青のスーラ

月芝

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44 傾国の美妃

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 不思議な光景だった。オレは世界を俯瞰している。
 眼下には見覚えのある湖があった。
 湖面は碧に染まっていた。

 そんな湖畔に二つの人影。見つめ合う若い男女。
 男に取り立てて目を惹く特徴はない、格好は村の青年、ただなんとなしに優しそうな印象を受ける。
 彼を見つめている女。彼女を例えるのならば蕾。これから大輪の花を咲かせることが運命づけられている。地味な色合いの煤けたドレスですら、それを隠しきれない。女はとても美しかった。磨けばいかほどに輝くであろうか。
 互いを見つめる瞳には思慕が浮かんでいる。二人は将来を誓い合った恋人同士。
 青年が銀の首飾りを差し出す。
 嬉しそうに受け取る娘。
 男の手によって女の首に着けられた首飾りには、小さな紅い石が輝いていた。


 場面が変わる。
 蕾のような娘が呆然と立ち尽くす。
 その前で、泣き崩れる母親。
「すまない」と繰り返すばかりの父親。
 娘の噂を聞きつけて、領主が召し上げることに決まったという。
 青年と娘とは幼馴染。
 二人の仲を知っていた父母も、いずれはと考えていたのだろう。
 親としては娘には想い人と添い遂げてもらいたい。幸せになってもらいたい。
 しかし村の住人としては逆らうという選択はなかった。
 それほどまでに権力とは絶対であったのである。
 もしも逆らえば、娘の両親だけでなく村人みんなにも迷惑がかかる、責が及ぶ。
 いったいどれほどの災いが降りかかることになろう。
 娘は泣く泣く頷くしかなかった。


 場面が変わる。
 夜の湖。
 岸辺で佇む二人。あの青年と娘だ。
 青年が娘の両肩を掴んで懇願している。

「一緒に逃げよう」

 彼の言葉に女が頷くことはない。
 もしも自分が逃げたら両親はどうなる? 村のみんなは?
 そんなことは若者もわかっていた。彼にも自分が無理なことを言っているのはわかっている。わかっていても、どうしても言わずにはいられなかった。
 そんな彼の気持ちが女も嬉しかった。どれだけ頷きたかったことだろう。でもだからこそ頷くわけにはいかない。目の前の大切な人を守るためにも。
 立ち尽くす青年を残し、女は自分から背を向けた。
 その首にあの首飾りの姿は見られない。
 こうして二人の時間は終わった。


 場面が変わる。
 湖畔に建つ石造りの大きな屋敷の一室。
 薄暗い部屋で対面している二人。
 豪奢な服に身を包んでいる男は、この地の領主。
 眼前に控える娘を見つめる瞳には、なんら込められる感情の色がない。
 およそ人が人に向ける目ではない。さながらモノに向けるかのような、冷たい視線に晒されて娘の覚悟も揺らぐ。全身を舐めるように観た後に領主は言った。

「ふむ。悪くない。これならイケるか」

 領主のこの言葉の意味を女が理解するのは、もう少し後になってからのこと。
 翌日から始まる厳しい淑女教育、メイドたちの手によって念入りに磨かれる体。
 本人の意志とは無関係に開花させられる蕾。
 その花はすべての人を魅了するかのような大輪となる。
 彼女の心は魂とともに氷ついたままで。


 場面が変わる。
 煌びやかなパーティー会場。
 参加者らが畏まって出迎えたのは一人の老人。
 この国の王である。体こそは老境に差し掛かろうとも目には、いまだに強い光がある。ただし、それは良い意味ではない。
 己が欲望を、その渇望を満たすためならば、どんな犠牲も厭わない。いや、踏みにじることを当然だとすら考えている生まれながらの支配者。狂気を纏った光であった。
 いまや大輪となった娘が、そんな狂気すらをも魅了し虜にする。
 老王はひと目で娘に夢中になった。
 娘を捧げた領主は覚えも目出度く、大臣の職を得て、権勢を欲しいままにした。


 場面が変わる。
 与えられた豪華な部屋で娘が声を殺して泣いている。
 周囲には誰もいない。
 その手にはあの銀の首飾りが握られていた。
 テーブルの上にくしゃくしゃに投げ出されている手紙。故郷の村からの便り。
 母親からの近況を報せる内容、その末尾に躊躇いがみられる震える文字で一文。
 青年が死んだと書かれてあった。


 場面が変わる。
 朝靄の湖の中にゆっくりと入水していく青年の姿。
 かつての優しそうな雰囲気はどこにもない。
 体はやせ細り、頬はこけ、目の下には深い隈が刻まれ、肌は透けるほどに白い。
 愛しい人との未来を奪われた彼の心は、結局耐えられなかった。
 王の寵愛を受けているという報せが止めを刺した。
 自分のために身を引いたのか? 自分を裏切って金持ちを選んだのか?
 愛した人を信じたい! 愛した人が信じられない!
 男の中での確かな真実を、あらぬ妄想が浸蝕していく。
 かつての想いが醜く歪んで違う何かに変わっていく。
 危い均衡がついに崩れ、若者は自ら命を絶った。


 場面が変わる。
 娘が豹変していた。
 王から貢がれるままに受け取るだけの生活。
 それが積極的に貢がせる生活へと変貌する。
 王の寵愛を欲しいままにしている女。取り入ろうとする輩には事欠かない。
 彼女は集まり続ける富を溜め込むわけじゃない。それを周囲にばら撒いていた。
 砂糖に群がる蟻のように人が寄ってくる。
 そんな連中を女は冷めた目で、じっと観察していた。


 場面が変わる。
 集った財を使い人脈を築き、多大な影響力を手に入れた女。
 最早、ただの寵妃ではない。王宮において権勢並び立つ者のいない絶対の存在となる。
 ついには国政にまで口を挟み、欲しいままに振るまう。
 当然のごとく国は混乱し疲弊していく。
 彼女は怒っていた。
 奪うことしか知らない者たち。奪われることを受け入れている者たち。
 それを良しとする国、政治、社会、文化、貴族、民……、自分を置いて逝った青年。
 何よりも守りたかった人を死なせてしまった、自分自身に対して彼女は憤っていた。
 愛を誓い合った青年の死によって、彼女は己の涙を流し尽くす。後に残ったのは、この世のすべてに対する怒りだけであった。
 そう、女はすべてに復讐することに決めたのだ。


 場面が変わる。
 見覚えのある湖の畔の領地。
 革命を声高に叫ぶ一団が、深夜に領主の館に侵入、長年みなを苦しめ続けていた領主を討ち取る。
 襲撃者の顔ぶれには現状を憂う貴族の子息や、若い学者、村の若者など色んな人達が集っていた。ある者は希望を抱き、ある者は復讐を誓い、ある者は欲望に従って闘いに参じる。
 この夜を皮切りに、国内のそこかしこで火の手が上がる。


 場面が変わる。
 燃え盛るは王城。
 城下町のそこかしこに煙が上がる。
 続く圧政に耐えかねた民衆による一斉蜂起。
 津波のように押し寄せる群衆。
 これまでの鬱憤を晴らすかのように、権力者に刃を突き立てる。
 血の味を覚えた獣は止まらない。ただ目の前の獲物に喰らいつく。
 貴族ならば男も女も子供も赤子すらも関係ない。すべてが血の宴の供物とされた。
 城の尖塔の上から女は黙って一人、ソレを見ていた。


 場面が変わる。
 最後まで玉座にしがみついていた老王。
 望みの通りに槍にて胸を貫かれて、屍を縫い留められて果てた。
 王城は乱入した群衆によって、虐殺と略奪の坩堝と化す。
 しかし懸命な捜索にもかかわらず、国を傾けた元凶の姿がどこにも見つからない。
 女の私室とされていた部屋に踏み込むも、室内は驚くほどに質素。
 本当にあの女の部屋かと侵入者たちのほうが訝しむほど。
 テーブルの上には一冊のノート。
 革命の主導を担っていた者たちが、その場で中身を確認する。
 しかし彼らはみな一様に口を噤む。のみならず一切の内容を秘匿することを、即座に決定した。
 それもそのはずだ。ノートには傾国の美妃が、裏で行っていた全てのことが記されてあったのだから。
 自分たちに援助をし、革命の思想を抱かせ、促した善意の第三者。
 その正体が……。


 場面が変わる。
 月の明るい夜。
 湖面に映った月も輝いている。
 その中へと進んでいく女の姿。
 首には小さな紅い石が付いた銀の首飾りがあった。
 かつて湖の畔で青年と将来を誓い合った娘。
 心を殺し魂を凍らせて、今生の幸せを諦めた女。
 憤怒の炎によりすべてを壊した傾国の美妃。
 じきに女の姿は湖の中に完全に消えた。



 空が白む。
 いつの間にか明け方近くになっていた。
 もちろん月はとっくに隠れている。
 オレはアイテム収納から、さっき拾った首飾りを取り出した。
 改めてしげしげと眺める。
 やはり何も感じない。付与の形跡も魔力の残滓もない。
 てっきりコイツが見せた夢かと思ったのだが……。
 とりあえず首飾りは再び水底に沈めた。
 なんとなくだが、コレはここにあるべきだと思えたから。

 さて、そろそろ帰ろうか。
 朝になってオレの姿がないとクロアの奴が騒ぐからな。
 ホバークラフト形態になったオレは走りだす。

《アレがこの国の建国秘話とかだったりして……。いやいや、まさかね》

 おっさんはそんな事をぼんやり考えながら帰路を急いだ。
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