狼王の贄神子様

だいきち

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 何が起きたのかわからなかった。目の前で、口元を覆っていたはずの布切れが舞っている。オアシスの瞳には、穏やかに微笑むヨギの顔があった。
 鼻腔を擽る、濃いイヘンアの芳香。兵士の刷り込まれた本能か、それとも危機察知能力か。ハニは無意識のうちに魔力を放出すると、己の体を凍らせるように冷気を帯びた。
  
「なん、で……」
「よくやったハニ。良い判断だ」

 ディオネゲスによって、遠ざけられるように放り投げられたハニは、空中で上体をひねるようにして着地した。足元がパキパキと凍っていく。呼気を白くさせたハニが、先ほどまでいた場所を見上げると、蔦の先を凍傷で腐らせたディオネゲスがいた。
 薄茶色だったはずのヨギの瞳が、金色に光る。完全な魔物へと変わったディオネゲスの身体は、きっともう戻らない。
 声を失ったハニを前に、ヨギだったディオネゲスは、全身の蔦を解くように氷の花を覆う。

「ヨギ!!」
「久し振りダねぇ、ハニ」
「耳をかすなハニ」
「なあ、俺立派な村長ニなったろ」

 波打つ蔦が、頭を擡げる蛇のように蔦の先を持ち上げる。
 ヨギの顔で、ディオネゲスは唆す。ヘルグは剣に己の血を吸わせると、得物の属性を容易く変えた。

「こんにちはヨギ。悪いけど、敵意を向けるのはやめてくれるかい」
「こんなに歓迎シてるのに?」

 言葉の通じない様子に、ヘルグは小さく舌打ちをした。
 魔素の強い植物に血の味を覚えさせれば、その血の主人は宿主となる。魔生植物に己の意思で身を捧げた、緩やかな自殺。イヘンアとの同化の果てであるディオネゲスという魔物は、その姿の神聖性から崇められるものも多い。
 長い体を操るように上体を起こしたディオネゲスは、真っ直ぐにハニを見下ろした。そして、記憶を引き摺り出すような懐かしい声色を、ハニに向けた。
 
「こっちにおイでハニ」

 蔦が蠢き、擦れあう不気味な音を放つ。微笑みを浮かべるディオネゲスがゆっくりと両腕を広げると、ぶわりとイヘンアの芳香を放つ。
 太い幹のような蔦の影から、ゆらりと人影が現れた。芳香によって操られた村人は、まるで死人のように意思を失い、ディオネゲスを守るように囲む。

「皆、言う通りにすレば幸せ。お花畑の中で、幸せに暮らしましタで、おしまい」
「まちがってる、そ、んなの……!!」
「だって、何も苦しくなナいでしょう? ああそうか、本当の寂しイを、ハニは知らないんだ」

 嫣然と微笑む。ヨギの顔をした魔物を前に、ハニは悲鳴を上げそうになった。

「っ、ヨギはそんな顔して笑わない……!!」
「俺を知らないお前ガ言うなよ」

 足元の氷の花は、茨を伸ばすようにしてディオネゲスの蔦へ絡みつく。
 イヘンアの芳香が人を操っていると理解したうえでの攻撃は、容易くディオネゲスの動きを封じた。

 (まだいる、まだ、花を凍らせなきゃ、この人たちは操られたままだ……!)

「ヨルグの考えを知っテ、誰も俺を救おうトはしなかっタ」
「違う!!」
「村を出たら、所詮は全て他人ごト」
「振り回されるな!! 芳香は風で吹き飛ばす!!」
「ぁあ、あっ!!」

 ディオネゲスの声に愉悦が滲む。蔦を絡め取る氷の茨が侵食を始めたその時、ハニを邪魔するように村の子供がしがみついてきた。

「振り払ウ? それとも、犠牲にナってもらう?」
「っはな、せっ、やめ、っ」
「風よ!!」
「そんなもので、洗脳ハ解けない」

 ヘルグが腕を振り抜いた瞬間、人々の隙間を縫うようにしてつむじ風が霧を押し流す。こんなもの、気休め程度だ、わかっている。
 剣を納める鞘が、後ろに引かれる。慌てて振り向けば、ヘルグの体へと意識のない村人が纏わりつく。

「くそ、……!!」
「愉快な兎、一羽が通ル。おイでおいでと先陣切っテ」

 ヨギの声で、愉快そうに歌う。意識のない子供に纏わりつかれながら、ハニは押し倒されるように地べたへと背をつけた。
 重い。熱い、みんな、濁った瞳でハニを見つめている。
 イヘンアの花のせいなら、焼き払ってしまうほかはない。ディオネゲスの弱点は炎だ、だから、燃やせばすぐに終わるのだって、理解している。

「愚かな兎、連れて歩くハ故郷の希望か」
「ハニ、っ……!! 燃やしていいか……!!」
「お人好しガ、身を滅ぼすとモ知らないで」

 ヘルグの怒声が聞こえる中、小さな子供の手のひらがハニの頰に触れる。群がる体の隙間からヘルグを見れば、年寄に邪魔されるように体を抑え込まれていた。

「っ、くそ、クソが!! なんで……っ」

 ハニの薄い手のひらが、折り重なった子供の体の隙間から突き出された。
 やったことがない、だからこそ、どうなるかはわからなかった。
 ディオネゲスは、愉快そうに歌っていた。声の抑揚とは裏腹の、物悲しい歌をだ。
 ハニの手のひらから、じわりと魔力が滲む。うまくいくかはいちかばちだ。ハニのオアシスの瞳が澄んだ青を輝かせた瞬間、白い手のひらは空でキツく握り込まれた。

「凍てつけ!!」

 ハニの声に魔力がのった。その瞬間、その場の空気は急激に温度を下げた。
 それは、突き刺すような鋭さを伴った冷気であった。ディオネゲスの蔦は瞬く間に霜が降りると、二人の体を拘束していた村人達が人形のように崩折れた。
 急激な気温の変化に、体の筋肉が萎縮する。不利な状況を誘発させたハニへ、ヘルグが戸惑ったような瞳を向けた。

「わかんない、よ……お、俺、ヨギが村を守ってくれたから、ここにいる、のに」

 よろよろと立ち上がった。ハニの手へと徐々に集まる白い霧は、乾いた音を立てて氷の短剣へと姿を変えた。

「俺、ヨギみたいに強い男に、なりたかった……!! 馬鹿にされないように、白兎族として、胸をはれるように……って、っ」

 体の動きを鈍くしていくディオネゲスが、金色の瞳にハニを映した。持ち上げた蔦が、どんどんと腐っていく。ヨギの体を突き破るように、ディオネゲスが花を咲かせた。
 ああ、もう戻らないのか。
 イヘンアの花に、ヨギは体を明け渡したのだ。わずかに残る記憶を集めるように、花はゆっくりと花弁に色を付けていく。

「ヨギ」
「俺の後ろにお前がいたのに、もう、随分と」

 細い脚が大地を蹴った。金色の瞳の奥に微かに滲んだ光を前に、居ても立っても居られなくなったのだ。
 ハニの頬を滑る涙が、いくつもの結晶となって流れていく。ハニは鋭い切先で襲いくる何本もの蔦を切り払うようにして肉薄した。
 真っ直ぐに見つめた、ヨギの面影を宿す顔。目を見開いたディオネゲスへと剣を振り下ろす落とした瞬間、目の前で紅い鮮血が噴き上げた。
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