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107 こんな壁ドンは嫌だ

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 ふと目が覚めたアビゲイルは、やおら立ち上がると明り取りの窓からぎりぎり見える外を見た。勿論上空しか見えないけれど、若干向こう側が赤く染まっていることから、窓のある方角が西側で、時刻が夕暮れどきを指していることがよくわかる。
 
 連れて来られたのが昼過ぎであったから、結構な時間眠りこけてしまったらしい自分の図太さに呆れた。
 
 実を言うと、ジオがこの部屋を出てから一階のほうでひと悶着あったのだけれど、その騒音はこの部屋以外廊下やら階段やらを全て覆いつくしたエビルクインビーの大量の蜜ろうによって、アビゲイルの耳には一切届かなかった。
 
 それゆえ、ジオが無事に逃げおおせたかどうかが全くわからなくて、ただただ不安に苛まれていた。
 心臓がドクドクと波打って、どうにもおさまらない。不安で不安でいてもたってもいられずにうろうろと狭い部屋をうろつき回る。
 
 さすがにこの時間になったなら無事に祖父母宅にたどり着いただろうという希望的観測と、いやもしかしたらここに見張りがいて、それに捕まってしまい、もしかしてもう……というところまで考えてから頭をプルプルと振るってその考えを打ち消した。
 
 落ち着け。小さくてもジオはヘーゼルダイン西辺境に住む逞しい子供だ。アビゲイル自身が考えるよりずっとずっと強いから、彼はきっと大丈夫だろうと。
 
 通信用魔石を持ち歩かなかったことを心底後悔した。ほかに救援を要請する手段を一切持たない自分を恥じる。
 帝都であればそれも仕方ないとは思うけれども、明日にはもうヘーゼルダイン西辺境伯アレキサンダーの妻となるのだ。魔物や獰猛な獣も出没する土地を収める男の妻となるからには、危機管理能力も身につけねばならないというのに、そう言ったところで都の姫様気質が抜けない自分を殴りたい。
 
 アビゲイルはどうしても無事にアレキサンダーの元に戻らなければいけない理由がある。明日結婚を控えているから、それももちろんあるけれど、アレキサンダーから託されているお腹の子がいるのだ。今ここで自分に何かあれば、アレキサンダーは自分の子を永遠に失うことになるのだ。
 妊娠したことを告げたときに、あんなに涙と鼻水で顔面をぐっしゃぐしゃにしながら感動の男泣きをしていたアレキサンダーであるから、そんな彼を絶望のどん底に叩き落すことだけは絶対にしてはならない。
 
 アビゲイルはまだ全然膨らんでもいない下腹のあたりをそっと撫で付けて、「大丈夫、大丈夫よ」と声をかけていた。
 お願いだから、何があってもここにしがみついていてほしい。流れ出て行かないで、しかるべき時までとどまって居てほしい。
 そうやってお腹を撫でていると、しばらくして心臓のドキドキが治まってくるのを感じた。大丈夫大丈夫と言いながら撫でていたら、大丈夫大丈夫と自分が言われているようなそんな気がした。
 
「『ママ、大丈夫だよ』って言ってくれてるのかもしれないなあ……」

 心細い状況がずっと続いているから、そんな感傷的になるのかもしれない。それでもこの子のためにも、嘆いてばかりいないでしっかりしないといけない。
 
「ん? ……な、何……?」
 
 不意に一切の物音がしなかった空間の中、ブブブブ……という虫の羽音のようなものが聞こえてきて、一瞬蠅でも飛んでいるのかと思ったが、だんだんとその音が大きくなって、まるで遠くから徐々に近づいてくるように聞こえてきた。
 
 次の瞬間、部屋の扉が突然きい、と開いてその隙間から、真っ黒い霧のようなものが部屋に侵入してきた。そして部屋どころか鉄格子の隙間からアビゲイルのいる牢の中にまで侵入してくる。
 
「……う、わっ……!」
 
 思わず両手で自分を抱きしめるように身構え、背後の壁まで後ずさった。すぐにトン、と背に無機質な壁がヒヤリと当たる。逃げ道など最初からない。
 
 だがそれはよく見ると霧ではなく、ぶぶぶ、と羽音を立たせながら部屋に侵入してくる大量の蜜蜂だった。アビゲイルの背筋がトラウマによって震えた。
 
「……ひええっ……!」
 
 蜜蜂たちは、数時間前に見たように、空中で蜂球を作って固まり、それがだんだんと人一人の形に増殖していく。
 ついに見覚えのある人型になると、それはガクリと床に膝をついて、苦し気にぜえぜえと息を荒げていた。
 
 それは、数時間前にアビゲイルをこの牢に閉じ込めて、アレキサンダーを襲うという不穏なことと、アビゲイルをモノにするなどという気色悪いセリフを残して去っていったはずの、ウォルター・ベイル・シズその人であった。
 
 ウォルターは結びもせずに脂ぎった長い髪の毛をだらりと伸ばして、無精髭もそこそこ伸び切って、泥で汚れた上にすり切れたぼろぼろの外套を身に着けた、平民ですらもう少し小綺麗にしているというような汚らしい姿をしていた。
 そして口元からだらだらと垂れ流しているのは、青い液体。それは血液だったのだが、もはや人間の色をしていなかった。ウォルターは完全に人であることをやめたらしいことがよく分かった。
 
「……糞っ! 糞っ! 汚らわしい熊男がっ! よくも、よくもこの私を虚仮にしやがって……!」

 アビゲイルは知らないが、実際に魔物となったウォルターはベラルーカの森でエビルクインビーを操ってアレキサンダーに襲い掛かったものの、返り討ちに遭ってその魔物の身体を脳天から両断されたのだ。
 使役の術とは、その操っている媒体が攻撃を受けると、術者にダメージが返ってくる。肉体的には何もダメージは受けていないのに、その痛覚と衝撃は襲ってくるので、今現在のウォルターは、全身を真っ二つに斬られた衝撃と痛みを味わっていて、それで床にのたうち回っている。
 精神が壊れなければショック死すらできないというのは、想像を絶する辛さだろう。
 
 しかしその姿を見てアビゲイルにも何があったのか理解できてしまった。

 ははーん、これはアレだ。アレク様に襲い掛かって返り討ちに遭ったクチだな。そんで何らかのダメージ食らったんでしょう。知らんけど。
 
 ちょっとだけ留飲が下がったアビゲイルは、そのことを言ってやろうかと思ったけれども、さすがにそれは窮鼠猫を噛む状態で危険をおかすことになり兼ねないので黙っているしかない。
 
 何も言えず、ただ壁まで下がってウォルターの動向を恐る恐る観察するしかないアビゲイルだったが、不意に苦し気に顔を上げたウォルターと目が合った。
 
「姫……アビー姫ぇ……!」

 よろよろと今にも崩れ落ちそうな覚束ない足取りで、アビゲイルに近寄ってくる。アビゲイルは下がろうにも壁に背が付いてしまっているのでするすると横にずれるしかない。
 
「こ、来ないでください……!」

 少しでも距離を取ろうと、じりじり近づいてくるウォルターの進行方向からずれるものの、急に蜂になって散開したウォルターは一気にアビゲイルとの距離を詰めた。
 
 ダンッ!
 
 突如目の前に人型の姿を再び現したウォルターの両腕に壁を突かれて追い詰められてしまった。頭の横、片腕ならともかく両腕だから逃げ場がない。
 汗でべとついたような長髪や伸ばし放題の無精髭、脂汗で艶光る顔面が不潔なうえに、ミスマッチな蜂蜜の焼け付くような匂いで吐き気がしそうだった。
 こんな壁ドンは嫌だ。いや、シュチュエーションじゃなくて、この男その物が嫌すぎる。
 
「アビー姫ぇ~、捕まえましたよ~」
「ひいいいいっ」
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