上 下
100 / 162

一橋治済は家基が毒殺と疑われた場合、清水家や更には田安家、そして意次にその罪を被くべく彼らの縁者を最期の鷹狩りに随従させた疑いが浮上する。

しおりを挟む
もっとも、それは家基いえもと病死びょうしではのうて他殺たさつだとうたがわれた場合ばあいそなえてのものだが…、そしてそなえと言えばいま一つ…」

 家治がそこまで言うと、その先は意次おきつぐってみせた。

一橋ひとつばし殿はおそおおくも大納言だいなごん様をがいたてまつりし首魁しゅかい黒幕くろまくではないと周囲しゅうい然様さようおもわせますと同時どうじに、大納言だいなごん様をがいたてまつりしまこと首魁しゅかい黒幕くろまく清水しみず殿とおもわせますべく、そこで清水しみず殿にかかわりのありし者をおそおおくも大納言だいなごん様が最期さいごのご放鷹ほうよう随従ずいじゅうさせましたわけにて?」

 意次おきつぐの言葉に家治はうなずいてみせると、「いや」とおうじた。

生憎あいにくもうすべきか、小姓こしょうにおいては清水しみず家とかかわりのありし者ともうさば大久保おおくぼ忠俶ただあつただ一人ひとりにて…、忠俶ただあつがやはり叔父おじ大久保おおくぼ半之助はんのすけ忠基ただもと用人ようにんとしてつかえておりしのみにて、されば治済はるさだはあとの二人はやむを得まいと、田安たやす家と意次おきつぐの二人にかかわりのありし者を…、小姓こしょうえらんだのではあるまいかと、盛朝もりとも然様さよう見立みたて、もそう思うておる…、いや、次期じき将軍をねらえるべき立場たちばにおる重好しげよしなればいざ知らず、そもそも次期じき将軍とは何ら関係のない、それどころか家基いえもとが将軍職にきしことで恩恵おんけいこうむ田安たやす殿や意次おきつぐがそもそも家基いえもとがいするはずがないのだ…、田安たやす殿は今は明屋形あきやかたなれど、やかたまもりし寶蓮院ほうれんいん殿は家基いえもとしゅうとめたり、されば当然とうぜん家基いえもとが将軍職にきしことをのぞんでおられたであろうし、また意次おきつぐも、意知おきとも家基いえもと寵愛ちょうあいけておったために、家基いえもとが将軍職にきしあかつきには若年寄、いや、老中に取り立てられていたことであろうぞ…」

 家治は微笑ほほえみをかべつつ意知おきともの方を見てそう言ったので、意知おきともおもわずかおせた。

 ともあれ家治の言う通りであり、田安たやす家や、ましてや意次おきつぐ家基いえもとを殺すはずがないのだ。少し考えればかりそうなものである。

 だが治済はるさだとしてはそれを承知しょうちうえで、それでもおのれ家基いえもところした首魁しゅかい黒幕くろまくであるはずがないと、周囲しゅういにそうおもわせることを優先ゆうせんしたのであろう。その上で、

「あわよくば…」

 田安たやす家、あるいは意次おきつぐ家基いえもと謀殺ぼうさつつみなすけられればと、そこで小笠原おがさわら信喜のぶよし使つかってそのような人選じんせんをしたということか。

 何しろ、鷹狩たかがりにしたが小姓こしょう小納戸こなんどともに3人という不文律ふぶんりつがあり、しかし、その当時…、安永8(1779)年の時点じてんにおいては西之丸にしのまるにて家基いえもとつかえていた小姓こしょうの中で清水しみず家とかかわりのある小姓こしょうが一人しかいないとあらば、

「それなれば…」

 治済はるさだとしてはいっそのこと、あとの二人は田安たやす家と意次おきつぐ双方そうほうかかわりのある小姓こしょうしたがわせることで、まんいち家基いえもと病死びょうしではなく、他殺たさつであると発覚はっかくした場合、清水しみず家のみならず、田安たやす家や意次おきつぐにもそれぞれひとしくうたがいがかかるよう仕向しむけたのやもれぬ。

「されば小納戸こなんどにつきてもおなじことが言えるのだ。いや、小納戸こなんどにつきてはみな清水しみず家にかかわりがありし者でめられているのだ…」

 家治はあきれた口調くちょうでそう言った。小納戸こなんどにおいてはすべ清水しみず家とかかわりのある者たちでめさせた治済はるさだのその行動にはいかりよりも心底しんそこあきれている様子ようすうかがえた。

「そこにもしたためられているとおり、石場いしば弾正だんじょう政恒まさつね中島なかじま三左衛門さんざえもん行敬ゆきたか、そして三浦みうら左膳さぜん義和よしかずの三人の小納戸こなんどしたごうたわけだが、石場いしば弾正だんじょう政恒まさつねは弟の采女うねめ定門さだかど重好しげよし小姓こしょうとしてつかえており、中島なかじま三左衛門さんざえもん行敬ゆきたか叔父おじ大三郎だいざぶろう行和ゆきのぶがやはり小姓こしょうとしてつかえており、のみならず、叔母おば安祥院あんしょういん殿につかえており…」

 安祥院あんしょういんとは九代将軍・家重いえしげ側妾そくしょうにして、清水しみず重好しげよし実母じつぼである。

「そして三浦みうら左膳さぜん義和よしかずいたりては態々わざわざもうすにおよばず…」

 たしかに家治の言うとおりだが、それでも意次おきつぐわってげた。

三浦みうら左膳さぜん義和よしかずは確か、安祥院あんしょういん殿がおいでござりましたな…」

 つまり重好しげよし三浦みうら左膳さぜん義和よしかずとは従兄弟いとこ同士どうし間柄あいだがらであった。

「ことに彼ら小納戸こなんどは、家基いえもと放鷹ほうよう帰途きとりし東海とうかいにおいて、家基いえもと休息きゅうそくがてらくちにせし茶菓子ちゃがし毒見どくみにない…」

 誰がどうても、家基いえもと謀殺ぼうさつ、それも毒殺どくさつした首魁しゅかい黒幕くろまく重好しげよしだと思うであろう。

「なれど盛朝もりともはそれが気に入らなかった様子ようすにて…」

 家治はどこか、あくまでそこはかとなく、だがうれ様子ようすのぞかせた。

 家治が家基いえもと同様どうよう大事だいじに思う弟・重好しげよし深谷ふかや式部しきぶ盛朝もりとも家基いえもと謀殺ぼうさつ毒殺どくさつした首魁しゅかい黒幕くろまくとは見ていないことにうれしさをおぼえたのやも知れぬ。

 無論むろんそこには将軍・家治への気遣きづかいも多分たぶんふくまれていたであろうが、しかしそれをいても深谷ふかや式部しきぶ盛朝もりとものその判断はんだんには意次おきつぐ意知おきともうなずけるものがあった。

 端的たんてきに言って出来過できすぎているのである。意次おきつぐがふと、それを口にすると、

盛朝もりともおなじことをもうしておったわ…、出来過できすぎている、とな…」

 家治はそうおうじた。

「さればこれで一人ぐらい、ことに小納戸こなんど一橋ひとつばし家とかかわりがありし者がふくまれたいたなれば、あるいは重好しげよし下手人げしゅにんやもれぬと…、然様さようおもうたやもれぬともうしてもおったわ。盛朝もりともは…」

 家治はさらにそう、それも深谷ふかや式部しきぶ盛朝もりともしのぶかのようにほそめてそうつづけた。

「だが実際じっさいには毒見どくみ役をにないし小納戸こなんど…、三人もの小納戸こなんどの中で一橋ひとつばし家とかかわりがありし者が一人ひとりもおらず、それどころかみな清水しみず家とかかわりがありし者でめられており、これはむしろ治済はるさだ重好しげよしおのれつみを…、家基いえもと謀殺ぼうさつ毒殺どくさつせしそのつみかずこうとしたのではあるまいかと…」

式部しきぶ然様さよう見立みたてましたのでござりまするな?」

 意次おきつぐが家治の言葉を格好かっこうでそうたしかめるようにたずねると家治もうなずいた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

信濃の大空

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:127pt お気に入り:13

かくされた姫

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:2

蒼き狼の時代

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:1

皇国の栄光

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:106pt お気に入り:33

浅井長政は織田信長に忠誠を誓う

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:1

天下人織田信忠

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:22

四代目 豊臣秀勝

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:279

処理中です...