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帝都の大学
不香の花 Ⅰ
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矢馳せ馬の鍛錬の帰りは、生憎と車に乗りそびれて歩きとなってしまった。
生憎、というのも、この日は稀に見るほど早い降雪で、くるぶし丈まで積もったのだ。
日もあまり顔を出さなかったため気温も上がらず、午後になっても雪は残っている。
その中を、舗装されていない三苑の道を歩いて、四苑の乗合馬車の乗り場までどうにか戻ってきたときには、足は冷え切ってしまっていた。
靴の中は濡れてはいないし、鍛錬後に浴びた入浴のお陰もあって身体もそこまでは冷えていないのだけは救いだった。
天気のせいだろう。人気が少ない乗合馬車の乗り場。その長椅子に歩み寄って、目的の馬車を待つ。
腕を固く組んで、長椅子へと腰掛ける。それほど絶たない内に、動かないとさすがに温まっていた身体も冷えを感じ始めた。
__あれから、もう一週間は経ったか。
あれ__人知れず、キルシェが大学を去ってしまった日。
その日、自分は矢馳せ馬の鍛錬で不在で、大学へ戻ってきてからキルシェ・ラウペンが去ったことを知った。
教えたのは、ビルネンベルク。
私室に呼び出され、君宛に残していった物だ、と言われて示された両手で抱えきれるかどうかという本や紙類、そしてインク。わかるようにしていく、と言っていたが、これほど残していくとは思わなかった。
ビルネンベルクが言うに、唐突な迎えで、それでも彼女は気丈にして素直に従い去ったらしい。
自分が求婚してから、彼女は日課である朝の弓射の鍛錬に現れなくなった。だからあの日以来、まともに会話を交わすことは愚か、顔さえ見ていなかった。
__不幸だと、決めつけないで。
未だに鮮明に蘇るその言葉。
「……そういうつもりはなかったんだが、な」
だが、思ってはいた。指摘されて、気付かされた。
はぁ、と白い息を吐き出して、その白い息の行方をぼんやり、と目で追う__とそこで人影が目に留まる。
他にも人はあったが、その人物に目が止まったのは、比較的薄着だったから。しかも本人は寒そうに身を抱えるようにしているものの、日があたる場所ではなく、どちらかと言えば日陰の目立たない場所に佇んでいるではないか。
怪訝にして、改めて意識をその人物へ向ける。
それは女性だった。
女性の目深にかぶったフードの中で、俯いていた顔が上がり__リュディガーは目を疑った。
わずかに見える銀色の御髪。
銀の御髪の女性の周囲を伺う視線と、リュディガーの視線が交わった。
視線が交わった女性は、不安げな顔から安堵したようなそれになる。そして、その安堵の顔には、次いで困ったような笑顔。
心臓がひとつ跳ねた。
__いや、まさか。馬鹿な。
女性が歩み寄ってくる。足早に。
徐々に近づく女性の周囲を伺う相貌は、影が降りているが、間違いなく紫。
リュディガーは思わず立ち上がりながら、周囲を見る。しかし彼女が目標としていると思われる人物は見当たらない。ならばやはり__。
目前というところで、その女性が短い悲鳴を上げて体勢を崩した。反射的に手を伸ばしながら大きく踏み出すと、辛うじて腕を支えに使えた女性はどうにか転ばずに済んだ。
「ありがとうございます。滑ってしまって……」
「キルシェ、か……?」
緊張でやっと絞り出せた声。
「はい」
躊躇わず頷いて、女性は顔を上げた。
途端に、心臓が早鐘を打つ。
何故、何が、どうして__。
「あの、リュディガー。どこか、休めるところ__身を隠せるようなところはありませんか?」
「それなら……大学に__」
「駄目です、それは。私、逃げてきたので……」
逃げてきた__その言葉にリュディガーは、はっ、としてキルシェの手を取ってその場を離れようと踏み出すのだが、その手があまりにも冷えていて思わず足を止めて振り返る。
「いつから、居たんだ」
手袋もしていないから当然だが、彼女のなりから、本当に逃げてきたのかもしれない。
「2時間……ほどですか」
リュディガーは着ていた外套を脱いでキルシェに羽織らせる。
「そんな薄着で」
「ありがとうございます。__不自然に思われないようにしなければ……最低限で出てきたので」
改めて手をとって、自分の影でなるべく隠れるよう、抱えるようにして腕を小さい背へ回して進む。
目的地は、乗合馬車の乗り場から比較的近くの、それでいて安普請でない宿屋。通りから外れているものの、よく通りが見える建物だった。
まずは身体を温めるべき、と、宿の共同の湯殿へキルシェを連れていき、その出入り口で待つ。慌てず十分に温まってくるよう伝えていたが、待たせるのが悪い、と思ったようでさほど経たず彼女は出てきた。
そして宛てがわれた部屋へと戻り、キルシェが着ていた上着や靴を暖炉の前で乾かしにかかる。
お茶を淹れて、暖炉の前に椅子を運んで座らせた。
一口飲んだキルシェは、心底ほっとしたような表情でため息を零す。
「色々、ありがとうございます。今日はたしか矢馳せ馬の日だったように思って……あそこで待っていれば、会えるだろうと思っていたので、待っていて正解でした」
「__何があったんだ」
リュディガーも椅子を移動させて、着席した。
「……帝都から離れて行くにつれて、どんどん胸の中のしこりが大きくなっていくようで。__戻りたい、と……その思いが強くなって、宿を抜け出してきました。そこからは、帝都方面へ向かう荷馬車へ相乗りさせてもらって」
「大胆なことをする。女性が独りでそんなことをするなど」
いくら帝都に近づけば治安がよくなるとはいえ、彼女がしたことは無謀とも言えた。何の事件にも巻き込まれないとは言い切れない。
強姦未遂の事件を経験している彼女が、慎重さを欠いた行動にリュディガーは険しい表情になってしまう。
「わかってはいますが、これ以上、後悔したくない、と思って……あれを逃したら、もうない、と思えたの」
「……とにかく、無事に帝都までたどり着けてよかった」
リュディガーにすれば不本意な喧嘩別れのようなことをしていて、しかも彼女が去った日は見送れもしなかったというのに、たどり着いた帝都で、彼女が誰よりもまず自分を頼ったという事実に、リュディガーはすこしばかりこそばゆさを覚えていた。
「それで、これから、どうする__いや、君はどうしたいんだ? 私で力になれることがあれば、協力するが」
逃げてきた、と彼女は言っていた。
それを聞いて、自分は身を隠せる場所を__とりあえずであるが__提供した。ほぼ反射的であったが、最大限の協力はしようという決意と覚悟はできている。
問われた彼女は、暖炉の炎へ視線を移した。
その横顔。その口元は、強張って引き結ばれている。どこか思いつめているようにも、葛藤を抱えているようにも見え、リュディガーは静かにキルシェが考えを口にするのを待った。
「……私は、戻れますかね」
固く、それでいて小さく彼女は言葉を零した。
「大学へ戻るのは、どうにかなるだろう。先生にすぐにでも掛け合ってみれば__」
「大学もそうですが、そうではなくて……」
リュディガーの言葉を制するように、彼女が首を振る。
しかしながら彼女は俯いて、視線を手元のカップに落として口をつぐんでしまった。
リュディガーが声をかけようと口を開いたところで、小気味良い音を立て暖炉の炎が爆ぜ、ごとり、と薪の塊が崩れた。やや炎の勢いが落ちたのを見、リュディガーは席を立って、暖炉に歩み寄ると空気の巡りを改善させるために、手近な灰掻きで薪を動かしにかかる。
「__貴方のところへ、です」
背中にかかった言葉に、リュディガーは心臓がひとつ跳ね、思わず手元を止めてしまった。
生憎、というのも、この日は稀に見るほど早い降雪で、くるぶし丈まで積もったのだ。
日もあまり顔を出さなかったため気温も上がらず、午後になっても雪は残っている。
その中を、舗装されていない三苑の道を歩いて、四苑の乗合馬車の乗り場までどうにか戻ってきたときには、足は冷え切ってしまっていた。
靴の中は濡れてはいないし、鍛錬後に浴びた入浴のお陰もあって身体もそこまでは冷えていないのだけは救いだった。
天気のせいだろう。人気が少ない乗合馬車の乗り場。その長椅子に歩み寄って、目的の馬車を待つ。
腕を固く組んで、長椅子へと腰掛ける。それほど絶たない内に、動かないとさすがに温まっていた身体も冷えを感じ始めた。
__あれから、もう一週間は経ったか。
あれ__人知れず、キルシェが大学を去ってしまった日。
その日、自分は矢馳せ馬の鍛錬で不在で、大学へ戻ってきてからキルシェ・ラウペンが去ったことを知った。
教えたのは、ビルネンベルク。
私室に呼び出され、君宛に残していった物だ、と言われて示された両手で抱えきれるかどうかという本や紙類、そしてインク。わかるようにしていく、と言っていたが、これほど残していくとは思わなかった。
ビルネンベルクが言うに、唐突な迎えで、それでも彼女は気丈にして素直に従い去ったらしい。
自分が求婚してから、彼女は日課である朝の弓射の鍛錬に現れなくなった。だからあの日以来、まともに会話を交わすことは愚か、顔さえ見ていなかった。
__不幸だと、決めつけないで。
未だに鮮明に蘇るその言葉。
「……そういうつもりはなかったんだが、な」
だが、思ってはいた。指摘されて、気付かされた。
はぁ、と白い息を吐き出して、その白い息の行方をぼんやり、と目で追う__とそこで人影が目に留まる。
他にも人はあったが、その人物に目が止まったのは、比較的薄着だったから。しかも本人は寒そうに身を抱えるようにしているものの、日があたる場所ではなく、どちらかと言えば日陰の目立たない場所に佇んでいるではないか。
怪訝にして、改めて意識をその人物へ向ける。
それは女性だった。
女性の目深にかぶったフードの中で、俯いていた顔が上がり__リュディガーは目を疑った。
わずかに見える銀色の御髪。
銀の御髪の女性の周囲を伺う視線と、リュディガーの視線が交わった。
視線が交わった女性は、不安げな顔から安堵したようなそれになる。そして、その安堵の顔には、次いで困ったような笑顔。
心臓がひとつ跳ねた。
__いや、まさか。馬鹿な。
女性が歩み寄ってくる。足早に。
徐々に近づく女性の周囲を伺う相貌は、影が降りているが、間違いなく紫。
リュディガーは思わず立ち上がりながら、周囲を見る。しかし彼女が目標としていると思われる人物は見当たらない。ならばやはり__。
目前というところで、その女性が短い悲鳴を上げて体勢を崩した。反射的に手を伸ばしながら大きく踏み出すと、辛うじて腕を支えに使えた女性はどうにか転ばずに済んだ。
「ありがとうございます。滑ってしまって……」
「キルシェ、か……?」
緊張でやっと絞り出せた声。
「はい」
躊躇わず頷いて、女性は顔を上げた。
途端に、心臓が早鐘を打つ。
何故、何が、どうして__。
「あの、リュディガー。どこか、休めるところ__身を隠せるようなところはありませんか?」
「それなら……大学に__」
「駄目です、それは。私、逃げてきたので……」
逃げてきた__その言葉にリュディガーは、はっ、としてキルシェの手を取ってその場を離れようと踏み出すのだが、その手があまりにも冷えていて思わず足を止めて振り返る。
「いつから、居たんだ」
手袋もしていないから当然だが、彼女のなりから、本当に逃げてきたのかもしれない。
「2時間……ほどですか」
リュディガーは着ていた外套を脱いでキルシェに羽織らせる。
「そんな薄着で」
「ありがとうございます。__不自然に思われないようにしなければ……最低限で出てきたので」
改めて手をとって、自分の影でなるべく隠れるよう、抱えるようにして腕を小さい背へ回して進む。
目的地は、乗合馬車の乗り場から比較的近くの、それでいて安普請でない宿屋。通りから外れているものの、よく通りが見える建物だった。
まずは身体を温めるべき、と、宿の共同の湯殿へキルシェを連れていき、その出入り口で待つ。慌てず十分に温まってくるよう伝えていたが、待たせるのが悪い、と思ったようでさほど経たず彼女は出てきた。
そして宛てがわれた部屋へと戻り、キルシェが着ていた上着や靴を暖炉の前で乾かしにかかる。
お茶を淹れて、暖炉の前に椅子を運んで座らせた。
一口飲んだキルシェは、心底ほっとしたような表情でため息を零す。
「色々、ありがとうございます。今日はたしか矢馳せ馬の日だったように思って……あそこで待っていれば、会えるだろうと思っていたので、待っていて正解でした」
「__何があったんだ」
リュディガーも椅子を移動させて、着席した。
「……帝都から離れて行くにつれて、どんどん胸の中のしこりが大きくなっていくようで。__戻りたい、と……その思いが強くなって、宿を抜け出してきました。そこからは、帝都方面へ向かう荷馬車へ相乗りさせてもらって」
「大胆なことをする。女性が独りでそんなことをするなど」
いくら帝都に近づけば治安がよくなるとはいえ、彼女がしたことは無謀とも言えた。何の事件にも巻き込まれないとは言い切れない。
強姦未遂の事件を経験している彼女が、慎重さを欠いた行動にリュディガーは険しい表情になってしまう。
「わかってはいますが、これ以上、後悔したくない、と思って……あれを逃したら、もうない、と思えたの」
「……とにかく、無事に帝都までたどり着けてよかった」
リュディガーにすれば不本意な喧嘩別れのようなことをしていて、しかも彼女が去った日は見送れもしなかったというのに、たどり着いた帝都で、彼女が誰よりもまず自分を頼ったという事実に、リュディガーはすこしばかりこそばゆさを覚えていた。
「それで、これから、どうする__いや、君はどうしたいんだ? 私で力になれることがあれば、協力するが」
逃げてきた、と彼女は言っていた。
それを聞いて、自分は身を隠せる場所を__とりあえずであるが__提供した。ほぼ反射的であったが、最大限の協力はしようという決意と覚悟はできている。
問われた彼女は、暖炉の炎へ視線を移した。
その横顔。その口元は、強張って引き結ばれている。どこか思いつめているようにも、葛藤を抱えているようにも見え、リュディガーは静かにキルシェが考えを口にするのを待った。
「……私は、戻れますかね」
固く、それでいて小さく彼女は言葉を零した。
「大学へ戻るのは、どうにかなるだろう。先生にすぐにでも掛け合ってみれば__」
「大学もそうですが、そうではなくて……」
リュディガーの言葉を制するように、彼女が首を振る。
しかしながら彼女は俯いて、視線を手元のカップに落として口をつぐんでしまった。
リュディガーが声をかけようと口を開いたところで、小気味良い音を立て暖炉の炎が爆ぜ、ごとり、と薪の塊が崩れた。やや炎の勢いが落ちたのを見、リュディガーは席を立って、暖炉に歩み寄ると空気の巡りを改善させるために、手近な灰掻きで薪を動かしにかかる。
「__貴方のところへ、です」
背中にかかった言葉に、リュディガーは心臓がひとつ跳ね、思わず手元を止めてしまった。
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