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第10話

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 フロアの奥の一角が、電子ピアノの売り場だった。
 美しい木目調や見慣れた黒など、多種多様な製品が、ずらりと並んでいる。
 値段を見ると、量販店特有の大幅な値下げ後なのに、軽く僕の給料の数カ月分。これは無理、絶対に無理。
「藤沢君、こっちこっち」
 佐賀美さんが奥の方から手招きして僕を呼ぶ。
 そこには値段も安く、形もコンパクトな電子ピアノが数台あった。これなら予算内。楽勝で買える。
「どれがいい? 価格も機能もたいして変わらないから、あとは好みだよ」
「うーん……どれも同じに見えてしまうんで、佐賀美さんのお勧めのがいいです」
「ではこれにしようか。鍵盤数も十分だし」
 右端のものを指さす。
「はい。そうします」
 佐賀美さんのお勧めなら異議なし。しかもこの中で一番の安値。この点についても気を回してくれたらしい
「買ったらこのまま車に積んで、藤沢君の部屋で組立ててしまおう。そしたら、すぐに弾けるぞ」
「わあ。いいんですか? 部屋、散らかってますけど、速攻で場所を作ります」
 そう僕が大いに盛り上がっていると、突然、後ろの方から声がした。

「佐賀美? 佐賀美だよな」
 振り向くと、背広姿の男が立っている。
 先ほどから佐賀美さんを凝視していた男だ。
 年齢や身長は佐賀美さんとほぼ同じ。身に着けているものは見るからに高級品。
 そのうえ、全体的な雰囲気が佐賀美さんと似ていた。
「ああ、やっぱり佐賀美だ」
 嬉しそうに、でも、気まずそうに、その男は笑顔を見せた。
「碓井……」
 しかし佐賀美さんは、そうぼそりと呟くなり、露骨に嫌そうな顔をする。
「おいおい。久しぶりの再会なんだから、もう少しいい顔をしてくれたっていいだろう」
 碓井と呼ばれた男は苦笑する。でも、佐賀美さんの表情は硬いままだ。
「なあ、佐賀美。会った早々くどいようだが、本気で建設業界に骨を埋める気なのか。こっちへ戻って来る考えはないのか」
 作業服姿の佐賀美さんを苦々しげに見つめて聞く。
「何度もしつこい。俺が決めた事だ。お前には関係ない」
「それならどうして、そんな恰好で鍵盤の前にいるんだ。滑稽なくらい違和感があるぞ」
「そんな恰好? それは俺と部下に対する侮辱か。ふん。いい御身分だな。さあ、藤沢君。行こう」
 佐賀美さんは僕の腕を掴み、通路に向かって歩き出す。
「わわっ」
 僕は引っ張られた状態で佐賀美さんに続く。
「おい待てよ。少しぐらい話を――」
 碓井が後を追う。
「お前と話をしている時間はない。高瀬教授には、よろしく伝えておいてくれ」
 顔を前に向けたまま、佐賀美さんは進む。
「そんなにつれなくするなよ。近くでコーヒーでも飲まないか。相談もあるし」
 碓井が先回りして前を遮る。
「邪魔だ。どけ」
「なあ、佐賀美。お前、こんな中途半端でいいのかよ。あの程度で満足しているのかよ。本当は、もっと弾きたいんじゃないのか。もっと、出たいんじゃないのか」
「余計なお世話だ。他人のおせっかいより、自分の人生設計の心配でもしてろ」
「実はそこなんだよ、佐賀美。オレさ、いいかげん離婚したほうが、双方にとっていいのかなって最近、真剣に思うようになってさ」
「はあ? いきなり何を言い出すんだ。こんな場所で」
 佐賀美さんの右眉が上がる。
「あ、あの、佐賀美さん? 僕、一階でパソコンとか見てますんで……」
 内容がかなりディープになって来たので、僕はこの場から離れた方が良いと思い、小さな声で言う。
 けれど佐賀美さんは返事をせず、僕の腕もがっちりと掴んだまま離さない。
「だって佐賀美。お前は電話には出ないし、メールは無視するし、居留守も使う。今、話さなくていつ話せるんだよ。だからちょっと時間を作ってくれよ」
「嫌だね。今さらそんな相談されても迷惑だ。そういう事は高瀬教授に言え。お前の義理の父親に。お前の嫁さんの父親に言え。別れたいんですけど、いいですかって」
「それが言えないから、相談にのってくれって言ってるんじゃないか」
「くだらん。時間の無駄だ。率直に言えないのは下心があるからだ。教授になる、それがお前の野望だろう。あの時の、世間知らずの頭で絞り出した浅知恵の責任は最後まで自分一人で取れ。俺や周囲の反対を押し切って結婚したんだからな」
「でも、あそこまでバカな女だとは予想できなかったんだ」
「バカだろうが何だろうが、それが教授の椅子への最短のコースなんだと、お前が豪語してたんじゃないか。結婚式の前日、大はしゃぎしてたじゃないか」
「それはそうだが……でも、お前だってあの日――」
「今、准教授なんだってな。大学のホームページを覗いたら顔写真付きで載ってたぞ。願った通りの大出世じゃないか。おめでとう」
 佐賀美さんが碓井の言葉を強引に遮る。僕には聞かれたくない話のようだ。
「で、碓井よ。念願の教授への道は、あともう少しなんだから、頑張って不毛な夫婦生活を存分に楽しめばいいじゃないか。あんな泥人形でも、退屈な夜の暇つぶしには少しはなるだろう」
「……相変わらずだな。そのひねくれた物言いは。では、お前はどうなんだ。今の職場では、まともに人と関われて、充実しているのか。だがその毒舌なら、上手くいっているとは到底思えないけどな」
「人聞きの悪い事を言うな。現にこうして部下と一緒にいるだろう。前の会社も、現場を全て終わらせてから円満退社したんだ」
「円満? 嘘をつくな」
 碓井が鼻で笑う。
「何だと」
「お前が会社を辞めた経緯は建築科の卒業生から聞いてるぞ。後始末、大変だったそうじゃないか」
「な……!」 
 佐賀美さんの顔色が、見る間に真っ青になる。
「でもオレは、あの話については何とも思っていない。だから佐賀美、自分に正直になれよ。そしてオレと――」
「もういいッ! どけ!」
 とうとう佐賀美さんは碓井を肩で突き飛ばし、通路を突進し始める。
 僕も佐賀美さんに腕を掴まれているので、そのままついて行くしかない。
「佐賀美っ、おい、待て」
 呼び止める碓井を無視して、佐賀美さんは早足でレジを通り過ぎ、エスカレーターへと向かう。
 何が何だか全然分らないが、とんでもない修羅場に出くわしたのは間違いない。
 事実、佐賀美さんは激怒している。泣きそうな顔をして、激怒している。
 いつか見た、歪んだ音を出す鍵盤に触れた時と同じ顔で――
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