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帝都の大学

不香の花 Ⅱ

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 言葉の意味するところが、にわかには信じがたく、リュディガーは振り返るのを躊躇い、灰掻きを握りしめる。

 身体の血がふつり、と沸いた心地に戸惑いながらも、ひとつ呼吸を整えてから、ゆっくりと振り返る。

 視線があった彼女は、徐々に顔が赤くなっていき、炎の明かりで照らされたというにしては赤すぎるぐらいにまでなった。

 そして、キルシェは視線を断ち切るように、カップのお茶を一口勢いよく飲んだ。

「虫が良すぎるとはわかっているの。あんな酷いことを言って……貴方のせっかくの厚意を拒絶しておきながら、今更……」

 俯きながらでもキルシェが言葉を続けられるよう、見つめたままなるべく静かに動いて、灰掻きを置く。

「ただ、貴方を巻き込んでしまいたくはなくて……同情からでも、手を差し伸べてくれたことは、すごく感謝していたの」

「__同情などではない」

 驚きに彼女が目を見開いたのを見て、リュディガーは、気がつけばはっきりと否定していたことに気づいた。

 はっ、と我に返って一度口元を抑えるが、ままよ、と口を開く。

「たしかに、正直に言えば、同情はいくらかあった。だが、それが全部__それが動機じゃない」

 言って、立ち上がるリュディガー。

「求婚したのは、心の底から、君と離れたくはなかったからだ」

 叱咤するように、心臓が強く早く拍動しているのがわかる。

「ずっと、あのときの言葉を悔やんでいた。照れで、正直に言えなかったから……」

「照れ……?」

 リュディガーは、両手を握りしめて目を閉じ、短く息を吐いて気持ちを引き締めるとともに、改めてキルシェを見据え、歩み寄る。

 そして、彼女の前で片膝をつくと、驚く彼女を尻目に片手をとった。

 カップから伝わった熱もすぐに消え失せるほど、まだひやり、とするその手。

 白磁のような肌で、絹のようになめらかな手触りの手。

 もう触れることができないと思っていた手を、今自分は手にしている。

 そして、覗き込むような形で、彼女の顔を見上げた。

「__君を愛している。だから、求婚をしたんだ」

 何故か__否、気恥ずかしくて、それが言えなかった。

 __あの時しか、好機はなかったというのに……。

 あのとき、求婚した日。求婚したとき。

 もっと時間を掛けて距離をつめ、せめて彼女が卒業を迎えてから、色々と準備してから__そんなことを考えてもいた。だが、時間がなかった。

「森へ入っていく君を見て……今しかない、とそう思っていたというのに……」

 あの頃は彼女と顔を合わせる機会が、絶望的になかった。男女ともに使い、だいたい使う時間は同じであるはずの食堂でさえも。おそらく、避けられていたのだろう。どこかで話を__告げる機会を得たいと思っていたのに、だ。

 矢馳せ馬の候補を辞退した彼女と、候補のままの自分。鍛錬は増えたが、受けるべき大学の講義は変わらない。かなりきちきちに詰めた結果でもある。

 彼女の自主退学する期限が迫ることに加え、有閑階級出の彼女には、愛だの恋だの囁くほうが、現実を見ていない、と言われてしまうだろうとも思っていた。

 だからそれらしい、大人っぽい理屈を連ねて、説得のようなかたちを取った。

「戻ってきてくれるのなら、こんな願ったり叶ったりなことはない」

 うっ、とキルシェが息を詰め、みるみる目元が潤んで行くのが見えた。

「でも……すごく、迷惑をかけます。父はすごく面倒で……できれば、本当は、リュディガーには父の驚異に晒したくはないから……」

「かまわない。想像以上なのかも知れないが……どうとでもする。龍騎士の肩書が通用しないなら、拘る必要はない。ゲブラーに行ってもいいし、国を出て外国に新天地を求めてもいいだろう。__苦労をかけるのは、お互い様になるだけだ」

「でも、リュディガーのお父様が……」

「父のことも含めて、だ。大丈夫。それぐらい考えに考えて居たんだ」

 この手が駄目であれば、あの手。あの手が駄目なら__考えていないはずがない。

 リュディガーは、キルシェの手元からカップを取り上げて床に下ろすと、手を引いて抱きしめる。

「__君の覚悟に応えられる器量はある」

 ふっ、と嗚咽を堪えるように息を細く吐き出すキルシェ。

 抱きしめる華奢な身体は、本当に柔らかい。
 
 __こんな華奢な身体で、ずっと独り抗ってきた。

 これからは、自分がいる。

 安心してほしい、と今一度しっかりと抱きしめる。すると、彼女が嗚咽を漏らしはじめ、合間に震える声でありがとう、と言う。

 しばらくして、彼女が落ち着いたところで、リュディガーは腕の力を緩めた。

「キルシェ、君は大学は卒業してくれ」

「え」

「私は年が明けたら休学して、龍騎士に復帰する」

「どうして……」

 リュディガーは、苦笑を浮かべた。

「先立つものを確保しなければ。4年ぐらいか……状況によりけりだが、そのぐらいしたらまた暇をもらって大学へ復帰するが……まあ、別段、大学へ戻れなくなってもいいか、とも思っている」

「何故そんなことを言うの……?」

「君がいるなら、それで満足だからだ」

 キルシェは、目を見開いて首を思い切り振った。

「駄目よ、それは。あのね、リュディガー。私に卒業しろと言うのなら、貴方もよ。私も先生に相談して、卒業後は働きに出ますから。そうすればもっとはやく、確実に貴方は大学へ戻れるでしょう?」

 __だがそうなると、子供はかなり先送りになるな……。

 婚姻の先には、つきものと言っていいだろう。切っても切り離せないこと。健康な、相思相愛の夫婦なら、そう遠からずあり得る出来事。

 しかしそれは、落ち着いてから。少なくとも、自分が大学を卒業した後の方が生活の基盤は安定して、彼女も落ち着けるだろう。

 となると、彼女が働きに出てくれたとして、自分が休学から2年で戻れたとしても、4年は先__といった具合が理想か。

 そこまで考えていれば、目の前の彼女が愛しくなってもう一度抱きしめた。

 抱きしめた彼女は、驚きに身体を強張らせる。

「リュディガー?!」

「……もし祐筆の口がまだあれば、新年からは職場でも顔を合わすこともあるわけだな。それはそれで面白そうだ」

「え? ああ……そうですね」

「まあ、それはそれで、気を引き締めないとならないが。示しがつかない」

 くすり、とキルシェが笑う。

「そうね」

 新年と同時に復帰、そこで挙式__それが妥当だろう。

 それであれば、龍帝従騎士との婚姻となるから、こぢんまりとした挙式であっても箔がつくと言うもの。

 __彼女の養父には、さほど意味はないらしいが、それでも聞こえはいいはず。

 駆け落ち、とまではいかないが、了承を得ることが難しいというのであれば、なりふり構わず押し切っていくしかない。
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