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第41話
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「なあ、フジ。頼むから、聞いてくれ」
「……はい」
困り果てたその声に、僕も承諾せざるを得ない。
「碓井は――あいつは一度も企業に就職した経験がないんだ。あの苦しい就職活動を知らないんだよ。卒業後、そのまま大学に残って教師になって、いきなり先生と呼ばれる立場になった。しかも、義理の父親である高瀬教授がバックについているから、周囲も気を使ってちやほやする。だから勘違いしている面がかなりあるんだ。いわゆる世間知らずってやつさ」
だが僕は、そこで違和感を覚える。言わんとする事は解る。しかし納得がいかない。
「そうですか。でも僕が今まで通っていた学校や大学には、あんなものの言い方をする先生はいませんでした。どの先生も言葉を選び、僕達を励まして導いてくれた大人でした。それに僕の友人も大学を出てすぐ教員になりましたが、常識があり、思いやりもあるいいやつです」
苦楽を共にした友人達や、お世話になった先生、教授達の懐かしい顔が心に浮かぶ。
「ですから、社会に出ていない、企業に就職の経験が無いから世間知らずだという表現は、非常に偏った考え方だと僕は思います。それにこのご時世、就職したくてもできない人がたくさんいます。僕だって何十社も不採用になりました。なので、何でもかんでもひとくくりにしないで下さい。人にはそれぞれ事情があるし、たとえ社会に出なくても、分別のある人は大勢います」
だから、碓井の場合は持って生まれた性格だ。
どの学校にも必ずいた。人を深く傷つける言葉をわざと選び、喜び勇んでぶつける奴が。
「碓井さんは佐賀美さんの大切なお友達なので非常に言いにくいのですが、僕は碓井さん個人の問題だと思います。職業や環境には全く関係なく、性格の問題だと」
これだけは譲れない。たとえ佐賀美さんに嫌われても。
「うん……そうだよな。俺の言葉に配慮が足りなかった。確かに、俺の二人目のピアノ講師は良い人だったし、音楽科や建築科の教授も皆、素晴らしい指導者だった。そうだ――あいつが例外なんだよな。昔、仲が良かったよしみで無意識にかばっていた。すまない」
「別に謝らなくてもいいです。ただ、僕には佐賀美さんがなぜ、あのような方とお付き合いをしていたのか不思議でなりません」
「ふふふ。辛辣な意見、ごもっともだ。俺もこの通り、決して賞賛される性格じゃないから、類友だったんだよ。しかも昔はもっとひどかった。嫌味で冷たくて、傲慢で」
「では現在、佐賀美さんとこうしている僕も類友なんでしょうか」
どうしても、突っかかってしまう。イラついてしまう。
受け入れたくはないが、もしかして僕達は、根本的に合わないのではないか――今さらになって、そう感じ始めたのだ。
「いや、フジは違う。俺や碓井とは全然違う。そして俺も、就職して多くの人と接するうちに、フジとは程遠いが、あの頃よりはマシな方向へ変わったと、自分でも少なからず思っている」
「僕を無理に持ち上げなくても結構です。あの、すみませんが、今度こそ帰ります」
「持ち上げてなんかいない。本当の事を言っているだけだ。それに、どうして帰るなんて言うんだ」
「その……僕達、やっぱり無理なのではと」
「どうして」
「話せば話すほどズレが出て来るし。それは性格や考え方の違いと言うか、何ていうか、生まれ育った環境と言うか……」
「まあ焦るな。結論を出すのはまだ早い」
「ですが」
「一つ質問させてくれ。フジが部屋を飛び出した後、俺があいつをぶん殴ったと言ったら、信じるか」
「信じません」
迷うことなく即答する。
別れたとはいえ、昔の恋人に手を上げるなんてありえない。
それよか、実は昼間のやり取りは、碓井と事前に示し合わせたシナリオで、僕との関係を終わらせるための猿芝居だったのではないのか。
「そうか。じゃあ、これを見ろよ」
佐賀美さんは右手を僕の目の前へ突き出す。
「あっ!」
手の甲が腫れあがっている。
あの赤さは、暑さのせいではなかったのだ。
しかも倉庫で見た時よりも悪化して、どす黒くなっている。
「ピアノが――ピアノが弾けなくなってしまう! 何て事したんですか!」
「大丈夫だよ。そこのところは計算して張り倒してやったから」
愉快げに笑い、そのまま僕の手を握る。
腫れているせいで、とても熱い。
「フジに暴言を吐いた報復だ。あいつ、一メートルくらい吹っ飛んで、壁に背中を強打したもんだから、しばらく丸まって唸ってた」
恐ろしい事をさらりと言う。
工事現場とピアノで鍛え上げられたこの筋肉質の腕で殴られたら――想像するだけで身震いする。
「……佐賀美さんって、キレたら怖いんですね。気性が荒いっていうか」
「そうだよ。会社では隠しているけどね。温厚ジェントル佐賀美で通しているから」
「いえ、全然隠れてません。十分怖いです。温厚でもジェントルでもありませんし」
周囲を恐怖のどん底へと叩き込む、その慇懃無礼な振る舞いを思い出し、僕は思わず吹き出した。
「……はい」
困り果てたその声に、僕も承諾せざるを得ない。
「碓井は――あいつは一度も企業に就職した経験がないんだ。あの苦しい就職活動を知らないんだよ。卒業後、そのまま大学に残って教師になって、いきなり先生と呼ばれる立場になった。しかも、義理の父親である高瀬教授がバックについているから、周囲も気を使ってちやほやする。だから勘違いしている面がかなりあるんだ。いわゆる世間知らずってやつさ」
だが僕は、そこで違和感を覚える。言わんとする事は解る。しかし納得がいかない。
「そうですか。でも僕が今まで通っていた学校や大学には、あんなものの言い方をする先生はいませんでした。どの先生も言葉を選び、僕達を励まして導いてくれた大人でした。それに僕の友人も大学を出てすぐ教員になりましたが、常識があり、思いやりもあるいいやつです」
苦楽を共にした友人達や、お世話になった先生、教授達の懐かしい顔が心に浮かぶ。
「ですから、社会に出ていない、企業に就職の経験が無いから世間知らずだという表現は、非常に偏った考え方だと僕は思います。それにこのご時世、就職したくてもできない人がたくさんいます。僕だって何十社も不採用になりました。なので、何でもかんでもひとくくりにしないで下さい。人にはそれぞれ事情があるし、たとえ社会に出なくても、分別のある人は大勢います」
だから、碓井の場合は持って生まれた性格だ。
どの学校にも必ずいた。人を深く傷つける言葉をわざと選び、喜び勇んでぶつける奴が。
「碓井さんは佐賀美さんの大切なお友達なので非常に言いにくいのですが、僕は碓井さん個人の問題だと思います。職業や環境には全く関係なく、性格の問題だと」
これだけは譲れない。たとえ佐賀美さんに嫌われても。
「うん……そうだよな。俺の言葉に配慮が足りなかった。確かに、俺の二人目のピアノ講師は良い人だったし、音楽科や建築科の教授も皆、素晴らしい指導者だった。そうだ――あいつが例外なんだよな。昔、仲が良かったよしみで無意識にかばっていた。すまない」
「別に謝らなくてもいいです。ただ、僕には佐賀美さんがなぜ、あのような方とお付き合いをしていたのか不思議でなりません」
「ふふふ。辛辣な意見、ごもっともだ。俺もこの通り、決して賞賛される性格じゃないから、類友だったんだよ。しかも昔はもっとひどかった。嫌味で冷たくて、傲慢で」
「では現在、佐賀美さんとこうしている僕も類友なんでしょうか」
どうしても、突っかかってしまう。イラついてしまう。
受け入れたくはないが、もしかして僕達は、根本的に合わないのではないか――今さらになって、そう感じ始めたのだ。
「いや、フジは違う。俺や碓井とは全然違う。そして俺も、就職して多くの人と接するうちに、フジとは程遠いが、あの頃よりはマシな方向へ変わったと、自分でも少なからず思っている」
「僕を無理に持ち上げなくても結構です。あの、すみませんが、今度こそ帰ります」
「持ち上げてなんかいない。本当の事を言っているだけだ。それに、どうして帰るなんて言うんだ」
「その……僕達、やっぱり無理なのではと」
「どうして」
「話せば話すほどズレが出て来るし。それは性格や考え方の違いと言うか、何ていうか、生まれ育った環境と言うか……」
「まあ焦るな。結論を出すのはまだ早い」
「ですが」
「一つ質問させてくれ。フジが部屋を飛び出した後、俺があいつをぶん殴ったと言ったら、信じるか」
「信じません」
迷うことなく即答する。
別れたとはいえ、昔の恋人に手を上げるなんてありえない。
それよか、実は昼間のやり取りは、碓井と事前に示し合わせたシナリオで、僕との関係を終わらせるための猿芝居だったのではないのか。
「そうか。じゃあ、これを見ろよ」
佐賀美さんは右手を僕の目の前へ突き出す。
「あっ!」
手の甲が腫れあがっている。
あの赤さは、暑さのせいではなかったのだ。
しかも倉庫で見た時よりも悪化して、どす黒くなっている。
「ピアノが――ピアノが弾けなくなってしまう! 何て事したんですか!」
「大丈夫だよ。そこのところは計算して張り倒してやったから」
愉快げに笑い、そのまま僕の手を握る。
腫れているせいで、とても熱い。
「フジに暴言を吐いた報復だ。あいつ、一メートルくらい吹っ飛んで、壁に背中を強打したもんだから、しばらく丸まって唸ってた」
恐ろしい事をさらりと言う。
工事現場とピアノで鍛え上げられたこの筋肉質の腕で殴られたら――想像するだけで身震いする。
「……佐賀美さんって、キレたら怖いんですね。気性が荒いっていうか」
「そうだよ。会社では隠しているけどね。温厚ジェントル佐賀美で通しているから」
「いえ、全然隠れてません。十分怖いです。温厚でもジェントルでもありませんし」
周囲を恐怖のどん底へと叩き込む、その慇懃無礼な振る舞いを思い出し、僕は思わず吹き出した。
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