エートス 風の住む丘

萩尾雅縁

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Ⅱ 風の使い手

10.後悔先に立たずというけれど

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 テレビ画面の中で、ドラコと行った遺跡近くの階段が滝のように滑り落ちる水流で満ち満ちていた。逆流する下水道はマンホールを弾き飛ばして水を噴き上げ、車が幾台も放置された道路や公園は冠水して、何千件もの家屋が浸水した。

 アルビーの送別会の翌日から1週間続いた「ロンドンの大雨」。あの災害からまだひと月と経っていない。記憶は生々しく、いまだに息苦しいほどの圧力を持っている。
 ニュースでは、被害状況と同時に水没した公園で泳いでいる人が報道され、この惨状すら楽しもうとする英国ブリティッシュ・精神スピリッツを湛えて(あるいは笑って)いたけれど、被害にあった住民にしてみれば悪夢としか言いようのない日々だったはずだ。
 TVや新聞でそんな被害のほどを目にしただけで、実際どれほど多くの人たちに現実的な迷惑をかけてしまったかという事実から、僕は、目を逸らしてしまっていた。自分の住んでいるこの家の近辺やショーンの実家は無事だったから、実感できてなかったのかもしれない。大変なことになってしまったと嘆くばかりで、その内情を知ろうともしていなかったのだ。



 ゲールの話では、決まっていた下宿先よりも家賃が3割増しにもなる、通学にも不便な地区への転居を余儀なくされるのだという。

 ロンドンに引っ越して来たばかりだし、荷解きもまだだったのがせめてもの幸いじゃないか、と弁解がましく考えて、慰めにもならないことを言おうとした。その矢先、逆にそれがわざわいしてしまった現実リアルを告げられた。

 彼にとって最大の被害は、部屋が使いものにならなくなったことではなかったのだ。それよりも、引っ越ししたてで蔵書が箱詰めされたまま床に置かれていたせいで、それらが水浸しになってしまったことだったのだ。

 僕にしても、デジタルでは絶対に手に入れることのできない古書や大切な資料本が濁流に浸かるなんて、想像するだけで胸が詰まる。意気揚々と大学生活に入ろうとした矢先、こんなめにあった彼の衝撃や落胆はどれほどのものだっただろう。僕の方こそ罪悪感で泣きたかった。

 せめてもの償いのつもりで、だめになった本を弁償しよう――、といってもその理由を話すわけにはいかないので、古書ばかりだというそれらの本を探すのを手伝うという名目で、蔵書リストをもらうことにした。
 彼はオカルティストの聖地グラストンベリー出身だし、民俗学の権威ブリッグス教授のいらっしゃる史学科に在籍するだけあって、蔵書リストには僕も頭に入れている書名が並んでいた。これくらいならサラに頼めばすぐに揃えてもらえる。たぶん。彼の機嫌さえ良ければ。


 そう思い、勢いこんで帰ってきたのに、肝心のサラがいない。シルフィもいない。それにショーンやマリーが戻るにはまだ早すぎる時間帯だ。
 いっきに気が抜けて、とりあえず、一服することにした。


 居間のソファーに腰を下ろすと同時に「お帰りなさいませ、コウさま!」と、深緑のフロックコートを着た丸い体がバレリーナのようにくるくる回りながら入って来た。頭上高く伸ばされたトレイにのったティーセットも踊っているようなリズミカルな音を立てている。
 ローテーブルの前でぴたりと止まった大きな頭が深々と下げられ、また持ち上がった時には、テーブルには湯気の立つティーカップと、カップケーキが一つ、ピンクのお皿に鎮座していた。


 フロックコートの前に片手を当てて、彼は僕が声をかけるのを待っている。
 海苔のように緑ががった黒髪はきれいに撫でつけられ、毛先だけがくるんとカールしている。分度器で計ったような銀色の蝶ネクタイの角度も完璧。彼は――、マークスだな。スペンサーよりも落ち着いているし几帳面だ。

「ありがとう、マークス。皆、出かけてるの?」
「不肖ながらわたくしめが、お留守をお預かりしておりますとも」

 大きな口がぱくぱくと答える。

「そう」

 どこへ、と訊きたかったけれど、訊いて答えが返ってくることは稀だ。このケーキは誰が買ってくれたのかも気になるけれど、もし、マークス本人が用意したとなると話が長くなるから尋ねない方が無難だろう。
 ここでの最適解は――

「おいしい。ありがとう、マークス」

 出されたものを美味しそうに平らげること。それに限る。

 マークスは嬉しそうに瞼を細めて、にったり、いや、にっこりしている。大きすぎる蛙のような口のせいで、なんだか悪だくみでも企んでいる笑みに見えてしまうけれど、はいたって素朴な気のいい妖精だ。僕の代わりにこの家の家事を受けもってくれる家つき妖精ブラウニーのマークス。そして、そんな彼の双子の片割れスペンサーは、今はアルビーのもとにいる。

「淋しくない? スペンサーと離れて暮らすことになって」

 直立不動で立っていた彼の顔が緑になり、背丈もびよーんと倍ほどに伸びあがってしまった。
 どうも地雷を踏んでしまったようだ。


 それから、しばらく待った。
 彼の気持ちが落ち着いて、しゅるしゅると元の姿勢に戻るまで――。





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