【完結】獣王の番

なの

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第二章:冷たい王とΩ

第八話:王の沈黙

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あの嵐のような夜が明けた。
城は、王が三日間の「お籠り」から解放されたことで、活気を取り戻していた。臣下や侍女たちは忙しなく行き交い、滞っていた政務が再び動き出したことを喜んでいる。

しかし、ユリアンだけが、その喧騒の中で息を殺していた。昨夜の出来事が、夢ではなかったという証拠に、まだ肌にはあの濃密なαの香りがまとわりついている気がする。

王の苦悶の表情、獣のような瞳、そして首筋に残る熱い吐息。その全てが生々しく、思い出すだけで心臓が激しく音を立てた。

「二度と俺の前に現れるな」

突き放された時の、あの言葉。あれが彼の本心なのだろう。自分の力が、彼のプライドを深く傷つけ、そして彼の心をかき乱してしまった。

その日、ユリアンに命じられたのは、王の執務室へと続く廊下の清掃だった。
意地の悪い偶然に、ユリアンは唇を噛む。よりにもよって、なぜこの場所を。宰相グレンの、無言の圧力のように思えた。

恐る恐る廊下へ向かうと、幸いにも人影はまばらだった。ユリアンは壁際に身を寄せ、できるだけ存在感を消しながら、黙々と床を磨き始める。

(僕は、どうすればいいんだろう……)

心の中で問いかけるが、答えはない。
あの夜、自分の存在に意味があるのかもしれないと、生まれて初めて希望を抱いた。だが、その希望は、王からの明確な拒絶によって、早くも揺らいでいる。

不意に執務室の扉が開き、中から数人の大臣が出てきた。彼らはユリアンの姿を認めると、ひそひそと何かを囁き合う。

「あれが例のΩか。王のお籠りの後、妙な噂が立っているが……」
「まさか。王があのような者を相手になさるはずがない。何かの間違いだろう」

悪意ある囁き声は、もう聞き慣れたはずだった。
しかし、昨夜の出来事があった後では、その言葉の一つ一つが、より鋭い棘となって胸に突き刺さる。彼らは何も知らない。
王がどれほど苦しみ、そして僕が……。

そこまで考えて、ユリアンは慌てて思考を打ち消した。駄目だ、思い上がってはいけない。僕はただの人質で、拒絶された存在なのだから。


一方その頃、王の執務室ではライオネルが山積みの書類を前に、眉間に深い皺を寄せていた。
しかし、彼の集中を妨げているのは、複雑な国境問題でも、交易の関税率でもない。

(……あの香りだ)

昨夜、ユリアンの体から立ち上った、甘く清らかな香り。それが脳裏に焼き付いて、離れない。
あの香りに触れた瞬間、荒れ狂う内なる獣が、まるで主の前に跪くように大人しくなった。あんな経験は、生まれて初めてだった。
腹立たしい。この俺の獣が、あんなか弱いΩ一人に、いともたやすく屈服させられたという事実が。
そして何より、あの香りを、あの存在を、この体がいまだに求め続けているという事実が、許せなかった。

ペンを走らせていても、不意にユリアンの無防備な顔が脳裏をよぎる。
壁に追い詰めた時の怯えたように揺れる瞳。自分の熱を感じて、小さく跳ねた白い首筋。思い出すだけで、体の奥が疼き、獣の血が騒ぎ出す。

「くそっ!」

ライオネルは、持っていたペンを叩きつけるように置いた。苛立ちを抑えきれず立ち上がると、窓の外に視線を向ける。その時、開け放たれた窓から吹き込んできた風が、微かな香りを運んできた。

間違いない。
あのΩの香りだ。廊下で掃除でもしているのだろう。

その瞬間、ライオネルの心臓が大きく脈打った。
会いたい、などと。そんな馬鹿げた感情が、一瞬、確かに胸をよぎったのだ。

「……ふざけるな」

ライオネルは吐き捨てると、わざと大きな足音を立てて執務室を出た。
そして、廊下の先に、膝をついて床を磨くユリアンの小さな背中を認める。
その姿を見た瞬間、ライオネルは反射的に踵を返し、別の通路へと姿を消した。 

びくり、とユリアンの肩が震えた。
今、確かに、一瞬だけ、ライオネルの気配がした。そして、彼が自分を認め、そして意図的に避けていったのだと、痛いほど分かった。

「二度と俺の前に現れるな」

その言葉が、現実の重みを持ってユリアンの心にのしかかる。やはり、彼は僕の存在を疎ましく思っているのだ。

掃除を終え、人気のない自室に戻ったユリアンは、ベッドに倒れ込んだ。

(でも……)

思い出されるのは、突き放されたことだけではない。苦しそうに顔を歪めながらも、自分の香りを求めて首筋に顔を埋めた、あの姿。まるで拠り所を求めるかのような、彼の弱さ。

(僕は、ここにいてもいいのだろうか)

拒絶と、ほんのわずかな繋がり。
その二つの間で、ユリアンの心は振り子のように揺れ動いていた。今はまだ、彼にできることは何もない。ただ、この静かな城で、王の沈黙の意味を、一人考え続けることだけだった。

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