神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第13章 南の方位

第392話 露草苑

列車れっしゃが停止した瞬間、振動の余韻よいんが消え、圧倒的な静寂が降りた。

 車輪の回転が止まり、蒸気の吐出としゅつが途絶え、鋼の車体を伝っていた微細な震動がすべて消失した。音が引き潮しおのように退いていく。最後に残ったのは、こよい自身の呼吸音だった。それすら、すぐに聞こえなくなった。

 こよいはホームに降り立った。駅名標には、消えかけた字で「露草苑つゆくさえん」とある。露野つゆのの水脈が地上へ近づく苑地だったはずだが、草も露もなく、整いすぎた石畳だけが続いていた。そこを踏む自分の足音が一切聞こえないことに気づいた。

 音が消えたのではない。この場所そのものが、音という概念がいねんを拒絶していた。

 声を出そうとした。唇は動く。喉のども震える。だが音波が空気に乗らない。口元から漏れた振動が、三寸も進まないうちに止まる。まるで空気が凝固ぎょうこして、音を通さない壁になっているかのようだった。こよいは口を閉じ、もう一度開いた。舌が上顎うわあごに触れる感触はある。喉のどの奥で声帯が震える振動もある。けれど音が外に出ない。自分の声が自分に届かないという奇妙な感覚に、背筋が冷えた。

 ホームの石畳いしだたみは灰色で、目地めじが異様に整っている。石の一枚一枚が寸分の狂いもなく並んでいた。角が欠けた石がない。苔こけの生えた石もない。踏みしめても石は軋きしまず、温度もなかった。冷たくもなく温かくもない、情報だけで構成された平面のような石畳いしだたみ。

 巾着きんちゃくの中の名前たちが完全に沈黙ちんもくしていた。脈動すら感じない。いつも胸に伝わってくるあの温かな律動りつどうが、凍りついている。こよいは巾着きんちゃくを手で包んだ。布は冷たくはない。けれど温かくもない。石畳いしだたみと同じ無温度。名前たちが自分の脈動を止めて、この静寂に身を潜めている。声を出せば見つかる。見つかれば消される。だから黙っている。

 灯籠とうろうだけが明滅めいめつし、時間の経過を示す唯一の指標になっている。その不規則なリズムが、心臓の鼓動こどうを同期させようとするかのように胸を圧おした。灯籠とうろうの火は蒼白い。炎が揺れていないのに、明暗だけが繰り返される。炎ではなく、光だけが存在している。

 久遠くおんの唇が動いた。

 声は聞こえなかった。だが言葉が届いた。音波ではない経路を辿たどって、意識に直接。義眼ぎがんの蒼光そうこうを媒介にして言葉を届ける術を、久遠くおんはすでに編み出していた。蒼光そうこうがこよいの目に触れた瞬間、久遠くおんの声が頭の中で響く。

 「ここでは音が伝わらない。静寂が概念がいねんとして空間を支配している」

 冷ややかな口調の裏に切迫感があった。目録もくろくの頁ページに触れているが、文字の輪郭りんかくが薄れ始めている。理ことわりの漂白ひょうはくが記された情報を侵食しんしょくしていた。頁ページの端はしから白が染みてくる。文字が消えるのではなく、文字があった場所そのものが白く塗り変わっていく。

 こよいは巾着きんちゃくを胸に押し当てた。脈動がない。沈黙している。名前たちまでがこの静寂に呑み込まれようとしていた。こよいは自分の心臓の音を探した。聞こえない。けれど胸の内側で拍動している感触はある。この場所は音を奪うが、振動までは奪えない。

 あさひが一歩踏み出した。

 石畳いしだたみが微かに軋きしんだ。音は聞こえない。だが振動は伝わった。あさひの足元から波紋はもんのように広がる振動が石を伝い、こよいの足裏に届いた。重い。あさひの体重と剣の重みが合わさった、太い振動だった。

 静寂の中に、小さな綻ほころびが生まれた。

 あさひの存在だけが、この静止の空間で明確な「動き」を保っている。理ことわりの強制に屈しないという、言葉以上の宣言だった。静寂を踏み破ることはできない。だが、静寂の中で動き続けることはできる。あさひはそれを、身体ひとつで証明していた。

 その振動が巾着きんちゃくに伝わった瞬間、名前たちが微かに——本当に微かに——脈打った。あさひの足音の振動に触発されて、二十五の名前のうち一柱ひとはしらが、他より先に目を覚ました。その一柱ひとはしらの脈動が隣の名前に伝わり、二柱ふたはしら、三柱みはしらと、連鎖的に温もりが戻っていく。

 こよいは巾着きんちゃくを抱えたまま立ち上がり、あさひの隣に並んだ。足音は聞こえない。だが石畳いしだたみに刻まれた二人の足跡が、確かにここを通ったという証あかしを残していた。

 おたまが二人の間へ歩み出た。小鈴は鳴らない。それでも前脚が石へ触れるたび、細い振動が足裏へ届く。重いあさひの歩みと小さな猫の歩みが交互に続き、露草苑つゆくさえんの無音の道に、聞こえない拍子を作った。

 久遠くおんが目録もくろくに短い線を引いた。文字ではなく、形だけを写すための線。この場所の名を書かず、気づいているふりもしない。漂白ひょうはくの侵食速度から逆算して、この場所に留まれる時間は長くない。線の太さが、久遠くおんの焦りを語っていた。

 南の方位ほういは黙っている。灯籠とうろうの蒼白い明滅だけが、沈黙ちんもくの底で時を刻んでいた。だからこちらも、黙ったまま進む。

 背中側の空気が薄くなっていく。駅名標の「露」の字から先に白く消え始めた。久遠くおんは苑の形と消える順序だけを線で残す。文字を書けば漂白に見つかる。だが三人と一匹の足裏は、ここが露草苑だったことをもう覚えていた。戻れなくなる前に、進む方向だけは決めなければならなかった。あさひの足が次の一歩を刻んだ。振動が石を伝わり、こよいの足裏から巾着きんちゃくまで、細い道を作った。声のない世界で、振動だけが三人を繋つないでいた。
 苑そのの名が白く消えていく前に、久遠くおんは、その形だけを線に写し取った。名は失われても、輪郭は連れていける。
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