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①メイド喫茶で地獄の訓練~厨房でカミングアウト~疑念~目覚めたら、そこは男の園

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第1話 メイド喫茶で地獄の訓練

〈キャラメル・フェアリー〉と記された重厚かつ、きらびやかな装飾が施されたドア。

そこを開けると、可愛らしいメイド服に身を包んだ女の子達が一斉に僕を見る。

そして、にこやかに元気よくご挨拶。

「お帰りなさいませ! ご主人様」

さあ、地獄のレッスンの始まりだ――


僕がドアの前で所在さなげに、いや、正確には顔面蒼白で立っていると、メイド嬢が笑みを浮かべてやって来て、席へと案内する。

「どうぞこちらへ」

「……どうも」

何度来ても慣れない。
猛烈に居心地が悪い。

出来ることなら踵をかえして逃げてしまいたい。

来るたびに増えるポイントは、すでに千円以上のクーポン券になっている。

いつも頼むメニューに、お決まりの席。

そう。僕はこのメイド喫茶の常連客。

だが決してお楽しみで来ている訳ではない。

のっぴきならない事情があり、その「訓練」のために、ここへ通っているのだ。


一か月前のこと。

「誠。お前、付き合ってる人、いるか」

父がいつになく真面目な顔で聞く。
その横には、同じく神妙な面持ちの母。

「いや。いないけど」

なんだ、唐突に。
訝りつつ、警戒する。


僕の職場は祖父が興した、笹山電気工事株式会社。

中小企業規模の会社で、現在、祖父は引退して会長となり、父が社長を引き継いでいる。母は経理兼、専務。

僕は実家と職場が同じなのが正直面倒で大学卒業と同時に部屋を借りて家を出ていた。


そんな状況の夜七時、社長室。

他の社員は皆、帰っている。
よって社内には父と母、そして僕だけ。

そうして先述の質問だ。

「よかった。じゃあ、お前、結婚しろ」

「はあ?」

「松田電材の娘さん、知ってるだろ」

「知ってるけど、会ったことないよ」

「お母さんね、このお話、とってもいいと思うの」

不自然なつくり笑顔でこちらを見る。

「でな、式場もおさえた。挙式は三か月後の九月十日。場所は駅前のホテル」

父もそこでたたみかける。

「ちょ、ちょっと待ってよ! 何でそんなこと、勝手に決めるんだよ!」

「いいじゃないか。お前も今年で二十五だろ。そろそろ身をかためて、孫の顔を見せろ」

「嫌だ! 断る。何でもかんでも一方的に決めるな」

ノートパソコンの入ったバッグを乱暴に掴み、僕は正面玄関へ歩き出した。

冗談じゃない。

激しい怒りと、猛烈な嫌悪感がこみ上げる。

「誠っ」

後ろで父が呼び止める。

「とにかく嫌だからね。絶対に結婚なんてしないから。じゃ、帰る」

ドアノブに手をかけながら、振り向かずに言う。

「おい待て。ちょっと話を聞け」

「何言ったって無駄だよ。この話、聞かなかったことにするから」

「会社のためだ。お前だって、知ってるだろう? 資金繰り、去年から厳しいのは」

「……」

「うちが生き残るにはこれしかない。社員を路頭に迷わせるわけにはいかないんだ」

「では父さんは、そのかわり僕の人生を犠牲にしても平気なんだ」

「そんなことない。お前より年齢は上らしいが、いいお嬢さんらしいぞ。なあ、母さん」

「え? ええ。誠のお嫁さんに、ぴったりだと思うわ。きっと」

年上? らしい? きっと?

つまり、二人とも本人に会ったことがないわけだ。

無責任にもほどがある。
家畜の交配じゃないんだぞ。

「松田社長も、休日は部屋に籠もってばかりの娘に気を揉んでてな。そこでお互いの意見が一致してな」

「じゃあ僕の意見はどうなるんだ。それに、あっちの娘さんだって可愛そうだろう。知っているとはいえ、面識ないんだよ。お互い」

「うるさい! あっちが乗り気なんだ。資金も株券も受けてくれると言ってくれたんだ。今更ひっくり返す訳にもいかんだろう」

父は、ここまで僕が抵抗するとは思っていなかったらしい。

大学の専攻も、今まで全て親の言う通りにしてきたからだ。

「とにかく式は三か月後の九月十日だ。それと、新居はここだ。お前、すぐに帰って来い。倒産か存続かはお前一人にかかってるんだ。いいな、分かったな!」

想定外の反抗に激怒した父がそう怒鳴りつけ、母も、

「分かったわね、誠。お父さんの言う通りにするのよ。あなたの幸せのために、そうしているんだからね」

と、同調する。

嘘を言うな。
会社の幸せのためだろう。

跡取りの長男に生まれたのが、心の底から疎ましかった。


翌日。

幼なじみの佐藤と連絡を取り、昼食を取りがてら相談――というか、泣きついたに近い。

佐藤は、僕の「気質」を知っている。

「男にしか恋愛感情が持てない」ということを。

高校時代、男子校に通っていた佐藤は、「そのような人達」と普通に机を並べていたので違和感なく受け入れて、もちろん誰にも言わないでおいてくれた。

実際、この男も「その気」がないのに音楽室で後輩に愛を告白されたり、バレンタインデーには手作りチョコレートを真顔で贈られた経験がある。

そんな佐藤も今は証券会社に勤務して、同じ課の女性と結婚を前提に付き合っている。

願わくば、そんな人生を僕も歩みたかった。

「で、笹山はどうしたいのだ」

「それが分からないから、お前を呼んだんだ」

「会社を取るか、自分の人生を取るか、迷っていると」

「うん。じいちゃんが興した会社を潰したくない。しかし……」

「女は、無理」

「うん」

「でも、親には断ったんだろう? ちゃんと」

「もちろん。でも、全てが勝手に動いてしまっている。もう、打つ手はない」

どうにかして逃げる方法はないか、それだけが頭の中をぐるぐると回っていた。

「笹山。それ、逆手にとれないか」

「逆手?」

「そうだ。お前、このままずっとまわりに嘘ついて独身を貫くこと、出来るか」

「それは……」

とても大変で、考えるだけでもうんざりする。

もともと嘘をつくのが下手。
それよか嘘をつくこと自体が嫌いだ。

「この結婚を隠れ蓑にしろ。そして早々に三行半を突きつけてもらえ」

「ええっ?」

「どうせ人権無視の政略結婚だ。それに離婚歴があれば、自分には向いてないからもう結婚しませんって言えば、世間も納得するだろう」

「でも、相手の女性は……」

とても気の毒に感じる。

「笹山。ハッキリ言うが、親の言いなりで、まともに話したこともないような男と平気で三か月後に結婚するような女、どう思う」

「どう思うって?」

意味が解らず聞き返す。

「オレなら、自分の人生を親や他人に利用させて平気な女なんて、絶対に願い下げだ」

「あ……!」

目からウロコが、ぽろりと落ちる。

逃げることばかり考えていて、そっちまで気がつかなかった。

「そんな自分の意見を持たない、ふらふ
らした奴と、お前は会社経営をしていけるのか?」

「……出来ない。無理だ」

会社は、頑張ろうと意志を持つ一人一人の協力で成り立つ。

信用出来ない、または意見を持たない人間は、確実に経営の足を引っ張る。

「なあ、笹山」

「なんだ」

「せめて結婚式は演技でもいいから乗り越えろ」

「うええ」

「お前が女と会話することすら嫌なのは百も承知だ」

「なら、どうすりゃいいんだ」

バージンロードを「珍装」して歩き、誓いの言葉、指輪の交換、キス。

想像しただけでも、ぞっとする。

「訓練しろ。その日だけでも我慢できるように。女の横に座って、べたべたしなくてもいいから、にこやかに会話できるようにしろ」

「だから、どうやって」

「メイド喫茶」

「なんだそれ」

「知らないのか。ウエートレスの女の子がメイドのコスプレをしてる飲食店だ」

「行くわけないだろ。そんなとこ」

「だから行け。サービスは店によって違うから、店員の方から話しかけてくる店を選ぼう」

「ううう。嫌だ。とても耐えられない。別の方法はないのか」

「ない。スナックやキャバクラは金がかかり過ぎる。通うには不向きだ。サービスもどぎついし」
「あー……」

頭を抱え、呻き声。

「しっかりしろ。オレが手伝ってやる。最初はついて行ってやる。それにオレも行ってみたいしな」

「なんだ。そっちかよ」

「まあ怒るな。それはオマケみたいなもんだ。でな、くじけそうになったら、いつでも連絡よこせ。そしてだな」

佐藤が声を潜める。

「結婚生活は何ごとにも淡泊で貫け。そうすれば離婚も時間の問題だ。新婚旅行も相手がシャワー浴びている間にビールでも引っかけて寝てしまえ。お前、酒に弱いんだから」

「……」

こんな経緯で、僕はメイド喫茶通いをしている。

二回目までは佐藤も付いて来てくれた。

なんとか慣れてきた僕を見て安心したのか、付き添いは終了。

慣れたといっても、妙にぎこちない、無愛想な客には違いない。


第2話 厨房でカミングアウト

「誠。テナントビルの照明が切れたらしい。ちょっと見てきてくれないか」

「はい」

両親とは結婚の件で決裂したままだが、仕事は別。

他の社員の目もあるので、お互い淡々と仕事をこなす。

部屋もあのままで、火災保険もわざと更新した。

絶対に実家になんぞ帰るものか。

「場所は、どこですか」

「駅前通りの、ほら、ちょっと変わった喫茶店。おれも、詳しくは知らないが」

「……!」

「店の名前はキャラメル・フェアリー。厨房の照明が点滅するそうだ。営業中だが、そのまま入って来て構わないって言ってたぞ」

まずい。非常に、まずい。

絶対にメイド嬢達は僕だと気が付くだろう。

まともに目も合わせず、「はい」「そうですね」しか言わない変な常連客だと。

平日の真っ昼間、作業服姿でキャラメル・フェアリーに入る。

首からは社員証とデジタルカメラ、手には小型の脚立。

案の定、メイド嬢達が僕を見て、大いに戸惑う。

この人、「常連」だけど、今回は「客」なのかと。

しかし躊躇したのは一瞬で、すぐにマニュアル通りの挨拶が飛んできた。

「おかえりなさいませ。ご主人様」

「笹山電気工事と申します。先ほどお電話頂きまして、厨房の照明の件でお伺いいたしました。店長様、いらっしゃいますか」

「あ――」

メイド嬢が言葉を失っている。

おかしな話だけど、仕事なら相手が男でも女でも平気。

それ以外は女というだけで具合が悪くなる。

作業服や社員証が一種のバリアになるのかもしれない。

しかし、やはり気まずい。

「しょ、少々お待ちくださいませ」

よどみなく営業トークをする僕に、びっくり仰天したメイド嬢が、小走りで厨房へ向かう。

他のメイド嬢も目が点になっている。

周りの客は、電気屋さんが来たのだなというふうで気にもとめない。

先ほどのメイド嬢が戻って来て、「店長は中です。どうぞこちらへ」と促す。

この店はいわば、「男の夢のゆりかご」だ。

むさ苦しい男性従業員は、その夢をぶちこわしてはいけない。

だから店内には出てこないのだろう。

きっと経営者は、年配のオッサンなんだろうな。


「店長の上杉です。よろしくお願いします」

厨房に入ると、その男性は愛想良く挨拶し、僕に名刺を渡した。


メイド喫茶  キャラメル・フェアリー
男性専科バー 花壇

店長 上杉 純一郎


「笹山電気工事の笹山です。よろしくお願いします」

僕も名刺を差し出すと、両手で深々と頭を下げながら受け取った。

まるでしっかりと教育された大手企業の営業社員のよう。

普通、この手の店に行くと、片手で名刺を受け取り、ぞんざいにポケットに突っ込むか、テーブルに放り投げるかのどちらかだ。

その上、経営者は予想に反して若い。

歳は三十代前半くらい。
スラリとした長身。

体型も、ただ痩せているのではなく、鍛えているのが分かる。

白いシャツ、黒の皮パン。
品のある、上質なメンズのネックレス。

指輪、ブレスレット。
そして黒のスタイリッシュなエプロン。

絵に描いたような飲食店経営者だが、態度が丁寧。

それにしても名刺に書かれている、「男性専科バー」って、なんだろう。

店員が全員イケメンで、客はメイド喫茶の逆で若い女性かな。

僕は酒が全くだめだから、そっちの世界は詳しくない。

「あの蛍光灯が点滅するんです。最初は蛍光管が切れたのかと思って、取り替えたんですけど直らなくって」

奥の方の蛍光灯を指さす。

それは不規則に点滅していた。
これはイライラするだろう。

「ああ、安定器がだめになったのかもしれません。今日は写真撮って、すぐに在庫を確認して交換に参ります。納期は分かり次第、連絡しますので」

てきぱきと写真を撮り、脚立に登って品番をメモする。

「なんだ。てきぱき動いて、すらすら話せるじゃないか」

脚立をたたんでいると、上杉さんが驚いたように言った。

「はい?」

「君、結構前から、この店に通ってくれているよね。最初はお友達と一緒で」

「う……ええ、まあ」

ばつが悪い。

メイド嬢に、かしずかれるのが趣味だと思われてるんだろうな。

「笹山くんと言ったね。今、時間あるかい」

「はい」

「じゃ、いつも注文してくれてるココアをご馳走するよ。そこのソファーに座って、待ってて」

狭い厨房フロアには、小さめの応接セットと事務机。

その机の上にノートパソコンと小型モニターが一台。

多分ここで打ち合わせや、バイトの面接をするのだろう。

上杉さんは慣れた手つきで作り始める。

上に乗せた生クリームの上に、ココアの粉で器用にハートを描く。

「舞台裏を見せて、夢を壊しちゃってゴメンな。パンケーキもオムライスも俺が全部作って、ケチャップやチョコソースで文字や絵を描いてるんだ。もう一人、パートさんがいて交代でやってる。今日は俺の出番なんだ。さあ、どうぞ」

そう言って、ニコニコしながら僕に差し出す。

「いただきます」

男に描いてもらったハート、全く違和感なし。

しかしそんなこと、口が裂けても言えません。

「机の上に、モニターがあるだろ」

「ええ」

「あれで店内を監視してるんだ。女の子の安全確保のためにね」

「そうなんですか」

「でも笹山君も知っている通り、ここに来る客はゲームやアニメが好きな、シャイで素直な子ばかりでね。トラブルなんて全然ないから助かってるよ」

商売柄か、初対面なのに気さくに話す。

僕も先ほどまでの気まずさが不思議と消え去っている。

単に男だからという理由もあるけれど。

「ねえ、ちょっと聞いてもいいかい」

「何でしょう」

「どうしてお店では、あんなにガビガビなんだい?」

「ガビガビ……」

「あ、気に障ったらゴメン。いつもモニターで見ているものだから」

事実だから、しょうがない。

「従業員の間でも有名なんだ。真っ青な顔して入って来て、死にそうな顔してココア飲んで帰っていくって」

それも事実だから、しょうがない。

「うちのサービス、一組の客に一人の従業員が付くだろ。最初の女の子、全然話が続かないから、途方にくれてさ」

「ああ……すみません」

「でも、笹山君はそれでもなぜか毎回来る。だからミーティングの時、彼が来たら全員がローテーションで担当しようと決めてね。もしかして好みの子となら、まともに会話するんじゃないかって」

「そこまでしてくれていたんですか」

「そうだよ。大切なお客さんだもの」

「でも……全員だめだったんですよね」

自虐的に、力なく笑う。

「そうなんだよ。新人もベテランも、年上も年下も見事に惨敗。ミーティングの議題に何度、君のことが上がったか」

「ごめんなさい。悪気はないんです。皆さん、一生懸命話しかけてくれました。優しい方ばかりで感謝しています。接客も素晴らしいです。何とお詫びしたらよいのか」

帰り道はいつも女の子から解放されてほっとするのと、無愛想にしか対応できない罪悪感で心の底から疲れ果てていた。

でも「訓練」は続けなくてはいけない。

されどこの不毛な日々に実はそろそろ嫌気がさしてきているのも事実。

挙式を何とかやり過ごしても次は同居。

じっと耐えて、三行半を突きつけられるまで待つしかない。

その地獄の日々をどう過ごす?

両家の親からは、孫をせっつかれるだろうし。

しかもいつ、解放されるのかも分からない。

逆に自分から離婚を切り出せば、婚家の怒りを買い、会社は間違いなく倒産。

真面目に考えれば考えるほど、この世から消えてしまいたくなる。

「そちらに非はありません。本当に、ごめんなさい」

深々と頭を下げる。

「素直な子だね。君は」

「え」

「何か理由があるのかな」

包み込むような暖かいまなざしで、こちらを見つめる。

「いえ、なにも」

「そうかな」

初対面なのに、心の隅々にまで行き渡るこの安らぎはなんだろう。

全てを話して楽になりたいと思ってしまう自分に激しく戸惑う。

「モニターの君は、幸せそうに見えなくてね」

どうしてこの人は、柔らかく僕の心に入り込んでくるのだろう。

「話してごらん」

そう言うと、何のためらいもなく、僕の頭を優しくなでた。

大きくて、あたたかい手で。

「う……」

涙がどっと溢れ、嗚咽がもれる。

ずっと一人で抑えていた苦しさの防波堤が一度に決壊してしまった。

「笹山君?」

「すみませんっ、失礼します」

慌てて席を立ち、足下の脚立を掴む。

「納期は後ほど連絡します。ココア、ごちそうさまでしたっ」

「待ちなさい」

「いえ。帰ります」

「このテナントは入口が一つしかない。そんな顔で満員の店内を歩くのかい」

涙は手でいくら拭っても止まらない。確かに、注目の的になってしまうだろう。

「やっぱり何か、理由があるんだね」

「……」

「言ってごらん。誰にも言わないから」

「でも」

「心配しないで。料理のオーダーはパソコンで入って来る。従業員は入って来ない」

「ですが」

「いいから。座って」

ポケットからハンカチを取り出して僕の涙を拭く。

とても、自然に――
  

僕は大泣きしながら、ことの顛末を話した。

自分でも、信じられない。

今日、会ったばかりの人間に、男しか愛せないと告白するなんて。

しかも偽造結婚の計画まで話すとは。

もう、この街に、いられない。
よりによって、相手は飲食店経営者。

店の客に笑い話のネタを提供したようなものだ。

でも、言わずにはいられなかった。
この人の、不思議な雰囲気に。


「俺もだよ」

上杉さんは、ケロリと言った。

「え?」

「俺も女、だめなんだ。だから、さっさと親に言った。で、サクッと勘当」

「なんと……!」

「俺も長男でさ、激怒したオヤジに花瓶でぶん殴られて流血。今でも傷、残ってるよ」

前髪をかきあげて、額にうっすらと残る傷を見せた。

「笹山君、ごちゃごちゃにならないうちに正直に言った方がいいよ」

「でも、会社の存続が」

「君の人生の存続は、どうでもいいのかい」

「う……」

「笹山君の訓練、ハッキリ言って無駄だと思う。アドバイスをしてくれたお友達には悪いけど」

そんなの、自分でも最初から分かっている。

「どうにもならないんです。上杉さんは事業を成功させてるから勝手なことを言えるんです。こっちは社員を守らなきゃいけないんです!」

脚立を抱え、乱暴に立ち上がる。面と向かって否定され、猛烈に腹が立つ。

もう嫌だ。

これ以上痛いところを突かれたくない。
やっぱり話すんじゃなかった。

「笹山君」

「何でしょう。ちゃんと工事はしますから、ご心配なく」

「今度、もう一つの俺の店へおいで。花壇の方」

「いいえ。僕、お酒飲めませんので。では、失礼します」

誰が行くか。

女が男性店員を目当てに、ウジャウジャたむろする店なんて。

考えただけでも背筋がざわっとする。

ここにも来たくないが、式と同居のためにも「訓練」は必要。

しかし、その「訓練」が無駄なら、どうすりゃいいんだよ。

ああ、くそっ!

うつむきながら足早に店内を進み、入り口に突進。

後ろ手でドアを閉めたら、また涙。
悲しいのと、悔しいのと、情けなさで。


会社に戻り、納期と見積を店へファックスすると、上杉さんから直に僕のスマホへ連絡が入った。

渡した名刺には会社の電話番号とメルアド、そして個人のスマホの電話番号が印刷してある。

大半のお客さんは、遠慮して会社の方へ電話をかけてくるのが普通。

あんな帰り方をした僕へ、何ごともなかったように明るく話す。

「設置は出来るだけ早く頼むね。点滅が激しくなっちゃってさ。それから、金額もあれでオーケーだよ」

「承知いたしました」

「あのさ、笹山君」

「はい」

「ご両親には言ったのかい」

「……言えるわけないでしょう」

ムッとして答える。

「じゃあ、訓練は続けるんだ」

「ええ。でも」

「でも、なんだい?」

「そちらの従業員さんに不愉快な思いをさせたので、お店を変えようかと」

「そんなこと気にしなくていい。気軽においで。訓練とか、そういうの別にしてさ」

「はあ」

「女の子との会話に疲れたら厨房においで。今度はミルクティー、ご馳走するから」

「……ありがとうございます」

「君は好青年だよ。この世界の人間は辛いことがありすぎて、ひねくれてしまう人が多いんだ。でも、君は真っ直ぐだ。素晴らしいよ」

「そんなもんでしょうか」 

これから派手に、ひねくれる予定ですけどね。


第3話 疑念

二日後。

メーカーから、注文していた照明機器が届いた。

もちろん、松田電材経由。

窓から松田社長が軽トラで配送に来たのが見える。

お互い中小企業だから、社長といえども作業服を着て、現場や配送作業は当たり前。

けれど顔をあわせたくない。

社長がいなくなってから倉庫に行き、キャラメル・フェアリーへ設置に行こう。

十分後、僕は倉庫へ向かった。

「!」

なんとまだ松田社長がいる。

咄嗟に山積みの資材の影に隠れ、息を潜めた。

松田社長は倉庫の中を探るように見回している。

次にデジタルカメラをズボンのポケットから取り出し、倉庫内とその周辺を細かく撮影して、足早に立ち去った。

多分、その足でうちの会社に顔を出すのだろうが――なぜ写真を撮るのだろう。


「誠、誠! こっち来い」

やっぱり捕まった。

駐車場で車に脚立を運び込んでいる所へ窓から父が手招きしているのが見えた。

しぶしぶ会社に戻ると、松田社長が応接セットのソファーに座っている。

「新郎と新婦の顔会わせで、食事会をやろうと思ってな」

「はあ」

「今度の土曜日、駅前のホテルで十二時な」

「……」

「楽しみだわ。何着ていこうかしら」

母が、はしゃいで言う。

「お前の結婚式じゃないんだぞ」

そう言いつつ、父も上機嫌。

「いえいえ、奥さん。ドレスアップして来てくださいね」

「あらあ、どうしましょう」

僕を置き去りにして、三人は大いに盛り上がっている。

何でも親同士で決めてしまうなんて、僕達は繰り人形なのか。

あっちのご令嬢とやらは、どう思っているんだろう。

「では、配送と設置に行きますので」

「おう、ご苦労さん。先方のお客さんに失礼のないようにな」

「……はい」

もう、父親きどり。

それにしても、なぜ倉庫を撮影していたんだろう。

とても、気になる。



「お帰りなさいませ。ご主人様」

「いえ客ではありません。笹山電気工事です。厨房の照明の交換に参りました。店長様は、いらっしゃいますか」

「はい。どうぞ、こちらへ」

メイド嬢達は別人のような僕に、もう驚かない。

上杉さんがミーティングで周知させたのだろう。

どんなふうに周知させたのか、心配ではあるが。

「失礼します」

「お、来た来た。工事終わったら、約束通りミルクティー、ご馳走するからね」

先日の電話の時と同じく、僕の失礼な態度などなかったような笑顔。

不思議な人だ。

普通なら、怒るのではないか。

担当者を変えろとか、クレームが出るはずなのに。

「おかまいなく。では早速、交換いたします」

脚立に乗り、黙々と機器を交換。
そして動作試験。

手を動かしている時は気が紛れる。

でも今は、とてつもなくテンションが低い。

今度の土曜、恐怖の食事会。

ここまできたら、もう逃げられない。
その次は衣装合わせ、式の打ち合わせ、招待状発送――

大声で叫び出しそうだ。

「笹山君、元気ないね」

「ええ」

「どうしたの」

「今度の土曜日、両家顔合わせの食事会で」

「ほう」

「何でも勝手に決められて、反論すら出来ません」

「ふーん」

「この店で、猛特訓しなきゃいけませんよ。ははは」

もう、泣きそう。

「それなら笹山君も、勝手に決めちゃえばいいじゃないか」

「何をです?」

「決まってるだろ。トンズラさ」

こともなげにさらりと言う。

作業が終わり、テーブルにはミルクティーとレーズン入りのビスケット。

そして僕達は向かい合って座った。

「あの、さっきの話のトンズラって、食事会サボりって意味ですよね」

「そうだよ」

「できませんよ。そんな恐ろしいこと」

「会社の運命は分かるけどさ、あっちが離婚を切り出すまで、笹山君は何年待つつもりなんだい。そっちの方が恐ろしいと思うけど」

「それはそうですが」

「会社の社員構成、聞いてもいいかい」

「はい。祖父が会長。技術職の父が社長で、母が経理兼、専務。後の三人は技術職です」

「君は?」

「営業兼、技術職です」

「資格は」

「電気工事と、土木関係の資格をいろいろ」

「お父様や、他の技術職の方の資格は」

「僕よりも、たくさん持ってます。なんせベテランですから」

「それならやっぱり、俺はトンズラをお勧めする。強くね」

「なぜです」

「仮に会社が潰れても、社員が路頭に困るようには見受けられない」

「でも祖父の興した会社ですから、守らなくては」

「自分の人生は守らなくていいのかい」

「……」

「俺は、無責任に笹山君を煽っているんじゃない。妥協した末に、後悔している人をたくさん見てるんだ」

「後悔、ですか」

「ああ。離婚出来たのはいい方だ。最悪なのは隠し続け、死ぬまで世界一嫌いな人間を愛してるふりをする人生を送ることだ」

「死ぬまで……」

間違いなく、僕は後者の人生になるだろう。

「でも仮に、ですよ? 勘当されたら困るじゃないですか」

「勘当されたなら別の会社や別の土地で働けばいい。視野を広げなさい」

「失礼ですけど、上杉さんも勘当されたんですよね」

「そうだよ。でも親と同じ市内に住んでるよ。ここ、地元で」

「ええっ? 気まずくないですか。街とかで、バッタリ会っちゃいませんか」

「うん、会うよ。気まずくないと言えば嘘だけど、俺は自分を誇らしく思ってるから、いいんだ」

「僕、そこまで強くありませんから」

もそもそとビスケットを口に運びながらどんよりと卑屈な気持ちになる。

話が、堂々巡り。
そんな感じ。

でも、この瞬間も食事会が刻々と迫っている。

「笹山君の答えは、すでに出てるはず。ただ、実行に移す勇気がない」

「……その通りです」

「でも、訓練と称して、この店に真っ青な顔して、ココアを飲みに通う勇気はある。俺の知り合いで、ここまでやれる強い奴はいなかった」

「馬鹿にしているんですか」

「違うよ。褒めてるんだ」

真っ直ぐに僕の目を見て言う。

この人に見つめられると、何も言い返せない。

腹は立つけどまた話したくなる、謎に吸引力のある人だ。

そして――

松田社長の倉庫での行動が、今も心の隅で引っかかる。


第4話 目覚めたら、そこは男の園

悶々としている間に、もはや金曜の夜。

トンズラなんて、出来るわけがない。

明日は駅前のホテルで、両家揃ってのお食事会。

僕にとっては人生における、終わりの始まり。

破滅への行進曲が、頭の中を鳴り響く。

今日も「義理の父」がやって来て、社内をわが物顔で闊歩していた。

うちの株券の大半を買い取り、運営資金の援助もするから、態度がどうしてもそうなる。

松田社長が来るたび、父も母もご機嫌をとるようになった。

何でもかんでも迎合して、愛想笑い。

松田社長が「カラスは白い」と言えば、ハイその通りと答える勢い。

他の社員達は何も言わないが、時々顔を見合わせている。

仮に会社が建て直せても、社内的に大丈夫なんだろうか。

自分は、この不安定な関係を維持しながら、この先、経営出来るのだろうか。

そして、先方の相手からは、よろしくとも何とも連絡がない。

こっちがしないのも悪いけど、あっちからもない。

毎日のように来る松田社長からも、令嬢についての話が出ない。

父の口から聞いた、「休日は、部屋に籠もりきりの人」としか知らない。

佐藤の言うように、意志のない人形なのか、極端な恥ずかしがり屋なのか。

家族共々、土曜日に会えるからいいと思っているのか。

あるいは意図的に隠していることがあるのか。

とにかく、寝よう。

起きていても、だらだらと悩むだけだ。
寝れば、悩まない。

だから早々にベッドへ潜り込んだ。

が、眠れない――

何度も寝返りを打っているうちに、ますます目が冴えてしまう。

時計は十一時三十六分。諦めて起きあがり、部屋の照明をつけた。

しばし、ベッドに座ったまま、ぼうっとする。

明日の食事会のことを考えるだけで、胃の辺りがムカムカする。

脇の下には、じっとりと悪い汗。

「あああああああ」

ため息とも、うめき声ともつかないものが口から漏れる。

今すぐにでも、女と結婚しなくていい世界へ逃げたい。

そんな所、あるわけないけど。

しばらくは、枕を抱いて縦になったり、横になったり。

けれどもとうとう、いたたまれなくなり立ち上がる。

ストレスからにじみ出た汗をシャワーで流し、シャツを着て、ジーンズを履く。

上着と財布、スマホをわしづかみにして外に出た。

もちろん、行く当てなどない。

しかし、あの部屋で鬱々としているよりは、ずっとマシ。

佐藤の部屋にでも行くか。

いや、あいつには彼女がいる。
金曜の夜だ。邪魔しちゃいけない。

僕の部屋は街中にあり、少し歩けば繁華街。

キャラメル・フェアリーも、その中にある。

まだ営業はしているが、とても「訓練」する気にはならない。

ふと、上杉さんの顔が胸に浮かぶ。

あたたかい手と優しい笑顔。
急に、なぜか話をしたくなった。

いや。待て待て。

「トンズラ推進者」と会っても、どうにもならない。

僕は今、とても弱っている。

だから「同じ気質の人」が恋しくなっているだけだ。

早まってはいけない。

迂闊にああいう人には、近寄っちゃいけないのだ。



居酒屋の赤提灯に目が行き、ふらりと入る。

お酒、全然飲めないのに。
でも、飲まずにいられるか。

カウンターでビール中ジョッキと枝豆。

メニューを楽しんで選ぶ精神的余裕もない。

案の定、ジョッキが真ん中まで行った頃には頭がクラクラ。
弱すぎるのも、ほどがある。

頑張って飲み干し、会計をすませて外に出た時には、すでに深夜一時。

さあ、次はどうする。

完全なる酔っぱらいだが、部屋には帰りたくない。

帰ったら、現実に引き戻されてしまう。

ふらふらと歩いているうちに、方向感覚を失って、自分がどこに居るのか分からない。

信号機の住所表示も、まともに読み取れない。

「あーあ。迷子になっちゃった」

ヒンヤリとした夜風が、火照った頬をなでる。

足が疲れて、通りがかりのビルの入り口近くに腰を下ろす。

「ここ、どこだろ」

眩い色とりどりのネオンをぼんやりと眺める。

そうしているうちに、睡魔が襲う。

「うえすぎ……さん」

無意識にその名前が口に出て、するすると眠りの闇へ落ちていった。


「んん?」

目を覚ますと、僕はソファーの上で横になっていた。

どこだ、ここは。

慌てて状況を把握しようと、無理して起きあがろうとする。

しかし頭がガンガンして、また横になってしまい、目を閉じた。

「起きちゃだめよ。まだお酒がぬけてないんだから」

「そうよ。そうよ。寝てなさい」

「ねえねえ。この眠り姫ちゃん、可愛いわね。チューしちゃおうかしら」

「だめよ。店長に叱られるわよ」

「んもう。冗談よ」

どこかのスナックだろうか。

ホステスとおぼしき人の会話が、近くで聞こえる。

しかし、どの声も野太い。

ほの暗く、静かにジャズが流れるその店には女の声がしない。

聞こえるのは男言葉の男の声と、女言葉の男の声。割合は七対三という感じ。

慈悲深い神様が僕に同情して、女のいない世界に連れて行ってくれたのか。

じゃあ、僕は、死んだのか。

いいや。
それならそれで。

明日の食事会、行かなくていいし。

結婚から解放されるのなら、なんだって大歓迎だ。

「大丈夫かい」

不意に、聞き覚えのある声がした。

重い瞼をゆっくりと開けると、上杉さんが微笑みながら見下ろしている。

「ビルの入り口で寝ていたんだよ。憶えているかい」

「……はて」

「ちょうど、買い物帰りに君を見つけてね」

「で、お姫様だっこされて、お店に登場したのよ。眠り姫ちゃん」

横にいた男性が、人懐っこく続ける。

「ああ……」

思い出した。

中ジョッキ一杯で泥酔して、右も左も分からなくなったんだっけ。

じゃあ、僕は生きてるのか。
残念。

「ここ、どこですか」

「俺の第二の店、男性専科バー、花壇」

そう言えば、もらった名刺に書いてあった。

女相手のホストクラブだと思っていたが何かが決定的に違う。

「もしかして、ここ――」

「そうだよ。女性禁制の店だ。男性同士の出会いの場でもある」

いぶかしげにまわりを見回す僕に、説明する。

「平たく言えば、俺と同じ気質を持って生まれた人達。君だってそうだろう」

「ち、違います! 明日、両家の顔会わせの食事会なんですから」

「では幸せなはずの花婿が、なぜその前日に泥酔して外で寝ているんだろうね」

「……」

「とにかく、水分取ってアルコールを出しなさい。酒が飲めないって言ってたのに、こんなになるまで飲んだんだ。そうしないと確実に二日酔いだぞ」

「いえ。僕、帰ります。ご迷惑かけて申し訳ございません」

どうにかして起きあがる。

しかし、足に力が入らず、すぐさま倒れそうになる。

「無理するな。ほんっとに強情っ張りだな、君は」

笑いながら素早く僕を抱きかかえ、またもとの場所に寝かせた。

「さすが、キャラメル・フェアリーへ訓練に通うだけの男だ」

「むうう」

恥ずかしさで言葉がでない。

「テーブルの上にスポーツドリンクを置いておくから飲みなさい。お菓子も食べていいからね」

「……すみません」

観念して、目を閉じた。

女がいない分、居心地はいい。
お言葉に甘えて少し休ませてもらおう。



目が覚めた時には、客の大半が入れ替わっていた。

腕時計を見ると二時半過ぎ。

体の調子はとても良くなっていて、今度は、すんなりと起きあがれる。
頭の中もスッキリしていた。

「おはよう。眠り姫さん」

僕の隣に見知らぬ男が座り、微笑みかける。歳は上杉さんより、かなり上。

「はあ、どうも」

「店長と、知り合い?」

「はい。チェーン店のメイド喫茶の補修工事をしまして、その縁で」

自分でもびっくりするほど、つらつらと言葉が出てリラックスしている。

キャラメル・フェアリーとは真逆だ。

「あのう、店員さんですか? 僕、ここに初めて来たもので」

「いえ。客です」

「そうですか」

「誰か、相手をお捜しですか」

「い、いえ! 上杉さんに偶然、路上で酔っぱらって寝てる所を助けてもらってここへ来ただけです」

「では、眠り姫さんには、彼女がいるのかな?」

すっかり僕は、ここでは「眠り姫」らしい。

「ええ……まあ」

彼女というか、近々偽装結婚予定。
正体不明の「彼女」だが。

「私はね、この店に来るのだけが楽しみなんです。あとは何もありません」

「え」

「本当はこうなのに世間体のために隠して結婚しました。これってね、地獄です。眠り姫さんには、こういうの、理解できるかなあ」

「……」

「夫婦生活が苦痛でたまらないんだ。意味、分るよね?」

「はい。けれど奥様は子供を欲しがるでしょう」

「ええ。だから、好きな男のことを考えながらしたんです。そしたら運良く出来まして」

「ああ」

身につまされる。

「子供は可愛いですよ。愛しています。でも、女はだめです。そばにいるのもしんどい」

男は淋しそうに小さく笑った。

「ここに来ると、本当の自分に戻れる。ありのままの自分を出せる。ここは私のよりどころです。他のお客もそうです。みんな、重荷を背負って生きているんです」

「そうなんですか……」

「どうか眠り姫さんは、幸せになってください。では」

男は丁寧に頭を下げると席を立ち、満員の立ち飲みフロアへと消えて行った。


「あの立ち飲みスペースはね、出会いの場なんだよ」

上杉さんが二人分のアイスレモンティーとビスケットを持って来て隣に座った。

「これキャラメル・フェアリーに出す試作品。ちょっと食べてみてくれないか」

「はい。いただきます」

スパイスのきいた生地に細かく刻んだクルミが入った、かなり薄いビスケット。

「どう?」

「美味しいです。でも――」

「でも?」

「あ、いえ! ごめんなさい。よろしいんじゃないでしょうか」

「ふふふ。素直だねえ」

愉快そうに僕を見る。

「率直な意見を聞きたいんだ。で、ホントの所はどうなんだい」

「……言っていいんですか」

「もちろん」

「スパイスで好みが別れてしまうと思うんです。女の子だったらそうでもないけど、男って結構味覚が保守的で。それに薄いからボロボロこぼれてしまいます。食べにくいものも嫌がるんです」

「ははは! 笹山君、客商売に向いてるよ。ここまで分析して的確に表現できるなんてすごいよ」

「生意気言って、すみません」

「いやいや。技巧に目が行きすぎて、危なくお客さんを置いてきぼりにする所だったよ。ありがとう」

「でも僕は好きですよ。この味」

「よかった。どんどん食べてくれ」

「さっき僕の隣に座った人、限りなく僕の将来の姿でした」

「ああ、彼ね。オープン当時からの常連なんだ。やっと居場所が出来た、救われたって、涙を流したんだよ。それを見て他のお客さんも泣いちゃってね」

「あの方、みんな重荷を背負ってるって言っていました」

「そうだよ。でも、君だってそうじゃないか」

「ええ」

今度は、すんなりと受け入れられた。

「あのさ」

「はい」

「そろそろ閉店なんだけどね」

「あ、では帰ります。おいくらになりますか」

「お金はいらないよ」

「それはいけません。たくさん飲んだり食べちゃったし」

「俺が勝手に君を連れて来たんだからいいんだよ。どうだい。この後、ドライブしないか」

「え、でも」

「どっちみち帰ったって悩むだけだろ」


閉店時間になり、客はカップルもシングルも、満足した顔で帰って行く。

「おやすみなさい。眠り姫ちゃん」

「またね。可愛い眠り姫」

「は、はい。おやすみなさい。気をつけて」

戸惑う僕に、みんなが親しげに声をかけていく。

先ほどの男も、にこやかに目配せして、「さあ、現実に戻る時間だ」と言う。

すると、近くにいた客も「シンデレラ気分ですよね」と笑う。

キャラメル・フェアリーが男のゆりかごなら、ここは僕達のような居場所のない男のゆりかご。

また来たい。
今度は客として。

交際相手を捜すとかではなく、ただそこに座っていたい。

オーダーがジュースでも、上杉さんなら笑って出してくれるだろう。

そうだ。

結婚したら、ここに来よう。

ささくれだった心が、ふんわりとほぐれていく。


「いい顔してるね」

運転しながら上杉さんが言う。

「え?」

「メイド喫茶でココア飲んでる時とか、仕事してる時とかと、全然違うよ」

「何て言ったらいいのか、魂の故郷に、ようやく戻った気分になりまして」

「そう言ってもらえると、店長冥利につきるよ」

「今日は偶然とはいえ、助けてくれて、ありがとうございました」

助手席で頭を下げる。

「どういたしまして。だって、俺の店が入っているビルの入り口で寝てるんだもん」

「ええっ! そうだったんですか」

「てっきり来てくれたのかと思っていたけど、単純に泥酔だったようだね」

「はい。中ジョッキで前後不覚になりまして」

「わはは。弱すぎ」

「あのう」

「なんだい」

「今度は客として行ってもいいですか。ジュースしか飲めないですけど」

「大歓迎だよ。眠り姫」

「どうやらそれ、定着しちゃたみたいですね」

「君、本当に記憶ないの? ビルの入り口から俺の店で目を覚ます間までの」

「はい。全くありません。僕、何か変なことしましたか」

「いや。してない」

「よかった」

「……そっか。残念だな」

「?」
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