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「ミール・ヴァン・ダレス公爵令嬢! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!!」
王立学園の卒業パーティー会場。
シャンデリアが煌めく大広間の中心で、ヒステリックな絶叫が響き渡った。
音楽は止まり、談笑していた貴族たちは水を打ったように静まり返る。
衆人環視の中、ひとりの男が指を突きつけていた。
この国の第一王子、オズワルドである。
金髪碧眼、白馬の王子様を地で行く容姿の彼は今、顔を真っ赤にして憤慨していた。
その隣には、小動物のように震える桃色の髪の少女。男爵令嬢のリリアだ。
二人は寄り添い、まるで世界の敵と対峙するかのような悲壮感を漂わせている。
対して、指を突きつけられた当の本人――公爵令嬢ミール・ヴァン・ダレスは。
(……誰?)
首を傾げていた。
いや、正確には「誰」か判別がつかなかったのである。
ミールの視界は、すりガラス越しに世界を見ているかのようにぼやけていた。
会場の照明は滲んだ光の輪となり、目の前の人物は「金色の縦長のモヤ」と「桃色の丸いモヤ」にしか見えない。
彼女は、重度の近眼だった。
しかも今日は、人生最大の不運に見舞われていた。
馬車の中で眼鏡を落とし、従者がそれを踏み砕いてしまったのだ。
(えっと、あの金色のモヤが喋ったのよね。声のトーンからしてオズワルド殿下かしら? でも、なんで叫んでるの? 今日のメインディッシュのお肉が品切れになったとか?)
ミールにとって、花より団子、恋より食欲である。
朝からコルセットで締め上げられ、何も食べていない彼女の思考は「空腹」一色だった。
(何が起きているのか確認しないと。目を凝らせば、少しは見えるはず……)
ミールは顔面の筋肉を総動員した。
眉間に深いシワを寄せ、目を極限まで細め、顎を引いて対象を睨みつける。
それは、獲物を狩る直前の猛獣、あるいは地獄の底から這い出た悪鬼羅刹の形相だった。
「ひっ……!」
桃色のモヤ(リリア)が悲鳴を上げて、金色のモヤ(王子)の背後に隠れる。
「き、貴様! なんだその目は! 逆ギレか!? 自分の罪を暴かれて、私を殺そうというのか!」
「……は?」
ミールはドスの効いた低い声を出した。
単に「よく聞こえなかったから聞き返した」だけなのだが、周囲の貴族たちは恐怖に戦慄いた。
「見ろ、あの目……! 殺る気だぞ」
「『処刑してやる』と言わんばかりの殺気だわ」
「さすが『氷の処刑人』……婚約破棄を突きつけられても眉一つ動かさず、逆に威圧するとは」
周囲のヒソヒソ声は、残念ながらミールの耳には届かない。
彼女は必死で、目の前の「金色のモヤ」の表情を読み取ろうと、さらに一歩、ズイと足を踏み出した。
「うわあああ! 寄るな! こ、こっちに来るなあああ!」
オズワルド王子が情けない声を上げて後ずさる。
ミールは心の中で首を傾げた。
(なんで逃げるの? 私、今日そんなにニンニク臭いかしら? それともドレスにソースでも付いてる?)
確認しようと視線を自分の胸元に落とす。
その動作すら、周囲には「懐に隠した暗器を確認した」ように映ったらしい。
騎士たちがガチャリと剣の柄に手をかけた。
「ええい、控えろミール! 貴様の悪事はすべて調べがついているのだ!」
王子が震える声で叫ぶ。
「リリアへの陰湿な嫌がらせ! 教科書を隠し、階段から突き落とそうとし、あまつさえ『目障りだから消えろ』と暴言を吐いたそうだな!」
(……え? 私が?)
ミールは記憶の引き出しをひっくり返した。
教科書を隠した記憶はない。ただ、リリアが落とした教科書を拾ってあげようとした際、距離感が掴めずに空振りして、さらに遠くへ蹴っ飛ばしてしまったことはある。あれは事故だ。
階段から突き落とそうとした記憶もない。階段で躓きかけたリリアを助けようとして手を伸ばしたが、やはり距離感が掴めずに肩を鷲掴みにしてしまい、「痛い!」と泣かれたことはある。あれは人助け(失敗)だ。
そして「目障りだから消えろ」などと言うはずがない。
そもそも見えていないのだから、目障りになりようがない。
以前、廊下でリリアとすれ違った際、あまりに近い距離でウロチョロされたため、「(見えなくて危ないから)どいてくださる?」と言った記憶はあるが。
(全部、ただの事故と誤解じゃない……)
ミールは呆れた。
弁明しようと口を開きかけるが、オズワルドはそれを遮るように叫ぶ。
「黙れ! 貴様のような性悪女、もう顔も見たくない! よって、この婚約は破棄とする! 国外追放処分だ!」
その言葉が、ミールの脳内に浸透するまで、約三秒。
(……婚約、破棄?)
(こんやく、はき?)
(婚約破棄ーーーーッ!?)
ミールの心の中で、ファンファーレが鳴り響いた。
脳内でお祭り騒ぎが始まる。
(やった! やったわ! ついにこの時が来た!!)
ミールにとって、オズワルド王子との婚約は苦痛でしかなかった。
ナルシストで話が通じず、デートのたびに「君は可愛げがない」と説教をしてくる男。
家同士の契約だから我慢していたが、向こうから願い下げてくれるなら、これほどの僥倖はない。
しかも国外追放。
つまり、堅苦しい公爵家の「淑女教育」からも、社交界の面倒な付き合いからも、全て解放されるということだ。
(自由! フリーダム! これからは好きな時に起きて、好きな料理を作って、好きな本を読んで暮らせるのね!)
喜びのあまり、ミールは無意識に拳を握りしめ、グッと力強くガッツポーズをした。
「よっしゃあぁぁぁ!!」
腹の底から歓喜の咆哮が漏れる。
しかし、周囲の受け取り方は違った。
「ひっ……! 殴る気だ!」
「王族に拳を振り上げたぞ!」
「あんなに嬉々として戦闘態勢に入るなんて……やはり戦闘狂だ!」
オズワルド王子は腰を抜かしそうになりながら、リリアを盾にするように抱きしめた。
「き、貴様……逆上したか! 衛兵! 衛兵ーッ!」
「あ、待ってください殿下」
ミールはスッと真顔に戻った。
喜びを表現するのは後だ。まずはこの契約を確定させなければならない。
彼女は懐からハンカチを取り出し(周囲はナイフかと思って身構えた)、目頭を押さえるフリをして、ニヤけそうになる口元を隠した。
そして、できるだけ低く、ドスの効いた声を作る。威厳を出すためだ。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします。……ですが」
「で、ですが?」
「タダで追い出されるわけにはいきませんね」
ミールは一歩踏み出す。
見えないので、とりあえず声のする方へ適当に歩く。
結果的に、オズワルド王子を壁際に追い詰める形になった。
至近距離まで顔を近づける。
ミールのぼやけた視界に、王子の引きつった顔がドアップで映る。
(ふむ、やっぱり肌ツヤだけはいいのよね、この男。腹立つ)
彼女は目を細め、王子の瞳を覗き込むようにして言った。
「慰謝料をいただきます。精神的苦痛への対価です」
「い、慰謝料だと? 貴様が悪いのにか!?」
「あら、証拠はあるんですの? 私がやったという確たる証拠が」
「そ、それは……リリアがそう言っているし……」
「証言だけでは証拠になりません。裁判を起こしてもいいんですよ? 公爵家の全財力と人脈を使って、徹底的に争わせていただきますが」
ミールはニヤリと笑った。
実際は「何も見えないので適当な方向に笑いかけた」だけだが、その笑顔は王子の目に「悪魔の微笑み」として焼き付いた。
面倒ごとは嫌いだ。公爵家を敵に回して泥沼の裁判など、王室としても避けたい。
オズワルドは脂汗を流しながら頷いた。
「わ、わかった! 金か!? いくら欲しいんだ!」
「現金一括払い。それと……」
ミールは以前から目をつけていた物件を思い出した。
王国の最北端。魔物が出ると噂される辺境の地にある、王家所有の古い別荘だ。
あそこなら人は来ない。静かだ。土地は広いから畑も作れる。
「北の辺境にある『朽ち果てた離宮』。あそこを私にください」
「は? あんな廃墟を?」
「ええ。あそこなら誰にも迷惑をかけずに暮らせますから」
(……というのは建前で、あそこには極上の温泉が湧いているって古い文献で読んだのよね)
ミールは心の中で舌を出した。
オズワルドは、厄介払らができるなら安いものだと思ったのだろう。
「い、いいだろう! あんなゴミ捨て場のような土地、くれてやる! その代わり、二度と私の前に姿を現すな!」
「交渉成立ですね」
ミールは素早く懐からメモ帳とペンを取り出した。
公爵令嬢たるもの、いつ何時でも契約書を作成できるよう筆記用具は常備している。
「では、ここにサインを。今すぐに」
「い、今か!?」
「鉄は熱いうちに打てと言いますし。さあ、どうぞ」
ミールはペンを王子の鼻先に突きつけた。
王子はひきつった顔で、震える手でサインをする。
それを受け取ったミールは、満足げに頷いた。
インクが乾くのを確認し、丁寧に折りたたんで胸元にしまう。
「感謝いたします、殿下。これで私は自由の身……あ、いえ、追放の身ですね」
言い直したが、声色は弾んでいた。
ミールはスカートの裾をつまみ、優雅にカーテシー(礼)をした。
ただし、方向がズレていて、壁に向かって挨拶していたが。
「それでは皆様、ごきげんよう! 二度と会うことはないでしょう!」
ミールは踵を返した。
背筋を伸ばし、堂々とした足取りで出口へと向かう。
その姿は、悲劇のヒロインなどではない。
新たな狩場へ向かう戦士の背中だった。
「あ、痛っ」
ガンッ、と鈍い音が響く。
出口の扉ではなく、その横にあった装飾用の柱に思い切り顔面をぶつけたのだ。
会場が静まり返る。
ミールは無言で柱を押しのけ、何事もなかったかのように方向修正をした。
(……何も起きてない。誰も見てないはず。私には見えてないんだから、向こうも見えてないはずよ)
謎の理論で自分を納得させ、彼女は今度こそ会場を後にした。
扉の向こうに広がるのは、夜の闇。
そして、待ちに待った自由な世界だ。
ミールは砕けた眼鏡のことなど忘れ、満面の笑みで走り出した。
「さあ、まずは腹ごしらえよ! ……あ、その前に荷造りね!」
こうして、悪役令嬢ミール・ヴァン・ダレスの、華麗なる(?)婚約破棄劇は幕を閉じた。
そして同時に、彼女の伝説的な辺境スローライフが幕を開けるのである。
後に「辺境の女帝」と呼ばれることになる彼女の、最初の一歩であった。
王立学園の卒業パーティー会場。
シャンデリアが煌めく大広間の中心で、ヒステリックな絶叫が響き渡った。
音楽は止まり、談笑していた貴族たちは水を打ったように静まり返る。
衆人環視の中、ひとりの男が指を突きつけていた。
この国の第一王子、オズワルドである。
金髪碧眼、白馬の王子様を地で行く容姿の彼は今、顔を真っ赤にして憤慨していた。
その隣には、小動物のように震える桃色の髪の少女。男爵令嬢のリリアだ。
二人は寄り添い、まるで世界の敵と対峙するかのような悲壮感を漂わせている。
対して、指を突きつけられた当の本人――公爵令嬢ミール・ヴァン・ダレスは。
(……誰?)
首を傾げていた。
いや、正確には「誰」か判別がつかなかったのである。
ミールの視界は、すりガラス越しに世界を見ているかのようにぼやけていた。
会場の照明は滲んだ光の輪となり、目の前の人物は「金色の縦長のモヤ」と「桃色の丸いモヤ」にしか見えない。
彼女は、重度の近眼だった。
しかも今日は、人生最大の不運に見舞われていた。
馬車の中で眼鏡を落とし、従者がそれを踏み砕いてしまったのだ。
(えっと、あの金色のモヤが喋ったのよね。声のトーンからしてオズワルド殿下かしら? でも、なんで叫んでるの? 今日のメインディッシュのお肉が品切れになったとか?)
ミールにとって、花より団子、恋より食欲である。
朝からコルセットで締め上げられ、何も食べていない彼女の思考は「空腹」一色だった。
(何が起きているのか確認しないと。目を凝らせば、少しは見えるはず……)
ミールは顔面の筋肉を総動員した。
眉間に深いシワを寄せ、目を極限まで細め、顎を引いて対象を睨みつける。
それは、獲物を狩る直前の猛獣、あるいは地獄の底から這い出た悪鬼羅刹の形相だった。
「ひっ……!」
桃色のモヤ(リリア)が悲鳴を上げて、金色のモヤ(王子)の背後に隠れる。
「き、貴様! なんだその目は! 逆ギレか!? 自分の罪を暴かれて、私を殺そうというのか!」
「……は?」
ミールはドスの効いた低い声を出した。
単に「よく聞こえなかったから聞き返した」だけなのだが、周囲の貴族たちは恐怖に戦慄いた。
「見ろ、あの目……! 殺る気だぞ」
「『処刑してやる』と言わんばかりの殺気だわ」
「さすが『氷の処刑人』……婚約破棄を突きつけられても眉一つ動かさず、逆に威圧するとは」
周囲のヒソヒソ声は、残念ながらミールの耳には届かない。
彼女は必死で、目の前の「金色のモヤ」の表情を読み取ろうと、さらに一歩、ズイと足を踏み出した。
「うわあああ! 寄るな! こ、こっちに来るなあああ!」
オズワルド王子が情けない声を上げて後ずさる。
ミールは心の中で首を傾げた。
(なんで逃げるの? 私、今日そんなにニンニク臭いかしら? それともドレスにソースでも付いてる?)
確認しようと視線を自分の胸元に落とす。
その動作すら、周囲には「懐に隠した暗器を確認した」ように映ったらしい。
騎士たちがガチャリと剣の柄に手をかけた。
「ええい、控えろミール! 貴様の悪事はすべて調べがついているのだ!」
王子が震える声で叫ぶ。
「リリアへの陰湿な嫌がらせ! 教科書を隠し、階段から突き落とそうとし、あまつさえ『目障りだから消えろ』と暴言を吐いたそうだな!」
(……え? 私が?)
ミールは記憶の引き出しをひっくり返した。
教科書を隠した記憶はない。ただ、リリアが落とした教科書を拾ってあげようとした際、距離感が掴めずに空振りして、さらに遠くへ蹴っ飛ばしてしまったことはある。あれは事故だ。
階段から突き落とそうとした記憶もない。階段で躓きかけたリリアを助けようとして手を伸ばしたが、やはり距離感が掴めずに肩を鷲掴みにしてしまい、「痛い!」と泣かれたことはある。あれは人助け(失敗)だ。
そして「目障りだから消えろ」などと言うはずがない。
そもそも見えていないのだから、目障りになりようがない。
以前、廊下でリリアとすれ違った際、あまりに近い距離でウロチョロされたため、「(見えなくて危ないから)どいてくださる?」と言った記憶はあるが。
(全部、ただの事故と誤解じゃない……)
ミールは呆れた。
弁明しようと口を開きかけるが、オズワルドはそれを遮るように叫ぶ。
「黙れ! 貴様のような性悪女、もう顔も見たくない! よって、この婚約は破棄とする! 国外追放処分だ!」
その言葉が、ミールの脳内に浸透するまで、約三秒。
(……婚約、破棄?)
(こんやく、はき?)
(婚約破棄ーーーーッ!?)
ミールの心の中で、ファンファーレが鳴り響いた。
脳内でお祭り騒ぎが始まる。
(やった! やったわ! ついにこの時が来た!!)
ミールにとって、オズワルド王子との婚約は苦痛でしかなかった。
ナルシストで話が通じず、デートのたびに「君は可愛げがない」と説教をしてくる男。
家同士の契約だから我慢していたが、向こうから願い下げてくれるなら、これほどの僥倖はない。
しかも国外追放。
つまり、堅苦しい公爵家の「淑女教育」からも、社交界の面倒な付き合いからも、全て解放されるということだ。
(自由! フリーダム! これからは好きな時に起きて、好きな料理を作って、好きな本を読んで暮らせるのね!)
喜びのあまり、ミールは無意識に拳を握りしめ、グッと力強くガッツポーズをした。
「よっしゃあぁぁぁ!!」
腹の底から歓喜の咆哮が漏れる。
しかし、周囲の受け取り方は違った。
「ひっ……! 殴る気だ!」
「王族に拳を振り上げたぞ!」
「あんなに嬉々として戦闘態勢に入るなんて……やはり戦闘狂だ!」
オズワルド王子は腰を抜かしそうになりながら、リリアを盾にするように抱きしめた。
「き、貴様……逆上したか! 衛兵! 衛兵ーッ!」
「あ、待ってください殿下」
ミールはスッと真顔に戻った。
喜びを表現するのは後だ。まずはこの契約を確定させなければならない。
彼女は懐からハンカチを取り出し(周囲はナイフかと思って身構えた)、目頭を押さえるフリをして、ニヤけそうになる口元を隠した。
そして、できるだけ低く、ドスの効いた声を作る。威厳を出すためだ。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします。……ですが」
「で、ですが?」
「タダで追い出されるわけにはいきませんね」
ミールは一歩踏み出す。
見えないので、とりあえず声のする方へ適当に歩く。
結果的に、オズワルド王子を壁際に追い詰める形になった。
至近距離まで顔を近づける。
ミールのぼやけた視界に、王子の引きつった顔がドアップで映る。
(ふむ、やっぱり肌ツヤだけはいいのよね、この男。腹立つ)
彼女は目を細め、王子の瞳を覗き込むようにして言った。
「慰謝料をいただきます。精神的苦痛への対価です」
「い、慰謝料だと? 貴様が悪いのにか!?」
「あら、証拠はあるんですの? 私がやったという確たる証拠が」
「そ、それは……リリアがそう言っているし……」
「証言だけでは証拠になりません。裁判を起こしてもいいんですよ? 公爵家の全財力と人脈を使って、徹底的に争わせていただきますが」
ミールはニヤリと笑った。
実際は「何も見えないので適当な方向に笑いかけた」だけだが、その笑顔は王子の目に「悪魔の微笑み」として焼き付いた。
面倒ごとは嫌いだ。公爵家を敵に回して泥沼の裁判など、王室としても避けたい。
オズワルドは脂汗を流しながら頷いた。
「わ、わかった! 金か!? いくら欲しいんだ!」
「現金一括払い。それと……」
ミールは以前から目をつけていた物件を思い出した。
王国の最北端。魔物が出ると噂される辺境の地にある、王家所有の古い別荘だ。
あそこなら人は来ない。静かだ。土地は広いから畑も作れる。
「北の辺境にある『朽ち果てた離宮』。あそこを私にください」
「は? あんな廃墟を?」
「ええ。あそこなら誰にも迷惑をかけずに暮らせますから」
(……というのは建前で、あそこには極上の温泉が湧いているって古い文献で読んだのよね)
ミールは心の中で舌を出した。
オズワルドは、厄介払らができるなら安いものだと思ったのだろう。
「い、いいだろう! あんなゴミ捨て場のような土地、くれてやる! その代わり、二度と私の前に姿を現すな!」
「交渉成立ですね」
ミールは素早く懐からメモ帳とペンを取り出した。
公爵令嬢たるもの、いつ何時でも契約書を作成できるよう筆記用具は常備している。
「では、ここにサインを。今すぐに」
「い、今か!?」
「鉄は熱いうちに打てと言いますし。さあ、どうぞ」
ミールはペンを王子の鼻先に突きつけた。
王子はひきつった顔で、震える手でサインをする。
それを受け取ったミールは、満足げに頷いた。
インクが乾くのを確認し、丁寧に折りたたんで胸元にしまう。
「感謝いたします、殿下。これで私は自由の身……あ、いえ、追放の身ですね」
言い直したが、声色は弾んでいた。
ミールはスカートの裾をつまみ、優雅にカーテシー(礼)をした。
ただし、方向がズレていて、壁に向かって挨拶していたが。
「それでは皆様、ごきげんよう! 二度と会うことはないでしょう!」
ミールは踵を返した。
背筋を伸ばし、堂々とした足取りで出口へと向かう。
その姿は、悲劇のヒロインなどではない。
新たな狩場へ向かう戦士の背中だった。
「あ、痛っ」
ガンッ、と鈍い音が響く。
出口の扉ではなく、その横にあった装飾用の柱に思い切り顔面をぶつけたのだ。
会場が静まり返る。
ミールは無言で柱を押しのけ、何事もなかったかのように方向修正をした。
(……何も起きてない。誰も見てないはず。私には見えてないんだから、向こうも見えてないはずよ)
謎の理論で自分を納得させ、彼女は今度こそ会場を後にした。
扉の向こうに広がるのは、夜の闇。
そして、待ちに待った自由な世界だ。
ミールは砕けた眼鏡のことなど忘れ、満面の笑みで走り出した。
「さあ、まずは腹ごしらえよ! ……あ、その前に荷造りね!」
こうして、悪役令嬢ミール・ヴァン・ダレスの、華麗なる(?)婚約破棄劇は幕を閉じた。
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