64 / 162
金森五郎右衛門が旗奉行の三賀監物長頼に不遜なる態度を取り、三賀監物が掴みかかろうとしたので長柄奉行の清水彌八郎久慶が割って入る。
しおりを挟む
一方、金森五郎右衛門はと言うと、押田吉次郎の「反応」が期待した程のものではなく、そこで今度は吉次郎と同じく用人の朝比奈六左衛門泰有に水を向けた。
朝比奈六左衛門はと言うと、清和源氏の流れを汲む押田吉次郎や、或いはその支流ではあるもののやはり清和源氏の流れを汲む金森五郎右衛門と較べると見劣りするものの、それでも藤原氏良門流を汲み、そのことは五郎右衛門も把握していたので、そこでこの朝比奈六左衛門にしても己と同じく、
「名族意識…」
必ずやそれを持ち合わせている筈であり、そうであれば意知が若年寄へと進むことなど、
「とんでもなきこと…」
そう考えているに違いないと、金森五郎右衛門はそう信じて疑わず、それいぇ朝比奈六左衛門に水を向けたのであった。五郎右衛門はあくまで、
「名族意識…」
それが価値基準であった。つまりは相手が名族であるか否か、それだけでしか人を見られず、唯一の「アイデンティティー」と言えた。
一方、五郎右衛門より水を向けられた朝比奈六左衛門はと言うと、確かに五郎右衛門が期待したように、意知が若年寄へと進むことについて、
「如何なものか…」
そう感じたものであるが、しかし、金森五郎右衛門が余りにも意次・意知父子を悪し様に罵るものだから、六左衛門はその反動からか、意次・意知父子に対して同情心が芽生えてしまい、それゆえ金森五郎右衛門はこの朝比奈六左衛門からも期待した反応は得られずじまい、であった。
それにしても金森五郎右衛門の態度たるや、
「見苦しい…」
その一言に尽きた。
いや、意知の若年寄就任につき、五郎右衛門自身がどのように感じようとも、それは五郎右衛門の勝手というものだが、己の感じ方について、まるで仲間でも募るかのように同意を求めて方々に声をかける五郎右衛門のその態度たるや、正に、
「見苦しい…」
というものであり、旗奉行の三賀監物長頼は流石に金森五郎右衛門のその「見苦しい…」様を見かねたようで、
「それよりも今は何ゆえに田沼山城殿が若年寄へと進まれるのか、その背景事情について考えるべきでござろう…」
三賀監物は五郎右衛門を窘めるようにそう言った。
この三賀監物は御齢63と、71の金森五郎右衛門よりも年下ではあるものの、しかし、
「勤続年数…」
その観点から見た場合、三賀監物の方が上であった。
何しろ三賀監物は田安家の始祖たる宗武がまだ、小次郎と名乗っていた頃より、正確には享保17(1732)年よりその伽として仕え、今に至る。
それに比して金森五郎右衛門はと言うと、それより遅れること8年、元文5(1740)年より近習として仕え始め、やはり今に至る。
それゆえ三賀監物は金森五郎右衛門よりも年上ではあるものの、物頭よりも格上である旗奉行を勤めていた。
三賀監物はここ田安館においては金森五郎右衛門よりも格上の旗奉行であるゆえに五郎右衛門を窘めることができたわけだが、しかし、金森五郎右衛門はと言うと、三賀監物に指図されるのを嫌い、こともあろうに、
「ふんっ」
そう鼻を鳴らしてそっぽを向いたものである。
これは三賀監物が年下ということもあるが、それ以上に監物の出自が金森五郎右衛門にこのような不遜なる態度を取らせた。
即ち、監物はその祖先は鷹匠であり、御家人であった。それゆえ五郎右衛門は監物のことを、
「この御家人上がりが…」
或いは、「鷹匠風情が…」とそう見下して已まず、あまつさえ監物当人に対しても露骨にそのような見下した態度を取る始末であり、今もまたそうであった。
これで三賀監物が金森五郎右衛門と同じように、或いは押田吉次郎のように五郎右衛門以上の、
「名族…」
その流れを汲む者であったならば、五郎右衛門も監物の言葉に素直に耳を傾けたであろうが、生憎と三賀監物は五郎右衛門が好む、
「名族…」
その流れを汲む者ではなく、にもかかわらず、己よりも格上の旗奉行を勤めており、五郎右衛門はそれが余計に気に入らず、監物に対してそのような不遜なる態度を取らせたのであった。
それに対して三賀監物はと言うと、金森五郎右衛門が己のその出自を捉えて見下していることは承知しており、それが昂じて格上である己に不遜なる態度を取らせていたことにも慣れてはいたものの、しかし流石に今、このような「七役」が揃った、謂わば、
「満座…」
そのような場においてこのような無礼なるふるまいをされては黙ってはおられず、
「おい…」
監物は五郎右衛門に声を荒げてみせたものの、五郎右衛門は相変わらずそっぽを向いたままであり、五郎右衛門のその態度に監物は思わず、
「我を忘れ…」
腰を浮かせかけたものである。それゆえ、
「監物は五郎右衛門に掴み掛かるつもりではあるまいか…」
誰もがそう思い、そこで長柄奉行の清水彌八郎久慶が慌てて監物と五郎右衛門との間に割って入るかのように、
「あー、いや、 確かに三賀殿が申される通り、何ゆえに田沼山城守様が若年寄に進まれるのか、それについて考えるのが肝要でござろう…」
そう声を上げたかと思うと、
「御用人殿もそう思われるでござりましょう?」
用人に下駄を預けた。
清水彌八郎はその長柄奉行という立場上、今のように監物と五郎右衛門との間に割って入ることが多かった。
それと言うのも清水彌八郎が勤める長柄奉行というポストは三賀監物が勤める旗奉行と金森五郎右衛門が勤める物頭との間にあり、つまり、清水彌八郎は金森五郎右衛門にとっては直属の上司に当たり、三賀監物にとっては逆に直属の部下に当たるというわけだ。
それゆえ五郎右衛門が監物に対して不遜なる態度を取る度に、そのような場面に清水彌八郎が際会…、出くわすことが割って入るのが常であった。
尤も、大抵は彌八郎が態々割って入るまでもなく、監物がそれこそ、
「大人の態度で…」
五郎右衛門のその不遜なる態度も柳に風とばかり受け流すのがこれまた常であったので、それゆえ今のように監物が五郎右衛門に掴み掛かろうとするとは、彌八郎にとっては初めてのことであり、それゆえ流石に慌てたものである。
ともあれ清水彌八郎の「仲裁」のお蔭で、三賀監物も、
「我に返った…」
それゆえ五郎右衛門に掴み掛かるという醜態を演じずに済み、監物は内心、彌八郎に感謝したものであり、監物はその感謝の心から彌八郎に対して頭を下げたものである。
一方、五郎右衛門とて、監物に掴み掛かられずに済んだわけだからだ、やはり彌八郎に対して監物同様、感謝しても良さそうなものである。いや、そもそも元凶は五郎右衛門であると言っても過言ではなく、そうであれば監物以上に彌八郎に対して感謝すべきところ、しかし、五郎右衛門が彌八郎に対してそのような殊勝なる態度を覗かせることは終ぞなく、相変わらずそっぽを向いたままであった。
それはやはりと言うべきか、この清水彌八郎にしても三賀監物同様、
「御家人上がり…」
であったからだ。彌八郎が父、惣八郎政茂は御家人であり、御家人役である作事調役を勤め、その嫡男である彌八郎もまた御家人として、御家人役である支配勘定を勤め、この支配勘定より旗本役である勘定へと班を進められ、つまりは昇進を果たしてこの時、御家人から旗本へと家格が上昇したわけだが、「名族」である金森五郎右衛門からすれば、三賀監物同様、
「成り上がり者…」
それに過ぎず、軽蔑すべき対象としかその瞳には映らず、勿論、彌八郎が長柄奉行として物頭たる己の直属の上司に当たろうとも、五郎右衛門がその彌八郎を敬うことは金輪際あり得ず、相変わらずそっぽを向いたままというのも、自然なことと言えた。
朝比奈六左衛門はと言うと、清和源氏の流れを汲む押田吉次郎や、或いはその支流ではあるもののやはり清和源氏の流れを汲む金森五郎右衛門と較べると見劣りするものの、それでも藤原氏良門流を汲み、そのことは五郎右衛門も把握していたので、そこでこの朝比奈六左衛門にしても己と同じく、
「名族意識…」
必ずやそれを持ち合わせている筈であり、そうであれば意知が若年寄へと進むことなど、
「とんでもなきこと…」
そう考えているに違いないと、金森五郎右衛門はそう信じて疑わず、それいぇ朝比奈六左衛門に水を向けたのであった。五郎右衛門はあくまで、
「名族意識…」
それが価値基準であった。つまりは相手が名族であるか否か、それだけでしか人を見られず、唯一の「アイデンティティー」と言えた。
一方、五郎右衛門より水を向けられた朝比奈六左衛門はと言うと、確かに五郎右衛門が期待したように、意知が若年寄へと進むことについて、
「如何なものか…」
そう感じたものであるが、しかし、金森五郎右衛門が余りにも意次・意知父子を悪し様に罵るものだから、六左衛門はその反動からか、意次・意知父子に対して同情心が芽生えてしまい、それゆえ金森五郎右衛門はこの朝比奈六左衛門からも期待した反応は得られずじまい、であった。
それにしても金森五郎右衛門の態度たるや、
「見苦しい…」
その一言に尽きた。
いや、意知の若年寄就任につき、五郎右衛門自身がどのように感じようとも、それは五郎右衛門の勝手というものだが、己の感じ方について、まるで仲間でも募るかのように同意を求めて方々に声をかける五郎右衛門のその態度たるや、正に、
「見苦しい…」
というものであり、旗奉行の三賀監物長頼は流石に金森五郎右衛門のその「見苦しい…」様を見かねたようで、
「それよりも今は何ゆえに田沼山城殿が若年寄へと進まれるのか、その背景事情について考えるべきでござろう…」
三賀監物は五郎右衛門を窘めるようにそう言った。
この三賀監物は御齢63と、71の金森五郎右衛門よりも年下ではあるものの、しかし、
「勤続年数…」
その観点から見た場合、三賀監物の方が上であった。
何しろ三賀監物は田安家の始祖たる宗武がまだ、小次郎と名乗っていた頃より、正確には享保17(1732)年よりその伽として仕え、今に至る。
それに比して金森五郎右衛門はと言うと、それより遅れること8年、元文5(1740)年より近習として仕え始め、やはり今に至る。
それゆえ三賀監物は金森五郎右衛門よりも年上ではあるものの、物頭よりも格上である旗奉行を勤めていた。
三賀監物はここ田安館においては金森五郎右衛門よりも格上の旗奉行であるゆえに五郎右衛門を窘めることができたわけだが、しかし、金森五郎右衛門はと言うと、三賀監物に指図されるのを嫌い、こともあろうに、
「ふんっ」
そう鼻を鳴らしてそっぽを向いたものである。
これは三賀監物が年下ということもあるが、それ以上に監物の出自が金森五郎右衛門にこのような不遜なる態度を取らせた。
即ち、監物はその祖先は鷹匠であり、御家人であった。それゆえ五郎右衛門は監物のことを、
「この御家人上がりが…」
或いは、「鷹匠風情が…」とそう見下して已まず、あまつさえ監物当人に対しても露骨にそのような見下した態度を取る始末であり、今もまたそうであった。
これで三賀監物が金森五郎右衛門と同じように、或いは押田吉次郎のように五郎右衛門以上の、
「名族…」
その流れを汲む者であったならば、五郎右衛門も監物の言葉に素直に耳を傾けたであろうが、生憎と三賀監物は五郎右衛門が好む、
「名族…」
その流れを汲む者ではなく、にもかかわらず、己よりも格上の旗奉行を勤めており、五郎右衛門はそれが余計に気に入らず、監物に対してそのような不遜なる態度を取らせたのであった。
それに対して三賀監物はと言うと、金森五郎右衛門が己のその出自を捉えて見下していることは承知しており、それが昂じて格上である己に不遜なる態度を取らせていたことにも慣れてはいたものの、しかし流石に今、このような「七役」が揃った、謂わば、
「満座…」
そのような場においてこのような無礼なるふるまいをされては黙ってはおられず、
「おい…」
監物は五郎右衛門に声を荒げてみせたものの、五郎右衛門は相変わらずそっぽを向いたままであり、五郎右衛門のその態度に監物は思わず、
「我を忘れ…」
腰を浮かせかけたものである。それゆえ、
「監物は五郎右衛門に掴み掛かるつもりではあるまいか…」
誰もがそう思い、そこで長柄奉行の清水彌八郎久慶が慌てて監物と五郎右衛門との間に割って入るかのように、
「あー、いや、 確かに三賀殿が申される通り、何ゆえに田沼山城守様が若年寄に進まれるのか、それについて考えるのが肝要でござろう…」
そう声を上げたかと思うと、
「御用人殿もそう思われるでござりましょう?」
用人に下駄を預けた。
清水彌八郎はその長柄奉行という立場上、今のように監物と五郎右衛門との間に割って入ることが多かった。
それと言うのも清水彌八郎が勤める長柄奉行というポストは三賀監物が勤める旗奉行と金森五郎右衛門が勤める物頭との間にあり、つまり、清水彌八郎は金森五郎右衛門にとっては直属の上司に当たり、三賀監物にとっては逆に直属の部下に当たるというわけだ。
それゆえ五郎右衛門が監物に対して不遜なる態度を取る度に、そのような場面に清水彌八郎が際会…、出くわすことが割って入るのが常であった。
尤も、大抵は彌八郎が態々割って入るまでもなく、監物がそれこそ、
「大人の態度で…」
五郎右衛門のその不遜なる態度も柳に風とばかり受け流すのがこれまた常であったので、それゆえ今のように監物が五郎右衛門に掴み掛かろうとするとは、彌八郎にとっては初めてのことであり、それゆえ流石に慌てたものである。
ともあれ清水彌八郎の「仲裁」のお蔭で、三賀監物も、
「我に返った…」
それゆえ五郎右衛門に掴み掛かるという醜態を演じずに済み、監物は内心、彌八郎に感謝したものであり、監物はその感謝の心から彌八郎に対して頭を下げたものである。
一方、五郎右衛門とて、監物に掴み掛かられずに済んだわけだからだ、やはり彌八郎に対して監物同様、感謝しても良さそうなものである。いや、そもそも元凶は五郎右衛門であると言っても過言ではなく、そうであれば監物以上に彌八郎に対して感謝すべきところ、しかし、五郎右衛門が彌八郎に対してそのような殊勝なる態度を覗かせることは終ぞなく、相変わらずそっぽを向いたままであった。
それはやはりと言うべきか、この清水彌八郎にしても三賀監物同様、
「御家人上がり…」
であったからだ。彌八郎が父、惣八郎政茂は御家人であり、御家人役である作事調役を勤め、その嫡男である彌八郎もまた御家人として、御家人役である支配勘定を勤め、この支配勘定より旗本役である勘定へと班を進められ、つまりは昇進を果たしてこの時、御家人から旗本へと家格が上昇したわけだが、「名族」である金森五郎右衛門からすれば、三賀監物同様、
「成り上がり者…」
それに過ぎず、軽蔑すべき対象としかその瞳には映らず、勿論、彌八郎が長柄奉行として物頭たる己の直属の上司に当たろうとも、五郎右衛門がその彌八郎を敬うことは金輪際あり得ず、相変わらずそっぽを向いたままというのも、自然なことと言えた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
7
1 / 4
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる