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東海道、島田宿は大賑わいだった。
客引きをする宿屋の女中たちの顔は一様に明るく、足を洗う盥を運ぶ丁稚など、転びそうなほど急いで仕事をしていた。
一方、客の顔は暗い。一度、川留めとなれば、一体どれだけこの宿に長逗留しなければならないか分からないからだ。懐が寒くなるのは目に見えている。肩を落とした旅人が、ふっかけられた宿ののれんの内に入るのを見るのは忍びない。
「聞いてみましょう」
お和歌は宿の裏に回った。
「すみません」
何度か呼んでようやく出てきたのは、飯盛女のおゆうで、ふらふら酔った足取りで首まで白粉を塗った顔を見せた。
「こりゃ、本陣の若旦那さん。今日はなんていい日でございましょう」
白粉と酒の臭いを漂わせて、河廣にしな垂れかかろうとするので、お和歌が形相を変えて巾着を振り回す。
「ちょっと、手を放しなさいよ!」
崩れた島田髷をしたおゆうが笑った。どうやらお和歌をからかっていたようだ。けれど、河廣は素知らぬ顔をする。
「あら、塩屋のおじょうさんもいらしたんですか」
「いたわよ、最初からね!」
「すみませんね。若旦那さんしか目に入っていなかったものでね」
お和歌が鼻息を荒くした。
河廣はまあまあと手をお和歌の前で上下させ、その背に手を乗せた。
「今日は話を聞きにきたんだろう?」
河廣が諭すとふんとお和歌は顔を背ける。河廣は「悪いな」とおゆうに苦笑を向ける。相手は屈託なく微笑み返した。
「どうしましたんで?」
「女中に話を聞きたいんだ」
「あの岩次のことですかい?」
「ああ」
すでに宿場中でもう噂になっているのだろう。おゆうは岩次が死んだことを知っていた。
「うちには来てはいませんでしたよ」
「確かか」
「ええ。来れば必ず、あたしの尻を触っていきますので、確かでございます」
お和歌の顔が般若の形相になる。河廣は宿屋に連れて来たのは間違いだったと思って後悔した。だが、女中は、今は大忙しだろう。まだ暇なのは、日が沈んでから忙しくなるおゆうのような女だけだ。
「最近、いつ岩次が来たか覚えてないか」
「さあね……若旦那さんが会いに来てくださったら帳面につけておきますがね、岩次なんかを待ってはいませんので。いつだったか――」
しばらく考えても思い出せないらしい。
「あれはまだ暑い時分だったような……。盆より前だったと存じますね」
「お勝さんが、岩次は心を入れ替えたと聞いたが、そんな様子だったか」
おゆうは鼻で笑った。
「岩次がですか。岩次が心を入れ替えていたら、あたしは今ごろ尼になっておりますよ」
「忙しいときにすまなかった。汁粉でも飲んでくれ」
断られる前に銭をおゆうの袖に河廣は入れた。
「こりゃ、ありがたいことです。若旦那さん」
おゆうは上機嫌に河廣を見送った。しかし、裏木戸を過ぎてもお和歌がまだ不機嫌だ。
「なにが、汁粉よ。わたしにはめったに誘ってくれもしないのに」
「汁粉を食べると太ると言ったのは誰だ」
「それにしたって、おゆうなんかに優しくすると、つけあがらせるだけだわ。見てなさい、明日には、『本陣の若旦那さんがあたしに夢中で、こっそり裏戸から会いに来た』って噂になるから!」
河廣は首の後ろを掻いた。
お和歌はいつもこうだ。おゆうに限らず、瓜を売る娘が、河廣に一つおまけしても気に入らないし、祭りで気安く声を掛けてくる隣町の女衆にも腹を立てる。宿場中の女という女を敵だと思っている様子である。河廣はそんなお和歌を取り合わず言った。
「とにかく、次の宿に聞きに行こう」
「どうせ『あたしに夢中』なんて噂がもう一つ増えるだけだわ」
不機嫌なお和歌を河廣は「あとで団子屋に寄ろう」と約束して東海道へ出る。
相変わらず、街道は表から声を掛けるには躊躇するほど、活気に溢れていた。が、残念ながら次の宿では十くらいの丁稚が「さあ」と言い、その次の宿では「忙しい、忙しい」と不機嫌な宿の主が――河廣たちに追い返すように対応した。他の宿でも似たようなもので、川留めの間はどうしてもはろくに話を聞けない。
「どうする? 河廣?」
聞けそうな場所を回り尽くした河廣は、まだ食べていなかった中食を川原で食べることにした。手がかりはなにもない。すっかり疲れて元気を失ったお和歌が巨大な握り飯を頬張りながら河廣を見上げた。
「本陣の村松殿」
そこに現れたのは、一日中、殺人の件で走り回っていたと思われる代官所の手附(地方役人)、鈴木で、陽に焼けて赤い顔で河廣に軽く頭を下げる。四十半ばの地の人であるので、河廣の出生を知っているのだろう。「殿」といつも丁寧に呼ぶ。もしかしたら、河廣の父親がだれかも知っているのかもしれない。母と同じ世代の人だ。
「鈴木さま」
お和歌と河廣は同時に立ち上がった。
「いやいや、お座りください。拙者も少し座らせていただくので」
鈴木は汗を手ぬぐいで拭きながら河廣たちの座っていた石の隣に腰を下ろし、竹筒の水を飲む。
「昼餉はとりましたか」
河廣は、この様子では食べる暇もなかっただろう鈴木にお和歌の握り飯を一つ渡した。鈴木は一瞬、その大きさに驚いたが、破顔する。
「これはありがたい!」
「お和歌が作ってくれたのです。旨いですよ」
さらりとお和歌を褒めると、いつになく紅潮して嬉しそうにした。
「米など食べるのは久しぶりでござる」
家族のために取っておくのか、鈴木は半分割って丁寧に竹の皮に包み直し、懐にしまった。戦国の時代ならいざ知らず、この太平の世では侍よりよっぽど豪農や豪商の方がいい暮らしをしている。禄だけで大家族を養っていけないだろう。
「なにか、岩次について分かりましたか」
河廣は鈴木に訊ねる。
「いや、一日歩き回ってなにも分かりませんでしたね」
「そうですか」
「大方、博打がらみのもめ事でしょう。下手人はおそらくもう川を渡っているはずです」
河廣は考える。川越賃銭は無法に高い額を旅人に取らないように、決められた額を川会所で納める決まりだ。夜に岩次を殺した者が朝一で川を渡ったとしたとして、不審者の顔を川会所が覚えていないはずはない。
「お代官さまはどうするおつもりですか。いつまで川留めをしているおつもりでしょうか」
鈴木は握り飯を「旨い、旨い」と頬張りながら、手を振った。
「おそらく賭場を取り締まり、何人か怪しい人物を牢にいれるだけでしょう」
端から代官の中津はなにかしようとは思っていないということだ。とりあえず、善処はしたという恰好を見せようとしているだけである。
「頼りないわ!」
お和歌が言った。
「その通り、その通り」
鈴木が相づちを打つ。代官というものはこの土地の者ではない。無難に役目を勤め上げれば、また別のお役目へと出世する。が、鈴木はこの土地で手附という身分のまま生涯を終える。中津の前では一見、従っているように見えるが、実の所、民の味方だった。
「鈴木さま。わたしたちはお勝さんから岩次さんのことを調べて欲しいと頼まれているんです。なにか手がかりになりそうなものはありませんか」
「さて……」
鈴木は考えたようだが、なにも思いつかないようだ。河廣たちと同じように既に宿場で岩次を昨夜見ていなかったかどうか聞いて回った後だという。
「河廣殿もなにか気づいたことはありませんか? 遺体を見つけたと聞き申したぞ」
どうやら、鈴木は宿場中で河廣たちを探して歩き回っていたらしい。悪いことをしたと河廣は頭を下げた。
「はい。お和歌がお花の稽古に薄が必要だと言ったので、川原に取りに行って草の中を分け入って見つけたのです」
「さようか」
「なにか気づいたことは?」
「いえ……恥ずかしながら動転してしまって。胸に匕首が刺さっていたことくらいしか分かりません」
「それはそうであろうなぁ」
鈴木はよほど腹が空いていたとみえる。ぺろりと握り飯を食べ終えると立ち上がる。
「匕首が誰のものか調べるように言われているので、これにて失礼する」
「お勤めご苦労様です」
河廣とお和歌は急ぎ足の鈴木を見送った。
「さて、どうするか――」
河廣の呟きにお和歌が答えた。
「もう一度、あの薄の叢を見て見ましょう。なにか手がかりがあるかもしれないわ」
河廣はげっそりとした顔でお和歌を返り見た。
東海道、島田宿は大賑わいだった。
客引きをする宿屋の女中たちの顔は一様に明るく、足を洗う盥を運ぶ丁稚など、転びそうなほど急いで仕事をしていた。
一方、客の顔は暗い。一度、川留めとなれば、一体どれだけこの宿に長逗留しなければならないか分からないからだ。懐が寒くなるのは目に見えている。肩を落とした旅人が、ふっかけられた宿ののれんの内に入るのを見るのは忍びない。
「聞いてみましょう」
お和歌は宿の裏に回った。
「すみません」
何度か呼んでようやく出てきたのは、飯盛女のおゆうで、ふらふら酔った足取りで首まで白粉を塗った顔を見せた。
「こりゃ、本陣の若旦那さん。今日はなんていい日でございましょう」
白粉と酒の臭いを漂わせて、河廣にしな垂れかかろうとするので、お和歌が形相を変えて巾着を振り回す。
「ちょっと、手を放しなさいよ!」
崩れた島田髷をしたおゆうが笑った。どうやらお和歌をからかっていたようだ。けれど、河廣は素知らぬ顔をする。
「あら、塩屋のおじょうさんもいらしたんですか」
「いたわよ、最初からね!」
「すみませんね。若旦那さんしか目に入っていなかったものでね」
お和歌が鼻息を荒くした。
河廣はまあまあと手をお和歌の前で上下させ、その背に手を乗せた。
「今日は話を聞きにきたんだろう?」
河廣が諭すとふんとお和歌は顔を背ける。河廣は「悪いな」とおゆうに苦笑を向ける。相手は屈託なく微笑み返した。
「どうしましたんで?」
「女中に話を聞きたいんだ」
「あの岩次のことですかい?」
「ああ」
すでに宿場中でもう噂になっているのだろう。おゆうは岩次が死んだことを知っていた。
「うちには来てはいませんでしたよ」
「確かか」
「ええ。来れば必ず、あたしの尻を触っていきますので、確かでございます」
お和歌の顔が般若の形相になる。河廣は宿屋に連れて来たのは間違いだったと思って後悔した。だが、女中は、今は大忙しだろう。まだ暇なのは、日が沈んでから忙しくなるおゆうのような女だけだ。
「最近、いつ岩次が来たか覚えてないか」
「さあね……若旦那さんが会いに来てくださったら帳面につけておきますがね、岩次なんかを待ってはいませんので。いつだったか――」
しばらく考えても思い出せないらしい。
「あれはまだ暑い時分だったような……。盆より前だったと存じますね」
「お勝さんが、岩次は心を入れ替えたと聞いたが、そんな様子だったか」
おゆうは鼻で笑った。
「岩次がですか。岩次が心を入れ替えていたら、あたしは今ごろ尼になっておりますよ」
「忙しいときにすまなかった。汁粉でも飲んでくれ」
断られる前に銭をおゆうの袖に河廣は入れた。
「こりゃ、ありがたいことです。若旦那さん」
おゆうは上機嫌に河廣を見送った。しかし、裏木戸を過ぎてもお和歌がまだ不機嫌だ。
「なにが、汁粉よ。わたしにはめったに誘ってくれもしないのに」
「汁粉を食べると太ると言ったのは誰だ」
「それにしたって、おゆうなんかに優しくすると、つけあがらせるだけだわ。見てなさい、明日には、『本陣の若旦那さんがあたしに夢中で、こっそり裏戸から会いに来た』って噂になるから!」
河廣は首の後ろを掻いた。
お和歌はいつもこうだ。おゆうに限らず、瓜を売る娘が、河廣に一つおまけしても気に入らないし、祭りで気安く声を掛けてくる隣町の女衆にも腹を立てる。宿場中の女という女を敵だと思っている様子である。河廣はそんなお和歌を取り合わず言った。
「とにかく、次の宿に聞きに行こう」
「どうせ『あたしに夢中』なんて噂がもう一つ増えるだけだわ」
不機嫌なお和歌を河廣は「あとで団子屋に寄ろう」と約束して東海道へ出る。
相変わらず、街道は表から声を掛けるには躊躇するほど、活気に溢れていた。が、残念ながら次の宿では十くらいの丁稚が「さあ」と言い、その次の宿では「忙しい、忙しい」と不機嫌な宿の主が――河廣たちに追い返すように対応した。他の宿でも似たようなもので、川留めの間はどうしてもはろくに話を聞けない。
「どうする? 河廣?」
聞けそうな場所を回り尽くした河廣は、まだ食べていなかった中食を川原で食べることにした。手がかりはなにもない。すっかり疲れて元気を失ったお和歌が巨大な握り飯を頬張りながら河廣を見上げた。
「本陣の村松殿」
そこに現れたのは、一日中、殺人の件で走り回っていたと思われる代官所の手附(地方役人)、鈴木で、陽に焼けて赤い顔で河廣に軽く頭を下げる。四十半ばの地の人であるので、河廣の出生を知っているのだろう。「殿」といつも丁寧に呼ぶ。もしかしたら、河廣の父親がだれかも知っているのかもしれない。母と同じ世代の人だ。
「鈴木さま」
お和歌と河廣は同時に立ち上がった。
「いやいや、お座りください。拙者も少し座らせていただくので」
鈴木は汗を手ぬぐいで拭きながら河廣たちの座っていた石の隣に腰を下ろし、竹筒の水を飲む。
「昼餉はとりましたか」
河廣は、この様子では食べる暇もなかっただろう鈴木にお和歌の握り飯を一つ渡した。鈴木は一瞬、その大きさに驚いたが、破顔する。
「これはありがたい!」
「お和歌が作ってくれたのです。旨いですよ」
さらりとお和歌を褒めると、いつになく紅潮して嬉しそうにした。
「米など食べるのは久しぶりでござる」
家族のために取っておくのか、鈴木は半分割って丁寧に竹の皮に包み直し、懐にしまった。戦国の時代ならいざ知らず、この太平の世では侍よりよっぽど豪農や豪商の方がいい暮らしをしている。禄だけで大家族を養っていけないだろう。
「なにか、岩次について分かりましたか」
河廣は鈴木に訊ねる。
「いや、一日歩き回ってなにも分かりませんでしたね」
「そうですか」
「大方、博打がらみのもめ事でしょう。下手人はおそらくもう川を渡っているはずです」
河廣は考える。川越賃銭は無法に高い額を旅人に取らないように、決められた額を川会所で納める決まりだ。夜に岩次を殺した者が朝一で川を渡ったとしたとして、不審者の顔を川会所が覚えていないはずはない。
「お代官さまはどうするおつもりですか。いつまで川留めをしているおつもりでしょうか」
鈴木は握り飯を「旨い、旨い」と頬張りながら、手を振った。
「おそらく賭場を取り締まり、何人か怪しい人物を牢にいれるだけでしょう」
端から代官の中津はなにかしようとは思っていないということだ。とりあえず、善処はしたという恰好を見せようとしているだけである。
「頼りないわ!」
お和歌が言った。
「その通り、その通り」
鈴木が相づちを打つ。代官というものはこの土地の者ではない。無難に役目を勤め上げれば、また別のお役目へと出世する。が、鈴木はこの土地で手附という身分のまま生涯を終える。中津の前では一見、従っているように見えるが、実の所、民の味方だった。
「鈴木さま。わたしたちはお勝さんから岩次さんのことを調べて欲しいと頼まれているんです。なにか手がかりになりそうなものはありませんか」
「さて……」
鈴木は考えたようだが、なにも思いつかないようだ。河廣たちと同じように既に宿場で岩次を昨夜見ていなかったかどうか聞いて回った後だという。
「河廣殿もなにか気づいたことはありませんか? 遺体を見つけたと聞き申したぞ」
どうやら、鈴木は宿場中で河廣たちを探して歩き回っていたらしい。悪いことをしたと河廣は頭を下げた。
「はい。お和歌がお花の稽古に薄が必要だと言ったので、川原に取りに行って草の中を分け入って見つけたのです」
「さようか」
「なにか気づいたことは?」
「いえ……恥ずかしながら動転してしまって。胸に匕首が刺さっていたことくらいしか分かりません」
「それはそうであろうなぁ」
鈴木はよほど腹が空いていたとみえる。ぺろりと握り飯を食べ終えると立ち上がる。
「匕首が誰のものか調べるように言われているので、これにて失礼する」
「お勤めご苦労様です」
河廣とお和歌は急ぎ足の鈴木を見送った。
「さて、どうするか――」
河廣の呟きにお和歌が答えた。
「もう一度、あの薄の叢を見て見ましょう。なにか手がかりがあるかもしれないわ」
河廣はげっそりとした顔でお和歌を返り見た。
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