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1巻
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序章
元禄十六年の江戸は年明けからそわそわしていた。昨年末の赤穂浪士討ち入りのせいである。江戸雀たちも、心なしかちゅんちゅんとやかましい。
しかし、それとは違う理由で、本所深川は北東にある柳鼓長屋は賑やかだった。
「お七ちゃんや、もう堪忍しておくれ」
「だめ。ご隠居さんってば、また妙なのを拾ってきて」
逃げる老爺を、塩が入った壺を抱えて追いかけ回していたのは、長屋の差配をしている仁左の孫のお七である。膝の調子がよくない祖父を手伝う働き者の孝行娘で、歳は十二だ。そんな娘がどうして、こんなことをしているのかというと……
なんの因果かこのお七、怪異の類に滅法強い星の下に生まれた。僧侶や修験者らも苦戦するようなこの世ならざる者どもを、塩を投げつけるだけで、ばったばったと薙ぎ倒すことができる。
ゆえについた渾名が、柳鼓の塩小町。
一方で、追いかけ回されていた老爺も只者ではない。名を伊勢屋清右衛門といい、これでもれっきとした大店の元主人である。いまは跡目を息子夫婦に譲り気楽な長屋暮らしをしながら、道楽の怪異巡りを満喫中だ。
しかしこのご隠居は、怪異を視る目がさっぱりなわりに、やたらと拾ってくる体質だから困る。毎度その尻拭いをさせられるのはお七で、今もご隠居に憑いた怪異を祓っていたというわけだ。だから塩を投げる手につい力が入るのはしょうがない。
「いい加減に観念してください。あと塩のお代は店賃に上乗せしておきますからね」
「うう、お七ちゃんが容赦ない」
ご隠居はすっかり塩まみれとなった。これにてお祓いは完了である。
「もうおわった?」
物陰から遠慮がちに、おかっぱ頭の女童が現れた。人形のように愛らしいこの子は、六歳になるご隠居の末孫で、名を千代という。ゆえあって祖父と長屋に住んでおり、やや人見知りだがお七にはよく懐いている。
「ええ、もう大丈夫。念のため千代ちゃんもね」
お七は指先で摘んだ塩を、はらりと千代に優しく振りかけた。
「ずいぶんと扱いに差がありやせんかのぉ」
口を尖らせるご隠居だが、お七はつんと聞こえない振りをする。このやりとりに千代はくすくす笑う。
その時、近くの障子戸ががたりと開いた。長屋の一室から顔を見せたのは銀杏頭で無精髭の浪人者であった。着流しの前に手を突っ込んでは、ぼりぼり腹を掻き、大欠伸をしている。
「朝っぱらからずいぶんと賑やかだな、お七ちゃん」
「……もう巳の刻ですよ脇坂さん」
お七は呆れ顔である。さらに千代からも「ねぼすけ」と言われた浪人者は、「ははは、こいつは参った」と、頬をぽりぽり搔きながら笑う。
この浪人者、名を脇坂九郎という。男ぶりも剣の腕も悪くはないのだが、いかんせんやる気が乏しい。用心棒や道場の出稽古などで生計を立てているが、あくせく働くのは性に合わない。仕官にも興味がない。
「ご隠居も飽きもせず熱心なこって。わざわざよそに行かずとも、うちの長屋をぶらつけば事足りるだろうに」
脇坂が怠そうに言うと、お七が慌てて注意する。
「ちょっと! 変なことを言わないでよ。ただでさえご近所で噂になってるんだから」
お七に脛をこつんと蹴られて、脇坂は「あ痛っ!」と顔をしかめた。
というのも、ここ本所深川の柳鼓長屋には、名の由来にもなっている不思議な話がある。
まだ江戸がいまよりずっと寂しかった頃のことだ。
暗い夜道を一人歩いていたお侍の前を、さっと影が横切った。驚いたお侍であったが、その正体は狸であった。
「おのれ畜生の分際で武士の面前を横切るとはけしからん。成敗してくれる!」
いきなり刀を抜いたお侍に吃驚した狸は、すぐに逃げ出した。
狸が逃げ込んだのは近くの長屋であった。
しぃんと静まり返っている長屋内にお侍は少し躊躇するも、いまさらあとには引けず奥へと進む。しかし肝心の狸は見つからない。突き当りまで辿り着いたものの、どこにもいない。あるのは一本の柳の木ばかりであった。
お侍は「まんまと逃げられた!」と悔しがり、腹立ち紛れに柳の木を蹴飛ばした。
すると柳の木が、ぽーんと鳴った。
見事な鼓の音に、すっかり肝を潰したお侍は、泡を食って逃げ出した。
しかし、これを見ていた長屋の住人がいたのが運の尽きで、たちまち噂は広まり、お侍はすっかり面目を失って、お役目を返上し出家した。
以降、ここは柳鼓長屋と呼ばれるようになり、いつしか柳の木を叩いて鳴けば、願い事が叶うなんてことまで言われるようになった。これを面白がった住人の大工がちょちょいと祠を建てれば、別の大工の住人が張り合って狸の彫り物を拵え、いまでは長屋の住人たちから柳の木ともども大切にされている。
そんな少し不思議な柳鼓長屋なのだが、住んでいる者たちも曲者揃いにつき、毎日賑やかなのである。
◇
お七は父なし子だ。
お七の母、ひのえは粋でいなせでとってもおきゃん。世間の習慣や些事に縛られず、思うさまに突っ走る。女ながらに呑む打つ遊ぶ、喧嘩もする。賭場で諸肌脱いでは「さぁさぁ、丁半、はったはった」と威勢よく壺を振った。
ひのえが顔を出せば賭場が満員御礼になるものだから、あちこちからお呼びがかかる。おかげで顔も名前も売れて、たいていの盛り場は彼女の庭であった。
そんなひのえは、恋多き女としても有名であった。惚れた腫れたで、まさに燃え盛る焔のごとし。でもいつも長続きしなかった。しばらくすると、自ら身を引いてしまうのだ。何故ならば、ひのえが惹かれるのは男そのものより、まだ芽が出ていない才のほうだったからである。芽を育てるためにせっせと彼女は世話を焼く。すると男もその気になって、己の才と真剣に向き合い、ほどなくして開花する。
しかし、ひのえはここで満足してしまうのだ。恋はいいが所帯を持つのは、どうにも性分に合わないらしかった。
そんな暮らしを続けているうちに、身籠ったのがお七であった。
好きな男に会いたい一心で火を放ち、その罪により鈴ヶ森の刑場にて火刑に処された少女から名前をとって、お七と名づけた。
八百屋お七を題目にした芝居を見て、ひのえは感心したのだ。
「男恋しさに江戸を焼け野原にしようたぁ剛毅だ。あたいは好きだねえ、気に入ったよ」
けれどそんな名をつけられた娘は、たいそう迷惑であった。
なにせ母がひのえで、娘がお七である。丙午の年は火災が多いと信じられ、八百屋お七もこの年の生まれであったことから、丙午生まれの女性は気性が激しく夫を殺す、なんてことも囁かれていた。
幾ら火事と喧嘩は江戸の花とはいえ、縁起が悪いにもほどがある。
江戸っ子はけっこう験を担ぐ。特に商いをしている者は縁起の良し悪しを気にしており、そんな彼らが特に恐れているのが火事であった。火はすべてを灰燼に帰す。
よってお七なんて縁起の悪い名の娘なんぞはどこの家も願い下げで、お七は早々に奉公人の道を閉ざされた。母親となってもひのえの奔放さは変わらず、お七は終始振り回されてばかりであったが、そんな日々はお七が十一になった頃、唐突に終わる。
ひのえが風邪をこじらせ、ぽっくり逝ってしまったのだ。
母の死の間際、枕元でお七はずっと気になっていたことを尋ねた。
「ねえ、おっ母さん。わたしのお父っつぁんってどこの誰なの?」
しかし、ひのえは黙して語らず。白状するかと期待したがだめであった。
かくして、お七は天涯孤独の身の上……にはならなかった。
お七も知らなかったのだが、ひのえの父、つまりお七にとっては祖父にあたる仁左が存命であり、彼女を引き取ってくれたのである。
仁左は柳鼓長屋の差配をしていたので、自然とお七も長屋の住人たちと親しくなった。
そんなお七と曲者揃いの長屋には、毎日様々な事件が舞い込んできて……
其の一 人喰い寺の迷子石
柳鼓長屋の祠に祀られている狸の彫り物は、両手に納まる程度の大きさで、お世辞にも上手い細工ではない。
ただ妙に愛嬌があり眺めていると頬が緩んでくる。
実はこのご神体、盗まれたことが過去に三度ある。そのうち二度は勝手に帰ってきた。近々の一度は長屋の住人が見つけて、取り返してきてくれた。
そんな狸のご神体を磨き、祠の掃除を終えたお七が木戸のほうへ向かっていると、ご隠居と若い男が話し込んでいるところを目にした。
この若い男こそが盗まれたご神体を見つけてくれた長屋の住人、鉄之助である。
鉄之助は細目で愛想のいい兄さんだ。器用な男で、万屋稼業を営んでいる。そこそこ繁盛しているらしく留守にしていることが多い。
以前にお七は「どうしてそんなに色んなことができるの?」と尋ねたことがある。
すると、鉄之助はこう答えた。
「おれは元忍びだからな」
忍びとは色んなところに潜入し、秘密を探るのが主な役目である。
ゆえに囲碁、将棋、大工仕事、茶の湯、華道、踊りにお琴、料理に算盤、宴会芸に太鼓持ち、やれることは多いに越したことはない。
釣り好きに接近するには、釣り場にて声をかけたほうが相手も気を許しやすい。囲碁好きならば、程よく勝たせてやれば上機嫌になって口も軽くなるというものだ。
「とはいえ、出来すぎもいけねえ。素人よりは上手く、玄人と話が通じるぐらいがちょうどいい」
鉄之助はお七に匙加減が肝要と語った。
そんな青年とご隠居がこそこそ話をしている。
「……怪しい」
お七はそろりそろり、二人へ近づく。ちなみに、この忍び足は鉄之助が戯れに教えたものだが、思いの外、筋がよくて、お七はたちまちものにしてしまった。
こっそり近づくと、二人の会話が聞こえてくる。
「ふむふむ、その荒れ寺に女の幽霊が出るというんじゃな」
「ええ、そこには迷子石なるものがありましてね。こいつが人喰い岩なんぞとも呼ばれている。そりゃあ恐ろしいじゃありませんか」
鉄之助の話をよくよく聞いてみると、どうやらこういうことらしい。
ある荒れ寺には、迷子石という名の奇妙な願掛けがあり、行方知れずとなった我が子を捜し求めて、石に願いを託すという。
哀れな女の幽霊が死後も消えた我が子の姿を求め彷徨っている、なんて噂があったのだが、事態は幽霊騒ぎには留まらない。願掛けに通う者たちが一人消え、二人消え、ついには誰もいなくなってしまったというのだ。
「ちょっと鉄之助さん! またご隠居さんに変な話を吹き込んでっ」
いきなりお七に叱られて、男たちは仰天した。
ご隠居は怪異狂いだ。
その手の話を耳にすれば、いそいそ出掛けるほどの熱の入れよう。そういうわけで、あまり噂話は聞かせたくないのだ。
一方で、万屋稼業をしている鉄之助は職業柄あちこちに出入りしている。
その耳には自然と江戸中の噂が流れ込んでくるもので、ご隠居からせがまれるまま、つい聞きかじった怪異話を披露してしまったのだろう。
お七に叱られた二人は「うひゃあ」と逃げ出す。
すたこら遠ざかる店子たちに、お七は「もう」とふくれっ面をした。
◇
そんなことがあったこともすっかり忘れていた夕暮れの刻。
お七と仁左が住む家を千代が訪ねてきた。半べそをかいており、なにやら様子がおかしい。
「どうしたの千代ちゃん?」
「お七さん……おじいちゃんが帰ってこないの」
ご隠居が千代を近所の者に預けて、一人で出掛けることはままある。
けれど行く先も告げずに、ましてやこんな時刻になっても音沙汰がないというのは、これまでになかったことだ。ご隠居は道楽者だが千代をとても大事にしている。そのことは、長屋の者ならばみな知っている。
お七はなんとなく胸騒ぎがした。生まれながら怪異に滅法強いお七は、勘も相当に鋭い。ひとまず千代を仁左に任せて、一人長屋へと向かう。その道すがら、お七が思い出したのが昼間のやりとりである。
「まさか!」
幸い鉄之助が家にいたので、お七が事情を説明する。
そうしたら、鉄之助はたちまち表情を曇らせた。
「実はあれからよくない噂を耳にしたんだ。近頃、あそこには人相風体の悪い浪人どもが出入りしているとか。ほら、少し前に金貸しが押し込みにやられただろう。ひょっとしたらその下手人どもじゃないかって」
その事件ならばお七も知っている。つい十日ほど前に、店の者全員が惨殺されて金蔵が荒らされたのだ。
そんな連中が屯しているところに、身なりのいい老爺がのこのこ出掛けていったら、よくて身包みを剥がれるか、あるいは拐かされて身代金をせしめられたり、最悪殺されたり、ということもある。
「大変! こうしちゃいられない」
いきなり駆け出そうとするお七の腕を、鉄之助が慌てて掴む。
「いけねえ、お七ちゃん。まだそうと決まったわけじゃねえんだから」
「でも凄く嫌な予感がするの。さっきからずっと首の後ろがちりちりしている。急がないと手遅れになる」
「いや、しかし――」
お七と鉄之助が押し問答をしていたら、そこに脇坂が姿を見せた。
軽く一杯引っかけてきたようで、顔が少し赤い。
「なんだ、痴話喧嘩か? おまえたちがそんな仲だったとは知らなかったなぁ」
にやにやと揶揄う脇坂であったが、お七にとっては天の助けである。
「脇坂さん、ちょうどよかった。これからすぐに一緒に来て。あっ、刀もちゃんと持ってきてよね。それから鉄之助さんは例の荒れ寺への道案内をお願い」
言い出したら聞かないお七は、四の五の言わずにまずは動く。それは紛れもなく、亡くなった母譲りの性分なのだが、周囲の心配をよそに当人はまるで気がついていない。
◇
荒れ寺にやってきたお七たちだが、流石にいきなり乗り込んだりはしない。まずは様子を探ることにした。
「というわけで行ってらっしゃい」
「よっ、元忍び」
軽く送り出された鉄之助は「なんだかなぁ」とぶつぶつ言いながら、一人境内へと入った。
夜陰に紛れて、鉄之助は音もなく本堂へと近づく。その足が石塚の前で止まった。名が彫られた石がうず高く積まれている。
「これが迷子石か。大きな岩みたいなのを想像していたんだが、なんとも薄っ気味の悪い。おっと、こうしちゃいられない。ぐずぐずしていたらお七ちゃんに叱られちまう。ご隠居、ご隠居っと」
軽く手を合わせてから、鉄之助は先を急ぐ。
本堂からは明かりが漏れていた。
建物の脇へと回り込み壁に耳を当てると、男たちの濁声が聞こえてきた。七人以上はいる。
鉄之助は壁から耳を離すと、縁の下へ潜り込んだ。
暗闇の中、しばし目が慣れるのを待つ。だが、露わとなった床下の光景に、鉄之助は危うく声を上げそうになった。
なんと、一面に人骨が散乱していたのだ。転がる髑髏をざっと数えただけでも、二十は優に超えている。
「これじゃあ人喰い岩じゃなくて、人喰い寺じゃねえか」
眉をひそめつつ、鉄之助は臆することなく奥へと這い進む。そのかたわらで聞き耳を立て、床上から伝わる声も拾う。
「しかし、いい隠れ家があったものだなぁ」
「ここならば寺社奉行の預かりになるから、町方もおいそれとは踏み込めぬ。江戸を去るまでの時間稼ぎにはもってこいだ」
「なぁに昔つるんでた奴がここを使ってたんだよ。いい加減に潰れちまったかと思ったが、こいつも御仏のお導きかねえ」
「くくく、違いねえ」
「それにしても、おまえさんの昔の連れといえば例のあれだろう? 俺たちも大概だが、流石にあれには負けるぜ」
「おうとも。迷子を探す親を騙して絞るだけ絞りとったら、あとは斬り捨てる。とんだ外道がいたものよ」
「そういうおまえだって、この前の押し込みでは嬉々として女や子どもを殺めていたではないか」
「ふふふ、たまに血を吸わせてやらねば、愛刀が臍を曲げるからなぁ」
耳を塞ぎたくなるような会話である。鬼畜な所業を平然と語り、男たちはげらげら笑っていた。これには鉄之助も嫌悪感を露わにする。
そして男たちは、続けてこんな話をした。
「仏のお導きといえば、よもやあの伊勢屋のじじいが転がり込んでくるとはな」
「そのことよ。仮にも大店の隠居だぞ。一人でこんなところをうろつくものか?」
「ああ、おれは前に顔を見たことがあるからたしかだ。せっかく打ち出の小槌を手に入れたことだし、江戸からおさらばする前に、もうひと稼ぎといこうじゃないか」
「その大事な小槌は、どうしている?」
「奥の納戸に縛って転がしてある。ぽっくり逝かれてはたまらんから、あとで水と握り飯でも差し入れてやるさ」
探し人の居所が知れた。
鉄之助は床下を這って、そちらへと向かう。
納戸に辿り着くと、手足を縛られ、猿轡をかまされている老爺がすぐに見つかった。床下から「ご隠居」と呼びかければ、老爺は身をよじらせて口元をもがもがさせる。
「しっ、連中に気づかれる。すぐに助けるから、ちょいと待っててくれ」
鉄之助はご隠居をたしなめ、いったんその場を離れた。
元禄十六年の江戸は年明けからそわそわしていた。昨年末の赤穂浪士討ち入りのせいである。江戸雀たちも、心なしかちゅんちゅんとやかましい。
しかし、それとは違う理由で、本所深川は北東にある柳鼓長屋は賑やかだった。
「お七ちゃんや、もう堪忍しておくれ」
「だめ。ご隠居さんってば、また妙なのを拾ってきて」
逃げる老爺を、塩が入った壺を抱えて追いかけ回していたのは、長屋の差配をしている仁左の孫のお七である。膝の調子がよくない祖父を手伝う働き者の孝行娘で、歳は十二だ。そんな娘がどうして、こんなことをしているのかというと……
なんの因果かこのお七、怪異の類に滅法強い星の下に生まれた。僧侶や修験者らも苦戦するようなこの世ならざる者どもを、塩を投げつけるだけで、ばったばったと薙ぎ倒すことができる。
ゆえについた渾名が、柳鼓の塩小町。
一方で、追いかけ回されていた老爺も只者ではない。名を伊勢屋清右衛門といい、これでもれっきとした大店の元主人である。いまは跡目を息子夫婦に譲り気楽な長屋暮らしをしながら、道楽の怪異巡りを満喫中だ。
しかしこのご隠居は、怪異を視る目がさっぱりなわりに、やたらと拾ってくる体質だから困る。毎度その尻拭いをさせられるのはお七で、今もご隠居に憑いた怪異を祓っていたというわけだ。だから塩を投げる手につい力が入るのはしょうがない。
「いい加減に観念してください。あと塩のお代は店賃に上乗せしておきますからね」
「うう、お七ちゃんが容赦ない」
ご隠居はすっかり塩まみれとなった。これにてお祓いは完了である。
「もうおわった?」
物陰から遠慮がちに、おかっぱ頭の女童が現れた。人形のように愛らしいこの子は、六歳になるご隠居の末孫で、名を千代という。ゆえあって祖父と長屋に住んでおり、やや人見知りだがお七にはよく懐いている。
「ええ、もう大丈夫。念のため千代ちゃんもね」
お七は指先で摘んだ塩を、はらりと千代に優しく振りかけた。
「ずいぶんと扱いに差がありやせんかのぉ」
口を尖らせるご隠居だが、お七はつんと聞こえない振りをする。このやりとりに千代はくすくす笑う。
その時、近くの障子戸ががたりと開いた。長屋の一室から顔を見せたのは銀杏頭で無精髭の浪人者であった。着流しの前に手を突っ込んでは、ぼりぼり腹を掻き、大欠伸をしている。
「朝っぱらからずいぶんと賑やかだな、お七ちゃん」
「……もう巳の刻ですよ脇坂さん」
お七は呆れ顔である。さらに千代からも「ねぼすけ」と言われた浪人者は、「ははは、こいつは参った」と、頬をぽりぽり搔きながら笑う。
この浪人者、名を脇坂九郎という。男ぶりも剣の腕も悪くはないのだが、いかんせんやる気が乏しい。用心棒や道場の出稽古などで生計を立てているが、あくせく働くのは性に合わない。仕官にも興味がない。
「ご隠居も飽きもせず熱心なこって。わざわざよそに行かずとも、うちの長屋をぶらつけば事足りるだろうに」
脇坂が怠そうに言うと、お七が慌てて注意する。
「ちょっと! 変なことを言わないでよ。ただでさえご近所で噂になってるんだから」
お七に脛をこつんと蹴られて、脇坂は「あ痛っ!」と顔をしかめた。
というのも、ここ本所深川の柳鼓長屋には、名の由来にもなっている不思議な話がある。
まだ江戸がいまよりずっと寂しかった頃のことだ。
暗い夜道を一人歩いていたお侍の前を、さっと影が横切った。驚いたお侍であったが、その正体は狸であった。
「おのれ畜生の分際で武士の面前を横切るとはけしからん。成敗してくれる!」
いきなり刀を抜いたお侍に吃驚した狸は、すぐに逃げ出した。
狸が逃げ込んだのは近くの長屋であった。
しぃんと静まり返っている長屋内にお侍は少し躊躇するも、いまさらあとには引けず奥へと進む。しかし肝心の狸は見つからない。突き当りまで辿り着いたものの、どこにもいない。あるのは一本の柳の木ばかりであった。
お侍は「まんまと逃げられた!」と悔しがり、腹立ち紛れに柳の木を蹴飛ばした。
すると柳の木が、ぽーんと鳴った。
見事な鼓の音に、すっかり肝を潰したお侍は、泡を食って逃げ出した。
しかし、これを見ていた長屋の住人がいたのが運の尽きで、たちまち噂は広まり、お侍はすっかり面目を失って、お役目を返上し出家した。
以降、ここは柳鼓長屋と呼ばれるようになり、いつしか柳の木を叩いて鳴けば、願い事が叶うなんてことまで言われるようになった。これを面白がった住人の大工がちょちょいと祠を建てれば、別の大工の住人が張り合って狸の彫り物を拵え、いまでは長屋の住人たちから柳の木ともども大切にされている。
そんな少し不思議な柳鼓長屋なのだが、住んでいる者たちも曲者揃いにつき、毎日賑やかなのである。
◇
お七は父なし子だ。
お七の母、ひのえは粋でいなせでとってもおきゃん。世間の習慣や些事に縛られず、思うさまに突っ走る。女ながらに呑む打つ遊ぶ、喧嘩もする。賭場で諸肌脱いでは「さぁさぁ、丁半、はったはった」と威勢よく壺を振った。
ひのえが顔を出せば賭場が満員御礼になるものだから、あちこちからお呼びがかかる。おかげで顔も名前も売れて、たいていの盛り場は彼女の庭であった。
そんなひのえは、恋多き女としても有名であった。惚れた腫れたで、まさに燃え盛る焔のごとし。でもいつも長続きしなかった。しばらくすると、自ら身を引いてしまうのだ。何故ならば、ひのえが惹かれるのは男そのものより、まだ芽が出ていない才のほうだったからである。芽を育てるためにせっせと彼女は世話を焼く。すると男もその気になって、己の才と真剣に向き合い、ほどなくして開花する。
しかし、ひのえはここで満足してしまうのだ。恋はいいが所帯を持つのは、どうにも性分に合わないらしかった。
そんな暮らしを続けているうちに、身籠ったのがお七であった。
好きな男に会いたい一心で火を放ち、その罪により鈴ヶ森の刑場にて火刑に処された少女から名前をとって、お七と名づけた。
八百屋お七を題目にした芝居を見て、ひのえは感心したのだ。
「男恋しさに江戸を焼け野原にしようたぁ剛毅だ。あたいは好きだねえ、気に入ったよ」
けれどそんな名をつけられた娘は、たいそう迷惑であった。
なにせ母がひのえで、娘がお七である。丙午の年は火災が多いと信じられ、八百屋お七もこの年の生まれであったことから、丙午生まれの女性は気性が激しく夫を殺す、なんてことも囁かれていた。
幾ら火事と喧嘩は江戸の花とはいえ、縁起が悪いにもほどがある。
江戸っ子はけっこう験を担ぐ。特に商いをしている者は縁起の良し悪しを気にしており、そんな彼らが特に恐れているのが火事であった。火はすべてを灰燼に帰す。
よってお七なんて縁起の悪い名の娘なんぞはどこの家も願い下げで、お七は早々に奉公人の道を閉ざされた。母親となってもひのえの奔放さは変わらず、お七は終始振り回されてばかりであったが、そんな日々はお七が十一になった頃、唐突に終わる。
ひのえが風邪をこじらせ、ぽっくり逝ってしまったのだ。
母の死の間際、枕元でお七はずっと気になっていたことを尋ねた。
「ねえ、おっ母さん。わたしのお父っつぁんってどこの誰なの?」
しかし、ひのえは黙して語らず。白状するかと期待したがだめであった。
かくして、お七は天涯孤独の身の上……にはならなかった。
お七も知らなかったのだが、ひのえの父、つまりお七にとっては祖父にあたる仁左が存命であり、彼女を引き取ってくれたのである。
仁左は柳鼓長屋の差配をしていたので、自然とお七も長屋の住人たちと親しくなった。
そんなお七と曲者揃いの長屋には、毎日様々な事件が舞い込んできて……
其の一 人喰い寺の迷子石
柳鼓長屋の祠に祀られている狸の彫り物は、両手に納まる程度の大きさで、お世辞にも上手い細工ではない。
ただ妙に愛嬌があり眺めていると頬が緩んでくる。
実はこのご神体、盗まれたことが過去に三度ある。そのうち二度は勝手に帰ってきた。近々の一度は長屋の住人が見つけて、取り返してきてくれた。
そんな狸のご神体を磨き、祠の掃除を終えたお七が木戸のほうへ向かっていると、ご隠居と若い男が話し込んでいるところを目にした。
この若い男こそが盗まれたご神体を見つけてくれた長屋の住人、鉄之助である。
鉄之助は細目で愛想のいい兄さんだ。器用な男で、万屋稼業を営んでいる。そこそこ繁盛しているらしく留守にしていることが多い。
以前にお七は「どうしてそんなに色んなことができるの?」と尋ねたことがある。
すると、鉄之助はこう答えた。
「おれは元忍びだからな」
忍びとは色んなところに潜入し、秘密を探るのが主な役目である。
ゆえに囲碁、将棋、大工仕事、茶の湯、華道、踊りにお琴、料理に算盤、宴会芸に太鼓持ち、やれることは多いに越したことはない。
釣り好きに接近するには、釣り場にて声をかけたほうが相手も気を許しやすい。囲碁好きならば、程よく勝たせてやれば上機嫌になって口も軽くなるというものだ。
「とはいえ、出来すぎもいけねえ。素人よりは上手く、玄人と話が通じるぐらいがちょうどいい」
鉄之助はお七に匙加減が肝要と語った。
そんな青年とご隠居がこそこそ話をしている。
「……怪しい」
お七はそろりそろり、二人へ近づく。ちなみに、この忍び足は鉄之助が戯れに教えたものだが、思いの外、筋がよくて、お七はたちまちものにしてしまった。
こっそり近づくと、二人の会話が聞こえてくる。
「ふむふむ、その荒れ寺に女の幽霊が出るというんじゃな」
「ええ、そこには迷子石なるものがありましてね。こいつが人喰い岩なんぞとも呼ばれている。そりゃあ恐ろしいじゃありませんか」
鉄之助の話をよくよく聞いてみると、どうやらこういうことらしい。
ある荒れ寺には、迷子石という名の奇妙な願掛けがあり、行方知れずとなった我が子を捜し求めて、石に願いを託すという。
哀れな女の幽霊が死後も消えた我が子の姿を求め彷徨っている、なんて噂があったのだが、事態は幽霊騒ぎには留まらない。願掛けに通う者たちが一人消え、二人消え、ついには誰もいなくなってしまったというのだ。
「ちょっと鉄之助さん! またご隠居さんに変な話を吹き込んでっ」
いきなりお七に叱られて、男たちは仰天した。
ご隠居は怪異狂いだ。
その手の話を耳にすれば、いそいそ出掛けるほどの熱の入れよう。そういうわけで、あまり噂話は聞かせたくないのだ。
一方で、万屋稼業をしている鉄之助は職業柄あちこちに出入りしている。
その耳には自然と江戸中の噂が流れ込んでくるもので、ご隠居からせがまれるまま、つい聞きかじった怪異話を披露してしまったのだろう。
お七に叱られた二人は「うひゃあ」と逃げ出す。
すたこら遠ざかる店子たちに、お七は「もう」とふくれっ面をした。
◇
そんなことがあったこともすっかり忘れていた夕暮れの刻。
お七と仁左が住む家を千代が訪ねてきた。半べそをかいており、なにやら様子がおかしい。
「どうしたの千代ちゃん?」
「お七さん……おじいちゃんが帰ってこないの」
ご隠居が千代を近所の者に預けて、一人で出掛けることはままある。
けれど行く先も告げずに、ましてやこんな時刻になっても音沙汰がないというのは、これまでになかったことだ。ご隠居は道楽者だが千代をとても大事にしている。そのことは、長屋の者ならばみな知っている。
お七はなんとなく胸騒ぎがした。生まれながら怪異に滅法強いお七は、勘も相当に鋭い。ひとまず千代を仁左に任せて、一人長屋へと向かう。その道すがら、お七が思い出したのが昼間のやりとりである。
「まさか!」
幸い鉄之助が家にいたので、お七が事情を説明する。
そうしたら、鉄之助はたちまち表情を曇らせた。
「実はあれからよくない噂を耳にしたんだ。近頃、あそこには人相風体の悪い浪人どもが出入りしているとか。ほら、少し前に金貸しが押し込みにやられただろう。ひょっとしたらその下手人どもじゃないかって」
その事件ならばお七も知っている。つい十日ほど前に、店の者全員が惨殺されて金蔵が荒らされたのだ。
そんな連中が屯しているところに、身なりのいい老爺がのこのこ出掛けていったら、よくて身包みを剥がれるか、あるいは拐かされて身代金をせしめられたり、最悪殺されたり、ということもある。
「大変! こうしちゃいられない」
いきなり駆け出そうとするお七の腕を、鉄之助が慌てて掴む。
「いけねえ、お七ちゃん。まだそうと決まったわけじゃねえんだから」
「でも凄く嫌な予感がするの。さっきからずっと首の後ろがちりちりしている。急がないと手遅れになる」
「いや、しかし――」
お七と鉄之助が押し問答をしていたら、そこに脇坂が姿を見せた。
軽く一杯引っかけてきたようで、顔が少し赤い。
「なんだ、痴話喧嘩か? おまえたちがそんな仲だったとは知らなかったなぁ」
にやにやと揶揄う脇坂であったが、お七にとっては天の助けである。
「脇坂さん、ちょうどよかった。これからすぐに一緒に来て。あっ、刀もちゃんと持ってきてよね。それから鉄之助さんは例の荒れ寺への道案内をお願い」
言い出したら聞かないお七は、四の五の言わずにまずは動く。それは紛れもなく、亡くなった母譲りの性分なのだが、周囲の心配をよそに当人はまるで気がついていない。
◇
荒れ寺にやってきたお七たちだが、流石にいきなり乗り込んだりはしない。まずは様子を探ることにした。
「というわけで行ってらっしゃい」
「よっ、元忍び」
軽く送り出された鉄之助は「なんだかなぁ」とぶつぶつ言いながら、一人境内へと入った。
夜陰に紛れて、鉄之助は音もなく本堂へと近づく。その足が石塚の前で止まった。名が彫られた石がうず高く積まれている。
「これが迷子石か。大きな岩みたいなのを想像していたんだが、なんとも薄っ気味の悪い。おっと、こうしちゃいられない。ぐずぐずしていたらお七ちゃんに叱られちまう。ご隠居、ご隠居っと」
軽く手を合わせてから、鉄之助は先を急ぐ。
本堂からは明かりが漏れていた。
建物の脇へと回り込み壁に耳を当てると、男たちの濁声が聞こえてきた。七人以上はいる。
鉄之助は壁から耳を離すと、縁の下へ潜り込んだ。
暗闇の中、しばし目が慣れるのを待つ。だが、露わとなった床下の光景に、鉄之助は危うく声を上げそうになった。
なんと、一面に人骨が散乱していたのだ。転がる髑髏をざっと数えただけでも、二十は優に超えている。
「これじゃあ人喰い岩じゃなくて、人喰い寺じゃねえか」
眉をひそめつつ、鉄之助は臆することなく奥へと這い進む。そのかたわらで聞き耳を立て、床上から伝わる声も拾う。
「しかし、いい隠れ家があったものだなぁ」
「ここならば寺社奉行の預かりになるから、町方もおいそれとは踏み込めぬ。江戸を去るまでの時間稼ぎにはもってこいだ」
「なぁに昔つるんでた奴がここを使ってたんだよ。いい加減に潰れちまったかと思ったが、こいつも御仏のお導きかねえ」
「くくく、違いねえ」
「それにしても、おまえさんの昔の連れといえば例のあれだろう? 俺たちも大概だが、流石にあれには負けるぜ」
「おうとも。迷子を探す親を騙して絞るだけ絞りとったら、あとは斬り捨てる。とんだ外道がいたものよ」
「そういうおまえだって、この前の押し込みでは嬉々として女や子どもを殺めていたではないか」
「ふふふ、たまに血を吸わせてやらねば、愛刀が臍を曲げるからなぁ」
耳を塞ぎたくなるような会話である。鬼畜な所業を平然と語り、男たちはげらげら笑っていた。これには鉄之助も嫌悪感を露わにする。
そして男たちは、続けてこんな話をした。
「仏のお導きといえば、よもやあの伊勢屋のじじいが転がり込んでくるとはな」
「そのことよ。仮にも大店の隠居だぞ。一人でこんなところをうろつくものか?」
「ああ、おれは前に顔を見たことがあるからたしかだ。せっかく打ち出の小槌を手に入れたことだし、江戸からおさらばする前に、もうひと稼ぎといこうじゃないか」
「その大事な小槌は、どうしている?」
「奥の納戸に縛って転がしてある。ぽっくり逝かれてはたまらんから、あとで水と握り飯でも差し入れてやるさ」
探し人の居所が知れた。
鉄之助は床下を這って、そちらへと向かう。
納戸に辿り着くと、手足を縛られ、猿轡をかまされている老爺がすぐに見つかった。床下から「ご隠居」と呼びかければ、老爺は身をよじらせて口元をもがもがさせる。
「しっ、連中に気づかれる。すぐに助けるから、ちょいと待っててくれ」
鉄之助はご隠居をたしなめ、いったんその場を離れた。
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