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63 脱出

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 外套のボタンを留めてなんとか体裁を整えて、アビゲイルはアレキサンダーの手を借りてよろよろと立ち上がる。やはり左右で足首の太さが違うし、ジンジンと脈打つ感覚がして、異様に熱を持っているように感じる。

「……! アビー、怪我を?」
「あはは……ちょっとドジしちゃいまして」

 足を引きずってよろめきながら、倒れたままのヴィクターの方へ足を向けるも、激痛が走って倒れそうになる。そこをアレキサンダーの太い腕がガシリと支えてくれて転ばずに済んだ。

「アレク様、申し訳ありませんが、あたしを弟の元まで連れて行ってくださる? ちょっとだけ肩を貸してくださいな」

 アビゲイルはそっとアレキサンダーに手を差し出したが、アレキサンダーはその手を取らずに彼女の脇と膝裏に両腕を差し込んで胸に抱え上げた。

 肩を貸してくれるだけで良かったのだが、よく考えたら自分とアレキサンダーの身長差によって、アビゲイルが彼の肩に片腕を回すのは体勢的に無理がある。
 ゆえにこっちの方が早いという合理的な判断ゆえのアレキサンダーの行動らしいと思い当たる。

 顔が近くてアビゲイルが大好きなアレキサンダーのウルトラマリンブルーの瞳がよく見えるし、このような時だが彼に抱き着く切っ掛けにもなって役得といえば役得かと、アビゲイルはそれでも気恥ずかしさを装いながら、彼の首に両腕を回してしがみついた。

 さっき化け物にあんなひどい目に遭わされてパニック状態になっていたはずなのに、このようにアレキサンダーに密着するだけで、喉元過ぎれば熱さを忘れる自分は単純なやつだなあと、惚れた弱みにアビゲイルは呆れた。

 ふと前進方向のヴィクターの方を見ると、何やら黒い煙が漂ってヴィクターのほうへ移動しているように見えた。その元を首を回して見ると、あの真っ二つにされた化け物蜂の遺骸から発生した黒煙であり、まるで生き物のようにヴィクターに向かってゆらゆらと移動している。

「いかん」
「な、なんですか、あれ!」
「瘴気とか死気とか呼ばれる、魔物の最後のあがきだ。あれに憑りつかれると魔物化する」
「……ヴィ、ヴィクター!」

 あの化け物蜂は可愛らしい妖精の姿の頃からヴィクターに執着していた。アビゲイルを拘束して串刺しにしようとした時は節足を振って突き飛ばしたりはしていたけど、アビゲイルに対してほどの殺意は持っていなかった。
 物凄い勢いで突き飛ばされた小さな体のヴィクターは、すっかり昏倒してしまって倒れたままだ。
 なぜそこまでヴィクターに固執するのかはわからないが、とにかくこのままではまずいと思ったアレキサンダーは「少し待っていてくれ」とアビゲイルに言い置いてから彼女を下ろし、腰の剣を再び抜き放ってヴィクターのもとに走る。

「ハァッ!」

 あともう少しでヴィクターの体に黒煙が触れるか触れないかというところで、アレキサンダーの振りかぶった剣がバツンと黒煙を両断した。黒煙が剣で切れたのも驚いたが、ギエエエエとかガアアアとかの痰がらみしたような聞き苦しい悲鳴が聞こえてさらに驚く。あの黒煙が生き物だったとでもいうのだろうか。
 魔物に慣れていない帝都民であるアビゲイルには、目の前の光景も、魔物の存在も、瘴気とか死気とかも初めて見るものばかりだが、アレキサンダーにとっては日常のことらしく、彼に焦った様子はない。西辺境以外で魔物を見たのは初めてだと後に語っていたけれど。

 憑りつこうとして触手を伸ばしたが、目的であるヴィクターの前に熊のような大男に立ち塞がれる。
 行き場をなくして逃げ惑うその黒煙だが、その真下の地面に複雑怪奇な文様の描かれた魔法陣の輪が出現し、その瞬間に魔法陣の中でだけ業火によって焼き尽くされて灰と化す。本当に煙じゃなくて生き物だったようだ。

 あんな魔法を使える人なんて、一人と一匹しかアビゲイルは知らない。

「やあアビゲイルちゃん。うちの馬鹿猫が失礼したね」
「あ、ラリマール殿下……。でも、そのおかげでヴィクターを見つけられましたし……」
「君が子供化してるだろうと思ったんで、アレックスと大人っぽいことしたら戻るからと思って連れてきたんだけど、大丈夫だったみたいだね」
「大人っぽいことって……」
「深ぁ~いキスとかそれ以上でもいいけど、まあそういうやつ」

 アレキサンダーが幼女のアビゲイルに大人なキスをするなんて、想像したらどうにも倒錯的な物を感じてやまない。アレキサンダーが相手ならば、アビゲイル自身はまあやぶさかではない気もするけれど。

「う……い、一応幼女化してかなり大変だったんですけど、ヴィクターを逃がさないとと思ったらもとに戻りました」
「大人な行動だからだね」
「あれが?」
「弟君だけは守らないとと思ったんでしょう。まるで子を思う鬼子母神みたいだ」
「そうでしょうか……」
「まああれだ。魔物に遭遇したのならもっと早くここに来れたらよかった。怖い思いをしたでしょう」
「でも、結果的にラリマール殿下がアレク様を連れてきてくださったし、アレク様があいつを倒してくださって助かりました。本当に死ぬところでしたし。死因がお尻に槍さされてなんてカッコ悪いです」
「うわ、それで服脱がされたの? 魔物えげつなー」
「……魔物、そういえば妖精ではなくて魔物ですか」
「ざっと見た感じ、そのようだね。ここが妖精の擬似空間なのにこいつが居たってことは、妖精らしき奴らは、こいつに喰われた可能性がある」

 魔物は食べた相手の能力を吸収するからね、とラリマールは説明する。

 昏倒中のヴィクター少年を抱き上げて戻ってきたアレキサンダーと入れ替わりに、ラリマールはアビゲイルのそばを離れ、転がった巨大蜂の断面から滴る緑の体液を、ふと出現させた小瓶に掬い取って蓋をし、その小瓶をふるふると振るって「ふーん」と面白くも無さげに呟いていた。

 ふと、バリバリという何かが割れるような音がそこかしこから響いて、何だ何だと周りを見る。上を見上げてみると、不思議な色の空にひびのような物が走って、ボロボロと崩れ落ちてきた。

「おっと、空間が崩壊する。急いで脱出しないとね」

 おそらく、この空間の主であったらしきあの巨大蜂が倒された今、あれの体内にあった、食べてしまった妖精の元の力も途切れて、この空間を維持できなくなったものと推察できた。

 ラリマールが何やら唱えて足元に転移陣を発生させると、早く乗れと合図をしてきたので、昏倒したままのヴィクターを抱きあげたアレキサンダーがアビゲイルの手を取って、彼女の腰に腕を回して支えてなんとか全員転移陣に乗ることができた。

 この空間は何なのか、どうしてこれまでのようなことが起こったのか、あの化け物は何だったのか、どうしてヴィクターが狙われたのか、そういうことを知りたかったけれど、今は脱出が先決だった。
 おそらくラリマールの転移陣によってまた目が回りそうだから、アビゲイルはそちらのほうに気合を入れてアレキサンダーにしがみつく。

 崩壊してゆく今は亡き妖精たちの空間を物悲しい気持ちで眺めやると、つぎの瞬間にアビゲイルたちを乗せたラリマールの転移陣はその空間を後にした。
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