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第18話

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「すまんな。あともう少しだから」
 金曜日の朝、現場事務所へ向かう車の中で、佐賀美さんは運転しながら僕に言った。
「気にしないでください。それより練習は進んでいますか」
「ああ。なんとか間に合いそうだ」
 お互い寝不足で、あくびをかみ殺しながらの会話だ。
「よかったです。それと今さらなんですが、演奏会の場所と時間を教えてください。実はすっかり前売り券を買うのを忘れてまして。あるいは、当日券ってありますか」
 佐賀美さんを出演させる事ばかりを考えて、自分の席の確保をしていなかったのだ。
「後で教える。席もあるから大丈夫だ」
「よかった。入場できるのなら、立ち見でも、どこでもいいですから」
「立ち見? それは別のジャンルの音楽ではないかな」
 佐賀美さんが嫌そうに眉をひそめる。
 まずい。久しぶりに失言をやらかした。つい、学生時代に通ったセミプロのロックライブと同じノリで口走ってしまった。
「そ、そうですよね。全員総立ちで、拳を振り上げてモーツアルトってわけないですもんね。すみません。失礼しました」
「……」
 それから信号を三つ通り越す間、ずっと佐賀美さんは氷の沈黙。
 針のムシロ。空気が痛い。
「あの……佐賀美さん、怒ってます?」
「決して、いい気分はしないね」
「ごめんなさい。クラシック音楽の世界、全然詳しくなくて」
「……」
「物の言い方も、まだまだ勉強不足で、本当に申し訳ありません。努力して直します」
 助手席で僕は神妙に頭を下げた。

「ふふふ」
 激怒しているはずの人の方から、なぜかいつもの笑い声。
「嘘だよ。う、そ」
「は?」
「冗談だよ。藤沢君は、いつだって真面目だから、からかいたくなったんだよ」
「はあ?」
「全員総立ちで、拳を振り上げてモーツアルトか。いいなあ、その表現。そう言えばカラオケでも、そっち系の曲を派手に音程とリズムを外しながら歌うよね。あのジャンルが好きなのかい? 今度CD、貸してくれよ」
「佐賀美さんっ!」
 しかし事実なので、反論できないのが悔しい。
「まあ怒るな。悪かった。ごめんな」
 笑いながら、僕の頭に左手をのせる。
「藤沢君が、なぜ社内でも現場でも好かれるのか解るよ。それは素直だからだ。俺みたいに物事を斜に構えて、さらに捻じ曲げて解釈しないからだ」
「いえ、そんな」
「俺は良い後輩を持つことができて幸せだ。本当だぞ」
 そう言って、目を細める。これは機嫌がいい時の佐賀美さんのしぐさだ。
「……ありがとうございます」 
 僕は頬と耳を赤くして、そう小さな声で礼を言うのが精一杯。
 本当は、「あなたのような素敵な先輩に出会えて、僕もすごく幸せです」と、伝えたかったのだけれど。
 
 現場事務所に到着し、僕は車のドアに手をかけた。
「ちょっと待て」
 佐賀美さんが言う。
「はい?」
「藤沢様。どうぞお受け取りくださいませ」
 佐賀美さんが、うやうやしく茶封筒を僕に手渡す。
「何でしょう――あ!」
 その中には、演奏会のチケットが入っていた。
「僕の分、キープしておいてくれたんですね。お手数かけます。では今、お金を」
 だが、チケットに記されている日時と場所と料金を見た途端、固まった。
「ええっ? ここって、市内で一番大きなコンサートホール!」
「うん。そうだよ」
 事もなげに佐賀美さんは頷く。
 このホールは音響設備が完璧と評判で、収容人数も2千席以上の大型施設。
 オーケストラなどのクラシック系や、集客能力のある超実力派有名アーティストが使用する場所だ。
 しかも座席は真ん前、ど真ん中。値段も当然ながら高額だ。
「てっきり、こじんまりとした会場で演奏すると思ってたんですけど」
「だから俺は、時間も日数も足りないから嫌だって言ったんだよ」
「ああ……」
 素人の勝手な思い込みとはいえ、軽々しく出演してくれなどと言ってしまった自分に、今さらながら大後悔。
 でも、ひとまず支払いは済ませないと。
 いや、それ以前に、今、その分のお金はあるのか? 
 多方面で激しく混乱しながら財布を開く。すると、佐賀美さんが手で制した。
「お金はいらないよ」
「ですが」
「いいんだ。出演者からの招待だから。そこに俺のサインがあるだろう」
「え? サイン?」
 見ると、端の方に〈藤沢様へ。佐賀美より〉と書かれていた。そのうえ、印鑑まで押されている。
「だから、受け取ってくれ」
「……では、お言葉に甘えて、いただきます。ありがとうございます」
 高額な入場券と、佐賀美さんが背負うプレッシャーの両方を全身にずっしりと感じながら、心して礼を言う。
「日曜の十三時開演だが、無理しなくていいからな。残業続きで体も限界だろうし」
「いいえ。必ず行きます」
「そうか? でも、最前列で寝ると、えらく目立つぞ。しかも音響反響板がすぐそばだから、いびきをかいたら大恥をかくかもな」
 僕に向かって、ニヤリと笑う。
「絶対に寝ませんっ。これに備えて土曜日は早寝します!」
 言い出しっぺの本人が欠席や遅刻、ましてや居眠りなんかしたら、それこそ大ひんしゅく。
 とにもかくにも佐賀美さんの晴れ舞台、何があっても必ず行く!
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