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第28話
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「なあ、フジ」
「……はい」
「俺は出たかったから出たんだよ。これは俺の意思だ。俺が決めたんだよ」
佐賀美さんの両手が、僕の頬をそっと包み込み、顔を上げさせる。
「フジに見て欲しかった。聴いて欲しかった。俺の演奏を……俺の舞台を」
その言葉に、僕の目から涙がこぼれる。
「フジが見たいって言ってくれた時、俺は嬉しかった。だから決心したんだよ」
「でもあの時、嫌そうな顔をしてました」
「あれは演技だ。上司の見栄だ。部下に言われて、ハイ出ますって言えるかよ。フジに告白できなかった時と同じだ。俺は見栄っ張りなんだ」
そう言って、僕をぎゅっと抱きしめる。
「俺はフジのために出演した。フジのために練習した。如月楽器店に頼んで、閉店後にグランドピアノで練習させてもらった。他の誰でもない、全部、全部、フジのためだけに」
楽屋で見た、一番大きなスタンド花を思い出す。それは如月楽器店からのものだった。
花が届いたのは、そういう理由も含めたものだったのだ。
「連日の残業でボロボロのはずなのに、フジが来てくれて嬉しかった。しかも花束までもらえて、その上、キスまでできるなんて思ってもみなかった。俺は幸せ者なんだよ。フジ」
「本当ですか」
「ああ。本当だ。だから、泣くな」
「はい……」
「フジは俺の仕事を体を張って消化してくれた。たった一週間で、どんどん痩せていくお前を見ているのは辛かった。毎晩残業して、会社の床に寝て、昼間も俺の分まで現場を走り回ってくれて。しかも棚部の手伝いまでしながら、たった一人でこなしてくれたんだよな」
僕が痩せたの、知っていたんだ。僕の事をずっと見ていてくれたんだ。
「いいんです。そんなの、気にしないでください」
「よくない。明日から早く帰れるようにしてやる。棚部と二人で埋め合わせるから、ゆっくり休め」
「だめです。佐賀美さんだって疲れてます。一緒にやりましょう。僕、一緒にいたいんです。佐賀美さんと一緒に仕事がしたいです。一緒に残業して、一緒に会社の床で寝て、一緒に倉庫でピアノを弾きたいんです……!」
僕は、しがみつくように佐賀美さんの背中に腕を回す。
「僕、佐賀美さんの補佐なんです。直属の部下なんです」
「分かった。そうしよう。明日から、また一緒に頑張ろうな」
「はい。そしてあともう一つ、お願いがあります」
「何だ」
「こんな無理強いをした僕を……嫌いにならないでください……お願いだから」
泣きじゃくりながら、懇願する。
「まったくもう。お前は俺の話のどこを聞いてるんだ。これは昔からの俺の癖だって言っただろう」
「でも」
「俺はフジを嫌いになんかならない。つまらんこと考えるな。だから安心しろ」
「……はい」
「やれやれ。お前は本当によく泣くねえ」
佐賀美さんはあきれ顔で、周囲を飛び交うショウジョウバエを払いのけつつ、僕の額にキスをする。
「周りが臭くて汚くて、全然ロマンチックじゃないけどな」と、苦笑しなら。
「掃除、完了……!」
二人して、床にへたり込む。
「ありがとう。助かった。フジがいなかったら確実に徹夜だった」
「これで明日から普通の生活に戻れますよ」
「ああ。しかも今度からフジがいるから、大船に乗った気持ちで散らかせる。また頼むぞ」
僕の手を握って、ニヤリと笑う。
「それはかまいませんが、せめて残飯だけでも分別しておいてくださいませんか」
「多分無理だ。そんな余裕はない」
二人の懸命なる清掃の結果、部屋は通常の状態に戻った。
悪臭も消え、ショウジョウバエ達は新たな新天地を求めて旅立った。
テーブルの上には、僕が贈ったバラの花束が飾られ、甘い芳香を放っている。しかし、花器がないのでバケツである。
「そういえば、他の花束や贈り物は?」
「スタッフにあげてる。いつもそうしてるんだ。特に花はな。それでも余るから、前にフジが部屋に来た時に持たせたんだよ」
これで花器がない理由が解せた。
「でも、せっかくファンから、もらったのに」
「俺はフジの花束だけでいい。他はいらん」
「……そうですか」
臆面もなく言われ、赤面する。
「それよかフジ、夕飯、何を食う? もう二十一時だから、夕飯ってよりは夜食だけど」
「もうそんな時間ですか」
掃除に必死で、時間も食欲もすっかり忘れていた。
しかも現在時刻を知った途端に倍の疲れが押し寄せて、腰まで痛くなってきた。
「もう帰ります。明日も現場、早いですし」
早く寝ないと、また寝坊してしまう。
今朝のような日付を越えた爆睡は絶対に避けたい。
「帰るだと?」
「ええ。ここからタクシー呼んで帰ります。もうヘトヘトです。シャワーも浴びたいんで、これで失礼します」
早く横になりたい。今日一日で色んな事が起こり過ぎて、頭の中も混乱しているし。
「では、おじゃましました。佐賀美さんも、ゆっくり寝てくださいね」
そう言って、立ち上がろうとした時――
「だめ」
佐賀美さんの手が僕の腕を掴んだ。
「帰さない」
「ええっ?」
そして、あっという間に床に押さえつけられてしまう。
「ちょっと、佐賀美さんっ」
「夕飯は宅配にしよう。何が食べたい?」
覆いかぶさったまま、平然と聞く。
「ラーメン、ピザ、それとも寿司か。遠慮するな。好きな物を言え。ご馳走してやる」
「はあ……それはどうも」
しょうがない。食事だけでも付き合うか。
「では、ピザがいいです」
「よし。ピザ決定。トッピングとサイドメニューを言え。それと酒は飲むか? デザートはどうする?」
「せっかくですが、食べてすぐ帰りますのでピザ単品で。種類やトッピングは佐賀美さんのお好みでお願いします。あ、飲み物は緑茶のペットボトル一本を」
「フジっ! どうしてお前は、さっきから帰る帰るって言うんだ」
佐賀美さんは口をへの字にして、僕の両腕を強く握る。
「痛いです佐賀美さん。それに重いし」
「泊まるって言わないと、離さない」
「何を無茶な事を。現場の朝礼とメーカーとの打ち合わせが朝一番にあるの、佐賀美さんだって知ってるでしょう」
「いいから。俺のいう事を聞け」
そう言って、僕の耳にフッと熱い息を吹きかけ、舌先で耳の中を愛撫する。
「分っているだろ……? 続きはこれからだ。まさか忘れてなんていないよな。控え室での約束を」
舌先は耳から離れ、今度は昼間につけられた首筋のキスマークを舐めまわす。
「だから、帰るな」
「……はい」
「俺は出たかったから出たんだよ。これは俺の意思だ。俺が決めたんだよ」
佐賀美さんの両手が、僕の頬をそっと包み込み、顔を上げさせる。
「フジに見て欲しかった。聴いて欲しかった。俺の演奏を……俺の舞台を」
その言葉に、僕の目から涙がこぼれる。
「フジが見たいって言ってくれた時、俺は嬉しかった。だから決心したんだよ」
「でもあの時、嫌そうな顔をしてました」
「あれは演技だ。上司の見栄だ。部下に言われて、ハイ出ますって言えるかよ。フジに告白できなかった時と同じだ。俺は見栄っ張りなんだ」
そう言って、僕をぎゅっと抱きしめる。
「俺はフジのために出演した。フジのために練習した。如月楽器店に頼んで、閉店後にグランドピアノで練習させてもらった。他の誰でもない、全部、全部、フジのためだけに」
楽屋で見た、一番大きなスタンド花を思い出す。それは如月楽器店からのものだった。
花が届いたのは、そういう理由も含めたものだったのだ。
「連日の残業でボロボロのはずなのに、フジが来てくれて嬉しかった。しかも花束までもらえて、その上、キスまでできるなんて思ってもみなかった。俺は幸せ者なんだよ。フジ」
「本当ですか」
「ああ。本当だ。だから、泣くな」
「はい……」
「フジは俺の仕事を体を張って消化してくれた。たった一週間で、どんどん痩せていくお前を見ているのは辛かった。毎晩残業して、会社の床に寝て、昼間も俺の分まで現場を走り回ってくれて。しかも棚部の手伝いまでしながら、たった一人でこなしてくれたんだよな」
僕が痩せたの、知っていたんだ。僕の事をずっと見ていてくれたんだ。
「いいんです。そんなの、気にしないでください」
「よくない。明日から早く帰れるようにしてやる。棚部と二人で埋め合わせるから、ゆっくり休め」
「だめです。佐賀美さんだって疲れてます。一緒にやりましょう。僕、一緒にいたいんです。佐賀美さんと一緒に仕事がしたいです。一緒に残業して、一緒に会社の床で寝て、一緒に倉庫でピアノを弾きたいんです……!」
僕は、しがみつくように佐賀美さんの背中に腕を回す。
「僕、佐賀美さんの補佐なんです。直属の部下なんです」
「分かった。そうしよう。明日から、また一緒に頑張ろうな」
「はい。そしてあともう一つ、お願いがあります」
「何だ」
「こんな無理強いをした僕を……嫌いにならないでください……お願いだから」
泣きじゃくりながら、懇願する。
「まったくもう。お前は俺の話のどこを聞いてるんだ。これは昔からの俺の癖だって言っただろう」
「でも」
「俺はフジを嫌いになんかならない。つまらんこと考えるな。だから安心しろ」
「……はい」
「やれやれ。お前は本当によく泣くねえ」
佐賀美さんはあきれ顔で、周囲を飛び交うショウジョウバエを払いのけつつ、僕の額にキスをする。
「周りが臭くて汚くて、全然ロマンチックじゃないけどな」と、苦笑しなら。
「掃除、完了……!」
二人して、床にへたり込む。
「ありがとう。助かった。フジがいなかったら確実に徹夜だった」
「これで明日から普通の生活に戻れますよ」
「ああ。しかも今度からフジがいるから、大船に乗った気持ちで散らかせる。また頼むぞ」
僕の手を握って、ニヤリと笑う。
「それはかまいませんが、せめて残飯だけでも分別しておいてくださいませんか」
「多分無理だ。そんな余裕はない」
二人の懸命なる清掃の結果、部屋は通常の状態に戻った。
悪臭も消え、ショウジョウバエ達は新たな新天地を求めて旅立った。
テーブルの上には、僕が贈ったバラの花束が飾られ、甘い芳香を放っている。しかし、花器がないのでバケツである。
「そういえば、他の花束や贈り物は?」
「スタッフにあげてる。いつもそうしてるんだ。特に花はな。それでも余るから、前にフジが部屋に来た時に持たせたんだよ」
これで花器がない理由が解せた。
「でも、せっかくファンから、もらったのに」
「俺はフジの花束だけでいい。他はいらん」
「……そうですか」
臆面もなく言われ、赤面する。
「それよかフジ、夕飯、何を食う? もう二十一時だから、夕飯ってよりは夜食だけど」
「もうそんな時間ですか」
掃除に必死で、時間も食欲もすっかり忘れていた。
しかも現在時刻を知った途端に倍の疲れが押し寄せて、腰まで痛くなってきた。
「もう帰ります。明日も現場、早いですし」
早く寝ないと、また寝坊してしまう。
今朝のような日付を越えた爆睡は絶対に避けたい。
「帰るだと?」
「ええ。ここからタクシー呼んで帰ります。もうヘトヘトです。シャワーも浴びたいんで、これで失礼します」
早く横になりたい。今日一日で色んな事が起こり過ぎて、頭の中も混乱しているし。
「では、おじゃましました。佐賀美さんも、ゆっくり寝てくださいね」
そう言って、立ち上がろうとした時――
「だめ」
佐賀美さんの手が僕の腕を掴んだ。
「帰さない」
「ええっ?」
そして、あっという間に床に押さえつけられてしまう。
「ちょっと、佐賀美さんっ」
「夕飯は宅配にしよう。何が食べたい?」
覆いかぶさったまま、平然と聞く。
「ラーメン、ピザ、それとも寿司か。遠慮するな。好きな物を言え。ご馳走してやる」
「はあ……それはどうも」
しょうがない。食事だけでも付き合うか。
「では、ピザがいいです」
「よし。ピザ決定。トッピングとサイドメニューを言え。それと酒は飲むか? デザートはどうする?」
「せっかくですが、食べてすぐ帰りますのでピザ単品で。種類やトッピングは佐賀美さんのお好みでお願いします。あ、飲み物は緑茶のペットボトル一本を」
「フジっ! どうしてお前は、さっきから帰る帰るって言うんだ」
佐賀美さんは口をへの字にして、僕の両腕を強く握る。
「痛いです佐賀美さん。それに重いし」
「泊まるって言わないと、離さない」
「何を無茶な事を。現場の朝礼とメーカーとの打ち合わせが朝一番にあるの、佐賀美さんだって知ってるでしょう」
「いいから。俺のいう事を聞け」
そう言って、僕の耳にフッと熱い息を吹きかけ、舌先で耳の中を愛撫する。
「分っているだろ……? 続きはこれからだ。まさか忘れてなんていないよな。控え室での約束を」
舌先は耳から離れ、今度は昼間につけられた首筋のキスマークを舐めまわす。
「だから、帰るな」
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