥に静かに焼き付いていく。
「……リアン様。いつも、ありがとうございます」
「礼なんて要らない。俺は自分のしたいことをしているだけだ」
「いいえ。わたくし……この村に来てから初めて、生きていると感じました。誰にも必要とされないと思っていたのに、あなたが居場所をくれた」
リアンは少し目を伏せた。
彼女の言葉が、心の奥の見えない部分に届いたのかのように、表情がわずかに崩れる。
「俺は……君がここに来てくれて良かったと思っている。あの日拾ったのが君でなければ、きっと今と同じ場所にはいなかった」
暖炉の炎が、彼の低いつぶやきに合わせて小さく揺れた。
レティシアはその言葉を聞いて、胸の奥が温かい痛みに満たされる。
自分だけでなく、この人もまた孤独を抱えているのだと気づいた。
「リアン様……わたくしにも、あなたにできることがあればいいのですが」
「あるさ。君の笑顔があるだけで、村の者は救われている。俺も、そうだ」
その一言に、レティシアの胸が跳ねた。
思わず手を引こうとするが、リアンは離さない。
ただ、かすかに表情を緩める。
「手がようやく温まった。……少し赤くなっているな。痛みは?」
「いえ、大丈夫です」
「なら良かった」
リアンはそのまま静かに手を放した。温もりが離れていくと、ほんの少しだけ心細くなる。
彼は立ち上がり、外套を肩にかけた。
「本当なら今夜は屋敷に戻るつもりだったが、この吹雪では危険だ。離れの客室を借りてもいいか?」
「もちろんです。どうぞ」
「助かる。それと――」
リアンは扉の前で振り返った。
炎の光が再び彼の瞳を照らす。
深い森のような緑色の瞳に、レティシアの姿が映っていた。
「無理はするな。王都の痛みは一朝一夕で癒えるものではない。けれど、焦る必要もない」
「……はい」
「君がこの村にいる間、何があっても俺が守る。そう決めた」
レティシアはその言葉を受け止め切れず、ただ短く頷いた。
彼の背中が扉の向こうに消え、静寂が再び部屋を満たす。
暖炉の火はまだ燃えていた。
けれど、その炎よりも心の中の熱の方が確かに強く、長く残った。
レティシアは手を胸に当て、そっと微笑む。
「……あの人は、本当に冷徹なのかしら」
今夜ばかりは、誰もがその言葉を信じないだろう。
窓の外には、まだ降りやまぬ雪。
だが夜空のどこかで、確かに春の兆しが小さく息をしていた。
続く
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
結婚して5年、初めて口を利きました
宮野 楓
恋愛
―――出会って、結婚して5年。一度も口を聞いたことがない。
ミリエルと旦那様であるロイスの政略結婚が他と違う点を挙げよ、と言えばこれに尽きるだろう。
その二人が5年の月日を経て邂逅するとき
完結 冗談で済ますつもりでしょうが、そうはいきません。
音爽(ネソウ)
恋愛
王子の幼馴染はいつもわがまま放題。それを放置する。
結婚式でもやらかして私の挙式はメチャクチャに
「ほんの冗談さ」と王子は軽くあしらうが、そこに一人の男性が現れて……
「お前との婚約はなかったことに」と言われたので、全財産持って逃げました
ほーみ
恋愛
その日、私は生まれて初めて「人間ってここまで自己中心的になれるんだ」と知った。
「レイナ・エルンスト。お前との婚約は、なかったことにしたい」
そう言ったのは、私の婚約者であり王太子であるエドワルド殿下だった。
「……は?」
まぬけな声が出た。無理もない。私は何の前触れもなく、突然、婚約を破棄されたのだから。
【完結】「お前とは結婚できない」と言われたので出奔したら、なぜか追いかけられています
22時完結
恋愛
「すまない、リディア。お前とは結婚できない」
そう告げたのは、長年婚約者だった王太子エドワード殿下。
理由は、「本当に愛する女性ができたから」――つまり、私以外に好きな人ができたということ。
(まあ、そんな気はしてました)
社交界では目立たない私は、王太子にとってただの「義務」でしかなかったのだろう。
未練もないし、王宮に居続ける理由もない。
だから、婚約破棄されたその日に領地に引きこもるため出奔した。
これからは自由に静かに暮らそう!
そう思っていたのに――
「……なぜ、殿下がここに?」
「お前がいなくなって、ようやく気づいた。リディア、お前が必要だ」
婚約破棄を言い渡した本人が、なぜか私を追いかけてきた!?
さらに、冷酷な王国宰相や腹黒な公爵まで現れて、次々に私を手に入れようとしてくる。
「お前は王妃になるべき女性だ。逃がすわけがない」
「いいや、俺の妻になるべきだろう?」
「……私、ただ田舎で静かに暮らしたいだけなんですけど!!」
わたしはくじ引きで選ばれたにすぎない婚約者だったらしい
よーこ
恋愛
特に美しくもなく、賢くもなく、家柄はそこそこでしかない伯爵令嬢リリアーナは、婚約後六年経ったある日、婚約者である大好きな第二王子に自分が未来の王子妃として選ばれた理由を尋ねてみた。
王子の答えはこうだった。
「くじで引いた紙にリリアーナの名前が書かれていたから」
え、わたし、そんな取るに足らない存在でしかなかったの?!
思い出してみれば、今まで王子に「好きだ」みたいなことを言われたことがない。
ショックを受けたリリアーナは……。
短編 跡継ぎを産めない原因は私だと決めつけられていましたが、子ができないのは夫の方でした
朝陽千早
恋愛
侯爵家に嫁いで三年。
子を授からないのは私のせいだと、夫や周囲から責められてきた。
だがある日、夫は使用人が子を身籠ったと告げ、「その子を跡継ぎとして育てろ」と言い出す。
――私は静かに調べた。
夫が知らないまま目を背けてきた“事実”を、ひとつずつ確かめて。
嘘も責任も押しつけられる人生に別れを告げて、私は自分の足で、新たな道を歩き出す。
夫から『お前を愛することはない』と言われたので、お返しついでに彼のお友達をお招きした結果。
古森真朝
ファンタジー
「クラリッサ・ベル・グレイヴィア伯爵令嬢、あらかじめ言っておく。
俺がお前を愛することは、この先決してない。期待など一切するな!」
新婚初日、花嫁に真っ向から言い放った新郎アドルフ。それに対して、クラリッサが返したのは――
※ぬるいですがホラー要素があります。苦手な方はご注意ください。
地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに
有賀冬馬
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。
選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。
地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。
失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。
「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」
彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。
そして、私は彼の正妃として王都へ……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる