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安永のトリカブト殺人事件 ~新井宿での鷹狩~
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家基が馬上より青空を見上げていた。青空には雁が舞っており、するとそこへ二本の弓矢が唸りを上げたかと思うと、空から二羽の雁が落ちてきた。
見事、雁を射落としたのは本丸小姓組番士の日根野一學高榮と同じく本丸の書院番士、日根野左京高雅の2人であった。
日根野一學と日根野左京、この2人が放った矢が夫々、雁に命中したのだ。
この日根野一學と日根野左京は実の父子であり、親子して弓矢の名手であった。
それも騎射、馬上にて弓矢を放ち、見事、獲物を命中させるという、極めて難易度の高い技の持主であった。
それ故、日根野一學・左京父子は今日のこの新井宿における家基の鷹狩りに供弓として扈従が許されたのだ。
ところで日根野一學にしろ、倅の左京にしろ、共に本丸附の番士である。
日根野一學が本丸小姓組番士ならば、倅の左京は本丸書院番士、これで本丸の盟主たる将軍・家治の鷹狩りへの扈従ならば頷けよう。本丸附のこの父子にしてみれば、本丸の盟主たる将軍・家治は正しく主君であるからだ。
だが家基は次期将軍とは申せ、西之丸の盟主、本丸附の番士にとっては正確にはまだ主君ではなかった。
にもかかわらず、何故、西之丸の盟主たる次期将軍・家基の鷹狩りに本丸附の番士が扈従しているのかと、斯様に疑われる向きもあるやも知れぬ。
それは本丸の番士、それも小姓組番と書院番、この両方の番、所謂、両番には本丸での勤番の外に「西之丸供番」と称して、西之丸での勤番もあり、この日に西之丸の盟主、今の場合は次期将軍たる家基が鷹狩りなどで外出しようものなら、それに扈従することになる。
つまり日根野一學にしろ、倅の左京にしろ、安永8(1779)年2月21日の今日が西之丸供番の日に当たり、その日に家基がここ新井宿へと鷹狩りに「出陣」した為に、それに扈従した次第である。
但し、日根野一學・左京父子が今日が西之丸供番であったのは偶然ではなく必然であった。
即ち、日根野一學・左京父子は御三卿の清水家所縁の者故に、今日が西之丸供番になる様、もっと言えば家基の鷹狩りに扈従出来る様、勤務が組まれたのだ。
勤務を組んだのは御側御用取次の稲葉正明であった。
正明は将軍・家治に対して、一橋治済が家基の鷹狩りに乗じて家基を暗殺する危険性について触れ、そこで家基の鷹狩りには一橋家所縁の者を排除することを提案したのであった。
無論、一橋家所縁の者を全て、家基の鷹狩りから排除するのは不可能であろう。
だが西之丸供番として家基の鷹狩りに扈従する本丸両番士から一橋家所縁の者を排除することは可能であった。
それと言うのも、本丸両番士は1番組につき3人が1組で勤務が組まれる。
つまり、西之丸供番として家基の鷹狩りに扈従出来るのは1番組につき3人という訳だ。
安永8(1779)年2月の今、本丸小姓組番は6つの、書院番は8つの、夫々、番組に分かれていた。
但し、書院番については1番組が駿府在番、駿府城の守衛の最中であり、それ故、今、この江戸にいる本丸書院番は2番組から8番組までの7つの番組であった。
それ故、小姓組番からは18人が、書院番からは21人が西之丸供番として家基の鷹狩りに扈従することになる。
総計、39人であり、人数としては一見、多い様にも思われるが、しかし1番組につき3人と考えれば、そうでもない。
どういうことかと言うと、両番においては1番組につき存する番士は3~40人といった程度であり、この中から一橋家とは所縁のない者を3人だけ選べば良いのだから、合わせて39人の両番士、一橋家とは所縁のない者だけで占めさせるのも、そう難しいことではなかった。
それどころか家治が信頼する清水家、或いは田沼家所縁の者で占めさせることも可能であり、実際、今日の家基の鷹狩りに西之丸供番として扈従している本丸両番士は皆、清水家、或いは田沼家所縁の者で占められていた。
例えば日根野一學・左京父子がそうである。
日根野一學・左京父子はただ騎射の名手というだけではなく、清水家と所縁があり、日根野一學が実弟、半左衛門高備は重好の近習であり、その庶子、左京にとっては実弟の一左衛門守吉もまた、本郷の姓で重好に近習として仕えていたのだ。
その日根野一學だが、本丸小姓組番は4番組に所属しており、この4番組からは日根野一學の外に岡田伊織善一と近藤喜一郎義湍の2人が西之丸供番に選ばれ、今、この場にいる。
岡田伊織は清水家用人の近藤助八郎義種の長女を娶っており、一方、近藤喜一郎はその近藤助八郎の嫡子、それも岡田伊織が妻女の実弟であった。
つまり岡田伊織と近藤喜一郎は義兄弟であった。
一方、日根野左京が属するのは本丸書院番は5番組であり、永井伊織直廉と藪左近勝貞の2人が日根野左京と共に今日、21日の西之丸供番に選ばれ、やはりここ新井宿での鷹狩りに扈従していた。
この永井伊織や藪左近にしてもまた、清水家と所縁があった。
永井伊織が実弟、左兵衛時久は本丸小姓を勤めた松村因幡守安陳が養嗣子、それも入婿として迎えられた。
左兵衛時久は松村安陳が次女と娶わせられた訳だが、長女は清水家老の吉川攝津守從弼の許に嫁していた。
その上、松村左兵衛時久が嫡子、橘太郎時展はその吉川從弼の三女と婚約していたのだ。
斯かる次第で永井伊織は実弟、松村左兵衛時久を介して清水家老の吉川從弼と所縁があった。
ちなみに、その松村左兵衛だが本丸小姓組番は1番組に属する番士であり、やはり西之丸供番に選ばれ、ここにその姿があった。
一方、藪左近だが、実は本丸書院番士を勤めた津田大助正峻が次男であり、西之丸小納戸を勤めていた藪半之丞勝成のやはり入婿に迎えられ、藪半之丞が長女を娶った。
その養父に当たる藪半之丞には文左衛門直與なる実の叔父がおり、この文左衛門直與は田安用人を勤めていた常見文左衛門氏連がまたしても入婿に迎えられ、文左衛門直與も養父・文左衛門氏連と同じく、今は田安用人であった。
常見文左衛門直與は養父・文左衛門氏連が長女を娶り、その間に生した末っ子の利三郎直喜が今、清水家に草鞋を脱いでいたのだ。
斯かる次第で藪左近は養父・半之丞勝成が実の叔父である常見文左衛門直與を介して清水家と所縁があった。
そしてこの、田安用人でもある常見文左衛門が嫡子、源之助直逵にしても本丸小姓組番は6番組に属する番士であり、それ故、西之丸供番としてここにいた。
さて、射落とされた2羽の雁であるが、目附が誰の手柄であるか、つまりは誰が射落としたか、謂わば「戦功」の認定に当たる。
目附は戦場においては「軍目附」とも称され、戦功認定を職掌としていた。
天下太平の御代、目附は旗本や御家人の監察役へと変化を遂げたが、鷹狩りにおいては戦国の名残りから、目附が「軍目附」として、誰が獲物を仕留めたか、その「戦功」の認定に当たる。
それ故、2人が扈従することになる。1人の目附だけで「戦功」の認定に当たらせては間違いがあるやも知れなかったからだ。
そして稀にだが、2人の目附の意見が一致しない場合もあり、その場合には目附よりも格上の大目付が判断を下すことになる。
そこで大目付も鷹狩りに扈従することになる訳だが、大目付は本丸にのみ附置されている役職であり、西之丸には附置されていなかった。、
翻って目附はと言うと、本丸、西之丸共に附置されていた。
そこで西之丸の盟主たる次期将軍の鷹狩りにおいては、目附については西之丸目附が扈従し、一方、大目付についてはやはり「西之丸供番」と称して本丸より大目付が西之丸へと出向、そして次期将軍の鷹狩りに扈従することになる。
今日はその大目付が伊藤忠勸であり、ちなみにその間、次期将軍不在の西之丸の留守を預かる大目付は「西之丸当番」と称され、今日の「西之丸当番」の大目付は松平忠郷であった。
一方、2人の西之丸目附だが、新庄與惣右衛門直内と小野次郎右衛門忠喜の2人であった。
そこでこの、家基の御前にて射落とされた2羽の雁であるが、日根野一學・左京父子が馬上より放った矢が命中、射落とされたことは誰の目にも明らかであったので、「軍目附」たる新庄與惣右衛門と小野次郎右衛門の意見は直ぐに一致した。
即ち、日根野一學・左京父子が夫々、射落とした雁であると認定し、「西之丸供番」たる大目付の伊藤忠勸もそれを認めた。
すると大目付より家基へと、その「戦功」が言上されることになる。ちなみにこれは将軍の鷹狩りにおいても同様であった。
家基は伊藤忠勸より2羽の雁が日根野一學・左京父子が夫々、射落としたものであると言上、報告が為されるや、大きく頷いた。
家基にしても馬上より確とその様を、つまりは日根野一學・左京父子が夫々、騎馬にて空を舞踊る雁に狙いを定め、射落とすまでの一部始終を見届けていたからだ。
だがそれでも目附、西之丸目附による「戦功」の認定を待たずして、日根野一學・左京父子を、その騎射の腕を賞揚しようものなら、「軍目附」として「戦功」の認定に当たる西之丸目附の面子を潰してしまうことになる。
そこで家基は西之丸目附による「戦功」の認定結果が大目付を介して伝えられるまで、日根野一學・左京父子の「腕」を賞揚することを控えていたのだ。
そして家基は大目付より改めて、西之丸目附による「戦功」の報告が為されるや、そこで漸くに日根野一學・左京父子に対して、
「いや、実に見事なる騎射…、この家基、大いに感じ入ったぞ…」
そう「お褒め」の言葉を与えた上で、
「後日、褒美を取らそうぞ…」
褒美の時服を与える約束までした。
それが丁度、タイミング良く午前11時30分頃であった。西之丸御膳奉行の神谷與市郎が「水」を、河豚毒入りの「水」を家基に呑ませてから1時間30分が経とうとする頃であった。
もっと言えば既に家基の体内に潜んでいたトリカブトの毒との拮抗が崩れ、トリカブトの毒が現出する頃合であった。
そこで神谷與市郎は改めて家基に「水」を勧めた。それは本日、三度目のことであり、家基はさして疑いもせず、神谷與市郎の勧めに従い、水筒の水を口にした。
これでトリカブトの毒と河豚毒の拮抗が崩れるのは1時間30分、延長された。つまりはトリカブトの毒が現出するのは午後1時頃まで延びた。
見事、雁を射落としたのは本丸小姓組番士の日根野一學高榮と同じく本丸の書院番士、日根野左京高雅の2人であった。
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この日根野一學と日根野左京は実の父子であり、親子して弓矢の名手であった。
それも騎射、馬上にて弓矢を放ち、見事、獲物を命中させるという、極めて難易度の高い技の持主であった。
それ故、日根野一學・左京父子は今日のこの新井宿における家基の鷹狩りに供弓として扈従が許されたのだ。
ところで日根野一學にしろ、倅の左京にしろ、共に本丸附の番士である。
日根野一學が本丸小姓組番士ならば、倅の左京は本丸書院番士、これで本丸の盟主たる将軍・家治の鷹狩りへの扈従ならば頷けよう。本丸附のこの父子にしてみれば、本丸の盟主たる将軍・家治は正しく主君であるからだ。
だが家基は次期将軍とは申せ、西之丸の盟主、本丸附の番士にとっては正確にはまだ主君ではなかった。
にもかかわらず、何故、西之丸の盟主たる次期将軍・家基の鷹狩りに本丸附の番士が扈従しているのかと、斯様に疑われる向きもあるやも知れぬ。
それは本丸の番士、それも小姓組番と書院番、この両方の番、所謂、両番には本丸での勤番の外に「西之丸供番」と称して、西之丸での勤番もあり、この日に西之丸の盟主、今の場合は次期将軍たる家基が鷹狩りなどで外出しようものなら、それに扈従することになる。
つまり日根野一學にしろ、倅の左京にしろ、安永8(1779)年2月21日の今日が西之丸供番の日に当たり、その日に家基がここ新井宿へと鷹狩りに「出陣」した為に、それに扈従した次第である。
但し、日根野一學・左京父子が今日が西之丸供番であったのは偶然ではなく必然であった。
即ち、日根野一學・左京父子は御三卿の清水家所縁の者故に、今日が西之丸供番になる様、もっと言えば家基の鷹狩りに扈従出来る様、勤務が組まれたのだ。
勤務を組んだのは御側御用取次の稲葉正明であった。
正明は将軍・家治に対して、一橋治済が家基の鷹狩りに乗じて家基を暗殺する危険性について触れ、そこで家基の鷹狩りには一橋家所縁の者を排除することを提案したのであった。
無論、一橋家所縁の者を全て、家基の鷹狩りから排除するのは不可能であろう。
だが西之丸供番として家基の鷹狩りに扈従する本丸両番士から一橋家所縁の者を排除することは可能であった。
それと言うのも、本丸両番士は1番組につき3人が1組で勤務が組まれる。
つまり、西之丸供番として家基の鷹狩りに扈従出来るのは1番組につき3人という訳だ。
安永8(1779)年2月の今、本丸小姓組番は6つの、書院番は8つの、夫々、番組に分かれていた。
但し、書院番については1番組が駿府在番、駿府城の守衛の最中であり、それ故、今、この江戸にいる本丸書院番は2番組から8番組までの7つの番組であった。
それ故、小姓組番からは18人が、書院番からは21人が西之丸供番として家基の鷹狩りに扈従することになる。
総計、39人であり、人数としては一見、多い様にも思われるが、しかし1番組につき3人と考えれば、そうでもない。
どういうことかと言うと、両番においては1番組につき存する番士は3~40人といった程度であり、この中から一橋家とは所縁のない者を3人だけ選べば良いのだから、合わせて39人の両番士、一橋家とは所縁のない者だけで占めさせるのも、そう難しいことではなかった。
それどころか家治が信頼する清水家、或いは田沼家所縁の者で占めさせることも可能であり、実際、今日の家基の鷹狩りに西之丸供番として扈従している本丸両番士は皆、清水家、或いは田沼家所縁の者で占められていた。
例えば日根野一學・左京父子がそうである。
日根野一學・左京父子はただ騎射の名手というだけではなく、清水家と所縁があり、日根野一學が実弟、半左衛門高備は重好の近習であり、その庶子、左京にとっては実弟の一左衛門守吉もまた、本郷の姓で重好に近習として仕えていたのだ。
その日根野一學だが、本丸小姓組番は4番組に所属しており、この4番組からは日根野一學の外に岡田伊織善一と近藤喜一郎義湍の2人が西之丸供番に選ばれ、今、この場にいる。
岡田伊織は清水家用人の近藤助八郎義種の長女を娶っており、一方、近藤喜一郎はその近藤助八郎の嫡子、それも岡田伊織が妻女の実弟であった。
つまり岡田伊織と近藤喜一郎は義兄弟であった。
一方、日根野左京が属するのは本丸書院番は5番組であり、永井伊織直廉と藪左近勝貞の2人が日根野左京と共に今日、21日の西之丸供番に選ばれ、やはりここ新井宿での鷹狩りに扈従していた。
この永井伊織や藪左近にしてもまた、清水家と所縁があった。
永井伊織が実弟、左兵衛時久は本丸小姓を勤めた松村因幡守安陳が養嗣子、それも入婿として迎えられた。
左兵衛時久は松村安陳が次女と娶わせられた訳だが、長女は清水家老の吉川攝津守從弼の許に嫁していた。
その上、松村左兵衛時久が嫡子、橘太郎時展はその吉川從弼の三女と婚約していたのだ。
斯かる次第で永井伊織は実弟、松村左兵衛時久を介して清水家老の吉川從弼と所縁があった。
ちなみに、その松村左兵衛だが本丸小姓組番は1番組に属する番士であり、やはり西之丸供番に選ばれ、ここにその姿があった。
一方、藪左近だが、実は本丸書院番士を勤めた津田大助正峻が次男であり、西之丸小納戸を勤めていた藪半之丞勝成のやはり入婿に迎えられ、藪半之丞が長女を娶った。
その養父に当たる藪半之丞には文左衛門直與なる実の叔父がおり、この文左衛門直與は田安用人を勤めていた常見文左衛門氏連がまたしても入婿に迎えられ、文左衛門直與も養父・文左衛門氏連と同じく、今は田安用人であった。
常見文左衛門直與は養父・文左衛門氏連が長女を娶り、その間に生した末っ子の利三郎直喜が今、清水家に草鞋を脱いでいたのだ。
斯かる次第で藪左近は養父・半之丞勝成が実の叔父である常見文左衛門直與を介して清水家と所縁があった。
そしてこの、田安用人でもある常見文左衛門が嫡子、源之助直逵にしても本丸小姓組番は6番組に属する番士であり、それ故、西之丸供番としてここにいた。
さて、射落とされた2羽の雁であるが、目附が誰の手柄であるか、つまりは誰が射落としたか、謂わば「戦功」の認定に当たる。
目附は戦場においては「軍目附」とも称され、戦功認定を職掌としていた。
天下太平の御代、目附は旗本や御家人の監察役へと変化を遂げたが、鷹狩りにおいては戦国の名残りから、目附が「軍目附」として、誰が獲物を仕留めたか、その「戦功」の認定に当たる。
それ故、2人が扈従することになる。1人の目附だけで「戦功」の認定に当たらせては間違いがあるやも知れなかったからだ。
そして稀にだが、2人の目附の意見が一致しない場合もあり、その場合には目附よりも格上の大目付が判断を下すことになる。
そこで大目付も鷹狩りに扈従することになる訳だが、大目付は本丸にのみ附置されている役職であり、西之丸には附置されていなかった。、
翻って目附はと言うと、本丸、西之丸共に附置されていた。
そこで西之丸の盟主たる次期将軍の鷹狩りにおいては、目附については西之丸目附が扈従し、一方、大目付についてはやはり「西之丸供番」と称して本丸より大目付が西之丸へと出向、そして次期将軍の鷹狩りに扈従することになる。
今日はその大目付が伊藤忠勸であり、ちなみにその間、次期将軍不在の西之丸の留守を預かる大目付は「西之丸当番」と称され、今日の「西之丸当番」の大目付は松平忠郷であった。
一方、2人の西之丸目附だが、新庄與惣右衛門直内と小野次郎右衛門忠喜の2人であった。
そこでこの、家基の御前にて射落とされた2羽の雁であるが、日根野一學・左京父子が馬上より放った矢が命中、射落とされたことは誰の目にも明らかであったので、「軍目附」たる新庄與惣右衛門と小野次郎右衛門の意見は直ぐに一致した。
即ち、日根野一學・左京父子が夫々、射落とした雁であると認定し、「西之丸供番」たる大目付の伊藤忠勸もそれを認めた。
すると大目付より家基へと、その「戦功」が言上されることになる。ちなみにこれは将軍の鷹狩りにおいても同様であった。
家基は伊藤忠勸より2羽の雁が日根野一學・左京父子が夫々、射落としたものであると言上、報告が為されるや、大きく頷いた。
家基にしても馬上より確とその様を、つまりは日根野一學・左京父子が夫々、騎馬にて空を舞踊る雁に狙いを定め、射落とすまでの一部始終を見届けていたからだ。
だがそれでも目附、西之丸目附による「戦功」の認定を待たずして、日根野一學・左京父子を、その騎射の腕を賞揚しようものなら、「軍目附」として「戦功」の認定に当たる西之丸目附の面子を潰してしまうことになる。
そこで家基は西之丸目附による「戦功」の認定結果が大目付を介して伝えられるまで、日根野一學・左京父子の「腕」を賞揚することを控えていたのだ。
そして家基は大目付より改めて、西之丸目附による「戦功」の報告が為されるや、そこで漸くに日根野一學・左京父子に対して、
「いや、実に見事なる騎射…、この家基、大いに感じ入ったぞ…」
そう「お褒め」の言葉を与えた上で、
「後日、褒美を取らそうぞ…」
褒美の時服を与える約束までした。
それが丁度、タイミング良く午前11時30分頃であった。西之丸御膳奉行の神谷與市郎が「水」を、河豚毒入りの「水」を家基に呑ませてから1時間30分が経とうとする頃であった。
もっと言えば既に家基の体内に潜んでいたトリカブトの毒との拮抗が崩れ、トリカブトの毒が現出する頃合であった。
そこで神谷與市郎は改めて家基に「水」を勧めた。それは本日、三度目のことであり、家基はさして疑いもせず、神谷與市郎の勧めに従い、水筒の水を口にした。
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