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六章 裏切りと真実
歯がゆい再会
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◆ ◆ ◆
日差しが強まり、バルディグの城下街を包む冴えた空気の中に、ほのかに暖かな春の気配が混じる頃。
レオニードと浪司は庭師の親方に連れられ、ナウムの屋敷へと向かった。
「二人とも、あんまり硬くならなくてもいいぞ。ナウム様は気さくな方だから、多少は無礼な口を利いても笑って許してくれるからな」
恰幅のいい中年の親方は、大口を開けて笑いながら歩いていく。
親方を先頭にして門を潜ると、正面を迂回して裏側にある使用人の出入口から中へ入って行った。
薄暗く狭い通路を一列になって進むと、急に辺りが明るくなり、美しい庭園が目の前に広がる。
老人に扮した浪司が、「おおっ」と感嘆の声を上げてキョロキョロと見渡した。
「お屋敷の中にこんな立派な庭があるなんて、想像すらせんかったぞ。なあ?」
同意を求められ、レオニードは「俺もそう思う」と返事をしながら中の様子をうかがう。
庭園を中心に、四方へ廊下が伸びている。自然の光が辺りを照らしているが、廊下の奥までは届かず、薄暗くなっている。
南側の廊下の先には大きな扉が構えている。おそらく扉の向こうは正面玄関になるのだろうと、レオニードは頭の中で屋敷の地図を作っていく。
残り三方に伸びる廊下は、それぞれ突き当たりに部屋がある。
使用人の寝所だろうかとレオニードが考えていると、浪司がこちらの背中を叩いた。
「お前さんは庭師になりたてのヒヨっ子なんだ。花壇の手入れしながら、ワシらの仕事をよーく見ておけよ」
言いながら腰に挿していた剪定バサミを手に取ると、作業を始めた親方に寄っていった。
ここで突っ立っている訳にもいかない。レオニードは視線を下げて花壇を見渡すと、盛りを過ぎて萎れかかっている花を見つけ、剪定バサミで丁寧に摘み取っていく。
作業をしながらも中の間取りを確かめ、たまに通りかかる下男や侍女に怪しまれないよう、花の手入れも怠らない。
しばらくして、浪司が何本か開きかけの花を手にして侍女に話しかける。声は聞こえないが、せっかくだから部屋に花を活けたいと言っているのだろう。
すぐに侍女は表情をほころばせると、浪司を連れて南側の扉の向こうへと姿を消した。
(ここまでは予定通りだな。無事にみなもと会えればいいが……)
平然とした表情を作っていたが、気を抜くと不安が顔へ出そうになる。
少し作業に専念して、集中力を高めよう。
レオニードがそう思った矢先――。
「おい、ちょっと話がある。こっちに来てくれ」
忘れもしない男の声。
振り向くと、いつの間にか現れたナウムが、親方に声をかけながら手招きをしていた。
あの軽薄そうな顔を見るだけで、殺気が湧き出てくる。
殴り倒したい衝動に駆られながら、レオニードは深く息を吸い込み、自制心を総動員して荒ぶる心を抑えた。
彼らに背を向け、作業を再開させながら耳を澄ませると、ナウムと親方の会話を聞き取ることができた。
「何ですか、ナウム様?」
「いつもここの庭は、アンタに植える物を任せていたが……今年はいくつか注文をつけさせてもらいたい」
「そりゃあ構いませんが、急にどうなされたんですか?」
「実はな、やっとオレの大切な人をこの屋敷に連れてくることができたんだ。だから彼女が望む花を植えたいんだよ」
ナウムの大切な人? まさか……。
思わずレオニードの手が止まり、顔が強張っていく。
こちらの気も知らずに、親方が「おおっ」と嬉しげな声を上げた。
「良かったじゃないですか! ナウム様は女性の好みにうるさそうだから、どんな人を連れて来たのか想像つかんなあ」
「きれいな黒髪の美人さんだ。なかなか口説き落とせなかったが、最近になってようやくオレの元に来てくれた」
明らかにみなものことを言っている。
間違いなく屋敷内にいるのだと分かって嬉しく思う反面、既にナウムが彼女を恋人のように扱っていることが腹立たしい。
話を聞くほどに、怒りでボロが出そうになる。
しかし作業に集中しようとしても、レオニードの耳は勝手にナウムたちの会話を拾ってしまう。
「黒髪ってことは、東方の人ですなあ。あっちの女性は気立てがよくて穏やかな人が多いんですよね? 羨ましい限りですよ」
「いや……アイツは外面は良いが、かなり気が強い。怒らせたら怖い――」
ゴホン、とナウムが咳払いをして、おどけた声で話をしていると、
「一体誰のことを話しているんですか?」
疎らな足音と共に、女性の声が近づいてきた。
今まで馴染んできたものより少し高く、はっきりと女性だと分かる声。
聞いた瞬間、レオニードの鼓動が大きく跳ね上がった。
思わず我を忘れ、後ろを振り向く。
そこにいたのは、体の線がよく分かる白いドレスを見にまとった、長い黒髪の女性だった。
(みなも……なのか?)
一瞬、別人なのかと思ったが、顔立ちや雰囲気から彼女がみなもだと分かる。
髪はつけ毛をしているのだろう。凛とした表情で背筋を正したその姿は、つい最近まで男のフリをしていたとは思えない、清楚な貴婦人の佇まいだった。
天窓から注がれる光を浴びているせいか、彼女の一帯が輝いているように見えてしまい、思わずレオニードは目を細めた。
ナウムは薄く微笑むと肩を抱き、みなもを引き寄せる。
その手を払うどころか嫌がる気配も見せず、みなもはクスクスと小さく笑った。
「貴方が怒るようなことをしなければ、私は怒りませんよ。それとも、何か私が怒るような隠し事でもあるのですか?」
「ある訳ねぇだろ。やっとお前がここへ来てくれたのに、怒らせて逃げられるなんて嫌だからなあ」
彼女の髪を指で梳きながら、ナウムが顔を近づけて口づけようとする。
近づいてくる顔から逃げる素振りは見せず――間近になったところで、みなもは人差し指でナウムの唇に優しく当てた。
「人前で見せることじゃありません。二人きりでも、恥ずかしくて隠れてしまいたいくらいなのに……」
少し瞳を潤ませてから、みなもが恥ずかしそうに頬を赤くして目を伏せる。
あまりにも自然な、恋人へ向ける表情と恥じらいだった。
何か事情があって、ナウムを油断させるために演じているのだろう。
分かっている。みなもは己の心を隠すことが得意だ。だが――。
――本当に、これは演技なのか?
困惑するレオニードの前で、二人は親方を交えて談笑を始める。
ナウムに話しかけられる度、みなもは嬉しそうに微笑み、彼に熱を帯びた視線を送る。
事情を知らなければ、仲睦まじい恋人同士にしか見えなかった。
もう彼女の中に、自分の居場所はなくなってしまったのだろうか?
二人の間に流れる親しげな空気に、思わずレオニードは目を逸らそうとする。
けれど、みなもから視線を離すことができない。
胸の内は痛くなるばかりなのに、彼女を求める気持ちが溢れ出して止まらない。
今は少しでも長く、彼女の姿を見ていたかった。
みなもが親方に庭へ植える草花を伝え終わると、見計らったようにナウムが彼女の腰に手を回した。
「そろそろ部屋に戻ろうぜ。またチュリックの相手をしてくれ」
「分かりました。お相手させて頂きますね」
ナウムに促されて、みなもが踵を返そうとする。
その一瞬、漆黒の瞳がレオニードを捕らえた。
どこか虚ろで悲しげな眼差し――二人の姿が、一転して捕虜と看守のように映る。
これが本心なのかと悟った途端、レオニードは苦しげに目を細めた。
(……あと少しだけ耐えてくれ。君を自由にするために、俺たちはここへ来たのだから)
ゆっくりと離れていくみなもの背中を見つめながら、奥歯を強く噛み締める。と、
「まだ休むには早いだろ。怠けずに手を動かせ」
こちらに戻ってきた浪司が隣に並び、摘むべき花を手際よく取り始めた。
仕事に戻らねばと手を動かそうとするが、レオニードの目は最後までみなもを見ようとしてしまう。
ふう、と浪司は息をついてから、声にならない声で呟いた。
『みなもに手紙を渡した。今晩、ここへ忍び込むぞ』
待っていた朗報にレオニードは息を呑むと、わずかに頷き、顔を花壇のほうへと向ける。
夜になれば、また彼女に会える。その事実が止まっていた作業を再開させてくれた。
日差しが強まり、バルディグの城下街を包む冴えた空気の中に、ほのかに暖かな春の気配が混じる頃。
レオニードと浪司は庭師の親方に連れられ、ナウムの屋敷へと向かった。
「二人とも、あんまり硬くならなくてもいいぞ。ナウム様は気さくな方だから、多少は無礼な口を利いても笑って許してくれるからな」
恰幅のいい中年の親方は、大口を開けて笑いながら歩いていく。
親方を先頭にして門を潜ると、正面を迂回して裏側にある使用人の出入口から中へ入って行った。
薄暗く狭い通路を一列になって進むと、急に辺りが明るくなり、美しい庭園が目の前に広がる。
老人に扮した浪司が、「おおっ」と感嘆の声を上げてキョロキョロと見渡した。
「お屋敷の中にこんな立派な庭があるなんて、想像すらせんかったぞ。なあ?」
同意を求められ、レオニードは「俺もそう思う」と返事をしながら中の様子をうかがう。
庭園を中心に、四方へ廊下が伸びている。自然の光が辺りを照らしているが、廊下の奥までは届かず、薄暗くなっている。
南側の廊下の先には大きな扉が構えている。おそらく扉の向こうは正面玄関になるのだろうと、レオニードは頭の中で屋敷の地図を作っていく。
残り三方に伸びる廊下は、それぞれ突き当たりに部屋がある。
使用人の寝所だろうかとレオニードが考えていると、浪司がこちらの背中を叩いた。
「お前さんは庭師になりたてのヒヨっ子なんだ。花壇の手入れしながら、ワシらの仕事をよーく見ておけよ」
言いながら腰に挿していた剪定バサミを手に取ると、作業を始めた親方に寄っていった。
ここで突っ立っている訳にもいかない。レオニードは視線を下げて花壇を見渡すと、盛りを過ぎて萎れかかっている花を見つけ、剪定バサミで丁寧に摘み取っていく。
作業をしながらも中の間取りを確かめ、たまに通りかかる下男や侍女に怪しまれないよう、花の手入れも怠らない。
しばらくして、浪司が何本か開きかけの花を手にして侍女に話しかける。声は聞こえないが、せっかくだから部屋に花を活けたいと言っているのだろう。
すぐに侍女は表情をほころばせると、浪司を連れて南側の扉の向こうへと姿を消した。
(ここまでは予定通りだな。無事にみなもと会えればいいが……)
平然とした表情を作っていたが、気を抜くと不安が顔へ出そうになる。
少し作業に専念して、集中力を高めよう。
レオニードがそう思った矢先――。
「おい、ちょっと話がある。こっちに来てくれ」
忘れもしない男の声。
振り向くと、いつの間にか現れたナウムが、親方に声をかけながら手招きをしていた。
あの軽薄そうな顔を見るだけで、殺気が湧き出てくる。
殴り倒したい衝動に駆られながら、レオニードは深く息を吸い込み、自制心を総動員して荒ぶる心を抑えた。
彼らに背を向け、作業を再開させながら耳を澄ませると、ナウムと親方の会話を聞き取ることができた。
「何ですか、ナウム様?」
「いつもここの庭は、アンタに植える物を任せていたが……今年はいくつか注文をつけさせてもらいたい」
「そりゃあ構いませんが、急にどうなされたんですか?」
「実はな、やっとオレの大切な人をこの屋敷に連れてくることができたんだ。だから彼女が望む花を植えたいんだよ」
ナウムの大切な人? まさか……。
思わずレオニードの手が止まり、顔が強張っていく。
こちらの気も知らずに、親方が「おおっ」と嬉しげな声を上げた。
「良かったじゃないですか! ナウム様は女性の好みにうるさそうだから、どんな人を連れて来たのか想像つかんなあ」
「きれいな黒髪の美人さんだ。なかなか口説き落とせなかったが、最近になってようやくオレの元に来てくれた」
明らかにみなものことを言っている。
間違いなく屋敷内にいるのだと分かって嬉しく思う反面、既にナウムが彼女を恋人のように扱っていることが腹立たしい。
話を聞くほどに、怒りでボロが出そうになる。
しかし作業に集中しようとしても、レオニードの耳は勝手にナウムたちの会話を拾ってしまう。
「黒髪ってことは、東方の人ですなあ。あっちの女性は気立てがよくて穏やかな人が多いんですよね? 羨ましい限りですよ」
「いや……アイツは外面は良いが、かなり気が強い。怒らせたら怖い――」
ゴホン、とナウムが咳払いをして、おどけた声で話をしていると、
「一体誰のことを話しているんですか?」
疎らな足音と共に、女性の声が近づいてきた。
今まで馴染んできたものより少し高く、はっきりと女性だと分かる声。
聞いた瞬間、レオニードの鼓動が大きく跳ね上がった。
思わず我を忘れ、後ろを振り向く。
そこにいたのは、体の線がよく分かる白いドレスを見にまとった、長い黒髪の女性だった。
(みなも……なのか?)
一瞬、別人なのかと思ったが、顔立ちや雰囲気から彼女がみなもだと分かる。
髪はつけ毛をしているのだろう。凛とした表情で背筋を正したその姿は、つい最近まで男のフリをしていたとは思えない、清楚な貴婦人の佇まいだった。
天窓から注がれる光を浴びているせいか、彼女の一帯が輝いているように見えてしまい、思わずレオニードは目を細めた。
ナウムは薄く微笑むと肩を抱き、みなもを引き寄せる。
その手を払うどころか嫌がる気配も見せず、みなもはクスクスと小さく笑った。
「貴方が怒るようなことをしなければ、私は怒りませんよ。それとも、何か私が怒るような隠し事でもあるのですか?」
「ある訳ねぇだろ。やっとお前がここへ来てくれたのに、怒らせて逃げられるなんて嫌だからなあ」
彼女の髪を指で梳きながら、ナウムが顔を近づけて口づけようとする。
近づいてくる顔から逃げる素振りは見せず――間近になったところで、みなもは人差し指でナウムの唇に優しく当てた。
「人前で見せることじゃありません。二人きりでも、恥ずかしくて隠れてしまいたいくらいなのに……」
少し瞳を潤ませてから、みなもが恥ずかしそうに頬を赤くして目を伏せる。
あまりにも自然な、恋人へ向ける表情と恥じらいだった。
何か事情があって、ナウムを油断させるために演じているのだろう。
分かっている。みなもは己の心を隠すことが得意だ。だが――。
――本当に、これは演技なのか?
困惑するレオニードの前で、二人は親方を交えて談笑を始める。
ナウムに話しかけられる度、みなもは嬉しそうに微笑み、彼に熱を帯びた視線を送る。
事情を知らなければ、仲睦まじい恋人同士にしか見えなかった。
もう彼女の中に、自分の居場所はなくなってしまったのだろうか?
二人の間に流れる親しげな空気に、思わずレオニードは目を逸らそうとする。
けれど、みなもから視線を離すことができない。
胸の内は痛くなるばかりなのに、彼女を求める気持ちが溢れ出して止まらない。
今は少しでも長く、彼女の姿を見ていたかった。
みなもが親方に庭へ植える草花を伝え終わると、見計らったようにナウムが彼女の腰に手を回した。
「そろそろ部屋に戻ろうぜ。またチュリックの相手をしてくれ」
「分かりました。お相手させて頂きますね」
ナウムに促されて、みなもが踵を返そうとする。
その一瞬、漆黒の瞳がレオニードを捕らえた。
どこか虚ろで悲しげな眼差し――二人の姿が、一転して捕虜と看守のように映る。
これが本心なのかと悟った途端、レオニードは苦しげに目を細めた。
(……あと少しだけ耐えてくれ。君を自由にするために、俺たちはここへ来たのだから)
ゆっくりと離れていくみなもの背中を見つめながら、奥歯を強く噛み締める。と、
「まだ休むには早いだろ。怠けずに手を動かせ」
こちらに戻ってきた浪司が隣に並び、摘むべき花を手際よく取り始めた。
仕事に戻らねばと手を動かそうとするが、レオニードの目は最後までみなもを見ようとしてしまう。
ふう、と浪司は息をついてから、声にならない声で呟いた。
『みなもに手紙を渡した。今晩、ここへ忍び込むぞ』
待っていた朗報にレオニードは息を呑むと、わずかに頷き、顔を花壇のほうへと向ける。
夜になれば、また彼女に会える。その事実が止まっていた作業を再開させてくれた。
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