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第一章

⑫それは初めての

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 □

 愛しのアンドレアちゃん

 手紙を返せなくてごめんなさい。
 こちらも、私一人で仕事を任されたりして、大変だったのです。
 元気そうで良かったです。あなたはしっかりしているから、上手くやってくれると信じています。

 朗報があります。
 実はアルバートが見つかったのです。
 やはり、叔母さんのところから資金をもらって、クレイランドの別荘にいたそうです。
 なんと、あの人妻にはとっくにフラれたらしく、今度は別の女性と一緒にいたみたいです。

 もう、本当どうしようもない子よね。うふふ。

 お父様が説得してもうすぐ帰ってくると連絡が入りました。
 上手くいけば、予定通りそちらに向かえそうです。

 ちなみにあなたは、リリーの家に遊びに行っていることにしています。
 帰ったら話を合わせてね、よろしく!

 母より

 □

「なにが、うふふだ……」

 これだけ巻き込まれておいて、うふふで許してしまうのだから、母のアルバート好きもいいかげんにして欲しいと、アンドレアは痛みをおぼえて頭に手を当てた。
 ちなみに、リリーとは母方の従姉妹で、こちらも隣国に住んでいる。一度しか会ったことがなくて、顔も記憶にない。急に遊びに行くなんて無理があると思うのだが…。

「良かったじゃないか!アルバートは見つかったし帰ってくるのだろう」

「まぁ、そうだな…」

 ルイスは素直に嬉しそうだ。気を使った生活も終わるし、仲の良いアルバートが戻るのだから当然だろう。

 最初から分かっていたことだと、目を伏せた。
 待ち望んでいたはずの母からの便りなのに、アンドレアの心は、雨が降りだした空みたいに暗く湿っていた。


 翌日の朝、ルイスに顔色が悪いと言われた。
 こればかりはどうしようもない。月のものが来てしまったのだ。
 アンドレアは軽い方だが、一日目だけはどうしても体調が悪くなってしまう。

 最初の授業はなんとか受けたが、次の時間は保健室で休むことになった。

 お腹の痛みに堪えながら、自分はこんなところで何をしているんだろうと虚しい気持ちになった。

 ドレスを着て、優雅にお茶を飲む生活が恋しいわけではない。
 学園に来て初めてのことの連続だった。
 兄のふりなのだから、そこまで頑張る必要はないと思っていた。
 だが、授業はどれも楽しくて、初めて友人も出来た。
 そして、初めての胸の痛みは、なかったことにするには辛すぎる。

 母からの手紙で、現実に引き戻された。ここは自分の居場所ではない。ずっと夢の中にいたのだと…。

 涙が一粒こぼれ落ちて、自分が泣いていることに気がついた。

「わたし…、アルバートになりたい。そしたらずっとここにいられるのに…」

 アンドレアに戻ったら、あの人にはもう二度と会うことは出来ないだろう。

 優しい微笑みを思い出して、涙の線を残したまま、アンドレアは深い眠りの中へ入っていった。


 □□



「戸惑ったり迷ったりすることもあるけど、大事なことは、好きな気持ちだよ。必要ないものは全部削ぎ落として、自分の気持ちだけを見つめてみて、本当に大切なら輝いて見えるから…」



 どうしてあのとき、私にあんなことを言ったの?

 ねえ、アルバート。

 教えてよ。


 おでこに冷たい感触があった。
 少し熱があるのかもしれない。その冷たさが心地よかった。

 目を開けるとこちらを心配そうに覗きこむ、薄紫の瞳があった。

「ん……あれ?ローレンス?なんでここに……」

「大丈夫ですか?やっと気がつきましたね。お昼に中庭に来られなかったので、心配になって教室に伺ったらルイスから聞いたのです」

 まさか、わざわざ教室まで行ってくれたのも驚いたが、保健室にまで来て、横についていてくれるなんて、アンドレアはローレンスの優しさに胸が熱くなった。

「ローレンス!?授業は?」

 授業をサボらせてしまったのかと、慌てて起きようとしたら、ローレンスに軽く手で押さえられて止められた。

「私の方は午後は自習ですので問題ないです。ほら、少し熱もあるようなので、まだ寝ててください」

 そう言って、おでこに濡らした布を乗せてくれた。まさか、ローレンスに看病してもらうとは、思ってもみなかった。

「うわ言で、教えてくれと言っていましたが、どんな夢を見ていたのですか?」

 アンドレアの額の汗を拭きながら、ローレンスは何気なく聞いてきた。

 予期せぬ質問で体はビクリと揺れた。夢の中でアルバートの言葉が流れていたのだ。それを思い出して、アンドレアはローレンスを見つめた。

「ローレンスは、兄弟はいますか?」

「私ですか?ええ、兄が二人おりますよ。仲が良いとは言えない兄弟ですが」

「お兄さん達がピンチの時は、助けようと思いますか?」

「どうでしょう。目の前で賊にでもやられていたら助けるとは思いますけど…」

 どこかで助けを求められても、どうしようかは分かりませんねとローレンスは少し冷たく言い放った。
 なるほど仲が良いとは言えないというのがよく分かった。王子という複雑な環境もあるのだろう。まだ、分からないという気持ちがあるうちは、少なくとも相手を思っているようにも感じた。

「そうですか…、うちも俺が勝手なことばかりだから、そこまで仲が良いとは言えないけど。……ずっと親兄弟が大変な時は助けるのが当たり前だと思っていました。でも…最近、その気持ちが揺らいできて…、もしかしたらそれを裏切ってしまいそうで怖いんです…」

 アンドレアは夢から覚めてもまだ、熱のある頭で考えていた複雑な胸のうちを、ローレンスに話してしまった。

「……確かに親兄弟を助けるというのは、理想的な家族愛ですが、大切なのは自分の気持ちではないでしょうか」

「自分の……気持ち?」

「そうです。苦しむほど悩んでいる。逆に言うと、親兄弟がそういう状態で自分を助けてくれてくるとしたら、私はありがたいという気持ちより、申し訳ないと思います。アルバートはご家族のことで複雑な事情がありそうですからね…」

 そういえば、家族の事情でアルバートが女性を口説いていると、意味不明な言い訳をしていたことを思い出した。
 ローレンスはそのことを思ってくれているのだろう。
 その場を取り繕った話を真剣に考えてくれてくることに申し訳なく思いながら、ローレンスの話はアンドレアの肩に乗ったものを軽くしてくれたことに気づいた。

 全てを許されるわけではないけれど、この気持ちだけは認めてもいいのだろうかと思い始めた。

「ローレンス、ありがとうございます。気持ちが軽くなりました。俺はいつも助けてもらってばかりですね…」

「いいえ、私の話であなたが元気になるなら、私も嬉しいです」

 ローレンスの冷たい手が頬に触れて、その心地よさに目を閉じた。

「そういえば以前、ローレンスに助言をもらって、解決したらお礼をしたいという話をしましたよね。あれ、イアンのことなんです。無事解決したし、何かお礼をさせてください」

 慌ただしくて自分で言い出したくせに、すっかり忘れていたが、ローレンスにお礼をする約束をしていたのだ。

「うー…ん。お礼ですか…。そうですね。今は弱っているみたいですし、元気になったらでいいですよ」

 思いついたまま言ってしまったが、確かに今は何も力になれないと状態なので、ローレンスに優しく返されてしまった。

 一度閉じたまぶたが重くなって、再び開けることが出来ない。ローレンスが子供にするように頭を撫でてくれるので、そのまま眠りの海の中へ落ちていくような気分だった。

「やっ……ぱり、ローレン…スは、優しいね…。ありがとう……」

 そこまで言ってから、アンドレアはまた再び眠りに沈んでいった。


 □□


 アルバートの寝息が聞こえても、ローレンスは柔らかい髪を撫でていた。

 いつものこぼれそうな大きな深緑の瞳はまぶたで隠れていて、小さな鼻は呼吸で揺れている。
 熱のせいか頬は薔薇色に染まり、唇は赤く色づいている。

「優しい……ですか……」

 その端正で甘い外見から勘違いされることが多いが、ローレンスは自分は冷たい人間だと思っている。

 先ほど、アルバートから兄弟について聞かれたが、正直なところ、兄達がどこかで死んでいても、面倒こそ思うものの、どうでもいい気持ちしかない。

 両親のこともまた同じだ。父とは心の距離が開いているし、母は離宮で暮らしているので、顔も覚えていない。

 鍛えて育ててくれた祖父には感謝がある。あの人にだけは心が動くのだ。
 以前一度だけ暴走しかけたとき、祖父に止められて冷静を取り戻したことがあった。

 女性に対しては、好意を持つことはあっても、長く続くことがない。
 国では、女性は褒めて褒めて愛するものだという考えが根付いているが、自分には当てはまらないと思っていた。
 なぜなら、なんの期待も湧かないのだ。当然、冷たい人と、何人に泣かれたか分からない。

 いつだったかそれなりに悩んで、自分の心は死んでしまったと、祖父に相談したことがある。

 大丈夫だ。死んでるんじゃなくて、毛虫みたいにのんびりしているだけだと。
 いつか、どうしようもなく心を動かされるような相手に出会えば、お前も蝶になれる。

 祖父はそう言ってくれた。

 まさか、それが同性であるとは思わなかったけれど、あの祖父であれば、ほら言っただろうと、ただ笑ってくれる思った。


 頭を撫でていた手を頬に滑らせて、指で赤い唇に触れた。
 少し乾いているが、その柔らかさに心臓が高鳴るのを感じる。

「アルバート…」

 切ない気持ちを乗せて、その名前を呼んだ。

 すると、熱にうなされるように、だが、自分の声に答えてくれたように、赤い唇が動いた。

「ち…がう」

 夢でも見ているのだろうか、少し顔を動かした後、口許を綻ばせた。

「ローレンス……」

 アルバートが自分の名前を呼んだことが、信じられなかった。
 思わず顔を近づけてみたが、起きている様子はない。
 そして、その赤い色に引き寄せられるように、そのまま唇を重ねた。

 いつまでそうしていただろう。一つだったものが離れて長い時を経て、再び出会ったように、それは一度重なれば離れがたく、身体中から溶けていくような熱さだった。

 ガタンと音がして我に返った。
 薄いカーテンの間から、こちらを見たまま固まっている、ルイスの姿が見えた。彼の足元には鞄が落ちていた。
 今にも叫びそうだったルイスに向かって、人差し指を立てて、静かにというポーズをした。

 それを見て口をバクパクさせて、後ろに飛び退いたルイスは、転がるようにして走っていき、保健室のドアがガシャンと閉まる音が響いた。

 彼はアルバートの一番仲の良い同室の友人だ。
 実を言えば、前から気に入らなかった。

「さて、どう転ぶでしょうか」

 上手くいけば欲しいものが手にはいるかもしれない。

 ローレンスは主に置いていかれた鞄を見つめながら、静かに微笑んだのだった。
  




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