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1巻
1-2
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◇
「ご隠居さん、いましたぜ。縛られて奥の納戸に転がされていたけど、いまのところはまだ無事だ。連中の話を盗み聞いたところ、ありゃあ相当の外道どもだ。押し込みの下手人ってのも、どうやら本当らしい。だが……」
表で待っていたお七たちのところに、鉄之助が戻ってきた。
荒れ寺にいる浪人たちの悪い噂は、町方の耳にもとっくに届いているはずだが、まだ動いていない。場所のせいで寺社奉行と町奉行が揉めているのかもしれない。悪党どもも心得たもので、それを見透かしている。
「ということは、以蔵親分に頼んでも無理か。のんびりしてたらご隠居さんが危ない。それにここ、かなりよくないよ。えらくざわついてる」
お七は鉄之助の話を最後まで聞いてから、そう言った。
以蔵親分とは、仁左の馴染みの岡っ引きで、お七のことも可愛がってくれている。困った時は助けてくれるのだが、鉄之助の話を聞くと、今回頼るのは難しそうだ。
そして、怪異の類に滅法強いお七は、鉄之助から本堂の下の様子を聞かされるまでもなく、荒れ寺に巣食う妖気には気がついていた。
しかし、お七が厳しい目を向けていたのは、骨が床下に散乱していた本堂ではなく、その裏にある竹林のほうであった。
お七のただならぬ様子に、脇坂と鉄之助はごくりと唾を呑み込む。
「ぐずぐずしていたら、巻き添えを喰うかも。とっとと、ご隠居を助けよう」
お七の言葉に男たちは頷いた。
◇
再び本堂へと潜入した鉄之助は、ご隠居が囚われている納戸の下まで来たところで、口に指を当てて「ぎゃっぎゃっ」と夜鴉の鳴き真似をする。
それを合図に、本堂へと石が投げ込まれた。
中にいた者たちが騒ぎ出し、人の皮を被った悪鬼どもが、ぞろぞろと外に出てきた。
傾いた山門を背にこれを迎えたのは、脇坂である。
「ふざけやがって、なんだてめえは?」
不用意に近づいてきた相手の首を、朱鞘から抜いた刀の切っ先でちょんと刎ねる。
噴き出す鮮血。赤い飛沫が、側にいた賊仲間の顔を濡らした。
加藤清正公が好んだ折れず曲がらずの剛刀は、同田貫正国の流れを汲む脇坂の愛刀である。
武骨で色気のない容姿だが、この刀は命のやり取りの場でこそ、その真価を発揮する。
「まずは一つ」
血刀を手に、脇坂がにへらと笑う。
はっと我に返った悪鬼どもは、慌てて腰の得物を抜いた。
脇坂の同田貫が暴れる。
一人をたちまち葬り、続いて向かってきた相手の膝頭を骨ごとざっくりと斬り裂く。さらに返す刀で、惚けている輩の腕をばっさり斬り捨てた。
手足を斬られ血溜まりにのたうちまわる者どもを見下ろし、脇坂は同田貫を肩に担ぐ。
「これで四つ」
「怯むな、囲め。一斉に斬りかかるんだ」
荒れ寺に潜んでいた悪鬼たちは、はや五人となり、そのうちの一人が叫んだ。
◇
表で騒ぎが始まったところで、潜んでいた鉄之助が床板を蹴破って突入した。いまのうちに人質を救出する手筈になっている。
拘束を解かれたご隠居は「ぷはぁ」と大きく息を吸った。
「やれ、助かったわい。力任せに縛りおってからに。おお、手首が痛い。まったく近頃の若いもんときたら年寄りを労ることを知らん。こうなればわしも加勢して悪人どもをとっちめてやろうぞ。なぁに先は不覚をとったが、昔とった杵柄、これでも若い頃は気の荒い人足どもと、しょっちゅう大立ち回りを演じて――」
「年寄りの冷や水ですよ」
張り切るご隠居に、鉄之助はぴしゃりと言い放つ。
「それに脇坂のだんなが刀を抜いてるんですよ。下手に近づいたら、まとめて同田貫の餌食にされちまう」
「むぅ、あの三尺超えの化け刀が暴れておるのか。そいつは剣呑じゃな。まったく、あれほどの腕を持ちながら、いつまでもぶらぶらと……その気になれば幾らでも仕官の口ぐらいありそうなものだがのぉ」
脇坂は普段はだらけている寝坊助侍だが、ひとたび剣を抜けば天下無双なのだ。
気さくな人柄とも相まって、たまにいい話が舞い込むのだが、なにを考えているのか、のらりくらりとかわしている。
ご隠居の繰り言に、鉄之助は「さぁて」と肩をすくめた。
「だんなにはだんなのお考えがあるんでしょうよ。それよりもほら、とっととずらかりますよ」
開けた穴からご隠居を床下へと放り込み、鉄之助もこれに続く。
下りたら下りたで、散乱する白骨にご隠居が驚いて、ぎゃあぎゃあと一悶着あった。
それをなだめてようやく表へと出たところで、彼らを待っていたのは、世にも奇怪な光景であった。
◇
脇坂が背にお七を庇い、驚いた表情をしている。
残り二人となった悪鬼らも、本堂の屋根を見上げて固まっている。
縁の下から這い出てきた鉄之助とご隠居は、外の異様な様子をいぶかしみ、みなの視線につられて振り返った。
そして、目ん玉をひん剥いて絶句した。
なんと荒れ寺の屋根を、大きな骨の手が鷲掴みにしているではないか。腕は裏の竹林から伸びている。
闇の奥で、かたかたと音が鳴っていた。それが次第に大きくなり、近づいてくる。
屋根の向こうより、ぬうっと姿を現したのは、巨大なしゃれこうべであった。
聞こえていたのは、髑髏が顎を震わせる音だ。
怪異といってもぴんきりで、たいていは些末なものである。普通の人には視えないし、感じられもしない。でも、巨大なしゃれこうべはこの場にいる全員に視えている。その時点で、相当な脅威であることは間違いない。
消えた我が子を探し求め、涙ながらに願いを託した迷子石は、幾十、あるいは幾百、それとも千へ届くかもしれない。その想いを踏みにじった悪逆非道、積み重ねられた怨念はいかばかりか。
そんないわくのある石塚を、脇坂に斬られた悪鬼が、倒れた拍子に崩してしまった。おまけに不浄な血で穢してしまう。
すると、ついに堪忍袋の緒が切れたとばかりに黒い霧が噴出し、荒れ寺一帯の空気がずんと重くなり、あれよあれよというまに怪異が顕現したのだった。
釣り鐘ほどもある巨大なしゃれこうべを前にして、流石のお七も口をあんぐりと開けたままとなる。柳鼓の塩小町とてここまでの大物を目にするのは初めてのことであった。
悪鬼の生き残りたちは恐怖に耐えかねて、我先にと逃げ出す。
けれど、山門を抜けようとしたところで、骨の腕が振り下ろされて、ぐしゃりと潰されてしまった。
かたかたかたかた……
巨大なしゃれこうべが笑う。二つの洞の奥で青白い燐の焔が揺らめく。
脇坂はお七を庇いつつ、じりじりと後ずさり、距離を取ろうとした。
鉄之助もご隠居を引きずるようにして、本堂から少しでも離れようとする。
「なぁ、お七ちゃん。あれ、どうにかなりそうか?」
「うーん、多分。でも塩が全然足りない」
脇坂がひそひそ尋ねれば、お七はそう答えた。
お七は怪異絡みの事件に巻き込まれることが多いため、塩を入れた巾着を常に持ち歩いている。しかしあくまで携帯用なので、量はたかが知れている。
これほどの大物ならば、塩が大桶で五つか六つは欲しいところだ。
「だったら逃げるかい」
脇坂の言葉に、お七は首を横に振った。
「それはだめ。こんなのを野放しにしたら江戸が大変なことになっちゃう。でもどうしよう……」
お七が苦心していると、そこに鉄之助とご隠居が近づいてきた。
「だったらわしに任せておけ」
事情を聞くなり、ご隠居が胸を叩く。
「近くに知り合いの塩問屋がおる。そこから幾らでももらってきてやるわい」
塩さえあれば鬼に金棒だ。
さっそく、鉄之助とご隠居には塩問屋へひとっ走りしてもらうことにした。塩が運ばれてくるまで、お七と脇坂が注意を引き、ここで食い止める。
ご隠居たちが寺から出ようとしたら、すぐに巨大しゃれこうべの手が伸びてきた。そうはさせまいとお七が立ちはだかる。
向かってくる白い骨の指先に「えいや」と威勢よく塩を撒く。塩に触れるや否や、骨の表面にびきりと亀裂が走り、ぼろぼろと崩れ始めた。巨大しゃれこうべは驚いていったん指を引っ込めたものの、すぐにまた襲おうとする。
お七の塩攻撃は効いているが、いかんせん相手が大きすぎるのだ。
脇坂も同田貫を手に助勢してくれているが、押し返すには及ばない。それでもどうにかしのいで、鉄之助たちを送り出すことに成功した。
しかし、このままではまずい。
そこで、お七はとっておきの隠し玉を披露する決断をする。
「もう! こうなったらしょうがない。脇坂さん、これからちょいと凄いことが起きるけど、たまげて腰を抜かさないでよね」
「はぁ、これ以上に凄いことなんざ世の中にあるもんか!」
「言ったね? だったらしかと御覧あれ。お代は見てのお帰りでってね。おっ母さん、お願い!」
お七が呼びかけたのは、亡くなったはずの自分の母であった。
『応っ』
威勢のいい女の声がこだまする。お七の足下の影がぐにゃりと歪み、そこから躍り出たのは切り絵のように黒くて薄い影――それは、影女であった。
この影女の正体は、お七の母ひのえである。ぽっくり逝ったと思ったら、気づいたらこんな姿になっていた。理由はお七にもひのえにもとんとわからない。
巨大なしゃれこうべに続いて、影女まで出現する。
次から次へと起こる奇怪な出来事に、脇坂も目をぱちくりさせた。
「おっ母さん、あいつを寺から出さないで」
『あいよ』
おもむろに下駄を脱いだ影女は、両手にはめた。その途端、体がむくむくと大きくなっていき、あっというまに本堂の屋根よりも大きくなって、巨大しゃれこうべといい勝負になった。
『よくもうちの娘にちょっかいを出してくれたね。ただじゃ済まさないよっ!』
啖呵を切るなり、右手に持った下駄でもって、ぱかんと一発、しゃれこうべをぶん殴る。
いきなり横っ面を叩かれ、しゃれこうべの巨体がぐらりと傾いたところを、すかさず『それ、もう一丁』と左からもぽかん。
これぞ生前にひのえが得意としていた、喧嘩殺法下駄しばきである。
いかにおきゃんとはいえ、男とまともに組み合ってはいささか分が悪い。
それを補うために編み出したのがこの戦法だ。
流石は人の身を支える履物なだけあって、下駄はとっても頑丈である。こいつでがつんと殴られたら、屈強な男とて涙を流し悶絶する。
巨大しゃれこうべと巨大影女のど突き合い。
両者が暴れる度に瓦礫が飛んでくる。なお本堂は、煽りを受けてとっくに潰れてしまった。
「いけ」「そこだ」「右」「よし」
お七は腕をぶんぶん振り回しながら、熱心に影女の応援をする。
その隣でぽかんとしていた脇坂は、試しに己の頬をつねってみた。
「うぬ、しっかり痛えな、こんちくしょうめ」
夢ではないことを確認し、改めて怪異同士の戦いに視線を向ける。
いかに巨大な怪異とて、しゃれこうべは先ほど発現したばかり。生まれたての赤子同然だ。
対する影女は、生前に方々の盛り場で大いに暴れた渡世人である。博打に酒に色恋だけでなく、乱闘騒ぎもしょっちゅう。なので、やたらと喧嘩慣れしているのだ。
影女が巨大しゃれこうべの小指を捻じ曲げ、足の甲を踏んづけて砕き、下駄の歯と歯の間で太い骨を挟んではぼきりとへし折る。
「容赦ねえ。せっかくご隠居たちに塩問屋まで走ってもらったが、この分だと無駄骨に終わるかもな」
脇坂はほとんど一方的なたこ殴りに呆れている。
「あー、それは多分無理」
お七が手をひらひらさせる。
「おっ母さん、わたしの影にくっついている時は平気なんだけど、あんな風に飛び出しちゃったら、あんまり長いことはもたないんだよねえ。元気よく動き回れるのは、せいぜい四半刻くらいかな」
影女は宿主であるお七から離れるほどに、影が薄くなり、力も弱くなる。
そして、大きくなった上に、娘にいいところを見せようとはりきっているから、いつもより消耗が激しい。
「えっ!」
そう聞かされた脇坂は声を上げた。お七の言う通りならば、そろそろ刻限である。
もっとも、すぐに新たな問題が起きて、二人はそれどころではなくなってしまった。
かたかたかたかた……また骨が鳴る音がする。先ほどよりもずっと軽くて小さいが、数が多いようだ。裏の竹林からぞろぞろ湧いてきたのは骸骨の群れだった。
十、二十、三十と、とにかくいっぱい、千鳥足ながらも二人のほうへと向かってくる。
脇坂は急いで同田貫を抜いた。お七も塩が入っている巾着に手を突っ込む。
ぼんやりしていたら囲まれると判断した脇坂が討って出る。
先頭の奴の首を刎ね、返す刀でもう一体の胴を薙ぐ。けれど首がなくても止まらず、上下が分かれたところで、這ってでも動く。挙句には壊れた者同士がくっついて復活する。
脇坂は懸命に応戦し、お七も援護する。しかし多勢に無勢である。手持ちの塩も残りわずかとなり、次第に骸骨どもの包囲の輪は狭まっていった。
頼みの綱である影女はすでに姿がだいぶと薄くなっている。
そろそろ刻限だ。影女が消えたら万事休すである。
「いかん、こうなったらお七ちゃんだけでも!」
脇坂が血路を開こうとしたところで、荷車の車輪が回る音が聞こえてきた。
「待たせたなお七ちゃん、脇坂のだんな……って、なんじゃこりゃーっ!」
声の主は鉄之助だ。ご隠居の手引きで塩問屋から大桶を幾つか拝借し、荷車をひいて先に一人でやってきた。足手まといのご隠居は置いてきた。もっとも、連れてこなくて正解である。
もしも、こんな怪異まみれの光景をまのあたりにしたら、興奮のあまり卒倒しかねない。ぽっくり逝かれたら、祖父の帰りを待つ千代に合わせる顔がない。
さて、塩があれは百人力だ。ここからが柳鼓の塩小町の本領発揮である。
お七は巾着に入っていた残りをぶち撒けた。
塩を喰らった骸骨数体がたちまち崩れて塵へと還る。
その様子に脇坂は「おぉ」と驚嘆するも、お七は胸の奥がわずかにちくりと痛む。
この骸骨たちは悪党どもに謀られ、金を毟り取られ、ついには殺され、無残にも竹林に打ち捨てられた哀れな犠牲者たちの成れの果てなのだろう。それを考えるとどうにも悲しくなってくる。
けれど、いまは涙を流す時ではない。その思いを振り払い、お七は声を張った。
「脇坂さん、下がって! あとすぐに刀をしまって。塩で錆びても知らないからね」
掴みかかってきた骸骨を蹴飛ばし、脇坂は慌てて愛刀を朱鞘に戻す。
その間に蓋を開けて準備をしていた鉄之助が、お七の側に桶を下ろした。
桶に手を突っ込んだお七は、手の平いっぱいに握った塩を、骸骨の群れへと豪快に投げつける。塩がぱらぱらと降り注ぎ、触れた骸骨どもは次々崩れていった。
「他の桶も開けて雪合戦の要領で塩玉を握っておいて」
お七は鉄之助と脇坂にそう頼む。あの巨大しゃれこうべにぶつけるためである。
「ええい、袖が邪魔」
片肌脱ぎとなったお七が、右肩を晒してせっせと塩を放つ。
骸骨の群れを蹴散らし続けるその様は、さながら読み物に登場する勇ましい英傑のようである。その側で、男たちが背を丸めてはちくちくと塩玉を握る。
「うう、指のささくれに染みやがる。痛てぇ」
「素手でやるからですよ、脇坂のだんな。ほら、こうやって手拭いを使えば」
「おぉ、鉄之助、おまえ賢いな。だがしまった、肝心の手拭いがない。あっ、そうだ。だったらこの越中ふんどしで――」
「それだけは止めてっ!」
ふんどしで塩を握ろうとする脇坂に、乙女の怒号が飛んだ。
お七が骸骨の群れをやっつけたのに前後して、影女がついに限界を迎えた。輪郭がぼやけてにじみ、しぼんでお七の影へと吸い込まれていく。
しかし、巨大しゃれこうべはというと、折れた骨が繋がり、ひびが消え、欠けた部位が戻って、ぼろぼろだったのが元通りになろうとしているではないか。
「そうはさせないよ、えぃ」
お七が大きく腕を振りかぶって塩玉を投げた。
当たった箇所が爆ぜ、たちまち周辺がごそっと砕け散る。
鉄之助らから渡されるままに、お七は次々と塩玉を投げまくる。
「よくもそう狙ったところにぽんぽん当てられるもんだ」
やんやと喝采を送る脇坂は、感心しきりであった。
「ああ、これ? おっ母さんの情夫に、投擲術が得意な人がいたんだよ。それで的当て遊びがてら、色々こつを教えてくれたの」
お七の母ひのえが流した浮名は数知れず。そしていい仲となれば寝物語に教わることや学ぶこともある。そして、そのお零れがお七にも流れてくるというわけだ。もっとも大半はろくに根づかなかったけれど、それでも幾つかはちゃんと活きている。投擲術もそのうちの一つだ。
お七は威勢よく塩玉をぶつけては、巨大しゃれこうべをやっつける。
「血は争えんなぁ」
その勇ましい姿を眺めながら、脇坂はぽつりと零した。
「けど知ってますか、脇坂のだんな。お七ちゃんってば、将来は手堅く所帯を持って、静かに暮らしたいんだそうですよ」
鉄之助がせっせと手を動かしながら言う。
「はぁ? 十二にしてはずいぶんとしょぼくれていやがる。そこは嘘でも大店の跡取りに見初められて玉の輿とか、どこぞの若様と芝居みたいな恋をしたい、とか言うところだろうに」
「ぶふっ。ちげえねえ」
脇坂の言葉に、鉄之助はたまらず噴き出し、けらけらと笑った。
「二人とも、口より手を動かす」
お七がぴしゃりと言い放つ。
怒られた男たちは「ひえっ」と首をすくめて、塩玉作りに精を出すのであった。
◇
奮闘すること数刻、東の空が白む頃。
巨大しゃれこうべとお七の合戦は、ようやく終わりを迎えた。
持ち込んだ塩の大桶六つ、すべてが空っぽになり、荒れ寺の境内には薄らと塩の雪が降り積もっている。心なしか漂う空気までもがしょっぱくて、徹夜明けの目に染みる。
怪異には滅法強いお七ですらも大苦戦であった。それは、すなわちこの地にあった業が深かったということである。
お七はへとへとになって、荷車の上で大の字になった。全身汗だくで息も絶えだえである。かたわらで脇坂と鉄之助もぐったりへたり込んでいる。三人とも塩に触りすぎて、手が赤く腫れてしまっていた。
兎にも角にも江戸の平穏は守られた。しかし、これにて一件落着、とはいかないのが世知辛いところ。
若い娘が鉄砲玉のように飛び出したと思ったら、長屋の男衆を連れて堂々の朝帰りである。ご隠居と千代が感動の再会をしている一方で、お七は祖父の仁左からしこたま怒られた。
仁左は書を好み物静かな人物なのだが、ひとたび怒ると怖いのなんのって……雷がぴかごろどしゃんと降り注ぐようで、まるで生きた心地がしない。怪異相手には滅法強い塩小町も、怒り心頭の祖父には敵わぬのだった。
巻き込まれてはたまらぬと、そろり退散しようとする脇坂と鉄之助であったが、逃げられない。
「まあまあ、せっかくだからゆっくり朝飯でも食っていけ」
男たちの襟首を背後からむんずと掴むと、仁左はにこりと笑いながら二人を家の奥へと引っ立てていった。
◇
巨大しゃれこうべとの戦いがあった翌日。
夜通し塩玉を投げ続けたせいで、激烈な筋肉痛に悶えるお七から事情を聞いた仁左は、とてもこのままにはしておけぬと馴染みの岡っ引きである以蔵親分に相談した。
すると以蔵親分は心得たもので、怪異云々のくだりを上手にぼかして上役に報告してくれた。
結局、悪党どもは分け前を巡っての仲間割れとされ、検分にて荒れ寺の瓦礫の下や裏の竹林を漁ってみれば、白い骨の山が出るわ出るわ。この地で行われていた悪行の一切が露見したのである。更地にされた荒れ寺一帯、かつて迷子石の塚があった場所には、せめてもの慰めにと供養の碑が建てられ、懇ろに弔いの儀が執り行われた。
「ご隠居さん、いましたぜ。縛られて奥の納戸に転がされていたけど、いまのところはまだ無事だ。連中の話を盗み聞いたところ、ありゃあ相当の外道どもだ。押し込みの下手人ってのも、どうやら本当らしい。だが……」
表で待っていたお七たちのところに、鉄之助が戻ってきた。
荒れ寺にいる浪人たちの悪い噂は、町方の耳にもとっくに届いているはずだが、まだ動いていない。場所のせいで寺社奉行と町奉行が揉めているのかもしれない。悪党どもも心得たもので、それを見透かしている。
「ということは、以蔵親分に頼んでも無理か。のんびりしてたらご隠居さんが危ない。それにここ、かなりよくないよ。えらくざわついてる」
お七は鉄之助の話を最後まで聞いてから、そう言った。
以蔵親分とは、仁左の馴染みの岡っ引きで、お七のことも可愛がってくれている。困った時は助けてくれるのだが、鉄之助の話を聞くと、今回頼るのは難しそうだ。
そして、怪異の類に滅法強いお七は、鉄之助から本堂の下の様子を聞かされるまでもなく、荒れ寺に巣食う妖気には気がついていた。
しかし、お七が厳しい目を向けていたのは、骨が床下に散乱していた本堂ではなく、その裏にある竹林のほうであった。
お七のただならぬ様子に、脇坂と鉄之助はごくりと唾を呑み込む。
「ぐずぐずしていたら、巻き添えを喰うかも。とっとと、ご隠居を助けよう」
お七の言葉に男たちは頷いた。
◇
再び本堂へと潜入した鉄之助は、ご隠居が囚われている納戸の下まで来たところで、口に指を当てて「ぎゃっぎゃっ」と夜鴉の鳴き真似をする。
それを合図に、本堂へと石が投げ込まれた。
中にいた者たちが騒ぎ出し、人の皮を被った悪鬼どもが、ぞろぞろと外に出てきた。
傾いた山門を背にこれを迎えたのは、脇坂である。
「ふざけやがって、なんだてめえは?」
不用意に近づいてきた相手の首を、朱鞘から抜いた刀の切っ先でちょんと刎ねる。
噴き出す鮮血。赤い飛沫が、側にいた賊仲間の顔を濡らした。
加藤清正公が好んだ折れず曲がらずの剛刀は、同田貫正国の流れを汲む脇坂の愛刀である。
武骨で色気のない容姿だが、この刀は命のやり取りの場でこそ、その真価を発揮する。
「まずは一つ」
血刀を手に、脇坂がにへらと笑う。
はっと我に返った悪鬼どもは、慌てて腰の得物を抜いた。
脇坂の同田貫が暴れる。
一人をたちまち葬り、続いて向かってきた相手の膝頭を骨ごとざっくりと斬り裂く。さらに返す刀で、惚けている輩の腕をばっさり斬り捨てた。
手足を斬られ血溜まりにのたうちまわる者どもを見下ろし、脇坂は同田貫を肩に担ぐ。
「これで四つ」
「怯むな、囲め。一斉に斬りかかるんだ」
荒れ寺に潜んでいた悪鬼たちは、はや五人となり、そのうちの一人が叫んだ。
◇
表で騒ぎが始まったところで、潜んでいた鉄之助が床板を蹴破って突入した。いまのうちに人質を救出する手筈になっている。
拘束を解かれたご隠居は「ぷはぁ」と大きく息を吸った。
「やれ、助かったわい。力任せに縛りおってからに。おお、手首が痛い。まったく近頃の若いもんときたら年寄りを労ることを知らん。こうなればわしも加勢して悪人どもをとっちめてやろうぞ。なぁに先は不覚をとったが、昔とった杵柄、これでも若い頃は気の荒い人足どもと、しょっちゅう大立ち回りを演じて――」
「年寄りの冷や水ですよ」
張り切るご隠居に、鉄之助はぴしゃりと言い放つ。
「それに脇坂のだんなが刀を抜いてるんですよ。下手に近づいたら、まとめて同田貫の餌食にされちまう」
「むぅ、あの三尺超えの化け刀が暴れておるのか。そいつは剣呑じゃな。まったく、あれほどの腕を持ちながら、いつまでもぶらぶらと……その気になれば幾らでも仕官の口ぐらいありそうなものだがのぉ」
脇坂は普段はだらけている寝坊助侍だが、ひとたび剣を抜けば天下無双なのだ。
気さくな人柄とも相まって、たまにいい話が舞い込むのだが、なにを考えているのか、のらりくらりとかわしている。
ご隠居の繰り言に、鉄之助は「さぁて」と肩をすくめた。
「だんなにはだんなのお考えがあるんでしょうよ。それよりもほら、とっととずらかりますよ」
開けた穴からご隠居を床下へと放り込み、鉄之助もこれに続く。
下りたら下りたで、散乱する白骨にご隠居が驚いて、ぎゃあぎゃあと一悶着あった。
それをなだめてようやく表へと出たところで、彼らを待っていたのは、世にも奇怪な光景であった。
◇
脇坂が背にお七を庇い、驚いた表情をしている。
残り二人となった悪鬼らも、本堂の屋根を見上げて固まっている。
縁の下から這い出てきた鉄之助とご隠居は、外の異様な様子をいぶかしみ、みなの視線につられて振り返った。
そして、目ん玉をひん剥いて絶句した。
なんと荒れ寺の屋根を、大きな骨の手が鷲掴みにしているではないか。腕は裏の竹林から伸びている。
闇の奥で、かたかたと音が鳴っていた。それが次第に大きくなり、近づいてくる。
屋根の向こうより、ぬうっと姿を現したのは、巨大なしゃれこうべであった。
聞こえていたのは、髑髏が顎を震わせる音だ。
怪異といってもぴんきりで、たいていは些末なものである。普通の人には視えないし、感じられもしない。でも、巨大なしゃれこうべはこの場にいる全員に視えている。その時点で、相当な脅威であることは間違いない。
消えた我が子を探し求め、涙ながらに願いを託した迷子石は、幾十、あるいは幾百、それとも千へ届くかもしれない。その想いを踏みにじった悪逆非道、積み重ねられた怨念はいかばかりか。
そんないわくのある石塚を、脇坂に斬られた悪鬼が、倒れた拍子に崩してしまった。おまけに不浄な血で穢してしまう。
すると、ついに堪忍袋の緒が切れたとばかりに黒い霧が噴出し、荒れ寺一帯の空気がずんと重くなり、あれよあれよというまに怪異が顕現したのだった。
釣り鐘ほどもある巨大なしゃれこうべを前にして、流石のお七も口をあんぐりと開けたままとなる。柳鼓の塩小町とてここまでの大物を目にするのは初めてのことであった。
悪鬼の生き残りたちは恐怖に耐えかねて、我先にと逃げ出す。
けれど、山門を抜けようとしたところで、骨の腕が振り下ろされて、ぐしゃりと潰されてしまった。
かたかたかたかた……
巨大なしゃれこうべが笑う。二つの洞の奥で青白い燐の焔が揺らめく。
脇坂はお七を庇いつつ、じりじりと後ずさり、距離を取ろうとした。
鉄之助もご隠居を引きずるようにして、本堂から少しでも離れようとする。
「なぁ、お七ちゃん。あれ、どうにかなりそうか?」
「うーん、多分。でも塩が全然足りない」
脇坂がひそひそ尋ねれば、お七はそう答えた。
お七は怪異絡みの事件に巻き込まれることが多いため、塩を入れた巾着を常に持ち歩いている。しかしあくまで携帯用なので、量はたかが知れている。
これほどの大物ならば、塩が大桶で五つか六つは欲しいところだ。
「だったら逃げるかい」
脇坂の言葉に、お七は首を横に振った。
「それはだめ。こんなのを野放しにしたら江戸が大変なことになっちゃう。でもどうしよう……」
お七が苦心していると、そこに鉄之助とご隠居が近づいてきた。
「だったらわしに任せておけ」
事情を聞くなり、ご隠居が胸を叩く。
「近くに知り合いの塩問屋がおる。そこから幾らでももらってきてやるわい」
塩さえあれば鬼に金棒だ。
さっそく、鉄之助とご隠居には塩問屋へひとっ走りしてもらうことにした。塩が運ばれてくるまで、お七と脇坂が注意を引き、ここで食い止める。
ご隠居たちが寺から出ようとしたら、すぐに巨大しゃれこうべの手が伸びてきた。そうはさせまいとお七が立ちはだかる。
向かってくる白い骨の指先に「えいや」と威勢よく塩を撒く。塩に触れるや否や、骨の表面にびきりと亀裂が走り、ぼろぼろと崩れ始めた。巨大しゃれこうべは驚いていったん指を引っ込めたものの、すぐにまた襲おうとする。
お七の塩攻撃は効いているが、いかんせん相手が大きすぎるのだ。
脇坂も同田貫を手に助勢してくれているが、押し返すには及ばない。それでもどうにかしのいで、鉄之助たちを送り出すことに成功した。
しかし、このままではまずい。
そこで、お七はとっておきの隠し玉を披露する決断をする。
「もう! こうなったらしょうがない。脇坂さん、これからちょいと凄いことが起きるけど、たまげて腰を抜かさないでよね」
「はぁ、これ以上に凄いことなんざ世の中にあるもんか!」
「言ったね? だったらしかと御覧あれ。お代は見てのお帰りでってね。おっ母さん、お願い!」
お七が呼びかけたのは、亡くなったはずの自分の母であった。
『応っ』
威勢のいい女の声がこだまする。お七の足下の影がぐにゃりと歪み、そこから躍り出たのは切り絵のように黒くて薄い影――それは、影女であった。
この影女の正体は、お七の母ひのえである。ぽっくり逝ったと思ったら、気づいたらこんな姿になっていた。理由はお七にもひのえにもとんとわからない。
巨大なしゃれこうべに続いて、影女まで出現する。
次から次へと起こる奇怪な出来事に、脇坂も目をぱちくりさせた。
「おっ母さん、あいつを寺から出さないで」
『あいよ』
おもむろに下駄を脱いだ影女は、両手にはめた。その途端、体がむくむくと大きくなっていき、あっというまに本堂の屋根よりも大きくなって、巨大しゃれこうべといい勝負になった。
『よくもうちの娘にちょっかいを出してくれたね。ただじゃ済まさないよっ!』
啖呵を切るなり、右手に持った下駄でもって、ぱかんと一発、しゃれこうべをぶん殴る。
いきなり横っ面を叩かれ、しゃれこうべの巨体がぐらりと傾いたところを、すかさず『それ、もう一丁』と左からもぽかん。
これぞ生前にひのえが得意としていた、喧嘩殺法下駄しばきである。
いかにおきゃんとはいえ、男とまともに組み合ってはいささか分が悪い。
それを補うために編み出したのがこの戦法だ。
流石は人の身を支える履物なだけあって、下駄はとっても頑丈である。こいつでがつんと殴られたら、屈強な男とて涙を流し悶絶する。
巨大しゃれこうべと巨大影女のど突き合い。
両者が暴れる度に瓦礫が飛んでくる。なお本堂は、煽りを受けてとっくに潰れてしまった。
「いけ」「そこだ」「右」「よし」
お七は腕をぶんぶん振り回しながら、熱心に影女の応援をする。
その隣でぽかんとしていた脇坂は、試しに己の頬をつねってみた。
「うぬ、しっかり痛えな、こんちくしょうめ」
夢ではないことを確認し、改めて怪異同士の戦いに視線を向ける。
いかに巨大な怪異とて、しゃれこうべは先ほど発現したばかり。生まれたての赤子同然だ。
対する影女は、生前に方々の盛り場で大いに暴れた渡世人である。博打に酒に色恋だけでなく、乱闘騒ぎもしょっちゅう。なので、やたらと喧嘩慣れしているのだ。
影女が巨大しゃれこうべの小指を捻じ曲げ、足の甲を踏んづけて砕き、下駄の歯と歯の間で太い骨を挟んではぼきりとへし折る。
「容赦ねえ。せっかくご隠居たちに塩問屋まで走ってもらったが、この分だと無駄骨に終わるかもな」
脇坂はほとんど一方的なたこ殴りに呆れている。
「あー、それは多分無理」
お七が手をひらひらさせる。
「おっ母さん、わたしの影にくっついている時は平気なんだけど、あんな風に飛び出しちゃったら、あんまり長いことはもたないんだよねえ。元気よく動き回れるのは、せいぜい四半刻くらいかな」
影女は宿主であるお七から離れるほどに、影が薄くなり、力も弱くなる。
そして、大きくなった上に、娘にいいところを見せようとはりきっているから、いつもより消耗が激しい。
「えっ!」
そう聞かされた脇坂は声を上げた。お七の言う通りならば、そろそろ刻限である。
もっとも、すぐに新たな問題が起きて、二人はそれどころではなくなってしまった。
かたかたかたかた……また骨が鳴る音がする。先ほどよりもずっと軽くて小さいが、数が多いようだ。裏の竹林からぞろぞろ湧いてきたのは骸骨の群れだった。
十、二十、三十と、とにかくいっぱい、千鳥足ながらも二人のほうへと向かってくる。
脇坂は急いで同田貫を抜いた。お七も塩が入っている巾着に手を突っ込む。
ぼんやりしていたら囲まれると判断した脇坂が討って出る。
先頭の奴の首を刎ね、返す刀でもう一体の胴を薙ぐ。けれど首がなくても止まらず、上下が分かれたところで、這ってでも動く。挙句には壊れた者同士がくっついて復活する。
脇坂は懸命に応戦し、お七も援護する。しかし多勢に無勢である。手持ちの塩も残りわずかとなり、次第に骸骨どもの包囲の輪は狭まっていった。
頼みの綱である影女はすでに姿がだいぶと薄くなっている。
そろそろ刻限だ。影女が消えたら万事休すである。
「いかん、こうなったらお七ちゃんだけでも!」
脇坂が血路を開こうとしたところで、荷車の車輪が回る音が聞こえてきた。
「待たせたなお七ちゃん、脇坂のだんな……って、なんじゃこりゃーっ!」
声の主は鉄之助だ。ご隠居の手引きで塩問屋から大桶を幾つか拝借し、荷車をひいて先に一人でやってきた。足手まといのご隠居は置いてきた。もっとも、連れてこなくて正解である。
もしも、こんな怪異まみれの光景をまのあたりにしたら、興奮のあまり卒倒しかねない。ぽっくり逝かれたら、祖父の帰りを待つ千代に合わせる顔がない。
さて、塩があれは百人力だ。ここからが柳鼓の塩小町の本領発揮である。
お七は巾着に入っていた残りをぶち撒けた。
塩を喰らった骸骨数体がたちまち崩れて塵へと還る。
その様子に脇坂は「おぉ」と驚嘆するも、お七は胸の奥がわずかにちくりと痛む。
この骸骨たちは悪党どもに謀られ、金を毟り取られ、ついには殺され、無残にも竹林に打ち捨てられた哀れな犠牲者たちの成れの果てなのだろう。それを考えるとどうにも悲しくなってくる。
けれど、いまは涙を流す時ではない。その思いを振り払い、お七は声を張った。
「脇坂さん、下がって! あとすぐに刀をしまって。塩で錆びても知らないからね」
掴みかかってきた骸骨を蹴飛ばし、脇坂は慌てて愛刀を朱鞘に戻す。
その間に蓋を開けて準備をしていた鉄之助が、お七の側に桶を下ろした。
桶に手を突っ込んだお七は、手の平いっぱいに握った塩を、骸骨の群れへと豪快に投げつける。塩がぱらぱらと降り注ぎ、触れた骸骨どもは次々崩れていった。
「他の桶も開けて雪合戦の要領で塩玉を握っておいて」
お七は鉄之助と脇坂にそう頼む。あの巨大しゃれこうべにぶつけるためである。
「ええい、袖が邪魔」
片肌脱ぎとなったお七が、右肩を晒してせっせと塩を放つ。
骸骨の群れを蹴散らし続けるその様は、さながら読み物に登場する勇ましい英傑のようである。その側で、男たちが背を丸めてはちくちくと塩玉を握る。
「うう、指のささくれに染みやがる。痛てぇ」
「素手でやるからですよ、脇坂のだんな。ほら、こうやって手拭いを使えば」
「おぉ、鉄之助、おまえ賢いな。だがしまった、肝心の手拭いがない。あっ、そうだ。だったらこの越中ふんどしで――」
「それだけは止めてっ!」
ふんどしで塩を握ろうとする脇坂に、乙女の怒号が飛んだ。
お七が骸骨の群れをやっつけたのに前後して、影女がついに限界を迎えた。輪郭がぼやけてにじみ、しぼんでお七の影へと吸い込まれていく。
しかし、巨大しゃれこうべはというと、折れた骨が繋がり、ひびが消え、欠けた部位が戻って、ぼろぼろだったのが元通りになろうとしているではないか。
「そうはさせないよ、えぃ」
お七が大きく腕を振りかぶって塩玉を投げた。
当たった箇所が爆ぜ、たちまち周辺がごそっと砕け散る。
鉄之助らから渡されるままに、お七は次々と塩玉を投げまくる。
「よくもそう狙ったところにぽんぽん当てられるもんだ」
やんやと喝采を送る脇坂は、感心しきりであった。
「ああ、これ? おっ母さんの情夫に、投擲術が得意な人がいたんだよ。それで的当て遊びがてら、色々こつを教えてくれたの」
お七の母ひのえが流した浮名は数知れず。そしていい仲となれば寝物語に教わることや学ぶこともある。そして、そのお零れがお七にも流れてくるというわけだ。もっとも大半はろくに根づかなかったけれど、それでも幾つかはちゃんと活きている。投擲術もそのうちの一つだ。
お七は威勢よく塩玉をぶつけては、巨大しゃれこうべをやっつける。
「血は争えんなぁ」
その勇ましい姿を眺めながら、脇坂はぽつりと零した。
「けど知ってますか、脇坂のだんな。お七ちゃんってば、将来は手堅く所帯を持って、静かに暮らしたいんだそうですよ」
鉄之助がせっせと手を動かしながら言う。
「はぁ? 十二にしてはずいぶんとしょぼくれていやがる。そこは嘘でも大店の跡取りに見初められて玉の輿とか、どこぞの若様と芝居みたいな恋をしたい、とか言うところだろうに」
「ぶふっ。ちげえねえ」
脇坂の言葉に、鉄之助はたまらず噴き出し、けらけらと笑った。
「二人とも、口より手を動かす」
お七がぴしゃりと言い放つ。
怒られた男たちは「ひえっ」と首をすくめて、塩玉作りに精を出すのであった。
◇
奮闘すること数刻、東の空が白む頃。
巨大しゃれこうべとお七の合戦は、ようやく終わりを迎えた。
持ち込んだ塩の大桶六つ、すべてが空っぽになり、荒れ寺の境内には薄らと塩の雪が降り積もっている。心なしか漂う空気までもがしょっぱくて、徹夜明けの目に染みる。
怪異には滅法強いお七ですらも大苦戦であった。それは、すなわちこの地にあった業が深かったということである。
お七はへとへとになって、荷車の上で大の字になった。全身汗だくで息も絶えだえである。かたわらで脇坂と鉄之助もぐったりへたり込んでいる。三人とも塩に触りすぎて、手が赤く腫れてしまっていた。
兎にも角にも江戸の平穏は守られた。しかし、これにて一件落着、とはいかないのが世知辛いところ。
若い娘が鉄砲玉のように飛び出したと思ったら、長屋の男衆を連れて堂々の朝帰りである。ご隠居と千代が感動の再会をしている一方で、お七は祖父の仁左からしこたま怒られた。
仁左は書を好み物静かな人物なのだが、ひとたび怒ると怖いのなんのって……雷がぴかごろどしゃんと降り注ぐようで、まるで生きた心地がしない。怪異相手には滅法強い塩小町も、怒り心頭の祖父には敵わぬのだった。
巻き込まれてはたまらぬと、そろり退散しようとする脇坂と鉄之助であったが、逃げられない。
「まあまあ、せっかくだからゆっくり朝飯でも食っていけ」
男たちの襟首を背後からむんずと掴むと、仁左はにこりと笑いながら二人を家の奥へと引っ立てていった。
◇
巨大しゃれこうべとの戦いがあった翌日。
夜通し塩玉を投げ続けたせいで、激烈な筋肉痛に悶えるお七から事情を聞いた仁左は、とてもこのままにはしておけぬと馴染みの岡っ引きである以蔵親分に相談した。
すると以蔵親分は心得たもので、怪異云々のくだりを上手にぼかして上役に報告してくれた。
結局、悪党どもは分け前を巡っての仲間割れとされ、検分にて荒れ寺の瓦礫の下や裏の竹林を漁ってみれば、白い骨の山が出るわ出るわ。この地で行われていた悪行の一切が露見したのである。更地にされた荒れ寺一帯、かつて迷子石の塚があった場所には、せめてもの慰めにと供養の碑が建てられ、懇ろに弔いの儀が執り行われた。
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