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河廣がお和歌の下手な琴を聞きながら、京菓子を食べている時、どちらにもまったく似合わない褌一丁の熊造が手入れの行き届いた庭から現れた。
優雅な公家の娘を気取っていたお和歌が、雰囲気を壊されて蛾眉をつり上げる。熊造は大きな体を小さくして頭を掻いた。
「あの……お嬢さん、お忙しいところすみません。お勝さんが本陣の若旦那さんの話を聞きたいっていうもんですから……」
よく見れば、熊造の背に泣きはらしたお勝がいた。お和歌は慌てて軒に座布団を強いてやる。
「お勝さん。大変だったわね。さあ、さあ、座って」
お勝は初めは遠慮したが、お和歌が気にすることはないと何度も言って腕を取って座らせた。河廣も頷き、側に寄る。
「家の人を見つけたのが、本陣の若旦那さんだと聞いたもんですから、お話を聞こうと失礼を承知で伺ったんでございます」
お勝は丁寧に河廣にも頭を下げる。
「気にしないでください。さあ、茶でも飲んで落ち着いて」
お和歌が茶を淹れてやる。喉が渇いていたのだろう。お勝は一気にそれを飲んだ。そしてまたはらはらと涙を浮かべた。
――それにしても代官所はなにをしているんだろう。
そろそろ事情を死体発見者の河廣に訊ねに来てもいいのに、お勝の方が先に現れた。検屍に忙しいのだろうか。河廣は熊造を見る。
「代官所は遺体を引き取りに来たのか」
「へい。すぐに戸板に載せて代官所に運び込みやした」
お勝はどうやら代官所には入れなかったらしい。事情をいくつか聞かれ、ここ数日どこにいたのか、岩次に不審な点がなかったかを尋ねられただけで追い返されたらしい。
「あたしはうちの人が殺されたなんてとても信じられません。本陣の若旦那さんの言葉なら信じられると思ってこうして伺ったんでございます」
お勝は代官所の門前で岩次の顔だけ確認させられ、筵に隠された胴は見ていないという。女子(おなご)に刺し傷は無慈悲だと代官所は考えたのだろうが、亭主を殺されたお勝は遺体をしっかりと確認させてもらえず納得がいかない様子だ。
「熊造たちも見たと思うが――左胸を匕首で一突きにされていた」
「やはり、あの人は殺されたんですか――」
「私には、そう見えた」
「そうでしたか……すみません……誰の言うことも信じられなくて……一番に見つけた若旦那さんに話を聞こうと思いまして……」
お勝はがくりと肩を落とす。
「代官所はなんと?」
「昨夜(ゆうべ)、殺されたんじゃないかと」
「昨夜? 岩次さんはどこにいたんだ」
お勝が涙を袖で拭く。
「昨夜は仕事に行くと言って夕方出て行きました。島田の宿屋に回って客がないか聞いてみると言っていたんでございます」
熊造が言葉を挟む。
「賭場にでも行っていたんだろう」
お勝は首を振る。
「皆、そう言いますけど、昨夜に限ってはしっかりと仕事に行ったのでございますよ。これからは心を入れ替えて一生懸命働くとあたしに約束してくれた矢先でございましたから」
「うむ……」
河廣は腕を組んだ。お勝の言葉を信じていいのか分からない。熊造にいたっては「賭場で岩次の奴を見なかったか聞いてきましょうか、若旦那さん」
とお勝の言葉さえ聞いていない。
「そうだな」
なにしろ髪結いの岩次といえば、この島田の宿では名うてのごろつきだ。野良犬さえ避けて歩き、賭けに勝った時は派手に遊び、負けた時は長屋の子供にすら金をせびる。それが心を入れ替えたなどと聞いてすぐに鵜呑みにはできない。
「若旦那さん、あたしは無念でなりません。どうか、岩次を殺した奴を見つけてくださいまし」
お勝が手をついて河廣に頼んだ。
「代官所でお調べがある。それを待ったらどうか」
河廣が言うと、お勝は首を横に振った。
「お代官さまは『自業自得じゃ』と仰って調べる様子もありませんでした。若旦那さんしか頼める人はおりません」
町のもめ事は大抵、川庄屋か本陣に持ち込まれる。お勝が河廣を頼るのはそういうわけだった。
「本陣の若旦那さん」
そこへお和歌の父親である川庄屋、塩屋善兵が現れた。河廣は慌てて居住まいを正した。
「おじゃましています」
「なにやら大変だったとか」
「はい……」
塩屋善兵は代々、裕福な川庄屋の家に生まれ、上品な佇まいの人物であるが、荒くれ者が生意気な口を決して利けない鋭い眼をしている。が、お和歌の幼なじみである河廣に対してはよい「おじさん」であり、本陣の孫でもあるので、いつも丁寧な口調で話してくれるのだった。
「どうしたらいいでしょうか。どうにか助けてやれないでしょうか」
河廣はちらりとお勝を見た。善兵は少し天井を見て考えた。
「そうですなぁ。川留めの今、動けるのはこの塩屋くらいでしょう。いつまでも川留めされると、うちとしては困るので調べてみましょうか」
「私にも手伝わせてください」
「もちろんです。若旦那さんのお力を期待していますよ。うちのもんも好きなようにお使いください」
河廣は大きく頷いた。死体を見るのは苦手であるが、剣の腕は太刀の事件以来、毎日、磨いているし、人情味は人一倍という自信もある。河廣は早速立ち上がる。
「熊造さん、悪いのだが、賭場に行って、昨日、岩次がいなかったか聞いてみてくれないか。見かけた人がいるかもしれない」
「承知しやした」
普段、付き合いもない河廣が賭場に行ったところで誰も相手になどしない。こういうときは、熊造のようなどっしりとした男が話を聞きに行くのがいいだろう。
「わたしたちは? わたしたちはなにをするの⁉」
当然、参加できると思ったお和歌が前屈みになる。危ないことはさせられない。
河廣は、塩屋善兵を見た。
「好きにやらしてやってください」
どうせ止めても聞かないのを知っている善兵はお和歌が加わるのを許した。
「じゃあ、そうだな。お勝さんが言う通り、宿屋を岩次が回ったのなら、見た人がいるだろう。行ってみようか」
「ええ、そうしましょう」
お和歌が立ち上がり、お勝が頭を下げる。
「よろしくお願いいたします……」
河廣はお勝に言う。
「お勝さんは、代官所に行って、なにか分かったか聞いてきてください」
女房でなければ、詳細は話さないだろう。聞いて来てもらえれば助かるし、こういうときに何もしないで家にいるのこそ居たたまれない。
「はい。承知いたしました、若旦那さん」
お勝はもう一度、頭を下げると、そのまま走って代官所の方へと消えていく。熊造も昼間からやっている賭場を見てくると言って出て行った。
「じゃ、行こうか、お和歌」
河廣は草履を履く。しかし、お和歌は「待っていて」となかなか出て来ない。しばらく待っていると、女中のお抹が、お和歌が作ったと思われる巨大な握り飯と水が入った竹筒を持って現れた。それを風呂敷に包んで河廣の背に掛けた。
「そういえば、中食をまだ食べていなかった。助かるよ」
「どこかで食べましょう」
河廣はお和歌のよく気づくところを感心した。甘やかされたお嬢さんに見えて、なかなかしっかり者なのだ。
「さあ、行きましょう!」
お和歌は巾着を掴むと草履を履く。
「そうだな」
河廣も立ち上がった。
河廣がお和歌の下手な琴を聞きながら、京菓子を食べている時、どちらにもまったく似合わない褌一丁の熊造が手入れの行き届いた庭から現れた。
優雅な公家の娘を気取っていたお和歌が、雰囲気を壊されて蛾眉をつり上げる。熊造は大きな体を小さくして頭を掻いた。
「あの……お嬢さん、お忙しいところすみません。お勝さんが本陣の若旦那さんの話を聞きたいっていうもんですから……」
よく見れば、熊造の背に泣きはらしたお勝がいた。お和歌は慌てて軒に座布団を強いてやる。
「お勝さん。大変だったわね。さあ、さあ、座って」
お勝は初めは遠慮したが、お和歌が気にすることはないと何度も言って腕を取って座らせた。河廣も頷き、側に寄る。
「家の人を見つけたのが、本陣の若旦那さんだと聞いたもんですから、お話を聞こうと失礼を承知で伺ったんでございます」
お勝は丁寧に河廣にも頭を下げる。
「気にしないでください。さあ、茶でも飲んで落ち着いて」
お和歌が茶を淹れてやる。喉が渇いていたのだろう。お勝は一気にそれを飲んだ。そしてまたはらはらと涙を浮かべた。
――それにしても代官所はなにをしているんだろう。
そろそろ事情を死体発見者の河廣に訊ねに来てもいいのに、お勝の方が先に現れた。検屍に忙しいのだろうか。河廣は熊造を見る。
「代官所は遺体を引き取りに来たのか」
「へい。すぐに戸板に載せて代官所に運び込みやした」
お勝はどうやら代官所には入れなかったらしい。事情をいくつか聞かれ、ここ数日どこにいたのか、岩次に不審な点がなかったかを尋ねられただけで追い返されたらしい。
「あたしはうちの人が殺されたなんてとても信じられません。本陣の若旦那さんの言葉なら信じられると思ってこうして伺ったんでございます」
お勝は代官所の門前で岩次の顔だけ確認させられ、筵に隠された胴は見ていないという。女子(おなご)に刺し傷は無慈悲だと代官所は考えたのだろうが、亭主を殺されたお勝は遺体をしっかりと確認させてもらえず納得がいかない様子だ。
「熊造たちも見たと思うが――左胸を匕首で一突きにされていた」
「やはり、あの人は殺されたんですか――」
「私には、そう見えた」
「そうでしたか……すみません……誰の言うことも信じられなくて……一番に見つけた若旦那さんに話を聞こうと思いまして……」
お勝はがくりと肩を落とす。
「代官所はなんと?」
「昨夜(ゆうべ)、殺されたんじゃないかと」
「昨夜? 岩次さんはどこにいたんだ」
お勝が涙を袖で拭く。
「昨夜は仕事に行くと言って夕方出て行きました。島田の宿屋に回って客がないか聞いてみると言っていたんでございます」
熊造が言葉を挟む。
「賭場にでも行っていたんだろう」
お勝は首を振る。
「皆、そう言いますけど、昨夜に限ってはしっかりと仕事に行ったのでございますよ。これからは心を入れ替えて一生懸命働くとあたしに約束してくれた矢先でございましたから」
「うむ……」
河廣は腕を組んだ。お勝の言葉を信じていいのか分からない。熊造にいたっては「賭場で岩次の奴を見なかったか聞いてきましょうか、若旦那さん」
とお勝の言葉さえ聞いていない。
「そうだな」
なにしろ髪結いの岩次といえば、この島田の宿では名うてのごろつきだ。野良犬さえ避けて歩き、賭けに勝った時は派手に遊び、負けた時は長屋の子供にすら金をせびる。それが心を入れ替えたなどと聞いてすぐに鵜呑みにはできない。
「若旦那さん、あたしは無念でなりません。どうか、岩次を殺した奴を見つけてくださいまし」
お勝が手をついて河廣に頼んだ。
「代官所でお調べがある。それを待ったらどうか」
河廣が言うと、お勝は首を横に振った。
「お代官さまは『自業自得じゃ』と仰って調べる様子もありませんでした。若旦那さんしか頼める人はおりません」
町のもめ事は大抵、川庄屋か本陣に持ち込まれる。お勝が河廣を頼るのはそういうわけだった。
「本陣の若旦那さん」
そこへお和歌の父親である川庄屋、塩屋善兵が現れた。河廣は慌てて居住まいを正した。
「おじゃましています」
「なにやら大変だったとか」
「はい……」
塩屋善兵は代々、裕福な川庄屋の家に生まれ、上品な佇まいの人物であるが、荒くれ者が生意気な口を決して利けない鋭い眼をしている。が、お和歌の幼なじみである河廣に対してはよい「おじさん」であり、本陣の孫でもあるので、いつも丁寧な口調で話してくれるのだった。
「どうしたらいいでしょうか。どうにか助けてやれないでしょうか」
河廣はちらりとお勝を見た。善兵は少し天井を見て考えた。
「そうですなぁ。川留めの今、動けるのはこの塩屋くらいでしょう。いつまでも川留めされると、うちとしては困るので調べてみましょうか」
「私にも手伝わせてください」
「もちろんです。若旦那さんのお力を期待していますよ。うちのもんも好きなようにお使いください」
河廣は大きく頷いた。死体を見るのは苦手であるが、剣の腕は太刀の事件以来、毎日、磨いているし、人情味は人一倍という自信もある。河廣は早速立ち上がる。
「熊造さん、悪いのだが、賭場に行って、昨日、岩次がいなかったか聞いてみてくれないか。見かけた人がいるかもしれない」
「承知しやした」
普段、付き合いもない河廣が賭場に行ったところで誰も相手になどしない。こういうときは、熊造のようなどっしりとした男が話を聞きに行くのがいいだろう。
「わたしたちは? わたしたちはなにをするの⁉」
当然、参加できると思ったお和歌が前屈みになる。危ないことはさせられない。
河廣は、塩屋善兵を見た。
「好きにやらしてやってください」
どうせ止めても聞かないのを知っている善兵はお和歌が加わるのを許した。
「じゃあ、そうだな。お勝さんが言う通り、宿屋を岩次が回ったのなら、見た人がいるだろう。行ってみようか」
「ええ、そうしましょう」
お和歌が立ち上がり、お勝が頭を下げる。
「よろしくお願いいたします……」
河廣はお勝に言う。
「お勝さんは、代官所に行って、なにか分かったか聞いてきてください」
女房でなければ、詳細は話さないだろう。聞いて来てもらえれば助かるし、こういうときに何もしないで家にいるのこそ居たたまれない。
「はい。承知いたしました、若旦那さん」
お勝はもう一度、頭を下げると、そのまま走って代官所の方へと消えていく。熊造も昼間からやっている賭場を見てくると言って出て行った。
「じゃ、行こうか、お和歌」
河廣は草履を履く。しかし、お和歌は「待っていて」となかなか出て来ない。しばらく待っていると、女中のお抹が、お和歌が作ったと思われる巨大な握り飯と水が入った竹筒を持って現れた。それを風呂敷に包んで河廣の背に掛けた。
「そういえば、中食をまだ食べていなかった。助かるよ」
「どこかで食べましょう」
河廣はお和歌のよく気づくところを感心した。甘やかされたお嬢さんに見えて、なかなかしっかり者なのだ。
「さあ、行きましょう!」
お和歌は巾着を掴むと草履を履く。
「そうだな」
河廣も立ち上がった。
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