11 / 40
第二章:冷たい王とΩ
第十話:心ない言葉と、一つの真実
しおりを挟む
ライオネルの執務室から逃げるように戻って以来、ユリアンの心はかつてないほどに沈んでいた。
「気味が悪い」という一言が、消えない棘のように深く突き刺さっている。希望の光が見えたかと思えば、すぐに分厚い壁に突き当たる。その繰り返しに、彼の心はすっかり疲弊していた。
その日の午後、ユリアンは中庭の草むしりを命じられていた。
黙々と雑草を抜き続けていると、すぐ近くの東屋から若者たちの楽しげな話し声が聞こえてきた。
普段なら気にも留めないが、その会話に自分の名が混じっていることに気づき、ユリアンは思わず手を止めた。
「なあ、聞いたか?陛下が近々、隣国の姫君を妃に迎えるかもしれないって」
「ああ、知っている。宰相閣下が水面下で話を進めているのだろう?あのΩの人質は所詮、そのための時間稼ぎに過ぎなかったというわけだ」
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたかのような衝撃を受けた。
妃……?ライオネルが、自分以外の誰かと?
「当然だろう。獣王国の世継ぎを産むのは、高貴な血を引くαかβの姫君でなければ。まさか、男のΩの腹から生まれた子など、次代の王にはできん」
「しかし、あのΩも哀れなものだな。和平の証として献上されたはいいが、番とは認められず、今やただの厄介者。
妃が来られたら、いよいよお役御免だろう。どこぞの修道院にでも送られるか、あるいは……」
若者たちは、含みのある笑い声を上げた。その声が、ユリアンの耳には遠く聞こえる。頭が真っ白になり、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。
そうか、自分はやはり、ただの時間稼ぎだったのか。
獣の血を鎮める力も、ほんの一瞬見えた温もりも、全ては何の意味もない、ただの偶然。彼の未来には、自分という存在は最初から組み込まれていなかったのだ。
妃を迎え、世継ぎをもうけば国は安泰となる。
その時、自分はどうなるのだろう……。
もう、この城に自分の居場所はどこにもない。
絶望が、冷たい波のように足元から這い上がってくる。今まで必死に保っていた気力も、誇りも、何もかもが崩れ落ちていくようだった。草を掴んでいた指先から力が抜け、ユリアンはその場にへたり込んだ。
どれくらいそうしていただろうか。不意に、頭上から影が差した。
顔を上げると、そこに立っていたのは、宰相のグレンだった。彼は、いつものように感情の読めない目でユリアンを見下ろしている。
「……立ちなさい。そのような場所で、みっともない」
冷たい声だった。
だが、ユリアンにはもう、それに反発する気力さえ残っていなかった。
グレンは、力なく項垂れるユリアンを見て、小さくため息をついた。
「……先ほどの若者たちの話を聞いていたようだな。愚か者どもが、根も葉もない噂を流して」
「……噂、なのですか?」
か細い声で問い返すと、グレンは少しだけ目を見張り、そして初めて、どこか人間味のある表情を見せた。
「陛下が、他国の姫を妃に迎えるなど、ありえません。
あの御方は生涯、番をお作りになるおつもりはない。それは、先代の王が亡くなられて以来、ずっと変わらぬ陛下の意志だ。我々がいくら進言しても、聞き入れられたことは一度もない」
「生涯、番を……作らない……?」
その言葉は、貴族たちの噂よりも、さらに重くユリアンの胸にのしかかった。
自分以外の誰かと結ばれるのではない。彼は、誰とも結ばれるつもりがないのだ。自分であろうと、他の誰かであろうと関係なく。
「どうして、ですか?」
「それは、我々が知ることではない。だが、一つだけ言えることがある」
グレンは、そこで一度言葉を切り、真っ直ぐにユリアンの瞳を見据えた。
「お前が来てから、陛下は変わられた。いや、変わらざるを得なくなった、と言うべきか……。
あの御方が、これほど感情を乱し、他者に振り回されるお姿など、私は今まで一度も見たことがない」
その言葉に、ユリアンの心臓が大きく跳ねた。
書斎での冷たい言葉。廊下でのあからさまな無視。それは全て、彼が自分に振り回されている証拠だというのか?
「お前は、陛下の内なる獣を鎮めた。それは、この国の歴史上、誰にも成しえなかったことだ。その事実が、どれほどの意味を持つか……陛下ご自身が、一番理解しておられる。
だからこそ、陛下はお前を遠ざける。お前の存在が、ご自身の信念を、そして獣王としての生き方そのものを、根底から覆しかねないからだ」
それは、ユリアンがずっと知りたかった、王の沈黙の理由だった。
拒絶は、無関心からではない。むしろ、あまりにも強く意識しているが故の必死の抵抗。
「私は、お前のような存在を信用してはいなかった。だが、陛下を変えられる者がいるとすれば、それはお前だけなのかもしれん。
……己の価値を、見誤るな」
グレンはそれだけ言うと、背を向けて去っていった。
一人残されたユリアンは、呆然と宰相の言葉を反芻していた。
自分は、彼を振り回している?
彼の信念を、揺るがしている?
それは、希望と呼ぶにはあまりにも痛々しく、そして切ない真実だった。
彼を苦しめているのが自分なのだとしたら、自分は、どうすればいい?
彼の安寧のために、このまま消えるべきなのか。それとも……。
ユリアンは、泥のついた手で、ぎゅっと胸元の服を握りしめた。
涙はもう出なかった。代わりに、心の奥底に、小さな、しかし決して消えない炎が灯ったような気がした。
もう、ただ耐えるだけではいけない。
ただ待つだけでもいけない。
彼がなぜそこまで頑なに番を拒むのか。その理由を知らなければならない。そして、彼の苦しみの本当の意味を理解した時、自分に何ができるのかを、見つけなければならない。
それは、拒絶されたΩの、ささやかで、しかしあまりにも大きな決意だった。
この冷たい城で、自分の存在理由を、自らの手で掴み取るための、静かな戦いの始まりを告げる狼煙だった。
(第二章 完)
「気味が悪い」という一言が、消えない棘のように深く突き刺さっている。希望の光が見えたかと思えば、すぐに分厚い壁に突き当たる。その繰り返しに、彼の心はすっかり疲弊していた。
その日の午後、ユリアンは中庭の草むしりを命じられていた。
黙々と雑草を抜き続けていると、すぐ近くの東屋から若者たちの楽しげな話し声が聞こえてきた。
普段なら気にも留めないが、その会話に自分の名が混じっていることに気づき、ユリアンは思わず手を止めた。
「なあ、聞いたか?陛下が近々、隣国の姫君を妃に迎えるかもしれないって」
「ああ、知っている。宰相閣下が水面下で話を進めているのだろう?あのΩの人質は所詮、そのための時間稼ぎに過ぎなかったというわけだ」
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたかのような衝撃を受けた。
妃……?ライオネルが、自分以外の誰かと?
「当然だろう。獣王国の世継ぎを産むのは、高貴な血を引くαかβの姫君でなければ。まさか、男のΩの腹から生まれた子など、次代の王にはできん」
「しかし、あのΩも哀れなものだな。和平の証として献上されたはいいが、番とは認められず、今やただの厄介者。
妃が来られたら、いよいよお役御免だろう。どこぞの修道院にでも送られるか、あるいは……」
若者たちは、含みのある笑い声を上げた。その声が、ユリアンの耳には遠く聞こえる。頭が真っ白になり、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。
そうか、自分はやはり、ただの時間稼ぎだったのか。
獣の血を鎮める力も、ほんの一瞬見えた温もりも、全ては何の意味もない、ただの偶然。彼の未来には、自分という存在は最初から組み込まれていなかったのだ。
妃を迎え、世継ぎをもうけば国は安泰となる。
その時、自分はどうなるのだろう……。
もう、この城に自分の居場所はどこにもない。
絶望が、冷たい波のように足元から這い上がってくる。今まで必死に保っていた気力も、誇りも、何もかもが崩れ落ちていくようだった。草を掴んでいた指先から力が抜け、ユリアンはその場にへたり込んだ。
どれくらいそうしていただろうか。不意に、頭上から影が差した。
顔を上げると、そこに立っていたのは、宰相のグレンだった。彼は、いつものように感情の読めない目でユリアンを見下ろしている。
「……立ちなさい。そのような場所で、みっともない」
冷たい声だった。
だが、ユリアンにはもう、それに反発する気力さえ残っていなかった。
グレンは、力なく項垂れるユリアンを見て、小さくため息をついた。
「……先ほどの若者たちの話を聞いていたようだな。愚か者どもが、根も葉もない噂を流して」
「……噂、なのですか?」
か細い声で問い返すと、グレンは少しだけ目を見張り、そして初めて、どこか人間味のある表情を見せた。
「陛下が、他国の姫を妃に迎えるなど、ありえません。
あの御方は生涯、番をお作りになるおつもりはない。それは、先代の王が亡くなられて以来、ずっと変わらぬ陛下の意志だ。我々がいくら進言しても、聞き入れられたことは一度もない」
「生涯、番を……作らない……?」
その言葉は、貴族たちの噂よりも、さらに重くユリアンの胸にのしかかった。
自分以外の誰かと結ばれるのではない。彼は、誰とも結ばれるつもりがないのだ。自分であろうと、他の誰かであろうと関係なく。
「どうして、ですか?」
「それは、我々が知ることではない。だが、一つだけ言えることがある」
グレンは、そこで一度言葉を切り、真っ直ぐにユリアンの瞳を見据えた。
「お前が来てから、陛下は変わられた。いや、変わらざるを得なくなった、と言うべきか……。
あの御方が、これほど感情を乱し、他者に振り回されるお姿など、私は今まで一度も見たことがない」
その言葉に、ユリアンの心臓が大きく跳ねた。
書斎での冷たい言葉。廊下でのあからさまな無視。それは全て、彼が自分に振り回されている証拠だというのか?
「お前は、陛下の内なる獣を鎮めた。それは、この国の歴史上、誰にも成しえなかったことだ。その事実が、どれほどの意味を持つか……陛下ご自身が、一番理解しておられる。
だからこそ、陛下はお前を遠ざける。お前の存在が、ご自身の信念を、そして獣王としての生き方そのものを、根底から覆しかねないからだ」
それは、ユリアンがずっと知りたかった、王の沈黙の理由だった。
拒絶は、無関心からではない。むしろ、あまりにも強く意識しているが故の必死の抵抗。
「私は、お前のような存在を信用してはいなかった。だが、陛下を変えられる者がいるとすれば、それはお前だけなのかもしれん。
……己の価値を、見誤るな」
グレンはそれだけ言うと、背を向けて去っていった。
一人残されたユリアンは、呆然と宰相の言葉を反芻していた。
自分は、彼を振り回している?
彼の信念を、揺るがしている?
それは、希望と呼ぶにはあまりにも痛々しく、そして切ない真実だった。
彼を苦しめているのが自分なのだとしたら、自分は、どうすればいい?
彼の安寧のために、このまま消えるべきなのか。それとも……。
ユリアンは、泥のついた手で、ぎゅっと胸元の服を握りしめた。
涙はもう出なかった。代わりに、心の奥底に、小さな、しかし決して消えない炎が灯ったような気がした。
もう、ただ耐えるだけではいけない。
ただ待つだけでもいけない。
彼がなぜそこまで頑なに番を拒むのか。その理由を知らなければならない。そして、彼の苦しみの本当の意味を理解した時、自分に何ができるのかを、見つけなければならない。
それは、拒絶されたΩの、ささやかで、しかしあまりにも大きな決意だった。
この冷たい城で、自分の存在理由を、自らの手で掴み取るための、静かな戦いの始まりを告げる狼煙だった。
(第二章 完)
419
あなたにおすすめの小説
【完結】巷で噂の国宝級イケメンの辺境伯は冷徹なので、まっっったくモテませんが、この度婚約者ができました。
明太子
BL
オーディスは国宝級イケメンであるにも関わらず、冷徹な性格のせいで婚約破棄されてばかり。
新たな婚約者を探していたところ、パーティーで給仕をしていた貧乏貴族の次男セシルと出会い、一目惚れしてしまう。
しかし、恋愛偏差値がほぼ0のオーディスのアプローチは空回りするわ、前婚約者のフランチェスカの邪魔が入るわとセシルとの距離は縮まったり遠ざかったり…?
冷徹だったはずなのに溺愛まっしぐらのオーディスと元気だけどおっちょこちょいなセシルのドタバタラブコメです。
追放オメガ聖帝の幸せな結婚〜クールなスパダリ騎士に拾われて溺愛されるまで〜
あきたいぬ大好き(深凪雪花)
BL
ノルディーナ王国の聖帝サーナは、教皇のありもしない嘘のせいで聖宮から追放されてしまう。
行く当てがないサーナが国境に向かうと、そこで隣国ルミルカ王国の騎士であるムーシュと出会う。ムーシュから諸事情により偽装結婚を提案されて、サーナは期限付きの偽装結婚ならばよいと承諾し、一時的に保護してもらうことに。
異国暮らしに慣れていく中で、やがてムーシュから溺愛されるようになり……?
オメガのブルーノは第一王子様に愛されたくない
あさざきゆずき
BL
悪事を働く侯爵家に生まれてしまった。両親からスパイ活動を行うよう命じられてしまい、逆らうこともできない。僕は第一王子に接近したものの、騙している罪悪感でいっぱいだった。
噂の冷血公爵様は感情が全て顔に出るタイプでした。
春色悠
BL
多くの実力者を輩出したと云われる名門校【カナド学園】。
新入生としてその門を潜ったダンツ辺境伯家次男、ユーリスは転生者だった。
___まあ、残っている記憶など塵にも等しい程だったが。
ユーリスは兄と姉がいる為後継者として期待されていなかったが、二度目の人生の本人は冒険者にでもなろうかと気軽に考えていた。
しかし、ユーリスの運命は『冷血公爵』と名高いデンベル・フランネルとの出会いで全く思ってもいなかった方へと進みだす。
常に冷静沈着、実の父すら自身が公爵になる為に追い出したという冷酷非道、常に無表情で何を考えているのやらわからないデンベル___
「いやいやいやいや、全部顔に出てるんですけど…!!?」
ユーリスは思い出す。この世界は表情から全く感情を読み取ってくれないことを。いくら苦々しい表情をしていても誰も気づかなかったことを。
寡黙なだけで表情に全て感情の出ているデンベルは怖がられる度にこちらが悲しくなるほど落ち込み、ユーリスはついつい話しかけに行くことになる。
髪の毛の美しさで美醜が決まるというちょっと不思議な美醜観が加わる感情表現の複雑な世界で少し勘違いされながらの二人の行く末は!?
沈黙のΩ、冷血宰相に拾われて溺愛されました
ホワイトヴァイス
BL
声を奪われ、競売にかけられたΩ《オメガ》――ノア。
落札したのは、冷血と呼ばれる宰相アルマン・ヴァルナティス。
“番契約”を偽装した取引から始まったふたりの関係は、
やがて国を揺るがす“真実”へとつながっていく。
喋れぬΩと、血を信じない宰相。
ただの契約だったはずの絆が、
互いの傷と孤独を少しずつ融かしていく。
だが、王都の夜に潜む副宰相ルシアンの影が、
彼らの「嘘」を暴こうとしていた――。
沈黙が祈りに変わるとき、
血の支配が終わりを告げ、
“番”の意味が書き換えられる。
冷血宰相×沈黙のΩ、
偽りの契約から始まる救済と革命の物語。
今世はメシウマ召喚獣
片里 狛
BL
オーバーワークが原因でうっかり命を落としたはずの最上春伊25歳。召喚獣として呼び出された世界で、娼館の料理人として働くことになって!?的なBL小説です。
最終的に溺愛系娼館主人様×全般的にふつーの日本人青年。
※女の子もゴリゴリ出てきます。
※設定ふんわりとしか考えてないので穴があってもスルーしてください。お約束等には疎いので優しい気持ちで読んでくださると幸い。
※誤字脱字の報告は不要です。いつか直したい。
※なるべくさくさく更新したい。
オメガはオメガらしく生きろなんて耐えられない
子犬一 はぁて
BL
「オメガはオメガらしく生きろ」
家を追われオメガ寮で育ったΩは、見合いの席で名家の年上αに身請けされる。
無骨だが優しく、Ωとしてではなく一人の人間として扱ってくれる彼に初めて恋をした。
しかし幸せな日々は突然終わり、二人は別れることになる。
5年後、雪の夜。彼と再会する。
「もう離さない」
再び抱きしめられたら、僕はもうこの人の傍にいることが自分の幸せなんだと気づいた。
彼は温かい手のひらを持つ人だった。
身分差×年上アルファ×溺愛再会BL短編。
悪役令嬢と呼ばれた侯爵家三男は、隣国皇子に愛される
木月月
BL
貴族学園に通う主人公、シリル。ある日、ローズピンクな髪が特徴的な令嬢にいきなりぶつかられ「悪役令嬢」と指を指されたが、シリルはれっきとした男。令嬢ではないため無視していたら、学園のエントランスの踊り場の階段から突き落とされる。骨折や打撲を覚悟してたシリルを抱き抱え助けたのは、隣国からの留学生で同じクラスに居る第2皇子殿下、ルシアン。シリルの家の侯爵家にホームステイしている友人でもある。シリルを突き落とした令嬢は「その人、悪役令嬢です!離れて殿下!」と叫び、ルシアンはシリルを「護るべきものだから、守った」といい始めーー
※この話は小説家になろうにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる