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第二章:冷たい王とΩ
第十話:心ない言葉と、一つの真実
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ライオネルの執務室から逃げるように戻って以来、ユリアンの心はかつてないほどに沈んでいた。
「気味が悪い」という一言が、消えない棘のように深く突き刺さっている。希望の光が見えたかと思えば、すぐに分厚い壁に突き当たる。その繰り返しに、彼の心はすっかり疲弊していた。
その日の午後、ユリアンは中庭の草むしりを命じられていた。
黙々と雑草を抜き続けていると、すぐ近くの東屋から若者たちの楽しげな話し声が聞こえてきた。
普段なら気にも留めないが、その会話に自分の名が混じっていることに気づき、ユリアンは思わず手を止めた。
「なあ、聞いたか?陛下が近々、隣国の姫君を妃に迎えるかもしれないって」
「ああ、知っている。宰相閣下が水面下で話を進めているのだろう?あのΩの人質は所詮、そのための時間稼ぎに過ぎなかったというわけだ」
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたかのような衝撃を受けた。
妃……?ライオネルが、自分以外の誰かと?
「当然だろう。獣王国の世継ぎを産むのは、高貴な血を引くαかβの姫君でなければ。まさか、男のΩの腹から生まれた子など、次代の王にはできん」
「しかし、あのΩも哀れなものだな。和平の証として献上されたはいいが、番とは認められず、今やただの厄介者。
妃が来られたら、いよいよお役御免だろう。どこぞの修道院にでも送られるか、あるいは……」
若者たちは、含みのある笑い声を上げた。その声が、ユリアンの耳には遠く聞こえる。頭が真っ白になり、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。
そうか、自分はやはり、ただの時間稼ぎだったのか。
獣の血を鎮める力も、ほんの一瞬見えた温もりも、全ては何の意味もない、ただの偶然。彼の未来には、自分という存在は最初から組み込まれていなかったのだ。
妃を迎え、世継ぎをもうけば国は安泰となる。
その時、自分はどうなるのだろう……。
もう、この城に自分の居場所はどこにもない。
絶望が、冷たい波のように足元から這い上がってくる。今まで必死に保っていた気力も、誇りも、何もかもが崩れ落ちていくようだった。草を掴んでいた指先から力が抜け、ユリアンはその場にへたり込んだ。
どれくらいそうしていただろうか。不意に、頭上から影が差した。
顔を上げると、そこに立っていたのは、宰相のグレンだった。彼は、いつものように感情の読めない目でユリアンを見下ろしている。
「……立ちなさい。そのような場所で、みっともない」
冷たい声だった。
だが、ユリアンにはもう、それに反発する気力さえ残っていなかった。
グレンは、力なく項垂れるユリアンを見て、小さくため息をついた。
「……先ほどの若者たちの話を聞いていたようだな。愚か者どもが、根も葉もない噂を流して」
「……噂、なのですか?」
か細い声で問い返すと、グレンは少しだけ目を見張り、そして初めて、どこか人間味のある表情を見せた。
「陛下が、他国の姫を妃に迎えるなど、ありえません。
あの御方は生涯、番をお作りになるおつもりはない。それは、先代の王が亡くなられて以来、ずっと変わらぬ陛下の意志だ。我々がいくら進言しても、聞き入れられたことは一度もない」
「生涯、番を……作らない……?」
その言葉は、貴族たちの噂よりも、さらに重くユリアンの胸にのしかかった。
自分以外の誰かと結ばれるのではない。彼は、誰とも結ばれるつもりがないのだ。自分であろうと、他の誰かであろうと関係なく。
「どうして、ですか?」
「それは、我々が知ることではない。だが、一つだけ言えることがある」
グレンは、そこで一度言葉を切り、真っ直ぐにユリアンの瞳を見据えた。
「お前が来てから、陛下は変わられた。いや、変わらざるを得なくなった、と言うべきか……。
あの御方が、これほど感情を乱し、他者に振り回されるお姿など、私は今まで一度も見たことがない」
その言葉に、ユリアンの心臓が大きく跳ねた。
書斎での冷たい言葉。廊下でのあからさまな無視。それは全て、彼が自分に振り回されている証拠だというのか?
「お前は、陛下の内なる獣を鎮めた。それは、この国の歴史上、誰にも成しえなかったことだ。その事実が、どれほどの意味を持つか……陛下ご自身が、一番理解しておられる。
だからこそ、陛下はお前を遠ざける。お前の存在が、ご自身の信念を、そして獣王としての生き方そのものを、根底から覆しかねないからだ」
それは、ユリアンがずっと知りたかった、王の沈黙の理由だった。
拒絶は、無関心からではない。むしろ、あまりにも強く意識しているが故の必死の抵抗。
「私は、お前のような存在を信用してはいなかった。だが、陛下を変えられる者がいるとすれば、それはお前だけなのかもしれん。
……己の価値を、見誤るな」
グレンはそれだけ言うと、背を向けて去っていった。
一人残されたユリアンは、呆然と宰相の言葉を反芻していた。
自分は、彼を振り回している?
彼の信念を、揺るがしている?
それは、希望と呼ぶにはあまりにも痛々しく、そして切ない真実だった。
彼を苦しめているのが自分なのだとしたら、自分は、どうすればいい?
彼の安寧のために、このまま消えるべきなのか。それとも……。
ユリアンは、泥のついた手で、ぎゅっと胸元の服を握りしめた。
涙はもう出なかった。代わりに、心の奥底に、小さな、しかし決して消えない炎が灯ったような気がした。
もう、ただ耐えるだけではいけない。
ただ待つだけでもいけない。
彼がなぜそこまで頑なに番を拒むのか。その理由を知らなければならない。そして、彼の苦しみの本当の意味を理解した時、自分に何ができるのかを、見つけなければならない。
それは、拒絶されたΩの、ささやかで、しかしあまりにも大きな決意だった。
この冷たい城で、自分の存在理由を、自らの手で掴み取るための、静かな戦いの始まりを告げる狼煙だった。
(第二章 完)
「気味が悪い」という一言が、消えない棘のように深く突き刺さっている。希望の光が見えたかと思えば、すぐに分厚い壁に突き当たる。その繰り返しに、彼の心はすっかり疲弊していた。
その日の午後、ユリアンは中庭の草むしりを命じられていた。
黙々と雑草を抜き続けていると、すぐ近くの東屋から若者たちの楽しげな話し声が聞こえてきた。
普段なら気にも留めないが、その会話に自分の名が混じっていることに気づき、ユリアンは思わず手を止めた。
「なあ、聞いたか?陛下が近々、隣国の姫君を妃に迎えるかもしれないって」
「ああ、知っている。宰相閣下が水面下で話を進めているのだろう?あのΩの人質は所詮、そのための時間稼ぎに過ぎなかったというわけだ」
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたかのような衝撃を受けた。
妃……?ライオネルが、自分以外の誰かと?
「当然だろう。獣王国の世継ぎを産むのは、高貴な血を引くαかβの姫君でなければ。まさか、男のΩの腹から生まれた子など、次代の王にはできん」
「しかし、あのΩも哀れなものだな。和平の証として献上されたはいいが、番とは認められず、今やただの厄介者。
妃が来られたら、いよいよお役御免だろう。どこぞの修道院にでも送られるか、あるいは……」
若者たちは、含みのある笑い声を上げた。その声が、ユリアンの耳には遠く聞こえる。頭が真っ白になり、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。
そうか、自分はやはり、ただの時間稼ぎだったのか。
獣の血を鎮める力も、ほんの一瞬見えた温もりも、全ては何の意味もない、ただの偶然。彼の未来には、自分という存在は最初から組み込まれていなかったのだ。
妃を迎え、世継ぎをもうけば国は安泰となる。
その時、自分はどうなるのだろう……。
もう、この城に自分の居場所はどこにもない。
絶望が、冷たい波のように足元から這い上がってくる。今まで必死に保っていた気力も、誇りも、何もかもが崩れ落ちていくようだった。草を掴んでいた指先から力が抜け、ユリアンはその場にへたり込んだ。
どれくらいそうしていただろうか。不意に、頭上から影が差した。
顔を上げると、そこに立っていたのは、宰相のグレンだった。彼は、いつものように感情の読めない目でユリアンを見下ろしている。
「……立ちなさい。そのような場所で、みっともない」
冷たい声だった。
だが、ユリアンにはもう、それに反発する気力さえ残っていなかった。
グレンは、力なく項垂れるユリアンを見て、小さくため息をついた。
「……先ほどの若者たちの話を聞いていたようだな。愚か者どもが、根も葉もない噂を流して」
「……噂、なのですか?」
か細い声で問い返すと、グレンは少しだけ目を見張り、そして初めて、どこか人間味のある表情を見せた。
「陛下が、他国の姫を妃に迎えるなど、ありえません。
あの御方は生涯、番をお作りになるおつもりはない。それは、先代の王が亡くなられて以来、ずっと変わらぬ陛下の意志だ。我々がいくら進言しても、聞き入れられたことは一度もない」
「生涯、番を……作らない……?」
その言葉は、貴族たちの噂よりも、さらに重くユリアンの胸にのしかかった。
自分以外の誰かと結ばれるのではない。彼は、誰とも結ばれるつもりがないのだ。自分であろうと、他の誰かであろうと関係なく。
「どうして、ですか?」
「それは、我々が知ることではない。だが、一つだけ言えることがある」
グレンは、そこで一度言葉を切り、真っ直ぐにユリアンの瞳を見据えた。
「お前が来てから、陛下は変わられた。いや、変わらざるを得なくなった、と言うべきか……。
あの御方が、これほど感情を乱し、他者に振り回されるお姿など、私は今まで一度も見たことがない」
その言葉に、ユリアンの心臓が大きく跳ねた。
書斎での冷たい言葉。廊下でのあからさまな無視。それは全て、彼が自分に振り回されている証拠だというのか?
「お前は、陛下の内なる獣を鎮めた。それは、この国の歴史上、誰にも成しえなかったことだ。その事実が、どれほどの意味を持つか……陛下ご自身が、一番理解しておられる。
だからこそ、陛下はお前を遠ざける。お前の存在が、ご自身の信念を、そして獣王としての生き方そのものを、根底から覆しかねないからだ」
それは、ユリアンがずっと知りたかった、王の沈黙の理由だった。
拒絶は、無関心からではない。むしろ、あまりにも強く意識しているが故の必死の抵抗。
「私は、お前のような存在を信用してはいなかった。だが、陛下を変えられる者がいるとすれば、それはお前だけなのかもしれん。
……己の価値を、見誤るな」
グレンはそれだけ言うと、背を向けて去っていった。
一人残されたユリアンは、呆然と宰相の言葉を反芻していた。
自分は、彼を振り回している?
彼の信念を、揺るがしている?
それは、希望と呼ぶにはあまりにも痛々しく、そして切ない真実だった。
彼を苦しめているのが自分なのだとしたら、自分は、どうすればいい?
彼の安寧のために、このまま消えるべきなのか。それとも……。
ユリアンは、泥のついた手で、ぎゅっと胸元の服を握りしめた。
涙はもう出なかった。代わりに、心の奥底に、小さな、しかし決して消えない炎が灯ったような気がした。
もう、ただ耐えるだけではいけない。
ただ待つだけでもいけない。
彼がなぜそこまで頑なに番を拒むのか。その理由を知らなければならない。そして、彼の苦しみの本当の意味を理解した時、自分に何ができるのかを、見つけなければならない。
それは、拒絶されたΩの、ささやかで、しかしあまりにも大きな決意だった。
この冷たい城で、自分の存在理由を、自らの手で掴み取るための、静かな戦いの始まりを告げる狼煙だった。
(第二章 完)
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